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新・シュミのハバ

ついに、定期小説の更新スタート!!!
いつまで、続くのやら・・・。

透明人間、08

2008-03-11 00:38:34 | 連載小説
08

思い出したことがある。
いや、たぶん僕は全部思い出した。

記憶をゆっくり辿っていく・・・。
なぜ、美鈴が僕に別れを告げたのか、その理由が分からなかった。完璧なカップルになれたと思い込んでいたから。僕は戸惑った。
もうすぐ一年が経つ、春のある日のこと。彼女が僕に告げた別れは、あまりにも突然で、あまりにもあっさりしていた。
僕は頷くしかできなかった。すべての想いを封じ込めて、僕は力なく頷いた。秘密の恋愛が幕を閉じた。たった一本の糸で繋がっていた二人の関係は、いとも簡単に切れた。
別れを告げて去っていく美鈴は、どこか強がっているように見えた。
ただ去っていく彼女の背中が、すべての終わりを物語っていた。
美鈴は振り返ることなく、次第に見えなくなった。取り残された自分の存在だけが、無力感という冷たい風に吹かれ続けた。僕は自分に何度も言い聞かせた。仕方がない、僕らは正式なカップルじゃなかったのだから、と。自分を納得させて、心を落ち着かせて、ちょっとだけ泣いた。

空虚な世界に花は咲かない。桜の花びらは美しく咲き誇っているのに、心の桜は枯れてしまった。僕がろくに水をあげてなかったから、ひそかに、はかなく枯れていった。
きっと、これで良かったんだ。心で叫ぶ。
きっと、明日からも普通の学校生活は続く。普通に友達としゃべって、僕と美鈴はただのクラスメイトとして過ごしていくのだ。そこには誰からの同情もなく、何の変化もない。
僕と美鈴の交際が、次第に無意味になってく。
だってそれは、どこまでも透明な恋愛だったから。誰にも見守られることもなく、消えていってしまうだろう。

家に着いたら、悲しみが押し寄せてきた。もう、来ることはないと思っていた毎日がやってくる。
僕は美鈴との思い出をすべて捨てた。二人で撮った写真も、二人で描いた未来図も、全部捨てた。幻想にすがって行くのはやめようと決心した。普通の恋愛でなかったから、きっとすべて忘れられると思った。お互いに傷を残さず、静かに別れていく方法をきっと美鈴は知っていたのだろう。
心の底まで悲しみで埋め尽くして、そして苦しみが過ぎて。僕は美鈴がなぜ秘密にしておこうと言ったのか、少しだけ理解した気がした。

明日から、僕はすべてを捨てて、新しい気持ちで生きてゆこうと決めた。過去を振り返ったら、生きていけそうになかったから、前だけ見て生きていきたい。
僕は精一杯の平常心で、無理やり笑った。その時、気付いた。僕はあの頃の記憶だけじゃなく、笑い方も忘れていたことを。

僕の高校は県内でも上位の進学校だった。受験シーズンが近付き、クラス内には次第に緊迫した空気が漂ってきた。

中学の頃、僕は学習塾に通っていた。通うための資金は自分でバイトをして貯めた。深夜、コンビニでバイトをして、それから学校帰りには塾へ行く。そんな生活を送っていた。
大学に行きたかった。だから、もっと大学資金がいったし、進学校に通うために成績も常にトップにいなければならなかった。眩暈がするくらい、過酷な生活だった。でも、自分の境遇を不幸だとも、不運だとも思いたくなかったから、僕は精一杯頑張ってきた。
同級生と同じように、遊んで笑っていたかった。でも、僕の生活は青春という輝きの欠片もない、味気ないものだった。それらしい恋もしなかったし、休みに友達と遊ぶことも少なかった。誰の助けもない生活が、いつか普通のこととなって、他人をうらやむこともなくなった。何度か叫んでみたくもなったが、僕は必死でそんな思いを押さえ込んだ。暴れだしそうな両手をプライドという縄で縛って、毎日単調で忙しい日々を送った。
本当は友達と一緒に馬鹿みたいに騒いで、笑いたかった。忙しすぎて、周りが見えなくなっていた。優しいクラスメイトの言葉にも、僕は応えられなかった。僕の人生に優しさという言葉は不似合いだと、自分に言い聞かせていた。

僕の人生は、もっと愛のある美しいものになるはずだった。でも、僕が生まれた時、泣いている僕を優しく包み込む母の存在はなかった。
すべてを狂わしたのは、忌まわしく悲しいある一つの事故だった。
僕は、悲しみの中で生まれた。奇跡的に無事だった僕と、僕を残して死んでいった両親。何も知らず泣きながら生まれた僕は、居場所を失った。詳しくは知らないが、出産の日、病院に向かう途中の事故だったらしい。幸せの絶頂で襲った悲劇は、僕をこの世界に一人ぼっちにさせた。
母の想いは僕に届いただろうか。そして、この世界に生きていく意味を見つけられるだろうか。
僕の人生が、奇跡によって繋ぎ止められた崇高なものならば、僕は強く生きていかなくてはならない。ただ何度か、悲劇を恨むばかりで、前に進めなくなった時期もあった。だけど、僕はこの世界に生まれることができたことを幸せだと思った。きっといつか、本当の幸せが見つかると思っていたから。
どんなに苦しくても、僕は奇跡によって生かされ続けた。天国の両親を笑顔にさせるために、精一杯生きた。誤魔化しながら、僕は周りのみんなと同じような顔をして、笑いながら生きていた。きっと煌々と輝いているはずの未来だけを見つめながら。

両親を失った僕は、母の兄弟の家に預けられた。だが、そこに愛なんてなかった。笑顔も、喜びも、何もなかった。僕は邪魔者扱いされながら、孤独を抱えて生きてきた。
小学校に入学した時も、一人で生きていくと強がって家を飛び出した時も、義母は表情一つ変えず、笑うことも叱ることもしなかった。
僕は助けなんて必要ない、と何度も強がった。いや、僕は一人で生きてきたのだ。愛のない助けなんて、何の役にもたたない。両手を振りかざしても、溢れるまで涙を流しても、何も変わらないことが分かったから、僕は家を飛び出した。
明日が見えなくて、不安で仕方なかった。
死に物狂いで、涙を堪えた。
感情を置き去りにして、僕は生きようともがいた。

うまくいかない人生を恨むよりも、僕は自分を責めた。不幸なんかじゃない、自分が不甲斐ないだけなんだ、と非難した。
そして、クラスメイトにも教師にも偽りの笑顔を向けて、少しだけ背伸びした。
悲しみが伝わらないように、常に頭の中は楽しいことで埋め尽くしておいた。僕は、過去からずっと逃げ続けていた。何かを掴めるまでずっと。
くじけたら、そこで負けだと拳を握った。

いつしか僕は、自分に不都合なことはすべて忘れて、プラスになることだけを考えるようになった。
逃げているだけだとも思った。だがそれで、少しずつ、本当の笑顔を見つけていったのは事実だった。
悲しまない。それで救われる。
僕はいつまでも、孤独なんかじゃないんだ。
暗闇ばかりじゃなかった。必死でバイトをして、塾で勉強して・・・。そして、僕は始めて確かなものを掴んだ。感触のある、確かな笑顔が溢れた。

進学校に合格したことは、僕にとって大きなことだった。何かが変わる、そう思った。春が最高に眩しく見えた。高校生活の入り口は、桜が舞って、見たこともないくらい綺麗だった。
一旦、立ち止まろうと自分に言った。深呼吸しよう。立ち止まって。すぅっと、大きく息を吸い込む。
走り続けてきたね。よく、頑張ったね。
僕は生まれて始めて自分を褒めた。誰からも褒められなかった哀れな自分を、単純な言葉で褒めてやった。

救われた。

自然と涙が溢れて、止まらなかった。これから、もっと良くなっていく。そんな気がした。
そして、新しい下宿先へと向かう。ここから、始まるんだ。僕は荷物を抱えて、ちょっとだけ笑った。
そして入学式。清清しい気分だった。クラスメイトは真新しい顔ぶればかりで、同じ中学の奴といったら、二、三人しかいなかった。何とか、仲良くやっていけそうだった。
「同じクラスだね、よろしくね。」
高校に入って、始めて喋ったのは美鈴だった。中沢美鈴・・・。同じ中学で、同じ塾に通っていたのに、あまりしゃべったことはなかった。というのも、中学時代は女子とあんまり話したりしなかったからだ。しかも、美鈴とは三年間別々のクラスで、塾では僕が一番下のコースで、彼女はトップクラスのコースにいたから、あんまりしゃべることもなかった。
でも、美鈴は初めからフレンドリーに話かけてきてくれた。それが、新鮮だった。
中学の頃は気付かなかった美鈴の笑顔に、僕は心を奪われた。
溶け込めるかどうか不安な時期に、話かけてきてくれた美鈴の優しさに僕は恋をした。想いは次第に大きくなっていき、いつしか美鈴は僕の中で特別な存在になっていた。
授業中も、彼女のことが気になって仕方なかった。初めてのことだった。僕の人生が一瞬にして変わるような、美しい彩りに僕は酔った。心に余裕ができて、そこに入り込んできた恋という油断が、すべてを埋め尽くしていく。
明日が来るのが楽しみだった。美鈴と話すのが楽しみだった。
だけど、僕は話かけられなかった。
もどかしい。毎日はそんな純粋な感情で、新しい色彩を生んだ。
忙しくて、辛かった毎日を忘れさせてくれる日々がそこにはあった。失いたくない、毎日がそこにはあった。悩んだ倍、幸せになるかけがえのない毎日がそこにあった。

そしてあの雨の日、美鈴と付き合い始めた。
幸せが続いていく。その延長線上に浮かべた未来図に、偽りのない理想を描いた。どうしようもなく悩んだ日々が、幸せな思い出で塗り替えられていく。笑顔が本物になって、心にも花が咲いて、完成されていく人生がそこにはあった。
ちょっと遅いスタートだったけど、ようやく僕の人生が始まった。叫ぶよりも多く、僕は笑った。そうして、埋め尽くされていった。

ただ、そのギャップは大きすぎて、空回りすることも多かった。
僕が美鈴に求めたものは、普通の恋愛とは違っていたような気がする。その優しさに身を委ねすぎていたのかも知れない。あまりにも、好きだったせいで、美鈴との別れは怖かった。何もなくなってしまいそうで、怖かった。
美鈴に別れを切り出されてからずっと、僕はまた自分を非難し続けていた。

そんなある日のことだった。僕の下宿を、サキの母親が訪ねてきたのは。
高校に入って、二度目の春が過ぎようとしていた頃だった。
山城沙希・・・。
高校二年になって、同じクラスになった女の子だった。
初めは気付かなかったが、すぐに中学時代同じ塾だったことに気が付いた。
大人しく、おしとやかな雰囲気の漂う彼女は、その美しい容姿から男連中から心底好かれていた。

