新・シュミのハバ

ついに、定期小説の更新スタート!!!
いつまで、続くのやら・・・。

透明人間、04

2008-02-16 17:07:01 | 連載小説
04

大好きだった。

放課後のピアノの音。夕日に染まる教室。くだらないことを日が暮れるまで語り合った、立ち入り禁止の屋上。
ちょっと寒くなってきた秋口の夕方、寂しさと切なさに押し潰されそうな夕方。電気の消えた廊下は、赤く光る非常灯がぽつりと目立って物悲しい。響いたチャイムの余韻が、伸びやかに胸に入り込んで、別の世界に入り込むような感覚が突然襲う。窓からは、授業中にぼっーと見ていた風景とはどこか違う、哀愁が漂う風景が広がっている。遠くにナイター用のライトが煌々と光って、綺麗だ。
時間が、不思議なほどにゆっくり流れた。邪魔するものは何もない。大切でかけがえのない時間を、僕は思い出していた。記憶が、美しく光を放った。僕は、涙が出るくらい切ない気持ちでいっぱいだった。

教室のドアを、静かに開ける。綺麗に整頓して配列された机と椅子。夕日の光が、教室全体を照らして、幻想的な世界が創り上げられている。カーテンが閉まっていないせいで、その世界は美しかった。
とぎれとぎれの記憶が蘇る。机に座って、語ったこと。好きな女の子の話、退屈な授業の話、みんなで行こうとしていた旅行の話、そしてこれからの自分たちのこと。終着駅が見えなかった。夢中で口々に喋って、笑って。終わりなんてくるはずがないと思っていた。
自然と顔を上げて見ていた夕日の美しさを、僕は思い出した。
ノートに書き出して並べたら、絶対恥ずかしくて見てられない台詞を僕らは言い合った。
リズムは一定で、ちょっと狂っている。このリズムで、僕たちは歩いていけるなんて勘違いしていた。誰も訂正しないのがいい。くだらないことも、全部必要だったね。何度かみんなで言い合った。忘れたら承知しない、なんて。きっと、忘れてしまうけど、それは合言葉だった。僕らが元に戻ったら、また口に出して笑えるように。掛けてしまった鍵を外すためのそんな合言葉。思い出す努力も何も必要ない。それだけは、自然と心から零れた。
将来を考え出した時期だった。必死で部活動に明け暮れた中学が終わって、高校生活も終わりに近付いてきたとき、やっと重い腰を上げるように考え始めた。僕もきっと考えていただろう。何かに追われるなんて、大嫌いだったけど、仕方がなかった。終わってしまう、という戸惑いが僕を焦らせていた。
誰もいなくて少し薄暗い、教室の机に座っていると、いろんなことを思い出した。教室の大きな窓は、編集された記憶の映像を映し出す巨大なスクリーンみたいに思えた。忘れちまった方がいいことと、思い出さなければいけないこと。人生はこの二つの記憶で埋め尽くされている。辿って来た道を心地よいスピードで逆走しながら、そこに置いてきた風景を浮かべる。目を閉じて、息を大きく吸って・・・。
ぽつぽつと思い出していた点と点を、僕は結ぼうとしていた。完成する絵は、一体何を僕に伝えるのだろう。友達と馬鹿をやった、くだらなくておかしい記憶は戻りつつあった。しかし、忘れちゃいけない大切な記憶を僕は全く思い出せない。かけらさえも、見つからなかった。
日が暮れた。教室が真っ暗になる。暗闇が包み込む。僕は、記憶の海に体を沈めた。

放課後、学校でいる時間が大好きだった。放課後、部活動をしている時間が大好きだった。家に帰りたくなかったから。そのうちみんな、自分の家に帰ってしまって、僕も家に帰らなければいけなくなる。誰もいない家に、僕は帰りたくなかった。静まり返った世界が、窮屈で仕方なかったんだ。だからずっと、僕は学校に残っていた。
誰もいなくなった学校の風景を、僕は鮮明に覚えている。明日になればきっと、また同じように学生で溢れかえる学校。同じ場所とは思えないほど、夜の学校はノスタルジックだ。使い捨てられた金属バッドみたいに、不恰好で危ない世界。何かを必死で考えていた。僕は、何かに迷って行き詰って、そして悩んでいた。そんな時間を思い出す。一体、自分は何に悩んでいたのか。

あの日記を思い出していた。彼女と過ごした時間が、はっきりと記されたあの日記。僕はすべてを彼女に捧げていた。そう、その日記には記されていた。幸福に満たされていた彼女との毎日。その記憶は、全く見当たらなかった。
『彼女は死んだ。』
その言葉が深い悲しみに僕を導く。完全に忘れてしまったに違いない。思い出したところで、そこには悲しみと苦しみしかないはずだ。だから、僕は思い出せないのだろう。そこには完全な鍵をかけてしまっているはずだから。
ただ、そこまで夢中で愛した彼女を、全く思い出せないことをもどかしく思った。本当にこれでいいのだろうか。思い出せないまま、これから生きていっていいのだろうか。彼女は、どんな気持ちで天国から僕を見ているんだろう。そう考えると、寂しくて仕方なかった。何ともいえない罪悪感が僕を苛む。
幸せそうな毎日が、淡々と綴られた日記・・・。学校が終わった後、二人で行った公園。家に帰りたくない僕と、夜中までずっと話してくれた彼女の姿。思い出したかった。幸せだった記憶を、取り戻したかった。そこに底の見えない悲しみが待ち受けていてもいい。それでも、彼女の優しさを思い出したかった。あの日記さえ見なければ、これから新しい人生を送れたかも知れない。だが、僕は見てしまった。彼女との幸せな日々を、僕は知ってしまったから。このままじゃいられない。真実を隠して生きるなんて、したくなかったから。僕は僕の人生に、嘘をついて生きていきたくなかったから。すべてを知ろう、そう決心したんだ。

