08
思い出したことがある。
いや、たぶん僕は全部思い出した。
記憶をゆっくり辿っていく・・・。
なぜ、美鈴が僕に別れを告げたのか、その理由が分からなかった。完璧なカップルになれたと思い込んでいたから。僕は戸惑った。
もうすぐ一年が経つ、春のある日のこと。彼女が僕に告げた別れは、あまりにも突然で、あまりにもあっさりしていた。
僕は頷くしかできなかった。すべての想いを封じ込めて、僕は力なく頷いた。秘密の恋愛が幕を閉じた。たった一本の糸で繋がっていた二人の関係は、いとも簡単に切れた。
別れを告げて去っていく美鈴は、どこか強がっているように見えた。
ただ去っていく彼女の背中が、すべての終わりを物語っていた。
美鈴は振り返ることなく、次第に見えなくなった。取り残された自分の存在だけが、無力感という冷たい風に吹かれ続けた。僕は自分に何度も言い聞かせた。仕方がない、僕らは正式なカップルじゃなかったのだから、と。自分を納得させて、心を落ち着かせて、ちょっとだけ泣いた。
空虚な世界に花は咲かない。桜の花びらは美しく咲き誇っているのに、心の桜は枯れてしまった。僕がろくに水をあげてなかったから、ひそかに、はかなく枯れていった。
きっと、これで良かったんだ。心で叫ぶ。
きっと、明日からも普通の学校生活は続く。普通に友達としゃべって、僕と美鈴はただのクラスメイトとして過ごしていくのだ。そこには誰からの同情もなく、何の変化もない。
僕と美鈴の交際が、次第に無意味になってく。
だってそれは、どこまでも透明な恋愛だったから。誰にも見守られることもなく、消えていってしまうだろう。
家に着いたら、悲しみが押し寄せてきた。もう、来ることはないと思っていた毎日がやってくる。
僕は美鈴との思い出をすべて捨てた。二人で撮った写真も、二人で描いた未来図も、全部捨てた。幻想にすがって行くのはやめようと決心した。普通の恋愛でなかったから、きっとすべて忘れられると思った。お互いに傷を残さず、静かに別れていく方法をきっと美鈴は知っていたのだろう。
心の底まで悲しみで埋め尽くして、そして苦しみが過ぎて。僕は美鈴がなぜ秘密にしておこうと言ったのか、少しだけ理解した気がした。
明日から、僕はすべてを捨てて、新しい気持ちで生きてゆこうと決めた。過去を振り返ったら、生きていけそうになかったから、前だけ見て生きていきたい。
僕は精一杯の平常心で、無理やり笑った。その時、気付いた。僕はあの頃の記憶だけじゃなく、笑い方も忘れていたことを。
僕の高校は県内でも上位の進学校だった。受験シーズンが近付き、クラス内には次第に緊迫した空気が漂ってきた。
中学の頃、僕は学習塾に通っていた。通うための資金は自分でバイトをして貯めた。深夜、コンビニでバイトをして、それから学校帰りには塾へ行く。そんな生活を送っていた。
大学に行きたかった。だから、もっと大学資金がいったし、進学校に通うために成績も常にトップにいなければならなかった。眩暈がするくらい、過酷な生活だった。でも、自分の境遇を不幸だとも、不運だとも思いたくなかったから、僕は精一杯頑張ってきた。
同級生と同じように、遊んで笑っていたかった。でも、僕の生活は青春という輝きの欠片もない、味気ないものだった。それらしい恋もしなかったし、休みに友達と遊ぶことも少なかった。誰の助けもない生活が、いつか普通のこととなって、他人をうらやむこともなくなった。何度か叫んでみたくもなったが、僕は必死でそんな思いを押さえ込んだ。暴れだしそうな両手をプライドという縄で縛って、毎日単調で忙しい日々を送った。
本当は友達と一緒に馬鹿みたいに騒いで、笑いたかった。忙しすぎて、周りが見えなくなっていた。優しいクラスメイトの言葉にも、僕は応えられなかった。僕の人生に優しさという言葉は不似合いだと、自分に言い聞かせていた。
僕の人生は、もっと愛のある美しいものになるはずだった。でも、僕が生まれた時、泣いている僕を優しく包み込む母の存在はなかった。