見ず知らずの女の人が尋ねてきて、初めは新聞の勧誘か何かだろうと思い追い返そうとしたが
「山城沙希の母です。」
という言葉がドア越しに聞こえたので、慌ててドアを開けた。僕の顔を見ると、深々とお辞儀をした。僕もつられて頭を下げる。
「突然伺って申し訳ありません。少しだけ、お話をしたいのですが・・・。」
真剣な顔をして、早口でサキの母親は言った。どこか切羽詰っている感じだった。その雰囲気に、何か深刻なことだろうな、と思い僕は彼女を家に上げた。
「ちらかってますけど・・・。」
といって頭を下げると
「いえ、お構いなく。」
と、同時に彼女も頭を下げた。僕は
「どうぞ・・・。」
と言って、机の前に座布団を敷いて手を差し出した。こんなちゃんとした客が家に来たことがないので、少しだけ戸惑った。
「どうも。」
そう言うと、ゆっくりと彼女は座った。同時に僕も向かい合って座る。何だか物凄く緊張した。何を言われるのか・・・。苦情・・・?サキに何かしたのか?考えても、全く身に覚えが無かった。
サキの母親は、喋りだしにくそうに下を向いていた。僕は
「一体、どうしたんですか?」
と、様子を伺いながら静かに言った。
「あの・・・、言いづらいことなのですが・・・。」
間を空けて、彼女は話し始めた。空気がいっそうピンと張り詰める。僕は緊張した面持ちで、正座をしてじっと次の言葉が出てくるのを待った。
「あの・・・。」
顔を上げて、サキの母親は真剣に言った。

「沙希と、付き合ってやっていただけませんか?」

透明人間、07

2008-03-04 14:25:55 | 連載小説
07

美鈴の背中はどこか寂しく、近くにいるのに何故か遠くに感じた。

初恋って言葉には不思議な重みがある。どこかほろ苦くて、甘酸っぱい。熟していない響きが、ちょっとだけ特別な魅力を持っている。
僕は痛いほど感じていた。記憶を失って、美鈴のことを忘れて、そして再び彼女に出会って・・・。僕はもう一度、美鈴に恋をしていた。無性に追いかけたくなった。僕には再び彼女を愛する資格はないだろうけど。それでも、僕は時間を戻して、純粋な恋愛をしたかった。
鼓動が高鳴って、苦しかった。あの日記の中の、彼女と付き合っていた頃に戻れたら、どれだけ幸せだろうと思った。遠くなっていく美鈴の背中を、僕は黙って静かに見ていた。ごめん。ぽつり、と一言つぶやく。誰にも届かない、小さな声で。何も言えない、何もできない自分が情けなかった。
夕日が落ちて、暗闇がやってきた。美鈴は静かに、暗闇の中へ消えていった。夜の教室の不気味な風が、心の隙間を通り抜けた。醒めても暗闇ならば、もういっそのこと夢の中に潜り込みたい。自分の存在さえも曖昧な、不確かな世界で生きていきたい。でも、まだ真実には辿り付けていない気がしていた。それはたぶん、僕が自分のことをまだ信じていたいからだろう。
いっそのこと、記憶が蘇なければいいとも思った。何もかも忘れたままで、美鈴の笑顔に素直に応えられるままで・・・。

次の日は朝から雲ひとつ無い晴天だった。ベランダから、遠くの空を眺める。恐ろしく早く過ぎ去る日々の中で、空を見上げる時間はなくなっていく。最近いろいろ慌しかったせいで、ゆっくりできる時間が少なかった。
空はいつもよりも美しく見えた。一種の芸術に入り込むように、心をからっぽにして空を眺める。窓から入り込む風が、頬に当たって気持ちいい。体を大きく伸ばして、目を見開いた。
心をなんて狭い空間に閉じ込めていたんだ、とちょっと反省した。世界はこんなに広いのに、なぜ息苦しさなんか感じてたんだ、と。
今日は不安や迷いも家に閉じ込めておいて、外に出ようと決めた。財布も何も持たず、僕は家を飛び出した。

狭い住宅街を抜けると、だだっ広い空き地に出た。奥の細い道は、その先の小さな山に繋がっていた。ちょっとした散歩気分で登れるような、小さな山だった。青い空に溶け合った美しい山は、僕の心をいっそう開放的にした。もやもやして薄汚かった体内の空気が、一瞬で入れ替わったかのような気持ちよさがあった。
僕は奥の道へと足を進めた。生い茂った雑草が少し進路を邪魔していたが、少し分け入ったらちょっとだけ道が広くなっていた。綺麗に手入れされた散歩のコースのようだった。慌しいオフィス街や、光が差し込まない住宅街とは、違った世界のように思えた。立ち止まって深呼吸すると、重い荷物を降ろしたような安堵感に満たされた。口笛が、いつもより澄んだ音色で響き渡る。綺麗だった、何よりも。ゆったりとした雰囲気が、心地よかった。
僕はゆっくりと時間をかけて山道を歩いた。小鳥の鳴き声の聞こえる木々や、野良犬の足音とかにいちいち反応しながら、何も考えずに進んだ。時々空を見上げて、何かスケールの大きな世界を思い浮かべた。大迫力のグランドキャニオン、草原を走るライオン、夜空に浮かぶ美しいオーロラ。想像は狭い箱に収まっていた僕の感情を、空に開放する。そして、すべてをポジティブな感情に変えてくれる。
長い道のりではなかったが、数万キロの草原を歩いたような、妙で馬鹿馬鹿しい達成感に満ち溢れていた。だんだん、頂上に近付いてきた。ボロッちい階段を駆け上がると、そこには小さな公園があった。公園といっても、古いブランコと、もう使えそうもない滑り台と、木でできたベンチが置いてあるだけだった。ベンチは街を一望できる場所に置いてあって、そこからの景色は綺麗だった。僕はベンチに座った。立ち並ぶ住宅街、オフィス街、駅、港・・・。すべてを真っ青に澄んだ空が覆いかぶさる。気持ちのいい風と、日差しに包まれた。
空を自由に羽ばたく鳥たちを目で追いかける。僕は固まった心をほぐすように、もう一度深呼吸した。大きく、大きく深呼吸した。心に余裕ができた気がした。逃げ場のない生活の中で、僕は生きていたんだなと実感する。
そういえば最近、カーテンを開けることもなかったな。何かを失うごとに、一つずつ閉めてしまった心のカーテンを、僕はゆっくりと開け放つ。カーテンのせいで僕は、自分しか見えてなかったんじゃないのか。窓の枠に座って、空を見ればもっと世界は美しくなるかも知れない。世界はこんなにも綺麗だった。

美鈴の笑顔が好きだった。
風に揺れて、さらりと流れる綺麗な髪も。
気が付けば口ずさんでいる、下手な流行の歌も。
思えば、美鈴には何もしてやれなかった。遊園地に連れて行ってあげたことも、映画館に二人で行ったこともなかったし、クリスマスのプレゼントさえも、渡せなかった。

記憶が戻ってきていることは、薄々感じていた。僕の足は自然とこの公園に向かっていたし、向かう先に美鈴といつも行っていた公園があることも分かっていた。
僕は高校の頃の記憶を完全に失ったわけではなかった。ただ、記憶をなくしたと思い込んでいただけなのだ。ただ、カーテンを閉めていただけだった。そのカーテンを開けてやれば、全部分かってしまう。でも、怖くて僕はカーテンを開けられなかった。
自分に正直になろうと、自分と真っ直ぐ向き合おうと、何度も決心したのに。頭の中は、「思い出してはいけない」、「忘れたままで生きていきたい」、そんな思いで一杯だった。だけど、僕は思い出してしまった。美鈴とまたあの時間に会ってしまったから。
僕は放課後の教室が好きだった。夜、誰もいなくなった教室が好きだった。その幻想的な雰囲気、だけじゃない。夜の教室で、いつも美鈴と待ち合わせしていたから。
不思議な関係だった。普通のカップルとは違う、僕らの関係を誰も知らなかった。
思い出した、二人でひそかに待ち合わせした夜の教室を。思い出した。僕は、美鈴と二人で行っていた公園にたどり着いて、すべてを思い出した。隣に誰もいないベンチが、妙に寂しく思えて。隣に美鈴がいたことを思い出して、そして、僕は素直に美鈴が好きだったことを・・・思い出していた。暗闇を取っ払って、狭い道から抜け出して。そして、心を解き放ったら、大事なことに気付いた。忘れちゃいけない、ことを。このままじゃ、いけないってことを。思い出した。

僕は、僕にかけた呪いを解き放とうとしていた。

記憶がぐるぐる回って、芯の折れたルーレットは一つの答えを指して止まる。逃げちゃいけない。もう一度、美鈴に恋して・・・、その気持ちが本物ならば。もう僕は、どこにも逃げられない。

時間が経つにつれて、景色ばかり見ていられなくなった。乱雑に浮かび上がった記憶を整理するのに、いっぱいいっぱいになった。僕は何度も深呼吸しながら、暴れだしそうな頭を鎮めていた。美鈴と二人で座っていたベンチに座り、僕は一つ一つを思い返しながら、落ち着いて物事を考えられるようになるまで待った。時は、ゆっくりと進んでいった。

「このことは、みんなには黙っておこう。」
そう言い出したのは美鈴の方だった。僕は、何だかみんなに隠れて付き合うなんてしたくなかったし、美鈴がそう言い出した理由が分からなかった。
二人で自転車の盗難届けを出しに行って以来、僕らは学校内で二人で行動することはなくなった。昼食を食べるのも、休み時間仲良く話すこともしなかった。
秘密の恋愛だった。クラスメイトに知られないように、密かに僕らは会った。授業中、付き合っているハズの美鈴との距離は遠く、光に照らされる彼女を片思いのようなもどかしい気持ちで見つめてた。
日曜日は決まっていつも、あの公園に行った。そして、朝は日が昇る前からいつもの公園で会った。美鈴は眠い目をこすりながら、いつも自転車で僕の家の前までやってくる。時間が経つと美鈴は自転車を走らせて学校に向かい、僕はいつも通り電車で学校に登校する。
放課後、部活動が終わってから、誰もいない教室で待ち合わせた。それもこれも、付き合っていることがばれない様にするためだった。

始めて二人であの公園に行ったとき、美鈴は僕に向かって人差し指を立てて言った。
「一年間だけ・・・。」
美鈴は、真剣な目をして僕に言った。
「一年間だけ、みんなに黙っていよう。」
僕は、その力強い言葉に押され気味だった。
「一年経って、お互いの嫌な所とかも分かって、完璧なカップルになれるまで、ね。」
悪戯な笑顔で、美鈴は言った。なんだか、無理やり説得された感じだったが、美鈴の真剣な目を見たら反対できなかった。
「じゃあ、まだ付き合うための免許を貰うための仮免許って、とこかな。」
僕は笑いながらつぶやいた。
「じゃ、仮カップルだ。」
くすっと静かに笑って、美鈴もつぶやく。そんな経緯で、僕らの仮カップルとしての生活が始まった。
夜と朝に二人で会う以外、今までの生活と変わらなかった。休みの日になると、美鈴は僕の家にやって来た。近くにいるのに、遠距離恋愛みたいだった。学校にいるときの僕らは遠く、休みの日にならなければ堂々と会えない。禁断の恋、秘密の恋。不思議な空間に二人の恋は浮かんでいた。ただそこに、純粋で真っ直ぐな愛があった。何もしなくても楽しくて、傍にいるだけで幸せな、温かい風が二人の間に流れていた。
初めは反対だった僕も、だんだんとこんな秘密の関係が好きになった。ちょっともどかしくて、ちょっと不安で。それでも愛に満ちた関係だった。こんな関係だからこそ二人でいれる時間が大切に思えたし、変わらない愛がそこにあった。
きっと、その先には幸せな未来が待っていると思っていた。二人で見た、美しい街の景色も。夜の静まり返った放課後の教室も。隠れて会った休日のひと時も。すべてを巻き込んで、完璧なカップルになっていくんだろうな、と思い込んでいた。秘密の恋愛って言葉が特別な響きとなって聞こえて。僕はどうしようもなく、幸せだった。

