04
大好きだった。
放課後のピアノの音。夕日に染まる教室。くだらないことを日が暮れるまで語り合った、立ち入り禁止の屋上。
ちょっと寒くなってきた秋口の夕方、寂しさと切なさに押し潰されそうな夕方。電気の消えた廊下は、赤く光る非常灯がぽつりと目立って物悲しい。響いたチャイムの余韻が、伸びやかに胸に入り込んで、別の世界に入り込むような感覚が突然襲う。窓からは、授業中にぼっーと見ていた風景とはどこか違う、哀愁が漂う風景が広がっている。遠くにナイター用のライトが煌々と光って、綺麗だ。
時間が、不思議なほどにゆっくり流れた。邪魔するものは何もない。大切でかけがえのない時間を、僕は思い出していた。記憶が、美しく光を放った。僕は、涙が出るくらい切ない気持ちでいっぱいだった。
教室のドアを、静かに開ける。綺麗に整頓して配列された机と椅子。夕日の光が、教室全体を照らして、幻想的な世界が創り上げられている。カーテンが閉まっていないせいで、その世界は美しかった。
とぎれとぎれの記憶が蘇る。机に座って、語ったこと。好きな女の子の話、退屈な授業の話、みんなで行こうとしていた旅行の話、そしてこれからの自分たちのこと。終着駅が見えなかった。夢中で口々に喋って、笑って。終わりなんてくるはずがないと思っていた。
自然と顔を上げて見ていた夕日の美しさを、僕は思い出した。
ノートに書き出して並べたら、絶対恥ずかしくて見てられない台詞を僕らは言い合った。
リズムは一定で、ちょっと狂っている。このリズムで、僕たちは歩いていけるなんて勘違いしていた。誰も訂正しないのがいい。くだらないことも、全部必要だったね。何度かみんなで言い合った。忘れたら承知しない、なんて。きっと、忘れてしまうけど、それは合言葉だった。僕らが元に戻ったら、また口に出して笑えるように。掛けてしまった鍵を外すためのそんな合言葉。思い出す努力も何も必要ない。それだけは、自然と心から零れた。
将来を考え出した時期だった。必死で部活動に明け暮れた中学が終わって、高校生活も終わりに近付いてきたとき、やっと重い腰を上げるように考え始めた。僕もきっと考えていただろう。何かに追われるなんて、大嫌いだったけど、仕方がなかった。終わってしまう、という戸惑いが僕を焦らせていた。
誰もいなくて少し薄暗い、教室の机に座っていると、いろんなことを思い出した。教室の大きな窓は、編集された記憶の映像を映し出す巨大なスクリーンみたいに思えた。忘れちまった方がいいことと、思い出さなければいけないこと。人生はこの二つの記憶で埋め尽くされている。辿って来た道を心地よいスピードで逆走しながら、そこに置いてきた風景を浮かべる。目を閉じて、息を大きく吸って・・・。
ぽつぽつと思い出していた点と点を、僕は結ぼうとしていた。完成する絵は、一体何を僕に伝えるのだろう。友達と馬鹿をやった、くだらなくておかしい記憶は戻りつつあった。しかし、忘れちゃいけない大切な記憶を僕は全く思い出せない。かけらさえも、見つからなかった。
日が暮れた。教室が真っ暗になる。暗闇が包み込む。僕は、記憶の海に体を沈めた。
放課後、学校でいる時間が大好きだった。放課後、部活動をしている時間が大好きだった。家に帰りたくなかったから。そのうちみんな、自分の家に帰ってしまって、僕も家に帰らなければいけなくなる。誰もいない家に、僕は帰りたくなかった。静まり返った世界が、窮屈で仕方なかったんだ。だからずっと、僕は学校に残っていた。
誰もいなくなった学校の風景を、僕は鮮明に覚えている。明日になればきっと、また同じように学生で溢れかえる学校。同じ場所とは思えないほど、夜の学校はノスタルジックだ。使い捨てられた金属バッドみたいに、不恰好で危ない世界。何かを必死で考えていた。僕は、何かに迷って行き詰って、そして悩んでいた。そんな時間を思い出す。一体、自分は何に悩んでいたのか。
あの日記を思い出していた。彼女と過ごした時間が、はっきりと記されたあの日記。僕はすべてを彼女に捧げていた。そう、その日記には記されていた。幸福に満たされていた彼女との毎日。その記憶は、全く見当たらなかった。
『彼女は死んだ。』