時間の感覚がなくなってきた。そういえば、洗濯もしなくちゃならないし、食事の準備もしなければならない。現実的なことを感づいて、僕は目を覚ましたように立ち上がった。それ以上、何も思い出せそうもなかった。
その時だった。真っ暗な教室に、突然光が灯った。反射的に、僕は教室のドアを見た。そこには、クラスメイトと思われる女子が電気のスイッチに手を伸ばして立っていた。彼女は僕の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
「リョウスケ・・・くん?」
小さな声だったが、静まり返った教室には大きく響いた。そりゃ、驚くだろうな、と僕は思いながらドアの方へ歩き出した。
「えっ、と・・・。君は・・・?」
僕は頭を掻きながら、ぼんやりした声で言った。
「えっ・・・?そっか、本当に何も覚えてないんだね。」
その子の声は、少し残念そうに聞こえた。
「ごめん、何も覚えてない。」
久々に学校に登校して、一日みんなとしゃべって過ごしてみたものの、状況は何も変わらなかった。みんなはフレンドリーに話しかけてくるのだが、自分が何も思い出せないものだから、今日は一日中、自己紹介みたいな感じになってしまった。残念そうな顔なら何度もされた。きっと、かなり仲が良かったんだろうなと思われる男子にも、僕はそっけない態度しか取れなかった。時間がかかりそうだった。普通のことを思い出すだけでも。
「私は、中沢美鈴。・・・中学の時から一緒でしょ?思い出せない?」
美鈴・・・、という名前に少しだけ覚えがあった。中学時代からの友達のことは、少しずつ思い出していたから。よく家に遊びに行っていた奴のこととか、中学時代の担任のこととか・・・。ぼんやりと、一緒な中学だったことを思い出した。
「そういえば、そうだったような・・・。」
不安そうで情けない声で、僕は言った。
「酷いなぁ・・・。」
ため息を付いて、美鈴は教室の中を歩き出した。
「こんな時間にどうしたの?」
僕は、美鈴に尋ねた。くるっと振り向いて彼女は僕を見た。
「忘れ物を取りに来たのよ。亮輔君の方こそ、何してたの?」
自分のものらしき机に手を付いて、美鈴は言った。しゃべりながら机の中を探って、中からノートらしきものを取り出した。
「思い出してた。」
窓の外を眺めながら、僕は答えた。同時に、心配そうな目で美鈴は僕を見た。何か、重要なことを知ってるのかもしれないな、とその目を見て僕は思った。美鈴は中学から一緒で、きっと仲が悪かったわけでもなさそうだったから。その目は、迷ってるようにも見えた。本当のことを話そうか、話さないでおこうか、という迷いを隠しているような目だった。
「何か、思い出せた?」
ノートを両手で抱えて、美鈴は尋ねた。素直に見つめる彼女の目は、何か核心をつくかのように鋭く光っていた。
「いや・・・。」
美鈴より幾分深いため息をつきながら、僕は言った。
「思い出せたことといえば・・・。」
と、僕は続ける。
「放課後の教室が、好きだったってことくらいかな。」
僕はそう付け加えた。今、こうして放課後の教室にいることが、僕にとって心地よかった。素直に、なれるような場所のように思えた。気持ちを整理できる静かな時間。
美鈴は、不意に目を伏せた。そして、何も言わず足を踏み出す。かける言葉が見つからなかったのだろう。きっと、みんな気を使ってくれているんだろうな、と感じた。もしかしたら、美鈴は僕が自殺しようとしたことを知ってるのかもしれない。いや、きっと知っている。美鈴は何故か、僕を悲しそうな目で見つめていたから。
「早く、思い出せればいいね。」
そう言って、彼女は教室を出て行こうとした。僕の横をゆっくり通り過ぎた。僕は、机の上に置いてあったカバンを肩に掛けた。そして、教室を出て廊下を歩く彼女を追いかけた。
「ねぇ。」
僕は、前を歩く美鈴に声をかけた。
「何?」
美鈴は足を止めて、答える。
「聞きたいことがあるんだけど・・・?」
僕が言った。美鈴はその言葉を聞いて、振り返った。相変わらず、心配そうな表情をしていた。
「聞きたいこと・・・?」
美鈴は、首をかしげた。聞いていいのか、どうか迷ったが、僕は覚悟を決めた。何を聞かれるのか、美鈴は感づいた様子だった。
「どうして、僕が学校に行かなくなったのか、知ってる?」
僕は不登校になっていた。教師から聞いた。それは、いじめられていたわけでもなく、元から学校に行かなかったわけでもない。こんなことを聞いていいのか、分からなかった。不登校になって、僕は自殺しようとした。理由はほぼ分かっていた。
『彼女は死んだ。』
あの日記が、その答えだろう。美鈴もたぶん、クラスメイトはきっとほぼ全員知ってることだろう。美鈴は明らかに動揺した様子だった。言っていいのか、迷っていたのだろう。聞いたらいけないことを聞いてしまったな、と僕は後悔した。だが、美鈴は口を開いた。
「それは、きっと・・・。」
その後に続く言葉を発するべきかどうか、美鈴は迷っていた。ちょっとの沈黙が流れた。僕の覚悟は、強く全身を硬直させた。