でも、すべては幻想だった。

思えば、何もしてやれなかった僕が、全部悪かったんだ。ありがとう、も言わず、ごめんばかり繰り返して。愛が次第に消え去っていくことに、僕は気付かなかった。

もうすぐ一年が経とうとしていたある日のことだった。
僕は、美鈴の気持ちに全く気付かなかった。僕は何も言い返せなかった。
そうか、そうだろうな。
僕らの恋愛は普通のものとはかけ離れていたから。
だからこそ、もっと大事にしなければならないことがあったんじゃないのかな。
僕は悔やんだ。
でも、遅かった。

「別れよう。」

一筋の涙を流して、美鈴は小さくつぶやいた。

透明人間、06

2008-03-01 15:17:58 | 連載小説
06

「好き」という気持ちは消えてしまうものなのだろうか。すべてをかけて愛した人を、忘れてしまうものなのだろうか。

忘れるということは、罪なことだ。或いは、忘れた理由が罪な事が故のことか。自分が忘れたい記憶を、故意に失っているのだとしたら、それは大きな罪だ。罰を与えられるべき、大きすぎる罪だ。

気付き始めてしまった。僕が記憶を失った本当の理由に。
僕が僕に仕掛けた罠に、気付き始めてしまった。

すべてが判明する。それは確信的だった。すべては僕の記憶が完全に蘇ったら分かる事だ。僕の記憶は、少しずつ、蘇りかけていた。
どうせ、すぐにバレることだったんだ。
日記に書いてあった二年前という出会いの日。しかし、クラスの半数が知っている。僕とサキが付き合い出したのは一年前だってこと。
あれから何度も日記を読み返した。僕の恋の相手が、サキじゃなく美鈴だと知ってから何度も。クラスのみんなが知ってるように、僕と付き合っていたのはサキだ。サキが死んで、僕はどん底まで墜ちて行ったに違いない。日記にも、そのことについては記されている。
“公園”という単語が出てこなくなったのは、一年前の日記からだった。そこまで学校帰りもデートするにもいつも行っていたらしい公園に、ある日記を境に全く行かなくなっているようだった。
つまり、二年前に美鈴と付き合いだして、そして一年後に美鈴と別れ、サキと付き合いだした、ということだろう。もしくは・・・。
嫌な想像が頭の中で膨らんだ。そんなハズはない、と僕は頭を振った。どっちにしても、僕はショックだった。何故、嘘を付くように名前を出さず同一人物であるかのように日記を記しているんだろう。純粋で一本道の恋だと思っていたのに。
僕は、僕自身に騙された気持ちで一杯だった。自分自身に無性に腹が立った。

その日、僕は気持ちを整理させるために、ちらかった部屋を掃除した。ここ最近、記憶を呼び戻すために部屋じゅう散らかしていろいろ探していたから、部屋はどんどん汚くなっていた。
そこで、また新たな自分の勘違いに気付くことになる。
日記は初めから最後まですべて同じペンで書かれてある。それは、ノートを見つけたときに、隣に置いてあった一本のペンで書かれていた。筆跡からしても、すべてそのペンで書かれているハズだ。
しかし、僕は見つけてしまった。
掃除をしていて見つけた一枚のレシートには、一本のペンと一冊のノートが購入されたことが表示されていた。紛れもない、日記を記したペンとノートだった。だが、そのレシートの日付は、僕が自殺しようとした当日のものであった。
すべては大きな勘違いだった。僕は彼女とデートを重ねる度に、日記を綴っていたのではなかったのだ。それは自殺する前に、すべてを書いた、いわゆる遺書だったのだ。
そう感づいたとき、ふと思った。もしかしたら、僕は死ぬ前に創り上げようとしていたのではないのか。美しくて、悲しいストーリーを。二年前の美鈴との出会いも、すべてサキとの出会いに変えようとしていたんじゃないのか。自分の中の辻褄を合わせるためにも。
でも、僕は書けなかったのだろう。どうしてもすべてをサキの名前に変えることができなかったのだろう。だからすべて“彼女”という言葉に変えて誤魔化したんだ。
細かくいろんなことが記された、奇妙な日記に込められた想い。僕は、胸が痛くなった。自分が嫌いになりそうだった。嘘を付いてまで、最後に自分のストーリーを美化したかったのか。どうしても、自分の行動に納得できなかった。もしかしたら、記憶が戻らないのは、自分がそんな過去の記憶を拒否しているからかも知れないな、と少し思った。

胸が詰まりそうだった。前に、僕は美鈴に何て苦しい質問をしたんだろう。
「どうして、僕が学校に行かなくなったのか、知ってる?」
何も考えず、僕は美鈴にそう尋ねた。その時の美鈴の反応が、僕の胸をいっそう痛めつける。
「サキが、死んでしまったから。」
涙を流して、そう応えた美鈴の表情を思い出す。どんな思いで、美鈴はそう応えたのだろう。どんな思いで、記憶をなくした僕を見ていたのだろう。美鈴の名前さえも忘れていた僕を、どんな思いで・・・。
苦しかった。過去になにがあったのか、はっきりと思い出せない。ただ、僕はきっと酷いことをしたんだということは、はっきりと分かった。美鈴の涙を思い返すたび、胸が焼けるように痛くなる。
どうして・・・?どうして・・・?
僕はどうして美鈴との思い出を変えてしまおうなんてしたのか。僕は日記に書かれてあったように純粋に、美鈴を、サキを愛していたのだろうか。
分からないまま、時は流れた。時計の針は何の変哲も無いまま、先へと進んだ。また。深い闇の中へ迷い込んだかのようだった。どうか、間違いであって欲しい。そうでなければ、僕は僕を許せそうにないから。

最後のチャイムが鳴り響いた。階段をゆっくりと上がる。教室に入ると、真っ暗だった。僕はそのまま闇に溶け込むように中へ入っていった。相変わらず、放課後の教室は幻想的だった。窓からグラウンドが見えた。野球部が必死に練習をしている。
そんな景色を眺めていると、急に教室が明るくなった。振り返ると、そこには美鈴が電気のスイッチに手をかけて立っていた。目が合うと、気まずそうにサッと視線を逸らした。
「何してるの?こんな時間に?」
先に話かけたのは美鈴の方だった。僕は、なんだか動揺してうまく喋れそうになかった。
「また、思い出してたの?」
僕の目を見ないで、美鈴は付け加える。
「・・・ああ。」
僕は静かに口を開いた。
それから沈黙が続いた。美鈴も、気まずそうに自分の席の横に突っ立っていた。
「あのさ・・・。」
僕は気まずい空気を一変するために、言葉を発した。
「この前はごめん・・・。」

「えっ・・・?」

僕は美鈴の目を見て、つぶやいた。
「ごめん。」
僕は心から叫んでいた。
ごめん、ごめん・・・。
何に対して謝っているのか、はっきりしないのに。でも、今しかないと心に言い聞かせて、必死に謝った。
「ごめん。」
僕は頭を上げて、美鈴を見た。悲しい美鈴の顔を予測していると、美鈴は笑っていた。口に手を当て、くすくすと笑っていた。何がそんなにおかしいのか分からずキョトンとしていると、美鈴は僕の目を見てしゃべり出した。
「ごめん・・・、ごめん・・・、って、いっつも亮輔君は言ってたよね。」
悪戯な少女の目で、美鈴は言った。そして、また笑った。美鈴は、机に座って僕を見た。
「亮輔君は、覚えてないと思うけど。」
そういいながら、あっという顔をした。
「あ・・・、記憶がなくなる前も覚えてなかったと思うんだけど。」
僕は窓の傍に立ったまま、彼女の目を見た。
「実は、私たち同じ幼稚園だったんだよ。」
夢中な顔で、美鈴は話した。
「実は・・・っていうか、ま、同じだったんだよね。」
その言葉を聞いて、もしかしたら記憶がなくなる前、僕と付き合っていた頃にも話したことのない話なのかもな、とちょっと思った。
「あの時、亮輔君、夢中でボール遊びしてて・・・。」

「もしかして・・・。」
僕は重ねるように声に出した。自然な声だった。
遠い幼い頃の記憶は、失ってなかった。みんなと比べると、比較的幼稚園のころの記憶もはっきりと覚えていた。

ポーン、ポーン・・・とはねるボール。名前はよく覚えてないけど、仲良し3人組で蹴ったり投げたりして遊んでた。
幼稚園の頃の記憶・・・。
ある日、僕は思いっきりボールを蹴った。足が痛くなるくらい思いっきり。すると、そのボールは歩いていた女の子にぶつかった。女の子が泣き出す。ワーン、ワーン。でかい声。僕は駆け寄る。そして、繰り返した。
「ごめん、ごめん・・・。」
何故かその記憶ははっきりしていた。美鈴は思い出し笑いを堪える様にしゃべり続けた。

「・・・でね、その日から毎日、ずっと私の顔見るたびに謝りに来るんだよ。」
くすくすと僕を見て美鈴は笑う。
「いっつも、ごめーん、ごめんっていいながら。」

「初めはうっとおしかったんだけど、だんだんおもしろくなってきた。」
昔を懐かしむように、美鈴は続ける。
「最後まで、ごめん、ごめん・・・って謝る男の子のこと、すっかり覚えちゃった。」

ごめん、ごめん・・・。
僕は名前も知らない女の子に、ずっと謝り続けた。いっつも無視されるから、むきになって、毎日彼女を探した。いつの日か、かくれんぼみたいになって、いつも僕は彼女を探してた。友達でもない、仲良しでもない、変な関係だった。
卒業の日。先生に挨拶して、みんなにも別れを告げた。5歳児ながら、生意気に幼稚園を名残惜しそうに眺めていた。帰ろうとしてると、例の女の子に会った。
「ごめん。」
元気よく僕は頭を下げた。最後だからおもいっきり頭を下げた。頭を上げてみると、女の子は笑っていた。くすくすと口に手を当てて笑っていた。
僕は何故か馬鹿にされたような気分になって、ふんと顔を逸らすと、生意気に歩いて行った。彼女の横を過ぎて、歩いて行った。すると、背後から彼女の声が大きく響いた。僕は思わず振り返った。
彼女は泣いていた。声を上げて泣いていた。ボールをぶつけられた日と同じくらい。わーわー泣いていた。

「何で泣いたのかはあんまり良く覚えてないけど、きっと、会えなくなるのが寂しかったんだろうね。」
しみじみと話す彼女は、終始笑っていた。僕もつられて笑顔になった。
「懐かしいな。」
そういって美鈴は遠くを見た。
「よく覚えてたね。」
僕は笑ったまま、言った。
「覚えてるよ。だって・・・。」
美鈴は机からぴょんと飛び降りた。がくん、と机が大きく揺れた。
「あれからね、幼稚園の頃の卒業アルバムを押入れから引っ張り出して、よく見てたんだよ。」
立って、僕の目を見て美鈴は言った。
「あぁ、コイツだぁ~って言いながらね。」
ふふふ、と彼女は笑う。
何だか、美鈴の喋り方は何となく癒された。そんなに心地よい声でも、うまい話し方でもないのに、何故か落ち着いた。美鈴といたら、きっと楽しいんだろうなぁ、と思わず思ってしまった。そして、はっとした。何を考えているんだ。そう心の中で言って、自分を叱った。
不思議と美鈴は何のためらいもなく、話かけてくれる。僕の記憶がなくなって、過去のことを全く思い出せていないと安心しているからなのだろうか。

