16
思い出していた、あの日のことを。
あの奇跡の雨の日。美鈴が自転車を盗られて、僕と一緒に帰ることになった、あの日のことを。
雫が落ちて、頬を伝った。感覚がなくなった頬に、冷たさが蘇る。
自分の気持ちを押し殺して、もうこれっきりにしよう。そう心に決めたつもりだった。美鈴の気持ちが僕に傾いているとしても、これ以上、夢を見るのはやめよう。一緒に帰り道を歩いて、一緒に電車に乗った。そんな、二人見つめ合っていた昨日は、一日だけの奇跡として僕の中に封じ込めようと心に誓ったのだ。
昨日の雨の余韻が残る僕の頬を、晴れ渡った今日の太陽が照りつける。まだ朝だというのに、今日は酷く蒸し暑い。
僕は靴箱へと足を進めた。靴を脱いで、靴箱へ入れる。
ふいに、眠気が僕を襲った。
昨日は、ぐるぐると膨大な考えが頭を駆け巡って、眠れなかった。ずっと好きで、ずっと思い続けてきた美鈴が、ほんの一時間だけだったけど、そばに居た。生きることが辛くて孤独だった頃に、唯一の希望だった美鈴と一緒に居れらる。どれだけ幸せなことだろう。
夢じゃない。確かに僕は美鈴に言った
「もっと、一緒にいたかった。」
と。
そんな僕の言葉に
「私も、一緒にいたかった。」
と、返してくれた。
嬉しかった。
あの瞬間だけは、ただ純粋に通じ合えていると思えた。
「おっ~す!」
そんな聞き覚えのある声で、僕は我に返った。片手で脱いだ靴を持った健司が、歩いてきた。健司の後ろには、自然に微笑んで僕を見る美鈴の姿があった。
僕は気まずくなって、思わず目をそらした。
「おはよ。」
健司の後に続いて、美鈴が言う。僕は、ぶっきらぼうに
「おはよ。」
と返した。
不自然に動きが止まってしまった僕を横目に、健司と美鈴は教室へと歩いて行った。胸が締め付けられる。
僕にとっては特別な時間だったけど、美鈴にとっては何でもない、平凡な時間だったのかもしれない。
憎らしいほど、健司と美鈴はお似合いのカップルだった。
「ナイショ」と言っていたけど、結局二人が付き合っているというウワサは、すぐにクラス中に広まった。誰もがお似合いのカップルだといって、納得した表情を見せた。特に目立ってはやし立てる者も居なかったし、二人が一緒に居ることが、すごく自然な光景に見えた。
健司の存在は、永遠に越えられない壁だと思った。スポーツも万能で、勉強もできて、風貌もカッコいい。どれをとっても、僕は健司よりも劣っているように思えた。だから、美鈴が僕に心変わりするなんて希望は、1%もないと言い切れたし、僕も二人の間に割り居るなんて考えもしなかった。
それでも、昨日の出来事は、僕のそんな気持ちを揺れ動かせる。
「一緒に帰ろう。」
そう言って踏み越えてしまったラインの向こうで、僕は諦めかけていた恋を、もう一度蘇らせてしまったんだ。必死に一緒な高校に入ろうと努力して、同じクラスになれた喜びを、無駄にしたくないと思ってしまう。
でも、無理に踏み入ってしまって、自らの手で健司との仲に亀裂を入れるようなことはしたくなかった。
健司は友達の少ない僕にとって、唯一、親友と呼べる存在なのだ。
健司のことが、僕の恋を押さえつける。
このまま、片思いは片思いのままで、健司とは親友のままでいればいいだけのことだ、と考え直した。何も変わらない。どうしても、僕の中で美鈴と付き合うには、リスクが大きすぎると思ってしまうのだった。
大きくため息を付いて、僕は足を踏み出そうとした。
「リョウスケくん。」
その言葉に顔を上げると、そこには僕の行く手をふさぐように美鈴が立っていた。急に心拍数が上がるのを感じながら、僕は何か言葉を発しようとした。でも、言葉が出ない。じっと美鈴の目を見つめたまま、固まってしまった。