「サキが、死んで・・・しまったから。」

ふと、彼女の目から大粒の涙が流れた。

透明人間、03

2008-02-12 03:20:49 | 連載小説
03

バラバラの魂が一つに収束していくように、ぼやけた視界はしだいにはっきりと実線になっていった。一気に襲ってきた痛みと、曖昧な思考の輪郭。考えれば考えるほど、遠ざかっていく。
その歯がゆさに眉を細めながら、僕は体を起こした。一瞬、真っ白になった後、ゆっくりと周囲の景色がはっきりと現れだした。
今、自分がいる場所が病院だと分かったのは、しばらくしてからだった。頭がうまく働かない。とにかく、考えることを頭が拒否していた。何とか頭の中を真っ白にしながら、僕は暴れだしそうな心を落ち着かせていた。
なぜ自分はここにいるのか、一体、何が起こったのか。何もかもが分からなかった。ただ自分にあるのは痛みだけだった。すべてをどこかに置き忘れてきたかのような、空っぽな感情に押しつぶされていた。裸のまま病院のベッドに座っているかのような、妙に恥ずかしくて不自然な感じ。静まり返った部屋が、不気味な前兆に満ちていた。しだいに、感情は恐怖に変わり、そして孤独な悲しみに変わった。すべてを失ってしまった、ということは何故か自然に分かった。そして、理由が分からない悲しみに、頭を抱えた。

何も変わらないまま、時間は流れた。どれくらい経ったのだろう。窓から見える空の色は、すっかり暗くなっていた。立ち上がることもせず、僕はずっと黙ってベッドに座っていた。
どれくらい、音のない世界に引き籠っていただろう。不意に、ドアを開ける音が室内に響き渡り、医者らしき男が部屋に入ってきた。彼の後ろには、二人の看護婦が付き添っていた。何故だろう、人と会うことが妙に懐かしく感じる。怖くて、怖くて、僕は男の顔をまともに見れずに、ただ俯いていた。嫌だ、自分が自分でなくなっていくことを知るのが。怖い、嫌だ、逃げたい。頭がパニックになりそうだった。自分の体が、コントロールできない。いったい、自分は誰なんだ。
男は、俺の横に立ち止まると、カルテらしき書類を広げた。そして、表情が一気に難しくなった。一気に緊張が僕を襲う。手が震えて、視界がぼやけた。混乱してぐるぐる回り続ける頭の中は、不確かな現実に満ち溢れた。
「佐々木亮輔さん・・・ですね。」
僕の目を鋭く見つめて、男は言った。
「佐々木・・・亮輔?」
弱々しく、情けない声を僕は出した。聞き覚えのない名前。ぼんやりとしゃべる僕を見て、男は目を細める。緊迫した雰囲気が、ぴりりと張り詰める。男はふぅ~、と一つ溜息をついた。
「何も、覚えてないんだね。」
低くて落ち着いた声を、男は発した。時間が止まったかのように、重苦しい。
「・・・・はい。」
届くか届かないかの狭間のような声で、僕は答えた。小さな声は、重みを増して部屋に響き渡る。
僕は記憶を失った。何故こうなったのか、全く分からないまま。
自分が誰だか分らない恐怖・・・。それは絶対孤独の世界。同情の目が、僕の胸を突き刺した。僕は、一体・・・。

病院での生活は、ふわふわした感覚に惑わされていた。鏡に映る自分も、何かを必死で考えようとしている自分も、全く持って無意味に感じた。それは、記憶があまりにも真っ白だったからだ。病院の長く静かな廊下を、とぼとぼと歩く。
「落ち着いて、自分に素直になったとき、きっと記憶は元に戻るはずだよ。」
優しい言葉が、僕の心を撫でる。でも、相変わらず不安だ。無くしてしまった記憶の中に、絶対に知ってはいけない秘密が、隠されているように思えたから。根拠はないが、すべてが禁断の扉みたいに思える。叩いても、誰も答えてくれない。その扉の向こうには、一体何があるのか。

何も前に進まないまま、月日は流れた。感触は何も変わらない。どうすることもできず、僕は病院を後にした。
「きっと、そのうち思い出すはずだよ。馴染んだ景色を見たら、きっとね。」
優しい言葉さえも、無責任なものに聞こえてしまう。自分の人格さえも、変わってしまっていそうだ。
どうしようもない悲しみは、一筋の涙となって頬を伝った。過去の自分を見つけることが、こんなにも難しいことなんて。真っ直ぐ続いていくはずの道が、大きく歪曲して、そして人生を大きく狂わした。何が原因で、何が現実で、そして何を僕に伝えようとしているのだろう。
ぼんやりと見え始めていた記憶の中に、真っ黒で全く変わりそうもない闇の部分があった。そこには一体、何があるのか。僕はきっと、故意に忘れてしまったのだろう。すべてのことを投げ出して、僕は僕に嘘をついている。
戦わなければならない、自分と。
しかし、家へと向かう道の途中、僕は考えていた。それは、僕が不幸にも知ってしまったことについてだ。僕の胸に大きく残った傷の原因・・・。それは、僕が自殺しようとしたときに残ってしまったものだということを。