その言葉が深い悲しみに僕を導く。完全に忘れてしまったに違いない。思い出したところで、そこには悲しみと苦しみしかないはずだ。だから、僕は思い出せないのだろう。そこには完全な鍵をかけてしまっているはずだから。
ただ、そこまで夢中で愛した彼女を、全く思い出せないことをもどかしく思った。本当にこれでいいのだろうか。思い出せないまま、これから生きていっていいのだろうか。彼女は、どんな気持ちで天国から僕を見ているんだろう。そう考えると、寂しくて仕方なかった。何ともいえない罪悪感が僕を苛む。
幸せそうな毎日が、淡々と綴られた日記・・・。学校が終わった後、二人で行った公園。家に帰りたくない僕と、夜中までずっと話してくれた彼女の姿。思い出したかった。幸せだった記憶を、取り戻したかった。そこに底の見えない悲しみが待ち受けていてもいい。それでも、彼女の優しさを思い出したかった。あの日記さえ見なければ、これから新しい人生を送れたかも知れない。だが、僕は見てしまった。彼女との幸せな日々を、僕は知ってしまったから。このままじゃいられない。真実を隠して生きるなんて、したくなかったから。僕は僕の人生に、嘘をついて生きていきたくなかったから。すべてを知ろう、そう決心したんだ。
時間の感覚がなくなってきた。そういえば、洗濯もしなくちゃならないし、食事の準備もしなければならない。現実的なことを感づいて、僕は目を覚ましたように立ち上がった。それ以上、何も思い出せそうもなかった。
その時だった。真っ暗な教室に、突然光が灯った。反射的に、僕は教室のドアを見た。そこには、クラスメイトと思われる女子が電気のスイッチに手を伸ばして立っていた。彼女は僕の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
「リョウスケ・・・くん?」
小さな声だったが、静まり返った教室には大きく響いた。そりゃ、驚くだろうな、と僕は思いながらドアの方へ歩き出した。
「えっ、と・・・。君は・・・?」
僕は頭を掻きながら、ぼんやりした声で言った。
「えっ・・・?そっか、本当に何も覚えてないんだね。」
その子の声は、少し残念そうに聞こえた。
「ごめん、何も覚えてない。」
久々に学校に登校して、一日みんなとしゃべって過ごしてみたものの、状況は何も変わらなかった。みんなはフレンドリーに話しかけてくるのだが、自分が何も思い出せないものだから、今日は一日中、自己紹介みたいな感じになってしまった。残念そうな顔なら何度もされた。きっと、かなり仲が良かったんだろうなと思われる男子にも、僕はそっけない態度しか取れなかった。時間がかかりそうだった。普通のことを思い出すだけでも。
「私は、中沢美鈴。・・・中学の時から一緒でしょ?思い出せない?」
美鈴・・・、という名前に少しだけ覚えがあった。中学時代からの友達のことは、少しずつ思い出していたから。よく家に遊びに行っていた奴のこととか、中学時代の担任のこととか・・・。ぼんやりと、一緒な中学だったことを思い出した。
「そういえば、そうだったような・・・。」
不安そうで情けない声で、僕は言った。
「酷いなぁ・・・。」
ため息を付いて、美鈴は教室の中を歩き出した。
「こんな時間にどうしたの?」
僕は、美鈴に尋ねた。くるっと振り向いて彼女は僕を見た。
「忘れ物を取りに来たのよ。亮輔君の方こそ、何してたの?」
自分のものらしき机に手を付いて、美鈴は言った。しゃべりながら机の中を探って、中からノートらしきものを取り出した。
「思い出してた。」
窓の外を眺めながら、僕は答えた。同時に、心配そうな目で美鈴は僕を見た。何か、重要なことを知ってるのかもしれないな、とその目を見て僕は思った。美鈴は中学から一緒で、きっと仲が悪かったわけでもなさそうだったから。その目は、迷ってるようにも見えた。本当のことを話そうか、話さないでおこうか、という迷いを隠しているような目だった。
「何か、思い出せた?」
ノートを両手で抱えて、美鈴は尋ねた。素直に見つめる彼女の目は、何か核心をつくかのように鋭く光っていた。
「いや・・・。」
美鈴より幾分深いため息をつきながら、僕は言った。
「思い出せたことといえば・・・。」
と、僕は続ける。
「放課後の教室が、好きだったってことくらいかな。」