「昨日は、、、ありがと、ね。」
そんな僕をよそ目に、美鈴は続ける。ぎこちない笑顔で僕は答える。
「いや、全然・・・。」
不自然に、片手を振る。
「盗難届け、出しに行かない?」
相変わらず、自然な笑顔で美鈴は言った。
「盗難届け・・・?」
一瞬、美鈴が言ったことの意味が分からず首をかしげ、ちょっと考えて声を上げた。
「あ、自転車の。」
「そう、自転車の。」
にこっと笑う。美鈴のそんな笑顔にドキッとする。
「リョウスケ君も盗られたんでしょ?」
「・・・えっ?」
僕は再び首をかしげる。
「ほら、・・・傘!」
そんな僕を見て、美鈴は付け加えた。
「あぁ、そういえば。」
ぼそっと僕はつぶやいた。
「一緒に盗難届け、出しに行こうよ。」
その言葉は恐ろしいほど自然な台詞に聞こえた。何かおかしいことも、美鈴が言うと、すごく普通なことのように聞こえる。
僕は、複雑な心の奥の気持ちも、もどかしい思いもふっと忘れて、自然に
「うん、いいよ。」
と返していたのだ。
昨日の延長線上に、今、二人で歩く時間がある。
教官室に入って、二人で盗難届けを書いて、傘なんてわざわざ書きに来る人居ないよ~、と笑って提出するまで、すごく自然だった。何もおかしくない、自然な流れに感じた。いつの間にか、僕の緊張も解けていたし、美鈴と喋れば喋るほど、心は落ち着いた。
心地良い時間だった。ずっと、一緒に居たいと思ってしまった。
教官室から出た後、少しだけ気まずい空気が流れた。それは、美鈴がふいに立ち止まってしまったからだ。
何か言いたげな表情のまま、美鈴は僕を見た。僕は何かを切り出さなきゃいけない、と思ってはいたものの、声にならない。
まずいなぁ、と思った。
なぜなら、その時美鈴が僕に見せた表情は、ただのクラスメイトに対するものにしては、あまりにも特別なものだったからだ。
思わず目をそらせてしまった。
「誰かに見られるとマズイよ。」
冷静に僕は言った。
「どうして・・・?」
目をまん丸にして、美鈴はおどける。
「だって、健司が嫌がるだろ、二人でいると、さ。」
それもまた、自然な台詞だったと思う。この現実を現実のままに封じ込めるための自然な台詞。
僕は何かいけないことをしている気持ちになって、無理やり思いを押し殺して呟いた。
「リョウスケ君。」
不意に真剣な顔で、美鈴は僕の目をみつめて言った。何かを決心した、真っ直ぐな視線が僕を突き刺す。
僕は、その言葉に戸惑った表情をしていたはずだ。そんな僕とは対照的に、美鈴の瞳は真っ直ぐだった。僕の本音を見透かすぐらいの真っ直ぐな瞳だった。
「私、好きよ。リョウスケ君のこと。」
その瞳のまま、美鈴は僕に言った。他の誰にでもない、紛れも無く僕に対しての言葉だった。静かに鼓動が高鳴っていくのを感じた。深く深呼吸する。心の奥から、ゆっくりとその感情は溢れ出しそうだった。
“嬉しい”という気持ちが生まれるまで、少し時間がかかった。
僕が言葉を発するまで、美鈴は何も言わずじっと僕を見つめていた。何か言わなくちゃと思っても、どう応えていいか分からなかった。
どんな言葉を期待しているのだろう。素直にその気持ちに応えるべきだった。
「でも・・・。」
分かっていても、出てきた言葉は弱々しかった。胸の鼓動が高鳴るたび、息苦しさが僕を襲う。あの時、僕は何を考えていただろう。何年も思い続けてきた人に好きと言われた喜び。健司の姿が思い浮かんで素直に喜べない気持ち。その両極端な思いに、僕は揺れた。