僕は一人暮らしだった。というのも、僕には両親がいなかった。これは、元々記憶を失った後、医者から聞いたことだった。しかし、何日か入院しているうちに細かい記憶は戻ってきた。僕の一人暮らしでの生活についてや、昔、両親が死んだことも。だが、肝心な部分が思い出せない。医者から学校に通学できるぐらい記憶を回復したと判断されても、その部分がはっきりすることはなかった。
僕がなぜ自殺しようとして、僕がどんな学校生活を送っていたのか。全く思い出せない。友達の顔も名前も、まだまだ思い出すことができなかった。それが不安だった。僕は元通りの生活を取り戻せるのだろうか。一体、自分にはどんな友達が居て、どんな奴としてクラスメイトから認識されているのか。検討もつかなかった。戦場に、武器一つ持たず乗り込む兵士の気分だった。学校に行くことが、恐くて仕方なかった。
家に着いた。そこは、小さなアパートで、そこの202号室は、きっと僕が入院する前のままなんだろうなと思えるくらいちらかっていた。僕は記憶を探るために、家の中のものを物色し始めた。料理の材料を書いた小さなメモ書き、学校での予定を記したスケジュール帳、何度も読み返したであろう漫画本・・・。手に取ったものを何度も見返した。
数時間たって、僕は勉強机に手を伸ばした。そして、一番最初に目に付いたのは、机の上に丁寧に置かれた、一冊のノートだった。どこにでもあるような、キャンパスノートだった。しかし、妙にそのノートは頭を刺激した。
ノートに手を伸ばそうとした瞬間、急な痛みが頭を襲った。ズキズキと頭を刺激し、そしてしだいに心臓の鼓動が早くなった。僕は耐え切れずに、頭を抱えその場に体を沈めた。ピカっと、フラッシュのように部屋中が光る。目がチカチカして、気持ち悪い。吐き気と、頭痛が一気に流れ出した滝のように激しく襲う。
僕は目を閉じた。記憶が、頭を激しく揺らしていた。拒否しているんだな、と僕は気付いた。きっと、そのノートを読むな、と体が拒否しているんだと僕は感づいた。
目の前がフラッシュしたとき、頭の中にノートを必死で書いている自分の姿が見えた。きっと、それは僕が自殺しようとする前に書いたものに違いない。あの時、僕は死に物狂いに何かを綴っていた。すべてを犠牲にしてまで、書きたいことがあったハズだ。人生に幕を降ろしてしまう前に、書かなければいけないことが。
無残にも生き残ってしまった僕が、その記憶を拒否しようとしている。僕はそれに必死で抵抗した。逆らわなければ、真実は見えないと思ったからだった。本当のことを知りたかった。僕が何かに傷つき、そしてそれを絶対に思い出したくないと思っているのだとしても、真実を知りたかった。
きっと、僕は後悔するだろう。死んでまで忘れようとしたことなのだ。なぜ、思い出したんだろうと後悔するに違いない。しかし、自分は新しい自分になんてなれない。死ぬ、だなんて逃げてるだけだ。過去と向かい合う覚悟はできた。僕は、知らなければならない。

大きく深呼吸して、痛みが過ぎ去るのを待った。永遠のような時間を、汗を流しながら耐えた。戦いは始まっている。僕が僕であるために、本当のことを知ろう。少しずつ、曖昧に痛みは姿を消していった。ゆっくり、僕は立ち上がる。そして、ノートに手をかけた。強情だった葛藤は解けて、KO負けしたボクサーみたいに心の傍らに腰を下ろした。僕はゆっくりとノートを開く。禁断の扉をこじ開けるように強引に、そして覚悟を決めた。

『彼女と付き合いだしたのは、ちょうど2年ほど前だ。』

ノートの初めの一行は、そう綴られていた。それは、日記だった。そこには、彼女と過ごした日々のことがびっしりと書かれてあった。始めてのデート、買い物、クリスマス・・・。淡々と綴られたノートには、いかに彼女との生活が楽しくて、いかに幸せだったのかがこと細かく書かれてあった。
読み進めていくうちに、おかしなことに気付いた。肝心の彼女の名前が、そこには一切書かれてなかった。その日記に出てくるのは、“彼女”と“僕”だけで、自分の名前も彼女の名前も全く書かれていなかった。そして、彼女とのこと以外、学校での出来事や自分の一人暮らしのことも一切書かれてなかった。そこが、妙に気になって仕方なかった。
僕は、食い入るように日記を読んだ。どんどん読み進めていくうちに、ページはあと僅かになった。戻りそうで戻らない記憶に苛立ちながらも、丁寧に読んでいく。
最後の一ページ・・・。僕は息が止まりそうになった。それは、あまりにも唐突な最後だった。ドクン、と心臓が大きく鼓動した。
『彼女は死んだ。』
日記の最後の一行には、そう記されていた。黒いペンではっきりと記されたその文字が、悲しく浮き上がった。力なく、僕は床に倒れこんだ。
『彼女は死んだ。』
頭に、その文字がこびり付く。現実離れした世界に遭遇したみたいに、不鮮明な感情が血液を流れた。全身に染み渡る。
現実を知るということは、もう一度悲しみに苦しむことだった。姿を隠した過去の自分が、ちょっとだけ姿を現した。泣いているかのような顔で、じっと僕を見ていた。
日が暮れて、そして暗闇が来る。明日を生きることがつらかったね。光を失って、心の中に永遠の暗闇がやって来て。
僕は生きる意味を失ったはずだった。だけど、何もかも忘れて、それでまた新しい人生を送るつもりだった。何故、僕はこのノートを机の上に置いたまま、死のうとしたのか。一体、誰にこのノートを読んで欲しかったのか。疑問が、また僕を悩ませる。一つの現実を知って、また僕は、何があったのか、はっきりと知りたくなった。