僕はそう付け加えた。今、こうして放課後の教室にいることが、僕にとって心地よかった。素直に、なれるような場所のように思えた。気持ちを整理できる静かな時間。
美鈴は、不意に目を伏せた。そして、何も言わず足を踏み出す。かける言葉が見つからなかったのだろう。きっと、みんな気を使ってくれているんだろうな、と感じた。もしかしたら、美鈴は僕が自殺しようとしたことを知ってるのかもしれない。いや、きっと知っている。美鈴は何故か、僕を悲しそうな目で見つめていたから。
「早く、思い出せればいいね。」
そう言って、彼女は教室を出て行こうとした。僕の横をゆっくり通り過ぎた。僕は、机の上に置いてあったカバンを肩に掛けた。そして、教室を出て廊下を歩く彼女を追いかけた。
「ねぇ。」
僕は、前を歩く美鈴に声をかけた。
「何?」
美鈴は足を止めて、答える。
「聞きたいことがあるんだけど・・・?」
僕が言った。美鈴はその言葉を聞いて、振り返った。相変わらず、心配そうな表情をしていた。
「聞きたいこと・・・?」
美鈴は、首をかしげた。聞いていいのか、どうか迷ったが、僕は覚悟を決めた。何を聞かれるのか、美鈴は感づいた様子だった。
「どうして、僕が学校に行かなくなったのか、知ってる?」
僕は不登校になっていた。教師から聞いた。それは、いじめられていたわけでもなく、元から学校に行かなかったわけでもない。こんなことを聞いていいのか、分からなかった。不登校になって、僕は自殺しようとした。理由はほぼ分かっていた。
『彼女は死んだ。』
あの日記が、その答えだろう。美鈴もたぶん、クラスメイトはきっとほぼ全員知ってることだろう。美鈴は明らかに動揺した様子だった。言っていいのか、迷っていたのだろう。聞いたらいけないことを聞いてしまったな、と僕は後悔した。だが、美鈴は口を開いた。
「それは、きっと・・・。」
その後に続く言葉を発するべきかどうか、美鈴は迷っていた。ちょっとの沈黙が流れた。僕の覚悟は、強く全身を硬直させた。
「サキが、死んで・・・しまったから。」
ふと、彼女の目から大粒の涙が流れた。
大好きだった。
放課後のピアノの音。夕日に染まる教室。くだらないことを日が暮れるまで語り合った、立ち入り禁止の屋上。
ちょっと寒くなってきた秋口の夕方、寂しさと切なさに押し潰されそうな夕方。電気の消えた廊下は、赤く光る非常灯がぽつりと目立って物悲しい。響いたチャイムの余韻が、伸びやかに胸に入り込んで、別の世界に入り込むような感覚が突然襲う。窓からは、授業中にぼっーと見ていた風景とはどこか違う、哀愁が漂う風景が広がっている。遠くにナイター用のライトが煌々と光って、綺麗だ。
時間が、不思議なほどにゆっくり流れた。邪魔するものは何もない。大切でかけがえのない時間を、僕は思い出していた。記憶が、美しく光を放った。僕は、涙が出るくらい切ない気持ちでいっぱいだった。
教室のドアを、静かに開ける。綺麗に整頓して配列された机と椅子。夕日の光が、教室全体を照らして、幻想的な世界が創り上げられている。カーテンが閉まっていないせいで、その世界は美しかった。
とぎれとぎれの記憶が蘇る。机に座って、語ったこと。好きな女の子の話、退屈な授業の話、みんなで行こうとしていた旅行の話、そしてこれからの自分たちのこと。終着駅が見えなかった。夢中で口々に喋って、笑って。終わりなんてくるはずがないと思っていた。
自然と顔を上げて見ていた夕日の美しさを、僕は思い出した。
ノートに書き出して並べたら、絶対恥ずかしくて見てられない台詞を僕らは言い合った。
リズムは一定で、ちょっと狂っている。このリズムで、僕たちは歩いていけるなんて勘違いしていた。誰も訂正しないのがいい。くだらないことも、全部必要だったね。何度かみんなで言い合った。忘れたら承知しない、なんて。きっと、忘れてしまうけど、それは合言葉だった。僕らが元に戻ったら、また口に出して笑えるように。掛けてしまった鍵を外すためのそんな合言葉。思い出す努力も何も必要ない。それだけは、自然と心から零れた。