難しい顔をしていたが、美鈴の悪戯な目を見たら表情の紐も解けた。
「コイツって。」
くすっと僕は笑った。

「覚えてるよ。」
美鈴はそう言いながらゆっくりと僕の方に近付いてきた。相変わらず、無邪気な目をしていた。
「だってね。」
少し僕と距離を取って、足を止めた。

「あの男の子は、私の初恋の人だもん。」

美鈴は照れ笑いを浮かべながら言った。そう言うと、くるっと僕に背を向けて、彼女はゆっくりと僕から遠ざかっていった。

透明人間、05

2008-03-01 14:46:19 | 連載小説
05

だだっ広い玄関に靴を放り投げて、健司はドタバタと階段を駆け上がった。中段ほどで立ち止まって、僕を手招きする。
「おじゃまします。」
と言って、軽く会釈しながら僕は健司に続いた。きっと何度も登ったことのあるはずの階段を、初めての感覚でゆっくり登る。未だにこの地を踏む両足は、ふわふわして仕方がない。目に映る真新しい景色が、奇妙で少し気味が悪い。夢で見た不思議な世界にいるみたいだ。
僕は果たして元に戻ることができるのだろうか。頭の中は、ちらかしっぱなしで片付いていない物置のように、乱雑に記憶が点在している。混乱しそうな頭の中を、ゆっくりと整理し始めていた。
健司は高校で一番仲の良かった友達らしい。というのも、中学時代の記憶はうっすら取り戻すことができたのだが、一番近い高校の記憶が全くといっていいほど思い出せない。医者が言うには、高校時代の記憶を自分が完全に頭からシャットアウトしてしまっているのだという。ぽっかりと開いた穴のように、その記憶はどこにも見当たらない。
最近の生活は、その記憶を呼び覚ますために昔からの友達に会ったり、みんなからの情報を元に、記憶を探る、そんな毎日だ。未だに、ピンとくる情報はない。きっと、仲が良かったという健司なら、何か大きな手がかりを教えてくれるはずだ。そう思って、健司の家に来た。

廊下の先に、彼の部屋はあった。男の部屋とは思えないほど、綺麗に整えられた部屋だった。
「何か、飲み物持ってくるよ。」
そう言って、彼は部屋を出た。僕は部屋を一瞥した。しかし、見覚えがない。すぐに、頭を抱え込むように俯いた。やはり、ここにも記憶を呼び覚ますきっかけはないのか・・・。
期待が大きかったせいか、僕は大きなため息をついた。落胆していると、健司がジュースを持って戻ってきた。彼は、ジュースを僕の前に置くと、机の上にあった写真を僕に見せた。クラスの全体写真のようだった。
「これが、サキだよ。」
健司が指差した先には、一人の女子が映っていた。山城沙希、僕が付き合っていたという女子がそこにいた。大人しそうだが、綺麗に整った顔をした彼女は一際目立っていた。写真の中の彼女の笑顔が、チクチク僕の胸を刺す。

サキは原因不明の病気だった。幼い頃から彼女を蝕んでいた病は、ついに彼女を死に追い遣った。僕が自殺しようとした、ほんの一ヶ月前のことだったらしい。サキの話は、担任や友達から聞いた。病弱な子だが、みんなに好かれるタイプの女の子だったらしい。その容姿と優しい性格から、同姓からも異性からも好かれるタイプだったらしい。
サキと僕が付き合っていたことは、クラスの大半が知っていて、僕が学校に行かなくなったことや記憶をなくしたことも、何故かと追求してくるクラスメイトは一人もいなかった。

サキ・・・。

名前さえも思い出せない僕は、酷い人間だ。そこまでショックだったのだろうか。記憶を閉じ込めてしまうぐらい。
そこにある、深い闇は想像もつかないほど痛々しい。手を繋いで二人で歩いたことも、二人で一緒に昼食を食べたことも、全部僕の日記から知ったことだが、あの日記を見て、僕がどれだけ彼女を愛していたのかを知った。記憶は失ったものの、不透明な彼女との生活は、大切でかけがえのないものに思えていた。
僕は記憶を無くしたことを罪だとは思っていなかった。心底大好きで、愛した人を失った。それをきっかけに自殺しようとして記憶を失った。絵に描いたようなストーリーじゃないか。残酷で、美しいそんなストーリーじゃないか。僕は完結したと思っていた。サキを愛して、その愛に溺れて、そして消えていった愛に涙した。
日記に記した最後の言葉、『彼女は死んだ。』僕は辛く悲しい純粋な気持ちで、その文字を綴ったはずだ。

しかし、その日、健司の話を聞いて・・・。
僕の記憶は・・・・。
サキとの記憶が・・・・。
大きくフラッシュバックした。

一言ですべてのストーリーは崩されてしまうことだってある。きっかけは簡単なことだ。まだ正しい記憶が戻っていない状態で、頭の中で作り上げていったストーリーは、真実のニセモノだ。自分の中で納得しようとしていたが、それは大きな間違いかもしれない。
彼女との記憶が綺麗さっぱり消え去ってしまっいるせいで、確かなことは何もなかった。

彼女のことをもっと知るために、僕は健司に日記のことを話した。一緒に学校帰りの道を歩いたこと、一緒に映画に行ったこと・・・綴られていた内容を淡々と話した。健司は何も言わず、ただ物悲しそうな顔をして聞いていた。そして、彼女と付き合いだしたきっかけについても。
雨の日・・・、
自転車・・・、
電車の中・・・。
日記に書かれてあったことをそのまま話した。それは、サキという女の子との素敵な出会いのはずだった。ただ、健司は腑に落ちない表情で、その話を聞いていた。健司から零れた一言は、僕の思考を混乱させた。
「サキは・・・、自転車通学じゃなかったハズだけどな。」
目を伏せながら、健司はつぶやいた。
「えっ・・・?」
驚きは表情を固め、僕の中の空気がとまった。
「サキの家はすぐ近くだからね。歩いて帰ってたハズだぞ。それに、サキは病弱だったから、自転車に乗ったことがないって言っていたような・・・。」
僕の中の完結したはずのストーリーが崩れそうで、僕は焦った。だんだん高鳴る胸の鼓動に戸惑いを隠しきれなくなっていた。

何だか、どっと疲れたな。そう思いながら僕は家までの道をとぼとぼ歩いた。話を整理するのが困難だった。健司の話をもう一度思い出した。現に、サキの家は学校の近くにあって、サキは徒歩通学なのだろう。じゃあ、あの日記に書かれていた彼女との話は何なのか。思考回路がパンクしそうだった。
薄暗くなってきた空から雨が降り出したせいもあって、僕は走って家に帰った。健司が知らないだけだろう。眠れないベッドの中で、僕はそう自分に言い聞かせた。そうやって、自分を納得させた。サキが自転車通学だったことを、健司が忘れてしまってるだけだろう、と。
自分を惑わせて、頭の中を整理させることが、どんどんうまくなっていた。そうでもいなければ、おかしくなってしまいそうだった。いっそのこと、新しい世界で生きていきたかった。亮輔という過去の自分の面影のない、真新しい世界で。
僕は、逃げ出したい気持ちを必死に押さえ込んでいた。いつまで続くのだろう。そう考えると、やはり不安でその日も眠れなかった。

次の日は月曜日で、学校があった。僕はもやもやした気持ちを抱えながら、登校した。だんだんと、クラスにも馴染めてきた。といっても、他のみんなは“亮輔”であったハズの自分と仲が良いだけで、今の自分と仲良くしてくれているワケではない。それが少し寂しかった。一刻も早く、記憶を取り戻したかった。
その日は健司と一緒に昼ごはんを食べた。サキのことも尋ねてきたが、僕がそのことに対して黙り込んでしまったため、健司もそれ以上、問い詰めてくることはなかった。
それよりも、健司は昨日学校で時計をなくしたらしく、そのことばかりを喋っていた。どうやら、結構大事な時計だったらしい。
昼食を済ますと、健司と僕は紛失盗難届けを提出しに、教官室へと立ち寄った。もちろん、健司の時計についての件で、だ。教官室は教員の数に対して狭く、入ると居心地が悪かった。僕は辺りを見渡した。
「なんだか、ここはぼんやりと覚えてる気がする。」
僕がそうつぶやくと、
「きっと、よく呼び出されていたからだよ。」
と健司が苦笑いを浮かべた。あいにく、担当の教員が電話をしていて、僕らは少しだけ待たされることとなった。
ふと、なんとなく僕は盗難届けの用紙に手を伸ばした。何も書かれていない用紙の横の箱に、過去に提出された盗難届けの用紙が入れられていた。そこには、様々なものの盗難届けがあった。健司と同じく時計やら、携帯電話やら・・・。
その時、ある事を思い出した。昨夜から、ずっと考え続けていることだ。サキ・・・。自転車・・・。

“「自転車、盗られちゃった。」くすくすと、手を口に当てて彼女は笑った。”

日記の一文を思い出した。あの日は・・・二年前。僕はおもむろに箱からすべての用紙を取り出した。底の深い箱で、その用紙の枚数はなかり多かった。
「おい・・・。」
僕の行動に驚いた様子で健司は僕を止めようとしたが、電話を終えた教師に呼ばれ、彼は教師の方を向いた。僕はその間も、ひたすら用紙を探っていた。一番下の用紙は色褪せていて、日付は今から四年前のものだった。
「もしかしたら・・・。」
僕は二年前のものと思われる盗難届けを、一枚一枚探っていった。物凄いスピードだった。あの日記の彼女との出会いが、嘘だなんて信じたくなかったから。ただただ、そこにサキの名前があることを祈った。腕時計、体育館シューズ、財布・・・。様々な盗難届けをめくっていった。そして、ふと僕は手を止めた。そこには聞き覚えのある名前があった。

名前、佐々木亮輔。

そうだ、それはまさしく自分の名前だ。
僕は、目を移した。紛失盗難物の欄には、大きく“傘”、と書かれてあった。「傘」僕は日記を思い出した。そうだ、あの時、僕は傘をなくしていたハズだ。そう日記に書かれていた。あの日、僕は傘を盗られて、結局職員の傘入れから傘を取っていたんだ。きっと、この盗難届けはその時のものに違いない。
「わざわざ、傘なんかに盗難届け出してたんだな。」
僕が手を止めて見ていると、健司は笑いながら言った。
その時だった。
一瞬のズキッとした痛みを伴って、何かを思い出した。完全に消えていた記憶の一つが、ぱっと頭に浮かんだ。すっと、映像になって思い出す。学校・・・、教官室・・・。僕は盗難届けを書いている。その横で誰かいる。一緒に盗難届けを書いている。はっきりしそうで、はっきりしない映像が浮かぶ。頭の内面から僕の思考を押さえつけるようにして、離れない。
そして思い出した。そうだ、僕は盗難届けをサキと二人で書いて、教官室に届けにきたんだ。僕は傘のことを書いて、サキはきっと自転車のことを書いたに違いない。その考えに行き着いた時、何故だか少しの安堵感があった。あの日記は嘘ではなかったんだ、という安堵感と、もう戻らないと思っていた記憶のかけらが戻りそうになったことの安堵感。もしかしたら、これからも少しずつ記憶を取り戻すかもしれない。
僕は二年前の盗難届けを握り締めたまま、ホッとしていた。健司は何だかワケが分からないといった様子で、僕を見ていた。僕は我に返って、盗難届けの用紙をめくった。次にはきっと、サキの盗難届けの用紙があるハズだ。期待を込めて、用紙に目を移した。