すべてを狂わしたのは、忌まわしく悲しいある一つの事故だった。
僕は、悲しみの中で生まれた。奇跡的に無事だった僕と、僕を残して死んでいった両親。何も知らず泣きながら生まれた僕は、居場所を失った。詳しくは知らないが、出産の日、病院に向かう途中の事故だったらしい。幸せの絶頂で襲った悲劇は、僕をこの世界に一人ぼっちにさせた。
母の想いは僕に届いただろうか。そして、この世界に生きていく意味を見つけられるだろうか。
僕の人生が、奇跡によって繋ぎ止められた崇高なものならば、僕は強く生きていかなくてはならない。ただ何度か、悲劇を恨むばかりで、前に進めなくなった時期もあった。だけど、僕はこの世界に生まれることができたことを幸せだと思った。きっといつか、本当の幸せが見つかると思っていたから。
どんなに苦しくても、僕は奇跡によって生かされ続けた。天国の両親を笑顔にさせるために、精一杯生きた。誤魔化しながら、僕は周りのみんなと同じような顔をして、笑いながら生きていた。きっと煌々と輝いているはずの未来だけを見つめながら。
両親を失った僕は、母の兄弟の家に預けられた。だが、そこに愛なんてなかった。笑顔も、喜びも、何もなかった。僕は邪魔者扱いされながら、孤独を抱えて生きてきた。
小学校に入学した時も、一人で生きていくと強がって家を飛び出した時も、義母は表情一つ変えず、笑うことも叱ることもしなかった。
僕は助けなんて必要ない、と何度も強がった。いや、僕は一人で生きてきたのだ。愛のない助けなんて、何の役にもたたない。両手を振りかざしても、溢れるまで涙を流しても、何も変わらないことが分かったから、僕は家を飛び出した。
明日が見えなくて、不安で仕方なかった。
死に物狂いで、涙を堪えた。
感情を置き去りにして、僕は生きようともがいた。
うまくいかない人生を恨むよりも、僕は自分を責めた。不幸なんかじゃない、自分が不甲斐ないだけなんだ、と非難した。
そして、クラスメイトにも教師にも偽りの笑顔を向けて、少しだけ背伸びした。
悲しみが伝わらないように、常に頭の中は楽しいことで埋め尽くしておいた。僕は、過去からずっと逃げ続けていた。何かを掴めるまでずっと。
くじけたら、そこで負けだと拳を握った。
いつしか僕は、自分に不都合なことはすべて忘れて、プラスになることだけを考えるようになった。
逃げているだけだとも思った。だがそれで、少しずつ、本当の笑顔を見つけていったのは事実だった。
悲しまない。それで救われる。
僕はいつまでも、孤独なんかじゃないんだ。
暗闇ばかりじゃなかった。必死でバイトをして、塾で勉強して・・・。そして、僕は始めて確かなものを掴んだ。感触のある、確かな笑顔が溢れた。
進学校に合格したことは、僕にとって大きなことだった。何かが変わる、そう思った。春が最高に眩しく見えた。高校生活の入り口は、桜が舞って、見たこともないくらい綺麗だった。
一旦、立ち止まろうと自分に言った。深呼吸しよう。立ち止まって。すぅっと、大きく息を吸い込む。
走り続けてきたね。よく、頑張ったね。
僕は生まれて始めて自分を褒めた。誰からも褒められなかった哀れな自分を、単純な言葉で褒めてやった。
救われた。
自然と涙が溢れて、止まらなかった。これから、もっと良くなっていく。そんな気がした。
そして、新しい下宿先へと向かう。ここから、始まるんだ。僕は荷物を抱えて、ちょっとだけ笑った。
そして入学式。清清しい気分だった。クラスメイトは真新しい顔ぶればかりで、同じ中学の奴といったら、二、三人しかいなかった。何とか、仲良くやっていけそうだった。
「同じクラスだね、よろしくね。」
高校に入って、始めて喋ったのは美鈴だった。中沢美鈴・・・。同じ中学で、同じ塾に通っていたのに、あまりしゃべったことはなかった。というのも、中学時代は女子とあんまり話したりしなかったからだ。しかも、美鈴とは三年間別々のクラスで、塾では僕が一番下のコースで、彼女はトップクラスのコースにいたから、あんまりしゃべることもなかった。