真実は、まだ黒いベールで包まれている。

透明人間、02

2008-02-09 01:25:13 | 連載小説
02

手を繋ぐと、世界が変わった。いつも見ていた世界が、いつもと違って見えた。それは隣に彼女が居たからだ。その公園のベンチからは、街全体を見渡すことができる。近くでは慌しく見えていたオフィス街も、通学路も、ここからだと静まり返って見えるね。そういって、微笑んだ。ボロボロの木でできたベンチは、笑うたびに小さく揺れた。
静かな公園とは対照的に、胸騒ぎが僕をくすぐってもどかしい。木の葉を吹き飛ばす悪戯な風が、頬に当たって冷たかった。僕にふれた風は、彼女の髪を揺らし、どこか遠くへ飛んでいった。何故だか妙にくすぐったい気持ちになって、僕は口に手を当てて笑った。
「何がおかしいの?」
と、不思議そうな声を彼女が出した。風が運んだ小さな幸せは、僕の背後でゲラゲラ笑った。ラララを繰り返す。声に出さずにラララと歌う。幸せが溢れていた。僕の中に、声にならない歌が溢れていた。ふと見ると、彼女も笑っていた。糸電話の糸みたいな、心の糸を通して伝わっていたのは僕の声。いつしか僕らは歌ってた。黙っていても、聞こえてた。二人だけに聞こえる歌。
小さくてボロッちいベンチの上で、僕ら日が暮れるまでじっとしてた。愛に溢れた無音の歌を歌いながら。ただ空と、空に重なる彼女を見ていた。じっと、何の展開のない、そんな映画を観ているみたいだった。みんな、くだらないって批判する、僕らにしか分からない秘密の映画。そんな映画を特等席で。
スクリーンはいつの間にか夕日に染まって、クライマックスを彩る。僕らは飽きもせず、遠くの空を見つめている。夕日の光を浴びながら、僕らは静かにキスをした。小さなベンチがまた、小さく揺れた。二人の中に流れる歌に、綺麗な景色が重なって、映画のクライマックスは美しくスクリーンに映える。彼女の茶色がかった髪が、さらりと流れた。僕は彼女の手を取る。世界は相変わらず、深みを帯びた色彩に溢れていた。
「そろそろ、帰ろっか?」
両手を繋いで彼女に聞く。
風が冷たくなってきたな、と頬に風を受け思った。日は落ちて、街灯が灯り、二人の世界をぽっと照らした。じっと、僕の目を見つめる彼女は、小さくコクンと頷いた。再び、彼女の右手を繋いで、僕はゆっくりと歩き出した。

繰り返すことに、ただ一握りの意味しかなかった毎日に、美しく色艶やかな理由を描いてくれた。ありがとう、を彼女に連呼した。心の糸を通じて、届いているだろうか。僕と彼女は繋がってるのだろうか。ありがとう、ありがとう。お礼なんて、何度言っても足りないだろう。だから、いつも心の中で叫んでた。届いてるなんて、証拠もなかったけど。ただ、僕らは繋がっている。ずっと、そう思ってた。

「ありがとう。」なんて、言葉に出すことくらい簡単だったね。

なのに何で、僕は勘違いしてしまったのだろう。心の糸なんて、僕は自分勝手に作り上げて。その糸を通して、何もかも分かり合ってるなんて思ってた。一握りの意味で良かった。それ以上なんて求めて、そして失う怖さを、僕は考えたこともなかった。だから、僕は崩れていったんだ。もう戻ることもできない海底の奥底まで、僕は墜ちて行った。
「ありがとう。」さえ、言葉にしていれば、もっと彼女に愛が伝わってたのかも知れない。“いつか”、じゃ遅すぎたんだね。幸せだったなんて、彼女に伝えずに、なぜ心の中で言ってたんだろう。ごめん、は言わない。だから、ありがとう、と言わせて。あの時のように、連呼するから。だから、もう一度だけ、傍に来てくれ。僕は、もう、この深い霧に紛れて、そして迷い込んで、出れそうにないんだ。

涙はいつか枯れるよ。でも、君の人生は続いてく。だから、もう泣くなんて、やめにしようよ。きっと、まだ戦いは続くから。
心を落ち着かせることが、悲しみを消すことには繋がらない。ただ、自分を惑わして壊れないようにバランスを取っているだけだ。彼女がすべてだったから、僕には何もなくなった。すべてを捧げて、自分自身を放り出してまで、彼女を欲した。
一生、このままだって約束した。そして、僕はそれを信じた。愛って言葉で、埋め尽くしたノートを、突然の火事が襲った。もうめくることのできない、彼女との新しいページを、僕は涙で濡らしてしまった。
思えば、僕には何もなかったね。彼女以外に、生きる意味はなかったんだね。何の取り得もない、愚かな自分に光を与えてくれたんだ。彼女の存在は絶対だった。彼女の存在は、僕の中で大きくなりすぎていた。僕はどうやって歩いていたんだろう。彼女を知らない世界を、僕はどうやって生きてたんだろう。思い出せない・・・いや、思い出したくない。僕は誰も、自分さえも愛せない駄目な人間だった。命に振り回されて、ぎこちなくなった歩き方で、ふらつきながら歩いていた。