まだ足が地に着かない乳児のように、ゆりかごのなかで揺れて、望んでいてもその愛情に手が届かない。喩えてみるとそんな気持ちだろうか。ただ僕は、感情をコントロールできない乳児のような、生まれたての不自然さに頭がおかしくなりそうだった。正しく呼吸をして、正しい言葉を発することが困難だった。真っ直ぐに美鈴を見つめることも、自分の気持ちを押し殺すことも出来なかった。
いわばフリーズ状態だった。
だけど、そんな僕に対して美鈴はすべてを察したような、凛とした表情で僕を見ていた。その表情はどこか神秘に満ちていて、僕はそれに魅力的な危うさを感じてしまった。足を踏み入れてはいけない領域に、立ち入ってしまう、そんな危うさ。
美鈴はぽつりとつぶやく。僕はごくりと息を呑んだ。
「嘘だったの?」
相変わらず、僕の目をじっと見つめて言った。
「あの日、一緒にいたいって言ったのは嘘だったの?」
その核心を突く台詞は、僕を追い詰める。
「嘘じゃないよ。」
自分に正直になろうと一瞬で決意して僕は強く返した。
「僕も、中沢さんのこと、好きだ。」
覚悟を決めた。
そうだ・・・そうに決まってる。
そんなに簡単に諦めることのできる恋じゃなかったはずだ。
何かを犠牲にしても、僕を生かし続けてくれたのは、美鈴への思いだけだったから。もう僕は自分に嘘は付かない。そう決心したのだった。
「ずっと、好きだった。」
そこに居たのは、数秒前の自分じゃなかった。
あの時間が永遠に続いて欲しかった。二人で歩いて、二人で笑い会えるあの時間を僕は求めた。
こんなに近くにあって、こんなにも簡単に伝えることができたことを僕は心の中で奇跡と呼んだ。僕の中に振り続ける奇跡の雨は、轟々と大きな音を立てながら、今でも流れ続けている。
そして僕らは付き合い始めた。
「このことは、みんなには黙っておこう。」
美鈴はそう言って笑った。その笑顔には、少し動揺が見えた気もするが、美鈴の目はまっすぐだった。
秘密の関係
その響きに僕は不思議とすぐに溶け込んだ。それは、「いけないことをしている」
という気持ちよりも、その関係に何か特別なものを感じていたからだった。
そこには、何故か、どのカップルよりも濃密な、本当の愛があるような気がしていた。
僕らは、放課後みんなが帰ったあと、密かに会った。誰にも見つからないようこっそり学校に忍び込んで、ひっそりと二人で会う。その時間がかけがえのないものだった。
しだいに健司と話をするのが気まずくなってしまって、いつの間にか僕は自然と健司を避けるようになっていた。仲良く話すことも少なくなったし、健司と美鈴が学校の中で二人で居るところを直視できなくなった。
それでも、この秘密の関係は壊したくなかった。全部間違っていたとしても、僕のこの気持ちだけが真実だと、そう自分に言い聞かせた。
付き合い出してから、少したったある日、僕と美鈴は放課後の校舎以外で初めてデートをした。誰にも見つかることのない場所にひっそりとある公園で、僕らは会った。ここを二人の秘密の場所にしようと誓った。
一緒に居られるだけで幸せだった。それ以上、何もいらなかった。
飾られた言葉も、大袈裟な演出もないありふれた世界で、僕らは必死でお互いを見つめあった。それは限られた時間で二人の距離を縮めるための精一杯だった。
そんな時、美鈴はふと呟いた。
「一年間だけ・・・。」
人差し指を立てて、真剣な表情で美鈴は僕に言った。
「一年間だけ、みんなに黙っていよう。」
一年間という具体的な数字が、この秘密の関係の曖昧な部分を埋めてくれた。
「一年経って、お互いの嫌な所とかも分かって、完璧なカップルになれるまで、ね。」
美鈴は真剣な表情を解いて、にこっと笑う。
「じゃあ、まだ付き合うための免許を貰うための仮免許って、とこかな。」
僕も笑いながらそう返した。
「じゃ、仮カップルだ。」