でも、美鈴は初めからフレンドリーに話かけてきてくれた。それが、新鮮だった。
中学の頃は気付かなかった美鈴の笑顔に、僕は心を奪われた。
溶け込めるかどうか不安な時期に、話かけてきてくれた美鈴の優しさに僕は恋をした。想いは次第に大きくなっていき、いつしか美鈴は僕の中で特別な存在になっていた。
授業中も、彼女のことが気になって仕方なかった。初めてのことだった。僕の人生が一瞬にして変わるような、美しい彩りに僕は酔った。心に余裕ができて、そこに入り込んできた恋という油断が、すべてを埋め尽くしていく。
明日が来るのが楽しみだった。美鈴と話すのが楽しみだった。
だけど、僕は話かけられなかった。
もどかしい。毎日はそんな純粋な感情で、新しい色彩を生んだ。
忙しくて、辛かった毎日を忘れさせてくれる日々がそこにはあった。失いたくない、毎日がそこにはあった。悩んだ倍、幸せになるかけがえのない毎日がそこにあった。
そしてあの雨の日、美鈴と付き合い始めた。
幸せが続いていく。その延長線上に浮かべた未来図に、偽りのない理想を描いた。どうしようもなく悩んだ日々が、幸せな思い出で塗り替えられていく。笑顔が本物になって、心にも花が咲いて、完成されていく人生がそこにはあった。
ちょっと遅いスタートだったけど、ようやく僕の人生が始まった。叫ぶよりも多く、僕は笑った。そうして、埋め尽くされていった。
ただ、そのギャップは大きすぎて、空回りすることも多かった。
僕が美鈴に求めたものは、普通の恋愛とは違っていたような気がする。その優しさに身を委ねすぎていたのかも知れない。あまりにも、好きだったせいで、美鈴との別れは怖かった。何もなくなってしまいそうで、怖かった。
美鈴に別れを切り出されてからずっと、僕はまた自分を非難し続けていた。
そんなある日のことだった。僕の下宿を、サキの母親が訪ねてきたのは。
高校に入って、二度目の春が過ぎようとしていた頃だった。
山城沙希・・・。
高校二年になって、同じクラスになった女の子だった。
初めは気付かなかったが、すぐに中学時代同じ塾だったことに気が付いた。
大人しく、おしとやかな雰囲気の漂う彼女は、その美しい容姿から男連中から心底好かれていた。
見ず知らずの女の人が尋ねてきて、初めは新聞の勧誘か何かだろうと思い追い返そうとしたが
「山城沙希の母です。」
という言葉がドア越しに聞こえたので、慌ててドアを開けた。僕の顔を見ると、深々とお辞儀をした。僕もつられて頭を下げる。
「突然伺って申し訳ありません。少しだけ、お話をしたいのですが・・・。」
真剣な顔をして、早口でサキの母親は言った。どこか切羽詰っている感じだった。その雰囲気に、何か深刻なことだろうな、と思い僕は彼女を家に上げた。
「ちらかってますけど・・・。」
といって頭を下げると
「いえ、お構いなく。」
と、同時に彼女も頭を下げた。僕は
「どうぞ・・・。」
と言って、机の前に座布団を敷いて手を差し出した。こんなちゃんとした客が家に来たことがないので、少しだけ戸惑った。
「どうも。」
そう言うと、ゆっくりと彼女は座った。同時に僕も向かい合って座る。何だか物凄く緊張した。何を言われるのか・・・。苦情・・・?サキに何かしたのか?考えても、全く身に覚えが無かった。
サキの母親は、喋りだしにくそうに下を向いていた。僕は
「一体、どうしたんですか?」
と、様子を伺いながら静かに言った。
「あの・・・、言いづらいことなのですが・・・。」
間を空けて、彼女は話し始めた。空気がいっそうピンと張り詰める。僕は緊張した面持ちで、正座をしてじっと次の言葉が出てくるのを待った。
「あの・・・。」
顔を上げて、サキの母親は真剣に言った。
「沙希と、付き合ってやっていただけませんか?」