愛のない世界に生まれた。僕は、夢も希望も覆い隠された世界で、誰にも見守られずに育った。もう、僕が生まれる前から壊れてたんだろう。ただ、笑って欲しかったな。泣きながら生まれた僕を見て、笑って欲しかったな。
いつか、本当の優しさを僕に教えて欲しかった。でも、いつも僕に背を向けてた。両親の愛を知らない僕にとって世界は、ただただ暗く、無意味だった。だから、彼女に出会ったとき、彼女の優しさにふれた時、僕の中で世界に明かりが灯った。心臓が急に鼓動を打ち出し、命を与えられた。恋の始まりは、僕の人生のスタートだった。普通の恋愛みたいに、君を愛したかったのに、きっと僕はそれ以上を君に求めてしまった。あるがままに、君の好きなものにふれて、なすがままに、君を抱きしめていれば、こんなに辛くなかったのに。また、暗闇がやってきた。振り出しに戻ってしまった。もう、これ以上進めない。
プツ、プツ、と、煙を上げて壊れた機械のような怪しい音が、頭に響いた。途切れて、そして消えた。君との別れは、矢を心臓に受けた愛のおわりの血の弓だ。生きていても、矢を刺したまま。痛みを受けて生きている。

悪戯な笑顔で走る彼女を、風を受けながら追いかけてく。街の外れの田舎じみた道を駆ける。僕の表情をちらっと伺いながら、満面の笑顔で走っていく君が可愛かった。一年たったその時でも、僕はまだ彼女に恋をしてた。しだいに彼女の走るスピードが落ちて行く。風になびく長い髪を、さらっと流して彼女は足を止めた。
僕は、ようやく彼女に追いつく。息を切らす彼女を、僕は初々しい、まだ何も知らないカップルのような、不器用な速度で抱きしめた。火照った体のすべてを奪いつくすまでずっと、抱きしめていた。彼女が思わず笑っても、僕は真剣な顔でぎゅっと抱きしめた。
ふと軽い手品の罠にかけるように、彼女は僕から離れた。僕に向かい合って、彼女はふふふ、と笑う。僕はもどかしくも、つられて、はははと笑う。
「今日は、何をして遊ぼっか?」
笑顔で彼女は言う。無邪気さが、彼女の武器だ。綺麗にのどかな風景に彼女は溶け込んでいた。僕は、名画と向かい合うみたいに、彼女を見つめた。
光だった、君はきっと。僕は君に照らされて、こうして生きているんだね。
永遠に輝き続ける君を、僕は追いかけて生きていきたかった。

いつもの独特な空気の中、僕は彼女に近寄る。目と目が合う。彼女の笑顔に、不安が解ける。唇が重なって、愛は今日も二人を包む。キスする瞬間、あの日に戻る。僕が君に、君が僕に愛を告げたあの日に。今日は珍しく、彼女が僕の手を取って歩き出した。僕は、慣れない歩幅で彼女に着いて行く。
「笑わないで、聞いてね。」
そう言う彼女が笑ってたから、僕も思わず笑った。
「笑わないで、ってば。」
目を大きく開けて、彼女は言う。
「笑わないよ。」
適度に誠実な目で、それに答える。
「あのね・・・。」
ぴょん、と彼女が僕と距離を置く。そして、僕の目を見ながら、口に手を当てて笑った。
「私、消えれるんだよ。」
僕に聞こえるように、大きな声で彼女が言った。
「え・・・?なに、それ。」
半分笑って僕は言った。
「笑わないでって、いったでしょ~。」
彼女がふくれながら言う。悪戯好きの子供みたいに、はしゃいだ口調で、彼女は続ける。
「実はね、私、透明人間になれるんだよ。」
目の横に皺を作って、笑う彼女が愛おしい。僕は突然のとんでもない彼女の台詞に、ちょっと驚き混じりに笑った。冗談を言わない彼女からこぼれた、その言葉が奇妙だった。
「へ~、そうなんだ。」
笑い混じりの言葉を返す。
「何それ~、信じてないでしょ~。」
彼女は胸を膨らませてツンとする。
「え・・・、信じてるよ。」
彼女に近付きながら、僕は笑った。
「見てなさいよ、そのうち気付くから。」
にやにやしながら、彼女は僕に背を向ける。僕は彼女の背中を追いかけた。透明人間か・・・。何でそんなことを言い出したのか、僕にはさっぱり分からなかった。
子供みたいに笑う彼女の、瞳がすごく純粋だった。きっと、本当に透明人間になれるんだろうな。なんて一瞬思って、彼女の手を取り歩き出した。
一瞬、ほんの一瞬だけ。彼女の顔を見たとき、違って見えた。それは、笑顔じゃなく、少し悲しい顔だった気がした。でも、すぐに笑顔に戻った。その時は、あまり気に留めなかった。それは、彼女が僕に見せた最初で最後の油断だったんだ。不安を押し殺してまで、僕に笑顔を見せ続けてくれた彼女の、唯一の・・・。

僕は気付くことができなかった。僕は僕自身の幸せに、溺れてしまっていたから。溺愛の海に、僕は彼女のすべてがあるのだと思い込んでいたから。

彼女が消えた。僕の傍から。学校の教室から。いつもの公園から。彼女の住む街から。彼女はいなくなった。誰にも言わずに、彼女はどこかへ消えてしまった。その日から、彼女の家に電気が灯ることはなくなった。僕は、どうすることもできなかった。
急な出来事に、不安も絶望も感じずに、感触のない空虚感に心を奪われた。彼女は、僕に、何を伝えようとしたのか。
僕の中の彼女は、いつも笑顔で、元気で。だけど、僕は分かってなかった。不安で、怖くて、苦しくて、どうしようもなかった彼女の本当の気持ちを。
愛は、飾りたくなるほど美しく、そして時に残酷だ。

彼女は死んだ。

僕に何も告げずに。愛を振り撒いて。優しい言葉で僕を包んで。彼女は、永遠に僕の前から姿を消した。愛が、溢れていた。そんな愛を、僕は受け止められなかったね。

時々、僕は彼女は実は死んでなんかいないんじゃないのか、と考える。きっと、待ってれば、ぽっと現れて笑いかけてくれるような気がする。僕は、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。呪文のように繰り返す。