将来を考え出した時期だった。必死で部活動に明け暮れた中学が終わって、高校生活も終わりに近付いてきたとき、やっと重い腰を上げるように考え始めた。僕もきっと考えていただろう。何かに追われるなんて、大嫌いだったけど、仕方がなかった。終わってしまう、という戸惑いが僕を焦らせていた。
誰もいなくて少し薄暗い、教室の机に座っていると、いろんなことを思い出した。教室の大きな窓は、編集された記憶の映像を映し出す巨大なスクリーンみたいに思えた。忘れちまった方がいいことと、思い出さなければいけないこと。人生はこの二つの記憶で埋め尽くされている。辿って来た道を心地よいスピードで逆走しながら、そこに置いてきた風景を浮かべる。目を閉じて、息を大きく吸って・・・。
ぽつぽつと思い出していた点と点を、僕は結ぼうとしていた。完成する絵は、一体何を僕に伝えるのだろう。友達と馬鹿をやった、くだらなくておかしい記憶は戻りつつあった。しかし、忘れちゃいけない大切な記憶を僕は全く思い出せない。かけらさえも、見つからなかった。
日が暮れた。教室が真っ暗になる。暗闇が包み込む。僕は、記憶の海に体を沈めた。
放課後、学校でいる時間が大好きだった。放課後、部活動をしている時間が大好きだった。家に帰りたくなかったから。そのうちみんな、自分の家に帰ってしまって、僕も家に帰らなければいけなくなる。誰もいない家に、僕は帰りたくなかった。静まり返った世界が、窮屈で仕方なかったんだ。だからずっと、僕は学校に残っていた。
誰もいなくなった学校の風景を、僕は鮮明に覚えている。明日になればきっと、また同じように学生で溢れかえる学校。同じ場所とは思えないほど、夜の学校はノスタルジックだ。使い捨てられた金属バッドみたいに、不恰好で危ない世界。何かを必死で考えていた。僕は、何かに迷って行き詰って、そして悩んでいた。そんな時間を思い出す。一体、自分は何に悩んでいたのか。
あの日記を思い出していた。彼女と過ごした時間が、はっきりと記されたあの日記。僕はすべてを彼女に捧げていた。そう、その日記には記されていた。幸福に満たされていた彼女との毎日。その記憶は、全く見当たらなかった。
『彼女は死んだ。』
その言葉が深い悲しみに僕を導く。完全に忘れてしまったに違いない。思い出したところで、そこには悲しみと苦しみしかないはずだ。だから、僕は思い出せないのだろう。そこには完全な鍵をかけてしまっているはずだから。
ただ、そこまで夢中で愛した彼女を、全く思い出せないことをもどかしく思った。本当にこれでいいのだろうか。思い出せないまま、これから生きていっていいのだろうか。彼女は、どんな気持ちで天国から僕を見ているんだろう。そう考えると、寂しくて仕方なかった。何ともいえない罪悪感が僕を苛む。
幸せそうな毎日が、淡々と綴られた日記・・・。学校が終わった後、二人で行った公園。家に帰りたくない僕と、夜中までずっと話してくれた彼女の姿。思い出したかった。幸せだった記憶を、取り戻したかった。そこに底の見えない悲しみが待ち受けていてもいい。それでも、彼女の優しさを思い出したかった。あの日記さえ見なければ、これから新しい人生を送れたかも知れない。だが、僕は見てしまった。彼女との幸せな日々を、僕は知ってしまったから。このままじゃいられない。真実を隠して生きるなんて、したくなかったから。僕は僕の人生に、嘘をついて生きていきたくなかったから。すべてを知ろう、そう決心したんだ。
時間の感覚がなくなってきた。そういえば、洗濯もしなくちゃならないし、食事の準備もしなければならない。現実的なことを感づいて、僕は目を覚ましたように立ち上がった。それ以上、何も思い出せそうもなかった。
その時だった。真っ暗な教室に、突然光が灯った。反射的に、僕は教室のドアを見た。そこには、クラスメイトと思われる女子が電気のスイッチに手を伸ばして立っていた。彼女は僕の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
「リョウスケ・・・くん?」
小さな声だったが、静まり返った教室には大きく響いた。そりゃ、驚くだろうな、と僕は思いながらドアの方へ歩き出した。
「えっ、と・・・。君は・・・?」
僕は頭を掻きながら、ぼんやりした声で言った。
「えっ・・・?そっか、本当に何も覚えてないんだね。」
その子の声は、少し残念そうに聞こえた。