くすっと静かに笑って、美鈴もつぶやく。
そうだった。僕らは、地に足の着かない場所で、必死に何かにしがみつこうとする、不自然な関係を築いていたんだ。
不器用でも、器用に生きられると信じていた、あの頃。
僕らは出会って、恋をして、それから・・・。
愛し合っていたんだ。
僕の中のシナリオは、恐ろしいほど順調に読み進められていた。
奇跡の雨の中で、どうしようもなく純粋に。
だけど、そんな奇跡も長くは続かなかった。
重いクラスの雰囲気、ざあざあと降り続ける雨、誰かの噂話。
ぽつぽつと髪の毛から滴り落ちる雨の雫。
その日は誰も私語をせず、真っ直ぐ前を向いて、先生の話を聞いていた。
急に、キーンと頭の中の線が切れるかのように、一瞬視界が揺れて、僕は耐え切れず、机の上に頭をうずめた。
遠くから、先生の声が聞こえていた。
聞こえるか、聞こえないかの小さな音が僕の耳に届く。
「今朝、中沢美鈴さんが亡くなりました。」
覚えているのは、ただその日の雨は、いつもより冷たく、激しかったということだけだ。
思い出していた、あの日のことを。
あの奇跡の雨の日。美鈴が自転車を盗られて、僕と一緒に帰ることになった、あの日のことを。
雫が落ちて、頬を伝った。感覚がなくなった頬に、冷たさが蘇る。
自分の気持ちを押し殺して、もうこれっきりにしよう。そう心に決めたつもりだった。美鈴の気持ちが僕に傾いているとしても、これ以上、夢を見るのはやめよう。一緒に帰り道を歩いて、一緒に電車に乗った。そんな、二人見つめ合っていた昨日は、一日だけの奇跡として僕の中に封じ込めようと心に誓ったのだ。
昨日の雨の余韻が残る僕の頬を、晴れ渡った今日の太陽が照りつける。まだ朝だというのに、今日は酷く蒸し暑い。
僕は靴箱へと足を進めた。靴を脱いで、靴箱へ入れる。
ふいに、眠気が僕を襲った。
昨日は、ぐるぐると膨大な考えが頭を駆け巡って、眠れなかった。ずっと好きで、ずっと思い続けてきた美鈴が、ほんの一時間だけだったけど、そばに居た。生きることが辛くて孤独だった頃に、唯一の希望だった美鈴と一緒に居れらる。どれだけ幸せなことだろう。
夢じゃない。確かに僕は美鈴に言った
「もっと、一緒にいたかった。」
と。
そんな僕の言葉に
「私も、一緒にいたかった。」
と、返してくれた。
嬉しかった。
あの瞬間だけは、ただ純粋に通じ合えていると思えた。
「おっ~す!」
そんな聞き覚えのある声で、僕は我に返った。片手で脱いだ靴を持った健司が、歩いてきた。健司の後ろには、自然に微笑んで僕を見る美鈴の姿があった。
僕は気まずくなって、思わず目をそらした。
「おはよ。」
健司の後に続いて、美鈴が言う。僕は、ぶっきらぼうに
「おはよ。」
と返した。
不自然に動きが止まってしまった僕を横目に、健司と美鈴は教室へと歩いて行った。胸が締め付けられる。
僕にとっては特別な時間だったけど、美鈴にとっては何でもない、平凡な時間だったのかもしれない。
憎らしいほど、健司と美鈴はお似合いのカップルだった。
「ナイショ」と言っていたけど、結局二人が付き合っているというウワサは、すぐにクラス中に広まった。誰もがお似合いのカップルだといって、納得した表情を見せた。特に目立ってはやし立てる者も居なかったし、二人が一緒に居ることが、すごく自然な光景に見えた。
健司の存在は、永遠に越えられない壁だと思った。スポーツも万能で、勉強もできて、風貌もカッコいい。どれをとっても、僕は健司よりも劣っているように思えた。だから、美鈴が僕に心変わりするなんて希望は、1%もないと言い切れたし、僕も二人の間に割り居るなんて考えもしなかった。