「実はね、私、透明人間になれるんだよ。」

透明人間、01

2008-02-07 22:30:04 | 連載小説
【透明人間】

01

教室に差し込む光は、彼女の頬を照らす。その光が反射して、午後の静まり返った教室は明るく、爽やかな空気に包まれる。僕の中で生まれる世界が、頭の中で弾けた。道なき道を素足で歩く感覚。歩き心地の悪い、ふわふわした廊下に立っている錯覚。それは恋だった。僕の目に映る世界を、一気に変えてしまう魔力を持つ。それは、事件でもあり、小さな奇跡でもあった。
夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。

PM、5時ちょうど。下校のチャイムが学校全体に響き渡った。ばたばたと教室を出て行く友人たちをよそ目に、僕は静かな教室で時が過ぎるのを待った。時間がたち、ついには教室がからっぽになった。いっそう静まり返る教室。遠くで聞こえるしゃべり声は、少しずつ小さくなっていき、聞こえなくなった。
金曜日の放課後の学校は、終焉の地のような空虚で空ろな雰囲気が漂う。一週間という区切りの端で、一人寂しく今日というスクリーンから見切れる。枠に収まりきれない自分が、情けなくもあり、愛くるしくもあった。
どれくらい自分を愛せたら、この人生がもっと楽しくなるのだろうか。きっと、いくら満ち足りた世界にだって無いものを、きっと誰もが持ってるはずだ。それを現実の世界に持ち込むツールは一つ。ただ、どうしようもなく自分を、そして誰かを愛すること。ただ、それだけ。僕は、どうしようもなく自分を嫌っていた。傷とか、そういった類の言葉で表すならば、誰にだってできる。だけど、前に進めない、勇気を持てない。命はいつだって、中途半端で格好の悪い意地で繋がっている。

彼女と付き合い出したのは、ちょうど2年ほど前だ。僕が高校に入学して、半年もたたないある日のことだった。
それは突然だった。僕は、一瞬で彼女の不思議な魅力に取り付かれ、そして離れられなくなっていた。きっと、一目惚れだったに違いない。その恋は、退屈な毎日を一瞬にして色のあるものに変えてしまった。窓から見える世界よりもはるかに、彼女の居る教室は美しく華やかなものに変わっていった。ただし、彼女に告白する勇気なんて全く出なかったし、ただ平凡な毎日を送るだけの自分の生活を変えられる術なんて全くなかった。同じクラスの彼女の席が、どうしようもなく遠くて、近付こうとしても無理だった。優しい言葉をかけようと、必死に彼女に話しかけた。だが、距離は縮まらなかった。
劇的なことが必要だったのだろう。平凡な毎日とは違う、何か劇的なものが。雨の日の雷のような、衝撃的でロマンチックな何かが。ムズムズと胸に溜め込んでいた苛立ち。気持ちは平凡な毎日を、少しずつ狂わしていく。
自分が気付かないうちに、小さな奇跡が背中を押した。僕は、ものすごく鈍感だった。奇跡は、すぐ傍まで迫っていたのに。

雨はきっと、奇跡の粒だ。

物語はページを進める。雨に濡れた教室の屋根から、大粒の雨が舞い落ちる。「冷たい。」ふと零れた言葉に、誰かが笑った。振り返ると、彼女が笑っていた。胸の鼓動が急に高鳴った。その日の雨は、急に降り出したワケでもなかったので、僕は傘を持っていた。だが、彼女の手には傘が握られてなかった。ドラマみたいな展開を期待した。ドラマよりドラマチックな展開が待ち受けているような予感に、包まれていた。
「傘は?盗られた?」
短い台詞で、緊張を解く。彼女は一瞬、きょとんとして、目を見開いて、そして笑った。
「自転車、盗られちゃった。」
くすくすと、手を口に当てて彼女は笑った。
「何それ、笑えないよ。」
心配そうな声で、それに答える。もうみんなすっかり帰ってしまったのに、彼女が残っていた理由が判明した。ずっとどこかへ行ってしまった自転車を探していたのだ。そんなバカな、ね。だってそうだ。僕も、誰かに盗られた傘を探していてこんな時間まで学校に残ってたのだから。
結局、職員の傘入れにあった傘を取ってきたワケで、それで僕は今傘を持ってる。もしかしたら、奇跡かもしれない。なんてことを考える余裕は一切なかったけど、今日がちょっと特別な日かも、とかそんな喜びが少し頭をよぎる。僕は傘を盗んだ誰かさんにちょっとだけ感謝しながら、傘を広げて手招きした。
「一緒に帰ろうよ。」