紛失盗難物、自転車。

可愛らしい文字で、はっきり書かれていた。やっぱり、と喜びの声を上げようとしたが、それは自然と驚きの声に変わった。そこに書かれている名前は、僕が思っていた人と全くの別人だったからだ。だが、その名前にも聞き覚えがあった。
「そんな、馬鹿な・・・。」
僕が驚きの声を上げたせいで、教官室にいたすべての人間の視線が僕に集まった。それはまた、健司も同じだった。

色褪せた盗難届けの用紙の名前の欄には、“中沢美鈴”と同じく可愛らしい文字で書かれていた。

透明人間、04

2008-02-16 17:07:01 | 連載小説
04

大好きだった。

放課後のピアノの音。夕日に染まる教室。くだらないことを日が暮れるまで語り合った、立ち入り禁止の屋上。
ちょっと寒くなってきた秋口の夕方、寂しさと切なさに押し潰されそうな夕方。電気の消えた廊下は、赤く光る非常灯がぽつりと目立って物悲しい。響いたチャイムの余韻が、伸びやかに胸に入り込んで、別の世界に入り込むような感覚が突然襲う。窓からは、授業中にぼっーと見ていた風景とはどこか違う、哀愁が漂う風景が広がっている。遠くにナイター用のライトが煌々と光って、綺麗だ。
時間が、不思議なほどにゆっくり流れた。邪魔するものは何もない。大切でかけがえのない時間を、僕は思い出していた。記憶が、美しく光を放った。僕は、涙が出るくらい切ない気持ちでいっぱいだった。

教室のドアを、静かに開ける。綺麗に整頓して配列された机と椅子。夕日の光が、教室全体を照らして、幻想的な世界が創り上げられている。カーテンが閉まっていないせいで、その世界は美しかった。
とぎれとぎれの記憶が蘇る。机に座って、語ったこと。好きな女の子の話、退屈な授業の話、みんなで行こうとしていた旅行の話、そしてこれからの自分たちのこと。終着駅が見えなかった。夢中で口々に喋って、笑って。終わりなんてくるはずがないと思っていた。
自然と顔を上げて見ていた夕日の美しさを、僕は思い出した。
ノートに書き出して並べたら、絶対恥ずかしくて見てられない台詞を僕らは言い合った。
リズムは一定で、ちょっと狂っている。このリズムで、僕たちは歩いていけるなんて勘違いしていた。誰も訂正しないのがいい。くだらないことも、全部必要だったね。何度かみんなで言い合った。忘れたら承知しない、なんて。きっと、忘れてしまうけど、それは合言葉だった。僕らが元に戻ったら、また口に出して笑えるように。掛けてしまった鍵を外すためのそんな合言葉。思い出す努力も何も必要ない。それだけは、自然と心から零れた。
将来を考え出した時期だった。必死で部活動に明け暮れた中学が終わって、高校生活も終わりに近付いてきたとき、やっと重い腰を上げるように考え始めた。僕もきっと考えていただろう。何かに追われるなんて、大嫌いだったけど、仕方がなかった。終わってしまう、という戸惑いが僕を焦らせていた。
誰もいなくて少し薄暗い、教室の机に座っていると、いろんなことを思い出した。教室の大きな窓は、編集された記憶の映像を映し出す巨大なスクリーンみたいに思えた。忘れちまった方がいいことと、思い出さなければいけないこと。人生はこの二つの記憶で埋め尽くされている。辿って来た道を心地よいスピードで逆走しながら、そこに置いてきた風景を浮かべる。目を閉じて、息を大きく吸って・・・。
ぽつぽつと思い出していた点と点を、僕は結ぼうとしていた。完成する絵は、一体何を僕に伝えるのだろう。友達と馬鹿をやった、くだらなくておかしい記憶は戻りつつあった。しかし、忘れちゃいけない大切な記憶を僕は全く思い出せない。かけらさえも、見つからなかった。
日が暮れた。教室が真っ暗になる。暗闇が包み込む。僕は、記憶の海に体を沈めた。

放課後、学校でいる時間が大好きだった。放課後、部活動をしている時間が大好きだった。家に帰りたくなかったから。そのうちみんな、自分の家に帰ってしまって、僕も家に帰らなければいけなくなる。誰もいない家に、僕は帰りたくなかった。静まり返った世界が、窮屈で仕方なかったんだ。だからずっと、僕は学校に残っていた。
誰もいなくなった学校の風景を、僕は鮮明に覚えている。明日になればきっと、また同じように学生で溢れかえる学校。同じ場所とは思えないほど、夜の学校はノスタルジックだ。使い捨てられた金属バッドみたいに、不恰好で危ない世界。何かを必死で考えていた。僕は、何かに迷って行き詰って、そして悩んでいた。そんな時間を思い出す。一体、自分は何に悩んでいたのか。

あの日記を思い出していた。彼女と過ごした時間が、はっきりと記されたあの日記。僕はすべてを彼女に捧げていた。そう、その日記には記されていた。幸福に満たされていた彼女との毎日。その記憶は、全く見当たらなかった。
『彼女は死んだ。』
その言葉が深い悲しみに僕を導く。完全に忘れてしまったに違いない。思い出したところで、そこには悲しみと苦しみしかないはずだ。だから、僕は思い出せないのだろう。そこには完全な鍵をかけてしまっているはずだから。
ただ、そこまで夢中で愛した彼女を、全く思い出せないことをもどかしく思った。本当にこれでいいのだろうか。思い出せないまま、これから生きていっていいのだろうか。彼女は、どんな気持ちで天国から僕を見ているんだろう。そう考えると、寂しくて仕方なかった。何ともいえない罪悪感が僕を苛む。
幸せそうな毎日が、淡々と綴られた日記・・・。学校が終わった後、二人で行った公園。家に帰りたくない僕と、夜中までずっと話してくれた彼女の姿。思い出したかった。幸せだった記憶を、取り戻したかった。そこに底の見えない悲しみが待ち受けていてもいい。それでも、彼女の優しさを思い出したかった。あの日記さえ見なければ、これから新しい人生を送れたかも知れない。だが、僕は見てしまった。彼女との幸せな日々を、僕は知ってしまったから。このままじゃいられない。真実を隠して生きるなんて、したくなかったから。僕は僕の人生に、嘘をついて生きていきたくなかったから。すべてを知ろう、そう決心したんだ。

時間の感覚がなくなってきた。そういえば、洗濯もしなくちゃならないし、食事の準備もしなければならない。現実的なことを感づいて、僕は目を覚ましたように立ち上がった。それ以上、何も思い出せそうもなかった。
その時だった。真っ暗な教室に、突然光が灯った。反射的に、僕は教室のドアを見た。そこには、クラスメイトと思われる女子が電気のスイッチに手を伸ばして立っていた。彼女は僕の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
「リョウスケ・・・くん?」
小さな声だったが、静まり返った教室には大きく響いた。そりゃ、驚くだろうな、と僕は思いながらドアの方へ歩き出した。
「えっ、と・・・。君は・・・?」
僕は頭を掻きながら、ぼんやりした声で言った。
「えっ・・・?そっか、本当に何も覚えてないんだね。」
その子の声は、少し残念そうに聞こえた。
「ごめん、何も覚えてない。」
久々に学校に登校して、一日みんなとしゃべって過ごしてみたものの、状況は何も変わらなかった。みんなはフレンドリーに話しかけてくるのだが、自分が何も思い出せないものだから、今日は一日中、自己紹介みたいな感じになってしまった。残念そうな顔なら何度もされた。きっと、かなり仲が良かったんだろうなと思われる男子にも、僕はそっけない態度しか取れなかった。時間がかかりそうだった。普通のことを思い出すだけでも。
「私は、中沢美鈴。・・・中学の時から一緒でしょ?思い出せない?」
美鈴・・・、という名前に少しだけ覚えがあった。中学時代からの友達のことは、少しずつ思い出していたから。よく家に遊びに行っていた奴のこととか、中学時代の担任のこととか・・・。ぼんやりと、一緒な中学だったことを思い出した。
「そういえば、そうだったような・・・。」
不安そうで情けない声で、僕は言った。
「酷いなぁ・・・。」
ため息を付いて、美鈴は教室の中を歩き出した。
「こんな時間にどうしたの?」
僕は、美鈴に尋ねた。くるっと振り向いて彼女は僕を見た。
「忘れ物を取りに来たのよ。亮輔君の方こそ、何してたの?」
自分のものらしき机に手を付いて、美鈴は言った。しゃべりながら机の中を探って、中からノートらしきものを取り出した。
「思い出してた。」
窓の外を眺めながら、僕は答えた。同時に、心配そうな目で美鈴は僕を見た。何か、重要なことを知ってるのかもしれないな、とその目を見て僕は思った。美鈴は中学から一緒で、きっと仲が悪かったわけでもなさそうだったから。その目は、迷ってるようにも見えた。本当のことを話そうか、話さないでおこうか、という迷いを隠しているような目だった。
「何か、思い出せた?」
ノートを両手で抱えて、美鈴は尋ねた。素直に見つめる彼女の目は、何か核心をつくかのように鋭く光っていた。
「いや・・・。」
美鈴より幾分深いため息をつきながら、僕は言った。
「思い出せたことといえば・・・。」
と、僕は続ける。
「放課後の教室が、好きだったってことくらいかな。」
僕はそう付け加えた。今、こうして放課後の教室にいることが、僕にとって心地よかった。素直に、なれるような場所のように思えた。気持ちを整理できる静かな時間。
美鈴は、不意に目を伏せた。そして、何も言わず足を踏み出す。かける言葉が見つからなかったのだろう。きっと、みんな気を使ってくれているんだろうな、と感じた。もしかしたら、美鈴は僕が自殺しようとしたことを知ってるのかもしれない。いや、きっと知っている。美鈴は何故か、僕を悲しそうな目で見つめていたから。
「早く、思い出せればいいね。」
そう言って、彼女は教室を出て行こうとした。僕の横をゆっくり通り過ぎた。僕は、机の上に置いてあったカバンを肩に掛けた。そして、教室を出て廊下を歩く彼女を追いかけた。
「ねぇ。」
僕は、前を歩く美鈴に声をかけた。
「何?」
美鈴は足を止めて、答える。
「聞きたいことがあるんだけど・・・?」
僕が言った。美鈴はその言葉を聞いて、振り返った。相変わらず、心配そうな表情をしていた。
「聞きたいこと・・・?」
美鈴は、首をかしげた。聞いていいのか、どうか迷ったが、僕は覚悟を決めた。何を聞かれるのか、美鈴は感づいた様子だった。
「どうして、僕が学校に行かなくなったのか、知ってる?」
僕は不登校になっていた。教師から聞いた。それは、いじめられていたわけでもなく、元から学校に行かなかったわけでもない。こんなことを聞いていいのか、分からなかった。不登校になって、僕は自殺しようとした。理由はほぼ分かっていた。
『彼女は死んだ。』
あの日記が、その答えだろう。美鈴もたぶん、クラスメイトはきっとほぼ全員知ってることだろう。美鈴は明らかに動揺した様子だった。言っていいのか、迷っていたのだろう。聞いたらいけないことを聞いてしまったな、と僕は後悔した。だが、美鈴は口を開いた。
「それは、きっと・・・。」
その後に続く言葉を発するべきかどうか、美鈴は迷っていた。ちょっとの沈黙が流れた。僕の覚悟は、強く全身を硬直させた。