思い出したことがある。
いや、たぶん僕は全部思い出した。
記憶をゆっくり辿っていく・・・。
なぜ、美鈴が僕に別れを告げたのか、その理由が分からなかった。完璧なカップルになれたと思い込んでいたから。僕は戸惑った。
もうすぐ一年が経つ、春のある日のこと。彼女が僕に告げた別れは、あまりにも突然で、あまりにもあっさりしていた。
僕は頷くしかできなかった。すべての想いを封じ込めて、僕は力なく頷いた。秘密の恋愛が幕を閉じた。たった一本の糸で繋がっていた二人の関係は、いとも簡単に切れた。
別れを告げて去っていく美鈴は、どこか強がっているように見えた。
ただ去っていく彼女の背中が、すべての終わりを物語っていた。
美鈴は振り返ることなく、次第に見えなくなった。取り残された自分の存在だけが、無力感という冷たい風に吹かれ続けた。僕は自分に何度も言い聞かせた。仕方がない、僕らは正式なカップルじゃなかったのだから、と。自分を納得させて、心を落ち着かせて、ちょっとだけ泣いた。
空虚な世界に花は咲かない。桜の花びらは美しく咲き誇っているのに、心の桜は枯れてしまった。僕がろくに水をあげてなかったから、ひそかに、はかなく枯れていった。
きっと、これで良かったんだ。心で叫ぶ。
きっと、明日からも普通の学校生活は続く。普通に友達としゃべって、僕と美鈴はただのクラスメイトとして過ごしていくのだ。そこには誰からの同情もなく、何の変化もない。
僕と美鈴の交際が、次第に無意味になってく。
だってそれは、どこまでも透明な恋愛だったから。誰にも見守られることもなく、消えていってしまうだろう。
家に着いたら、悲しみが押し寄せてきた。もう、来ることはないと思っていた毎日がやってくる。
僕は美鈴との思い出をすべて捨てた。二人で撮った写真も、二人で描いた未来図も、全部捨てた。幻想にすがって行くのはやめようと決心した。普通の恋愛でなかったから、きっとすべて忘れられると思った。お互いに傷を残さず、静かに別れていく方法をきっと美鈴は知っていたのだろう。
心の底まで悲しみで埋め尽くして、そして苦しみが過ぎて。僕は美鈴がなぜ秘密にしておこうと言ったのか、少しだけ理解した気がした。
明日から、僕はすべてを捨てて、新しい気持ちで生きてゆこうと決めた。過去を振り返ったら、生きていけそうになかったから、前だけ見て生きていきたい。
僕は精一杯の平常心で、無理やり笑った。その時、気付いた。僕はあの頃の記憶だけじゃなく、笑い方も忘れていたことを。
僕の高校は県内でも上位の進学校だった。受験シーズンが近付き、クラス内には次第に緊迫した空気が漂ってきた。
中学の頃、僕は学習塾に通っていた。通うための資金は自分でバイトをして貯めた。深夜、コンビニでバイトをして、それから学校帰りには塾へ行く。そんな生活を送っていた。
大学に行きたかった。だから、もっと大学資金がいったし、進学校に通うために成績も常にトップにいなければならなかった。眩暈がするくらい、過酷な生活だった。でも、自分の境遇を不幸だとも、不運だとも思いたくなかったから、僕は精一杯頑張ってきた。
同級生と同じように、遊んで笑っていたかった。でも、僕の生活は青春という輝きの欠片もない、味気ないものだった。それらしい恋もしなかったし、休みに友達と遊ぶことも少なかった。誰の助けもない生活が、いつか普通のこととなって、他人をうらやむこともなくなった。何度か叫んでみたくもなったが、僕は必死でそんな思いを押さえ込んだ。暴れだしそうな両手をプライドという縄で縛って、毎日単調で忙しい日々を送った。
本当は友達と一緒に馬鹿みたいに騒いで、笑いたかった。忙しすぎて、周りが見えなくなっていた。優しいクラスメイトの言葉にも、僕は応えられなかった。僕の人生に優しさという言葉は不似合いだと、自分に言い聞かせていた。
僕の人生は、もっと愛のある美しいものになるはずだった。でも、僕が生まれた時、泣いている僕を優しく包み込む母の存在はなかった。