籠に入れてあったカッパごと盗まれていたせいで、僕の隣には彼女が居た。歩幅を縮めながらゆっくり彼女に合わせて歩く。親切に見えるだろう、きっと。でも、彼女といる時間を少しでも延ばす為の僕の密かな作戦だったりした。
「よく、そんなに遠いところから自転車で来てるね。」
弾まない会話を打破するために、ぽつりと彼女に投げかける。「まぁね。」と、適当な返事。焦った、けど彼女の笑顔に助けられた。たぶん、帰り道によくしゃべっていたのは僕じゃなくて彼女だったはずだ。
僕は電車通学だった。だが、僕の家の近くに住むにも関わらず、彼女は自転車通学だった。ちょっとかっこ悪かった。でも、そのおかげで、同じ電車に乗ることができた。駅に着いて、傘に付いた水滴を払い落とす。定期のない彼女は、切符売り場で切符を一枚買っていた。電車はあと5分で到着する。
「ちょうど良かったね。」
と言って彼女が笑う。内心、がっかりしながらも「そうだね。」と言って、僕は微笑んだ。
奇跡、といえば普段かなり口数が少ない自分が、彼女の前で普通にしゃべれていたのもきっと奇跡だ。何だろう、話したいというよりむしろ話さなければいけないという焦りがきっと、いい具合に言葉になったんだろう。こんなに自然に二人の時間がやってくるなんて、思ってもいなかった。ぎくしゃくした空気は、全く漂っていなかった、自分の中以外で。
電車に二人で乗る。気恥ずかしくて、ちょっと不安だ。二駅先が目的地だった。短い。だけど、彼女は眠ってしまった。きっと、疲れてたんだろう。もしくは、僕といるのがあんまりにも退屈だったのかも知れない。“いや、違う。きっと、必死で自転車を探していて、疲れ切ってたんだ”と自分に言い聞かす。
はぁ、とため息をついた。もうすぐ駅に着く。ガタンゴトンと、電車はひたすら走る。僕は彼女の寝顔を見つめて、思った。もう少し一緒に居たかったな。貴重な時間は無常にも過ぎていく。切なく、胸を痛めつけた。彼女も僕のことが好きならば、きっと明日もこうなのに。心の中で繰り返す。神様、許してください。そう心で呟いて、僕はそっと目を閉じた。駅に着いて、そして次の駅へと電車は走った。僕と彼女を乗せたまま、電車はずっと走ってく。

彼女に初めてついた嘘は「ごめん、寝ちゃってた。」だった。知らない街の知らない駅に僕らは降り立った。彼女と二人、そんな時間の延長。彼女は笑った、夢中に腹を抱えながら。つられて僕も笑った。
「やっちゃったね。」
笑いをこらえながら、彼女は言う。引き返すための電車が来るまで30分近く時間がかかった。それまで、ベンチに座っていた。彼女の手には、僕がついさっき買った紅茶の缶が握られていた。二本買いたかったが、財布には一本分の小銭しか入ってなかった。買ったはいいが、彼女にあげるのを何故か戸惑って、自分で飲んでいた。彼女が「ちょっと、ちょうだい。」と言ってくれるまで、きっとその缶は僕がずっと握ってた。
その時、ミニドラマを彩るかのように雨がやんだ。「雨、やんだね。」と彼女が言ったから、そのことに気付いた。神様がくれたシチュエーションが、僕を後押ししてくれた。頑張れ、と誰かが応援する。その声に答えるかのように、僕は僕自身を奮い立たせる。
雲の隙間から光が溢れる。光が、真っ直ぐ伸びて、彼女を照らす。あの日と同じ、光が溢れた教室で彼女を始めて見つけたときと同じように。僕が恋に落ちたあの日と同じように。そんな時間が、どんなに幸せだったか。僕の世界に、彼女の存在が必要不可欠になっていく。あの日感じた彼女との距離は、自然と小さくなっていった。くだらないことを話しているうちに、電車がやって来た。
「今度は寝ないようにしようね。」
と言って、また彼女が笑う。
「そうだね。」
と言って、再び僕も微笑む。どこか噛み合ってるようで噛み合ってない会話が、可笑しい。
並んで電車の椅子に座った僕らは、ちょっとぎこちなく不自然な形で窓に映った。ドラマなら、これから僕はどうするだろうと考えた。彼女の手を握って、愛を告白するのかも知れない。このチャンスを生かすために、僕はどうすればいいのだろう。電車の音でかき消された彼女の笑い声も、透き通っていて何もかもを見透かしているような彼女の目も、僕の神経を麻痺させる。ピリリと音を立てて鳴り出しそうな僕の頭の中。もうすぐ電車は僕らの町に到着する。焦りは緊張に、切なさは苦しみに変わって、表情を硬くさせる。僕の小さな変化に、彼女は気付いているのだろうか。彼女は今、何を考えているのだろうか。今晩のおかず、とか明日の宿題とか、そんな中に僕のことがちょっとでも含まれていたら僕は幸せだ。
僕は願う。もう、何もかも投げ出してもこんな時間が、またやってきますように。電車を降りた僕は、前を歩く彼女の足を止めた。

「実は、あれは眠ったフリだったんだ。」

と僕は彼女に言った。

「どうして、眠ったフリなんか・・・?」

と、彼女は緊張した様子で、目を見開いて僕に聞く。純粋な目が、僕の心をぎゅっと圧迫する。
「もっと、一緒にいたかったから。」

僕は震える声で、彼女に言った。精一杯、彼女に届くような声で、彼女に言った。後戻りできなくなった。逃げ出せない状況に、僕は自分自身を閉じ込めたかった。そして、彼女をどこにも逃げさせないように、言葉の柵で彼女を覆った。二人だけの世界に、彼女を連れ込んだ。気まずい空気が二人の間をすり抜ける。彼女が僕から目をそらせた。その瞬間、僕は息を止めた。その空気を吸い込んでしまったら、いっそう胸が苦しくなると思ったから。
彼女はゆっくりと、口を開いた。言葉が彼女から発せられる。僕は静かに、うつむいた。
「実はね。」
か細くて、気持ちのこもった声が彼女からこぼれる。
「私もだよ。」
そう言って、彼女が僕に一歩近付く。

「私も、もっと一緒にいたかったから、眠ったフリをしてたんだよ。」

透明人間、00

2008-02-07 22:21:43 | 連載小説
【連載小説、第一作】

透明人間

開始:2008年2月7日~


<夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。>