「サキが、死んで・・・しまったから。」

ふと、彼女の目から大粒の涙が流れた。

透明人間、03

2008-02-12 03:20:49 | 連載小説
03

バラバラの魂が一つに収束していくように、ぼやけた視界はしだいにはっきりと実線になっていった。一気に襲ってきた痛みと、曖昧な思考の輪郭。考えれば考えるほど、遠ざかっていく。
その歯がゆさに眉を細めながら、僕は体を起こした。一瞬、真っ白になった後、ゆっくりと周囲の景色がはっきりと現れだした。
今、自分がいる場所が病院だと分かったのは、しばらくしてからだった。頭がうまく働かない。とにかく、考えることを頭が拒否していた。何とか頭の中を真っ白にしながら、僕は暴れだしそうな心を落ち着かせていた。
なぜ自分はここにいるのか、一体、何が起こったのか。何もかもが分からなかった。ただ自分にあるのは痛みだけだった。すべてをどこかに置き忘れてきたかのような、空っぽな感情に押しつぶされていた。裸のまま病院のベッドに座っているかのような、妙に恥ずかしくて不自然な感じ。静まり返った部屋が、不気味な前兆に満ちていた。しだいに、感情は恐怖に変わり、そして孤独な悲しみに変わった。すべてを失ってしまった、ということは何故か自然に分かった。そして、理由が分からない悲しみに、頭を抱えた。

何も変わらないまま、時間は流れた。どれくらい経ったのだろう。窓から見える空の色は、すっかり暗くなっていた。立ち上がることもせず、僕はずっと黙ってベッドに座っていた。
どれくらい、音のない世界に引き籠っていただろう。不意に、ドアを開ける音が室内に響き渡り、医者らしき男が部屋に入ってきた。彼の後ろには、二人の看護婦が付き添っていた。何故だろう、人と会うことが妙に懐かしく感じる。怖くて、怖くて、僕は男の顔をまともに見れずに、ただ俯いていた。嫌だ、自分が自分でなくなっていくことを知るのが。怖い、嫌だ、逃げたい。頭がパニックになりそうだった。自分の体が、コントロールできない。いったい、自分は誰なんだ。
男は、俺の横に立ち止まると、カルテらしき書類を広げた。そして、表情が一気に難しくなった。一気に緊張が僕を襲う。手が震えて、視界がぼやけた。混乱してぐるぐる回り続ける頭の中は、不確かな現実に満ち溢れた。
「佐々木亮輔さん・・・ですね。」
僕の目を鋭く見つめて、男は言った。
「佐々木・・・亮輔?」
弱々しく、情けない声を僕は出した。聞き覚えのない名前。ぼんやりとしゃべる僕を見て、男は目を細める。緊迫した雰囲気が、ぴりりと張り詰める。男はふぅ~、と一つ溜息をついた。
「何も、覚えてないんだね。」
低くて落ち着いた声を、男は発した。時間が止まったかのように、重苦しい。
「・・・・はい。」
届くか届かないかの狭間のような声で、僕は答えた。小さな声は、重みを増して部屋に響き渡る。
僕は記憶を失った。何故こうなったのか、全く分からないまま。
自分が誰だか分らない恐怖・・・。それは絶対孤独の世界。同情の目が、僕の胸を突き刺した。僕は、一体・・・。

病院での生活は、ふわふわした感覚に惑わされていた。鏡に映る自分も、何かを必死で考えようとしている自分も、全く持って無意味に感じた。それは、記憶があまりにも真っ白だったからだ。病院の長く静かな廊下を、とぼとぼと歩く。
「落ち着いて、自分に素直になったとき、きっと記憶は元に戻るはずだよ。」
優しい言葉が、僕の心を撫でる。でも、相変わらず不安だ。無くしてしまった記憶の中に、絶対に知ってはいけない秘密が、隠されているように思えたから。根拠はないが、すべてが禁断の扉みたいに思える。叩いても、誰も答えてくれない。その扉の向こうには、一体何があるのか。

何も前に進まないまま、月日は流れた。感触は何も変わらない。どうすることもできず、僕は病院を後にした。
「きっと、そのうち思い出すはずだよ。馴染んだ景色を見たら、きっとね。」
優しい言葉さえも、無責任なものに聞こえてしまう。自分の人格さえも、変わってしまっていそうだ。
どうしようもない悲しみは、一筋の涙となって頬を伝った。過去の自分を見つけることが、こんなにも難しいことなんて。真っ直ぐ続いていくはずの道が、大きく歪曲して、そして人生を大きく狂わした。何が原因で、何が現実で、そして何を僕に伝えようとしているのだろう。
ぼんやりと見え始めていた記憶の中に、真っ黒で全く変わりそうもない闇の部分があった。そこには一体、何があるのか。僕はきっと、故意に忘れてしまったのだろう。すべてのことを投げ出して、僕は僕に嘘をついている。
戦わなければならない、自分と。
しかし、家へと向かう道の途中、僕は考えていた。それは、僕が不幸にも知ってしまったことについてだ。僕の胸に大きく残った傷の原因・・・。それは、僕が自殺しようとしたときに残ってしまったものだということを。

僕は一人暮らしだった。というのも、僕には両親がいなかった。これは、元々記憶を失った後、医者から聞いたことだった。しかし、何日か入院しているうちに細かい記憶は戻ってきた。僕の一人暮らしでの生活についてや、昔、両親が死んだことも。だが、肝心な部分が思い出せない。医者から学校に通学できるぐらい記憶を回復したと判断されても、その部分がはっきりすることはなかった。
僕がなぜ自殺しようとして、僕がどんな学校生活を送っていたのか。全く思い出せない。友達の顔も名前も、まだまだ思い出すことができなかった。それが不安だった。僕は元通りの生活を取り戻せるのだろうか。一体、自分にはどんな友達が居て、どんな奴としてクラスメイトから認識されているのか。検討もつかなかった。戦場に、武器一つ持たず乗り込む兵士の気分だった。学校に行くことが、恐くて仕方なかった。
家に着いた。そこは、小さなアパートで、そこの202号室は、きっと僕が入院する前のままなんだろうなと思えるくらいちらかっていた。僕は記憶を探るために、家の中のものを物色し始めた。料理の材料を書いた小さなメモ書き、学校での予定を記したスケジュール帳、何度も読み返したであろう漫画本・・・。手に取ったものを何度も見返した。
数時間たって、僕は勉強机に手を伸ばした。そして、一番最初に目に付いたのは、机の上に丁寧に置かれた、一冊のノートだった。どこにでもあるような、キャンパスノートだった。しかし、妙にそのノートは頭を刺激した。
ノートに手を伸ばそうとした瞬間、急な痛みが頭を襲った。ズキズキと頭を刺激し、そしてしだいに心臓の鼓動が早くなった。僕は耐え切れずに、頭を抱えその場に体を沈めた。ピカっと、フラッシュのように部屋中が光る。目がチカチカして、気持ち悪い。吐き気と、頭痛が一気に流れ出した滝のように激しく襲う。
僕は目を閉じた。記憶が、頭を激しく揺らしていた。拒否しているんだな、と僕は気付いた。きっと、そのノートを読むな、と体が拒否しているんだと僕は感づいた。
目の前がフラッシュしたとき、頭の中にノートを必死で書いている自分の姿が見えた。きっと、それは僕が自殺しようとする前に書いたものに違いない。あの時、僕は死に物狂いに何かを綴っていた。すべてを犠牲にしてまで、書きたいことがあったハズだ。人生に幕を降ろしてしまう前に、書かなければいけないことが。
無残にも生き残ってしまった僕が、その記憶を拒否しようとしている。僕はそれに必死で抵抗した。逆らわなければ、真実は見えないと思ったからだった。本当のことを知りたかった。僕が何かに傷つき、そしてそれを絶対に思い出したくないと思っているのだとしても、真実を知りたかった。
きっと、僕は後悔するだろう。死んでまで忘れようとしたことなのだ。なぜ、思い出したんだろうと後悔するに違いない。しかし、自分は新しい自分になんてなれない。死ぬ、だなんて逃げてるだけだ。過去と向かい合う覚悟はできた。僕は、知らなければならない。

大きく深呼吸して、痛みが過ぎ去るのを待った。永遠のような時間を、汗を流しながら耐えた。戦いは始まっている。僕が僕であるために、本当のことを知ろう。少しずつ、曖昧に痛みは姿を消していった。ゆっくり、僕は立ち上がる。そして、ノートに手をかけた。強情だった葛藤は解けて、KO負けしたボクサーみたいに心の傍らに腰を下ろした。僕はゆっくりとノートを開く。禁断の扉をこじ開けるように強引に、そして覚悟を決めた。

『彼女と付き合いだしたのは、ちょうど2年ほど前だ。』

ノートの初めの一行は、そう綴られていた。それは、日記だった。そこには、彼女と過ごした日々のことがびっしりと書かれてあった。始めてのデート、買い物、クリスマス・・・。淡々と綴られたノートには、いかに彼女との生活が楽しくて、いかに幸せだったのかがこと細かく書かれてあった。
読み進めていくうちに、おかしなことに気付いた。肝心の彼女の名前が、そこには一切書かれてなかった。その日記に出てくるのは、“彼女”と“僕”だけで、自分の名前も彼女の名前も全く書かれていなかった。そして、彼女とのこと以外、学校での出来事や自分の一人暮らしのことも一切書かれてなかった。そこが、妙に気になって仕方なかった。
僕は、食い入るように日記を読んだ。どんどん読み進めていくうちに、ページはあと僅かになった。戻りそうで戻らない記憶に苛立ちながらも、丁寧に読んでいく。
最後の一ページ・・・。僕は息が止まりそうになった。それは、あまりにも唐突な最後だった。ドクン、と心臓が大きく鼓動した。
『彼女は死んだ。』
日記の最後の一行には、そう記されていた。黒いペンではっきりと記されたその文字が、悲しく浮き上がった。力なく、僕は床に倒れこんだ。
『彼女は死んだ。』
頭に、その文字がこびり付く。現実離れした世界に遭遇したみたいに、不鮮明な感情が血液を流れた。全身に染み渡る。
現実を知るということは、もう一度悲しみに苦しむことだった。姿を隠した過去の自分が、ちょっとだけ姿を現した。泣いているかのような顔で、じっと僕を見ていた。
日が暮れて、そして暗闇が来る。明日を生きることがつらかったね。光を失って、心の中に永遠の暗闇がやって来て。
僕は生きる意味を失ったはずだった。だけど、何もかも忘れて、それでまた新しい人生を送るつもりだった。何故、僕はこのノートを机の上に置いたまま、死のうとしたのか。一体、誰にこのノートを読んで欲しかったのか。疑問が、また僕を悩ませる。一つの現実を知って、また僕は、何があったのか、はっきりと知りたくなった。