「ごめん、何も覚えてない。」
久々に学校に登校して、一日みんなとしゃべって過ごしてみたものの、状況は何も変わらなかった。みんなはフレンドリーに話しかけてくるのだが、自分が何も思い出せないものだから、今日は一日中、自己紹介みたいな感じになってしまった。残念そうな顔なら何度もされた。きっと、かなり仲が良かったんだろうなと思われる男子にも、僕はそっけない態度しか取れなかった。時間がかかりそうだった。普通のことを思い出すだけでも。
「私は、中沢美鈴。・・・中学の時から一緒でしょ?思い出せない?」
美鈴・・・、という名前に少しだけ覚えがあった。中学時代からの友達のことは、少しずつ思い出していたから。よく家に遊びに行っていた奴のこととか、中学時代の担任のこととか・・・。ぼんやりと、一緒な中学だったことを思い出した。
「そういえば、そうだったような・・・。」
不安そうで情けない声で、僕は言った。
「酷いなぁ・・・。」
ため息を付いて、美鈴は教室の中を歩き出した。
「こんな時間にどうしたの?」
僕は、美鈴に尋ねた。くるっと振り向いて彼女は僕を見た。
「忘れ物を取りに来たのよ。亮輔君の方こそ、何してたの?」
自分のものらしき机に手を付いて、美鈴は言った。しゃべりながら机の中を探って、中からノートらしきものを取り出した。
「思い出してた。」
窓の外を眺めながら、僕は答えた。同時に、心配そうな目で美鈴は僕を見た。何か、重要なことを知ってるのかもしれないな、とその目を見て僕は思った。美鈴は中学から一緒で、きっと仲が悪かったわけでもなさそうだったから。その目は、迷ってるようにも見えた。本当のことを話そうか、話さないでおこうか、という迷いを隠しているような目だった。
「何か、思い出せた?」
ノートを両手で抱えて、美鈴は尋ねた。素直に見つめる彼女の目は、何か核心をつくかのように鋭く光っていた。
「いや・・・。」
美鈴より幾分深いため息をつきながら、僕は言った。
「思い出せたことといえば・・・。」
と、僕は続ける。
「放課後の教室が、好きだったってことくらいかな。」
僕はそう付け加えた。今、こうして放課後の教室にいることが、僕にとって心地よかった。素直に、なれるような場所のように思えた。気持ちを整理できる静かな時間。
美鈴は、不意に目を伏せた。そして、何も言わず足を踏み出す。かける言葉が見つからなかったのだろう。きっと、みんな気を使ってくれているんだろうな、と感じた。もしかしたら、美鈴は僕が自殺しようとしたことを知ってるのかもしれない。いや、きっと知っている。美鈴は何故か、僕を悲しそうな目で見つめていたから。
「早く、思い出せればいいね。」
そう言って、彼女は教室を出て行こうとした。僕の横をゆっくり通り過ぎた。僕は、机の上に置いてあったカバンを肩に掛けた。そして、教室を出て廊下を歩く彼女を追いかけた。
「ねぇ。」
僕は、前を歩く美鈴に声をかけた。
「何?」
美鈴は足を止めて、答える。
「聞きたいことがあるんだけど・・・?」
僕が言った。美鈴はその言葉を聞いて、振り返った。相変わらず、心配そうな表情をしていた。
「聞きたいこと・・・?」
美鈴は、首をかしげた。聞いていいのか、どうか迷ったが、僕は覚悟を決めた。何を聞かれるのか、美鈴は感づいた様子だった。
「どうして、僕が学校に行かなくなったのか、知ってる?」
僕は不登校になっていた。教師から聞いた。それは、いじめられていたわけでもなく、元から学校に行かなかったわけでもない。こんなことを聞いていいのか、分からなかった。不登校になって、僕は自殺しようとした。理由はほぼ分かっていた。
『彼女は死んだ。』
あの日記が、その答えだろう。美鈴もたぶん、クラスメイトはきっとほぼ全員知ってることだろう。美鈴は明らかに動揺した様子だった。言っていいのか、迷っていたのだろう。聞いたらいけないことを聞いてしまったな、と僕は後悔した。だが、美鈴は口を開いた。
「それは、きっと・・・。」
その後に続く言葉を発するべきかどうか、美鈴は迷っていた。ちょっとの沈黙が流れた。僕の覚悟は、強く全身を硬直させた。
「サキが、死んで・・・しまったから。」
ふと、彼女の目から大粒の涙が流れた。