すべてを狂わしたのは、忌まわしく悲しいある一つの事故だった。
僕は、悲しみの中で生まれた。奇跡的に無事だった僕と、僕を残して死んでいった両親。何も知らず泣きながら生まれた僕は、居場所を失った。詳しくは知らないが、出産の日、病院に向かう途中の事故だったらしい。幸せの絶頂で襲った悲劇は、僕をこの世界に一人ぼっちにさせた。
母の想いは僕に届いただろうか。そして、この世界に生きていく意味を見つけられるだろうか。
僕の人生が、奇跡によって繋ぎ止められた崇高なものならば、僕は強く生きていかなくてはならない。ただ何度か、悲劇を恨むばかりで、前に進めなくなった時期もあった。だけど、僕はこの世界に生まれることができたことを幸せだと思った。きっといつか、本当の幸せが見つかると思っていたから。
どんなに苦しくても、僕は奇跡によって生かされ続けた。天国の両親を笑顔にさせるために、精一杯生きた。誤魔化しながら、僕は周りのみんなと同じような顔をして、笑いながら生きていた。きっと煌々と輝いているはずの未来だけを見つめながら。
両親を失った僕は、母の兄弟の家に預けられた。だが、そこに愛なんてなかった。笑顔も、喜びも、何もなかった。僕は邪魔者扱いされながら、孤独を抱えて生きてきた。
小学校に入学した時も、一人で生きていくと強がって家を飛び出した時も、義母は表情一つ変えず、笑うことも叱ることもしなかった。
僕は助けなんて必要ない、と何度も強がった。いや、僕は一人で生きてきたのだ。愛のない助けなんて、何の役にもたたない。両手を振りかざしても、溢れるまで涙を流しても、何も変わらないことが分かったから、僕は家を飛び出した。
明日が見えなくて、不安で仕方なかった。
死に物狂いで、涙を堪えた。
感情を置き去りにして、僕は生きようともがいた。
うまくいかない人生を恨むよりも、僕は自分を責めた。不幸なんかじゃない、自分が不甲斐ないだけなんだ、と非難した。
そして、クラスメイトにも教師にも偽りの笑顔を向けて、少しだけ背伸びした。
悲しみが伝わらないように、常に頭の中は楽しいことで埋め尽くしておいた。僕は、過去からずっと逃げ続けていた。何かを掴めるまでずっと。
くじけたら、そこで負けだと拳を握った。
いつしか僕は、自分に不都合なことはすべて忘れて、プラスになることだけを考えるようになった。
逃げているだけだとも思った。だがそれで、少しずつ、本当の笑顔を見つけていったのは事実だった。
悲しまない。それで救われる。
僕はいつまでも、孤独なんかじゃないんだ。
暗闇ばかりじゃなかった。必死でバイトをして、塾で勉強して・・・。そして、僕は始めて確かなものを掴んだ。感触のある、確かな笑顔が溢れた。
進学校に合格したことは、僕にとって大きなことだった。何かが変わる、そう思った。春が最高に眩しく見えた。高校生活の入り口は、桜が舞って、見たこともないくらい綺麗だった。
一旦、立ち止まろうと自分に言った。深呼吸しよう。立ち止まって。すぅっと、大きく息を吸い込む。
走り続けてきたね。よく、頑張ったね。
僕は生まれて始めて自分を褒めた。誰からも褒められなかった哀れな自分を、単純な言葉で褒めてやった。
救われた。
自然と涙が溢れて、止まらなかった。これから、もっと良くなっていく。そんな気がした。
そして、新しい下宿先へと向かう。ここから、始まるんだ。僕は荷物を抱えて、ちょっとだけ笑った。
そして入学式。清清しい気分だった。クラスメイトは真新しい顔ぶればかりで、同じ中学の奴といったら、二、三人しかいなかった。何とか、仲良くやっていけそうだった。
「同じクラスだね、よろしくね。」
高校に入って、始めて喋ったのは美鈴だった。中沢美鈴・・・。同じ中学で、同じ塾に通っていたのに、あまりしゃべったことはなかった。というのも、中学時代は女子とあんまり話したりしなかったからだ。しかも、美鈴とは三年間別々のクラスで、塾では僕が一番下のコースで、彼女はトップクラスのコースにいたから、あんまりしゃべることもなかった。