真実は、まだ黒いベールで包まれている。

透明人間、02

2008-02-09 01:25:13 | 連載小説
02

手を繋ぐと、世界が変わった。いつも見ていた世界が、いつもと違って見えた。それは隣に彼女が居たからだ。その公園のベンチからは、街全体を見渡すことができる。近くでは慌しく見えていたオフィス街も、通学路も、ここからだと静まり返って見えるね。そういって、微笑んだ。ボロボロの木でできたベンチは、笑うたびに小さく揺れた。
静かな公園とは対照的に、胸騒ぎが僕をくすぐってもどかしい。木の葉を吹き飛ばす悪戯な風が、頬に当たって冷たかった。僕にふれた風は、彼女の髪を揺らし、どこか遠くへ飛んでいった。何故だか妙にくすぐったい気持ちになって、僕は口に手を当てて笑った。
「何がおかしいの?」
と、不思議そうな声を彼女が出した。風が運んだ小さな幸せは、僕の背後でゲラゲラ笑った。ラララを繰り返す。声に出さずにラララと歌う。幸せが溢れていた。僕の中に、声にならない歌が溢れていた。ふと見ると、彼女も笑っていた。糸電話の糸みたいな、心の糸を通して伝わっていたのは僕の声。いつしか僕らは歌ってた。黙っていても、聞こえてた。二人だけに聞こえる歌。
小さくてボロッちいベンチの上で、僕ら日が暮れるまでじっとしてた。愛に溢れた無音の歌を歌いながら。ただ空と、空に重なる彼女を見ていた。じっと、何の展開のない、そんな映画を観ているみたいだった。みんな、くだらないって批判する、僕らにしか分からない秘密の映画。そんな映画を特等席で。
スクリーンはいつの間にか夕日に染まって、クライマックスを彩る。僕らは飽きもせず、遠くの空を見つめている。夕日の光を浴びながら、僕らは静かにキスをした。小さなベンチがまた、小さく揺れた。二人の中に流れる歌に、綺麗な景色が重なって、映画のクライマックスは美しくスクリーンに映える。彼女の茶色がかった髪が、さらりと流れた。僕は彼女の手を取る。世界は相変わらず、深みを帯びた色彩に溢れていた。
「そろそろ、帰ろっか?」
両手を繋いで彼女に聞く。
風が冷たくなってきたな、と頬に風を受け思った。日は落ちて、街灯が灯り、二人の世界をぽっと照らした。じっと、僕の目を見つめる彼女は、小さくコクンと頷いた。再び、彼女の右手を繋いで、僕はゆっくりと歩き出した。

繰り返すことに、ただ一握りの意味しかなかった毎日に、美しく色艶やかな理由を描いてくれた。ありがとう、を彼女に連呼した。心の糸を通じて、届いているだろうか。僕と彼女は繋がってるのだろうか。ありがとう、ありがとう。お礼なんて、何度言っても足りないだろう。だから、いつも心の中で叫んでた。届いてるなんて、証拠もなかったけど。ただ、僕らは繋がっている。ずっと、そう思ってた。

「ありがとう。」なんて、言葉に出すことくらい簡単だったね。

なのに何で、僕は勘違いしてしまったのだろう。心の糸なんて、僕は自分勝手に作り上げて。その糸を通して、何もかも分かり合ってるなんて思ってた。一握りの意味で良かった。それ以上なんて求めて、そして失う怖さを、僕は考えたこともなかった。だから、僕は崩れていったんだ。もう戻ることもできない海底の奥底まで、僕は墜ちて行った。
「ありがとう。」さえ、言葉にしていれば、もっと彼女に愛が伝わってたのかも知れない。“いつか”、じゃ遅すぎたんだね。幸せだったなんて、彼女に伝えずに、なぜ心の中で言ってたんだろう。ごめん、は言わない。だから、ありがとう、と言わせて。あの時のように、連呼するから。だから、もう一度だけ、傍に来てくれ。僕は、もう、この深い霧に紛れて、そして迷い込んで、出れそうにないんだ。

涙はいつか枯れるよ。でも、君の人生は続いてく。だから、もう泣くなんて、やめにしようよ。きっと、まだ戦いは続くから。
心を落ち着かせることが、悲しみを消すことには繋がらない。ただ、自分を惑わして壊れないようにバランスを取っているだけだ。彼女がすべてだったから、僕には何もなくなった。すべてを捧げて、自分自身を放り出してまで、彼女を欲した。
一生、このままだって約束した。そして、僕はそれを信じた。愛って言葉で、埋め尽くしたノートを、突然の火事が襲った。もうめくることのできない、彼女との新しいページを、僕は涙で濡らしてしまった。
思えば、僕には何もなかったね。彼女以外に、生きる意味はなかったんだね。何の取り得もない、愚かな自分に光を与えてくれたんだ。彼女の存在は絶対だった。彼女の存在は、僕の中で大きくなりすぎていた。僕はどうやって歩いていたんだろう。彼女を知らない世界を、僕はどうやって生きてたんだろう。思い出せない・・・いや、思い出したくない。僕は誰も、自分さえも愛せない駄目な人間だった。命に振り回されて、ぎこちなくなった歩き方で、ふらつきながら歩いていた。

愛のない世界に生まれた。僕は、夢も希望も覆い隠された世界で、誰にも見守られずに育った。もう、僕が生まれる前から壊れてたんだろう。ただ、笑って欲しかったな。泣きながら生まれた僕を見て、笑って欲しかったな。
いつか、本当の優しさを僕に教えて欲しかった。でも、いつも僕に背を向けてた。両親の愛を知らない僕にとって世界は、ただただ暗く、無意味だった。だから、彼女に出会ったとき、彼女の優しさにふれた時、僕の中で世界に明かりが灯った。心臓が急に鼓動を打ち出し、命を与えられた。恋の始まりは、僕の人生のスタートだった。普通の恋愛みたいに、君を愛したかったのに、きっと僕はそれ以上を君に求めてしまった。あるがままに、君の好きなものにふれて、なすがままに、君を抱きしめていれば、こんなに辛くなかったのに。また、暗闇がやってきた。振り出しに戻ってしまった。もう、これ以上進めない。
プツ、プツ、と、煙を上げて壊れた機械のような怪しい音が、頭に響いた。途切れて、そして消えた。君との別れは、矢を心臓に受けた愛のおわりの血の弓だ。生きていても、矢を刺したまま。痛みを受けて生きている。

悪戯な笑顔で走る彼女を、風を受けながら追いかけてく。街の外れの田舎じみた道を駆ける。僕の表情をちらっと伺いながら、満面の笑顔で走っていく君が可愛かった。一年たったその時でも、僕はまだ彼女に恋をしてた。しだいに彼女の走るスピードが落ちて行く。風になびく長い髪を、さらっと流して彼女は足を止めた。
僕は、ようやく彼女に追いつく。息を切らす彼女を、僕は初々しい、まだ何も知らないカップルのような、不器用な速度で抱きしめた。火照った体のすべてを奪いつくすまでずっと、抱きしめていた。彼女が思わず笑っても、僕は真剣な顔でぎゅっと抱きしめた。
ふと軽い手品の罠にかけるように、彼女は僕から離れた。僕に向かい合って、彼女はふふふ、と笑う。僕はもどかしくも、つられて、はははと笑う。
「今日は、何をして遊ぼっか?」
笑顔で彼女は言う。無邪気さが、彼女の武器だ。綺麗にのどかな風景に彼女は溶け込んでいた。僕は、名画と向かい合うみたいに、彼女を見つめた。
光だった、君はきっと。僕は君に照らされて、こうして生きているんだね。
永遠に輝き続ける君を、僕は追いかけて生きていきたかった。

いつもの独特な空気の中、僕は彼女に近寄る。目と目が合う。彼女の笑顔に、不安が解ける。唇が重なって、愛は今日も二人を包む。キスする瞬間、あの日に戻る。僕が君に、君が僕に愛を告げたあの日に。今日は珍しく、彼女が僕の手を取って歩き出した。僕は、慣れない歩幅で彼女に着いて行く。
「笑わないで、聞いてね。」
そう言う彼女が笑ってたから、僕も思わず笑った。
「笑わないで、ってば。」
目を大きく開けて、彼女は言う。
「笑わないよ。」
適度に誠実な目で、それに答える。
「あのね・・・。」
ぴょん、と彼女が僕と距離を置く。そして、僕の目を見ながら、口に手を当てて笑った。
「私、消えれるんだよ。」
僕に聞こえるように、大きな声で彼女が言った。
「え・・・?なに、それ。」
半分笑って僕は言った。
「笑わないでって、いったでしょ~。」
彼女がふくれながら言う。悪戯好きの子供みたいに、はしゃいだ口調で、彼女は続ける。
「実はね、私、透明人間になれるんだよ。」
目の横に皺を作って、笑う彼女が愛おしい。僕は突然のとんでもない彼女の台詞に、ちょっと驚き混じりに笑った。冗談を言わない彼女からこぼれた、その言葉が奇妙だった。
「へ~、そうなんだ。」
笑い混じりの言葉を返す。
「何それ~、信じてないでしょ~。」
彼女は胸を膨らませてツンとする。
「え・・・、信じてるよ。」
彼女に近付きながら、僕は笑った。
「見てなさいよ、そのうち気付くから。」
にやにやしながら、彼女は僕に背を向ける。僕は彼女の背中を追いかけた。透明人間か・・・。何でそんなことを言い出したのか、僕にはさっぱり分からなかった。
子供みたいに笑う彼女の、瞳がすごく純粋だった。きっと、本当に透明人間になれるんだろうな。なんて一瞬思って、彼女の手を取り歩き出した。
一瞬、ほんの一瞬だけ。彼女の顔を見たとき、違って見えた。それは、笑顔じゃなく、少し悲しい顔だった気がした。でも、すぐに笑顔に戻った。その時は、あまり気に留めなかった。それは、彼女が僕に見せた最初で最後の油断だったんだ。不安を押し殺してまで、僕に笑顔を見せ続けてくれた彼女の、唯一の・・・。

僕は気付くことができなかった。僕は僕自身の幸せに、溺れてしまっていたから。溺愛の海に、僕は彼女のすべてがあるのだと思い込んでいたから。

彼女が消えた。僕の傍から。学校の教室から。いつもの公園から。彼女の住む街から。彼女はいなくなった。誰にも言わずに、彼女はどこかへ消えてしまった。その日から、彼女の家に電気が灯ることはなくなった。僕は、どうすることもできなかった。
急な出来事に、不安も絶望も感じずに、感触のない空虚感に心を奪われた。彼女は、僕に、何を伝えようとしたのか。
僕の中の彼女は、いつも笑顔で、元気で。だけど、僕は分かってなかった。不安で、怖くて、苦しくて、どうしようもなかった彼女の本当の気持ちを。
愛は、飾りたくなるほど美しく、そして時に残酷だ。

彼女は死んだ。

僕に何も告げずに。愛を振り撒いて。優しい言葉で僕を包んで。彼女は、永遠に僕の前から姿を消した。愛が、溢れていた。そんな愛を、僕は受け止められなかったね。

時々、僕は彼女は実は死んでなんかいないんじゃないのか、と考える。きっと、待ってれば、ぽっと現れて笑いかけてくれるような気がする。僕は、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。呪文のように繰り返す。

「実はね、私、透明人間になれるんだよ。」

透明人間、01

2008-02-07 22:30:04 | 連載小説
【透明人間】

01

教室に差し込む光は、彼女の頬を照らす。その光が反射して、午後の静まり返った教室は明るく、爽やかな空気に包まれる。僕の中で生まれる世界が、頭の中で弾けた。道なき道を素足で歩く感覚。歩き心地の悪い、ふわふわした廊下に立っている錯覚。それは恋だった。僕の目に映る世界を、一気に変えてしまう魔力を持つ。それは、事件でもあり、小さな奇跡でもあった。
夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。

PM、5時ちょうど。下校のチャイムが学校全体に響き渡った。ばたばたと教室を出て行く友人たちをよそ目に、僕は静かな教室で時が過ぎるのを待った。時間がたち、ついには教室がからっぽになった。いっそう静まり返る教室。遠くで聞こえるしゃべり声は、少しずつ小さくなっていき、聞こえなくなった。
金曜日の放課後の学校は、終焉の地のような空虚で空ろな雰囲気が漂う。一週間という区切りの端で、一人寂しく今日というスクリーンから見切れる。枠に収まりきれない自分が、情けなくもあり、愛くるしくもあった。
どれくらい自分を愛せたら、この人生がもっと楽しくなるのだろうか。きっと、いくら満ち足りた世界にだって無いものを、きっと誰もが持ってるはずだ。それを現実の世界に持ち込むツールは一つ。ただ、どうしようもなく自分を、そして誰かを愛すること。ただ、それだけ。僕は、どうしようもなく自分を嫌っていた。傷とか、そういった類の言葉で表すならば、誰にだってできる。だけど、前に進めない、勇気を持てない。命はいつだって、中途半端で格好の悪い意地で繋がっている。

彼女と付き合い出したのは、ちょうど2年ほど前だ。僕が高校に入学して、半年もたたないある日のことだった。
それは突然だった。僕は、一瞬で彼女の不思議な魅力に取り付かれ、そして離れられなくなっていた。きっと、一目惚れだったに違いない。その恋は、退屈な毎日を一瞬にして色のあるものに変えてしまった。窓から見える世界よりもはるかに、彼女の居る教室は美しく華やかなものに変わっていった。ただし、彼女に告白する勇気なんて全く出なかったし、ただ平凡な毎日を送るだけの自分の生活を変えられる術なんて全くなかった。同じクラスの彼女の席が、どうしようもなく遠くて、近付こうとしても無理だった。優しい言葉をかけようと、必死に彼女に話しかけた。だが、距離は縮まらなかった。
劇的なことが必要だったのだろう。平凡な毎日とは違う、何か劇的なものが。雨の日の雷のような、衝撃的でロマンチックな何かが。ムズムズと胸に溜め込んでいた苛立ち。気持ちは平凡な毎日を、少しずつ狂わしていく。
自分が気付かないうちに、小さな奇跡が背中を押した。僕は、ものすごく鈍感だった。奇跡は、すぐ傍まで迫っていたのに。

雨はきっと、奇跡の粒だ。

物語はページを進める。雨に濡れた教室の屋根から、大粒の雨が舞い落ちる。「冷たい。」ふと零れた言葉に、誰かが笑った。振り返ると、彼女が笑っていた。胸の鼓動が急に高鳴った。その日の雨は、急に降り出したワケでもなかったので、僕は傘を持っていた。だが、彼女の手には傘が握られてなかった。ドラマみたいな展開を期待した。ドラマよりドラマチックな展開が待ち受けているような予感に、包まれていた。
「傘は?盗られた?」
短い台詞で、緊張を解く。彼女は一瞬、きょとんとして、目を見開いて、そして笑った。
「自転車、盗られちゃった。」
くすくすと、手を口に当てて彼女は笑った。
「何それ、笑えないよ。」
心配そうな声で、それに答える。もうみんなすっかり帰ってしまったのに、彼女が残っていた理由が判明した。ずっとどこかへ行ってしまった自転車を探していたのだ。そんなバカな、ね。だってそうだ。僕も、誰かに盗られた傘を探していてこんな時間まで学校に残ってたのだから。
結局、職員の傘入れにあった傘を取ってきたワケで、それで僕は今傘を持ってる。もしかしたら、奇跡かもしれない。なんてことを考える余裕は一切なかったけど、今日がちょっと特別な日かも、とかそんな喜びが少し頭をよぎる。僕は傘を盗んだ誰かさんにちょっとだけ感謝しながら、傘を広げて手招きした。
「一緒に帰ろうよ。」

籠に入れてあったカッパごと盗まれていたせいで、僕の隣には彼女が居た。歩幅を縮めながらゆっくり彼女に合わせて歩く。親切に見えるだろう、きっと。でも、彼女といる時間を少しでも延ばす為の僕の密かな作戦だったりした。
「よく、そんなに遠いところから自転車で来てるね。」
弾まない会話を打破するために、ぽつりと彼女に投げかける。「まぁね。」と、適当な返事。焦った、けど彼女の笑顔に助けられた。たぶん、帰り道によくしゃべっていたのは僕じゃなくて彼女だったはずだ。
僕は電車通学だった。だが、僕の家の近くに住むにも関わらず、彼女は自転車通学だった。ちょっとかっこ悪かった。でも、そのおかげで、同じ電車に乗ることができた。駅に着いて、傘に付いた水滴を払い落とす。定期のない彼女は、切符売り場で切符を一枚買っていた。電車はあと5分で到着する。
「ちょうど良かったね。」
と言って彼女が笑う。内心、がっかりしながらも「そうだね。」と言って、僕は微笑んだ。
奇跡、といえば普段かなり口数が少ない自分が、彼女の前で普通にしゃべれていたのもきっと奇跡だ。何だろう、話したいというよりむしろ話さなければいけないという焦りがきっと、いい具合に言葉になったんだろう。こんなに自然に二人の時間がやってくるなんて、思ってもいなかった。ぎくしゃくした空気は、全く漂っていなかった、自分の中以外で。
電車に二人で乗る。気恥ずかしくて、ちょっと不安だ。二駅先が目的地だった。短い。だけど、彼女は眠ってしまった。きっと、疲れてたんだろう。もしくは、僕といるのがあんまりにも退屈だったのかも知れない。“いや、違う。きっと、必死で自転車を探していて、疲れ切ってたんだ”と自分に言い聞かす。
はぁ、とため息をついた。もうすぐ駅に着く。ガタンゴトンと、電車はひたすら走る。僕は彼女の寝顔を見つめて、思った。もう少し一緒に居たかったな。貴重な時間は無常にも過ぎていく。切なく、胸を痛めつけた。彼女も僕のことが好きならば、きっと明日もこうなのに。心の中で繰り返す。神様、許してください。そう心で呟いて、僕はそっと目を閉じた。駅に着いて、そして次の駅へと電車は走った。僕と彼女を乗せたまま、電車はずっと走ってく。

彼女に初めてついた嘘は「ごめん、寝ちゃってた。」だった。知らない街の知らない駅に僕らは降り立った。彼女と二人、そんな時間の延長。彼女は笑った、夢中に腹を抱えながら。つられて僕も笑った。
「やっちゃったね。」
笑いをこらえながら、彼女は言う。引き返すための電車が来るまで30分近く時間がかかった。それまで、ベンチに座っていた。彼女の手には、僕がついさっき買った紅茶の缶が握られていた。二本買いたかったが、財布には一本分の小銭しか入ってなかった。買ったはいいが、彼女にあげるのを何故か戸惑って、自分で飲んでいた。彼女が「ちょっと、ちょうだい。」と言ってくれるまで、きっとその缶は僕がずっと握ってた。
その時、ミニドラマを彩るかのように雨がやんだ。「雨、やんだね。」と彼女が言ったから、そのことに気付いた。神様がくれたシチュエーションが、僕を後押ししてくれた。頑張れ、と誰かが応援する。その声に答えるかのように、僕は僕自身を奮い立たせる。
雲の隙間から光が溢れる。光が、真っ直ぐ伸びて、彼女を照らす。あの日と同じ、光が溢れた教室で彼女を始めて見つけたときと同じように。僕が恋に落ちたあの日と同じように。そんな時間が、どんなに幸せだったか。僕の世界に、彼女の存在が必要不可欠になっていく。あの日感じた彼女との距離は、自然と小さくなっていった。くだらないことを話しているうちに、電車がやって来た。
「今度は寝ないようにしようね。」
と言って、また彼女が笑う。
「そうだね。」
と言って、再び僕も微笑む。どこか噛み合ってるようで噛み合ってない会話が、可笑しい。
並んで電車の椅子に座った僕らは、ちょっとぎこちなく不自然な形で窓に映った。ドラマなら、これから僕はどうするだろうと考えた。彼女の手を握って、愛を告白するのかも知れない。このチャンスを生かすために、僕はどうすればいいのだろう。電車の音でかき消された彼女の笑い声も、透き通っていて何もかもを見透かしているような彼女の目も、僕の神経を麻痺させる。ピリリと音を立てて鳴り出しそうな僕の頭の中。もうすぐ電車は僕らの町に到着する。焦りは緊張に、切なさは苦しみに変わって、表情を硬くさせる。僕の小さな変化に、彼女は気付いているのだろうか。彼女は今、何を考えているのだろうか。今晩のおかず、とか明日の宿題とか、そんな中に僕のことがちょっとでも含まれていたら僕は幸せだ。
僕は願う。もう、何もかも投げ出してもこんな時間が、またやってきますように。電車を降りた僕は、前を歩く彼女の足を止めた。

「実は、あれは眠ったフリだったんだ。」

と僕は彼女に言った。

「どうして、眠ったフリなんか・・・?」

と、彼女は緊張した様子で、目を見開いて僕に聞く。純粋な目が、僕の心をぎゅっと圧迫する。
「もっと、一緒にいたかったから。」

僕は震える声で、彼女に言った。精一杯、彼女に届くような声で、彼女に言った。後戻りできなくなった。逃げ出せない状況に、僕は自分自身を閉じ込めたかった。そして、彼女をどこにも逃げさせないように、言葉の柵で彼女を覆った。二人だけの世界に、彼女を連れ込んだ。気まずい空気が二人の間をすり抜ける。彼女が僕から目をそらせた。その瞬間、僕は息を止めた。その空気を吸い込んでしまったら、いっそう胸が苦しくなると思ったから。
彼女はゆっくりと、口を開いた。言葉が彼女から発せられる。僕は静かに、うつむいた。
「実はね。」
か細くて、気持ちのこもった声が彼女からこぼれる。
「私もだよ。」
そう言って、彼女が僕に一歩近付く。

「私も、もっと一緒にいたかったから、眠ったフリをしてたんだよ。」

透明人間、00

2008-02-07 22:21:43 | 連載小説
【連載小説、第一作】

透明人間

開始:2008年2月7日~


<夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。>