でも、美鈴は初めからフレンドリーに話かけてきてくれた。それが、新鮮だった。
中学の頃は気付かなかった美鈴の笑顔に、僕は心を奪われた。
溶け込めるかどうか不安な時期に、話かけてきてくれた美鈴の優しさに僕は恋をした。想いは次第に大きくなっていき、いつしか美鈴は僕の中で特別な存在になっていた。
授業中も、彼女のことが気になって仕方なかった。初めてのことだった。僕の人生が一瞬にして変わるような、美しい彩りに僕は酔った。心に余裕ができて、そこに入り込んできた恋という油断が、すべてを埋め尽くしていく。
明日が来るのが楽しみだった。美鈴と話すのが楽しみだった。
だけど、僕は話かけられなかった。
もどかしい。毎日はそんな純粋な感情で、新しい色彩を生んだ。
忙しくて、辛かった毎日を忘れさせてくれる日々がそこにはあった。失いたくない、毎日がそこにはあった。悩んだ倍、幸せになるかけがえのない毎日がそこにあった。
そしてあの雨の日、美鈴と付き合い始めた。
幸せが続いていく。その延長線上に浮かべた未来図に、偽りのない理想を描いた。どうしようもなく悩んだ日々が、幸せな思い出で塗り替えられていく。笑顔が本物になって、心にも花が咲いて、完成されていく人生がそこにはあった。
ちょっと遅いスタートだったけど、ようやく僕の人生が始まった。叫ぶよりも多く、僕は笑った。そうして、埋め尽くされていった。
ただ、そのギャップは大きすぎて、空回りすることも多かった。
僕が美鈴に求めたものは、普通の恋愛とは違っていたような気がする。その優しさに身を委ねすぎていたのかも知れない。あまりにも、好きだったせいで、美鈴との別れは怖かった。何もなくなってしまいそうで、怖かった。
美鈴に別れを切り出されてからずっと、僕はまた自分を非難し続けていた。
そんなある日のことだった。僕の下宿を、サキの母親が訪ねてきたのは。
高校に入って、二度目の春が過ぎようとしていた頃だった。
山城沙希・・・。
高校二年になって、同じクラスになった女の子だった。
初めは気付かなかったが、すぐに中学時代同じ塾だったことに気が付いた。
大人しく、おしとやかな雰囲気の漂う彼女は、その美しい容姿から男連中から心底好かれていた。
見ず知らずの女の人が尋ねてきて、初めは新聞の勧誘か何かだろうと思い追い返そうとしたが
「山城沙希の母です。」
という言葉がドア越しに聞こえたので、慌ててドアを開けた。僕の顔を見ると、深々とお辞儀をした。僕もつられて頭を下げる。
「突然伺って申し訳ありません。少しだけ、お話をしたいのですが・・・。」
真剣な顔をして、早口でサキの母親は言った。どこか切羽詰っている感じだった。その雰囲気に、何か深刻なことだろうな、と思い僕は彼女を家に上げた。
「ちらかってますけど・・・。」
といって頭を下げると
「いえ、お構いなく。」
と、同時に彼女も頭を下げた。僕は
「どうぞ・・・。」
と言って、机の前に座布団を敷いて手を差し出した。こんなちゃんとした客が家に来たことがないので、少しだけ戸惑った。
「どうも。」
そう言うと、ゆっくりと彼女は座った。同時に僕も向かい合って座る。何だか物凄く緊張した。何を言われるのか・・・。苦情・・・?サキに何かしたのか?考えても、全く身に覚えが無かった。
サキの母親は、喋りだしにくそうに下を向いていた。僕は
「一体、どうしたんですか?」
と、様子を伺いながら静かに言った。
「あの・・・、言いづらいことなのですが・・・。」
間を空けて、彼女は話し始めた。空気がいっそうピンと張り詰める。僕は緊張した面持ちで、正座をしてじっと次の言葉が出てくるのを待った。
「あの・・・。」
顔を上げて、サキの母親は真剣に言った。
「沙希と、付き合ってやっていただけませんか?」