それでも、昨日の出来事は、僕のそんな気持ちを揺れ動かせる。
「一緒に帰ろう。」
そう言って踏み越えてしまったラインの向こうで、僕は諦めかけていた恋を、もう一度蘇らせてしまったんだ。必死に一緒な高校に入ろうと努力して、同じクラスになれた喜びを、無駄にしたくないと思ってしまう。
でも、無理に踏み入ってしまって、自らの手で健司との仲に亀裂を入れるようなことはしたくなかった。
健司は友達の少ない僕にとって、唯一、親友と呼べる存在なのだ。
健司のことが、僕の恋を押さえつける。
このまま、片思いは片思いのままで、健司とは親友のままでいればいいだけのことだ、と考え直した。何も変わらない。どうしても、僕の中で美鈴と付き合うには、リスクが大きすぎると思ってしまうのだった。
大きくため息を付いて、僕は足を踏み出そうとした。
「リョウスケくん。」
その言葉に顔を上げると、そこには僕の行く手をふさぐように美鈴が立っていた。急に心拍数が上がるのを感じながら、僕は何か言葉を発しようとした。でも、言葉が出ない。じっと美鈴の目を見つめたまま、固まってしまった。
「昨日は、、、ありがと、ね。」
そんな僕をよそ目に、美鈴は続ける。ぎこちない笑顔で僕は答える。
「いや、全然・・・。」
不自然に、片手を振る。
「盗難届け、出しに行かない?」
相変わらず、自然な笑顔で美鈴は言った。
「盗難届け・・・?」
一瞬、美鈴が言ったことの意味が分からず首をかしげ、ちょっと考えて声を上げた。
「あ、自転車の。」
「そう、自転車の。」
にこっと笑う。美鈴のそんな笑顔にドキッとする。
「リョウスケ君も盗られたんでしょ?」
「・・・えっ?」
僕は再び首をかしげる。
「ほら、・・・傘!」
そんな僕を見て、美鈴は付け加えた。
「あぁ、そういえば。」
ぼそっと僕はつぶやいた。
「一緒に盗難届け、出しに行こうよ。」
その言葉は恐ろしいほど自然な台詞に聞こえた。何かおかしいことも、美鈴が言うと、すごく普通なことのように聞こえる。
僕は、複雑な心の奥の気持ちも、もどかしい思いもふっと忘れて、自然に
「うん、いいよ。」
と返していたのだ。
昨日の延長線上に、今、二人で歩く時間がある。
教官室に入って、二人で盗難届けを書いて、傘なんてわざわざ書きに来る人居ないよ~、と笑って提出するまで、すごく自然だった。何もおかしくない、自然な流れに感じた。いつの間にか、僕の緊張も解けていたし、美鈴と喋れば喋るほど、心は落ち着いた。
心地良い時間だった。ずっと、一緒に居たいと思ってしまった。
教官室から出た後、少しだけ気まずい空気が流れた。それは、美鈴がふいに立ち止まってしまったからだ。
何か言いたげな表情のまま、美鈴は僕を見た。僕は何かを切り出さなきゃいけない、と思ってはいたものの、声にならない。
まずいなぁ、と思った。
なぜなら、その時美鈴が僕に見せた表情は、ただのクラスメイトに対するものにしては、あまりにも特別なものだったからだ。
思わず目をそらせてしまった。
「誰かに見られるとマズイよ。」
冷静に僕は言った。
「どうして・・・?」
目をまん丸にして、美鈴はおどける。
「だって、健司が嫌がるだろ、二人でいると、さ。」
それもまた、自然な台詞だったと思う。この現実を現実のままに封じ込めるための自然な台詞。
僕は何かいけないことをしている気持ちになって、無理やり思いを押し殺して呟いた。
「リョウスケ君。」
不意に真剣な顔で、美鈴は僕の目をみつめて言った。何かを決心した、真っ直ぐな視線が僕を突き刺す。
僕は、その言葉に戸惑った表情をしていたはずだ。そんな僕とは対照的に、美鈴の瞳は真っ直ぐだった。僕の本音を見透かすぐらいの真っ直ぐな瞳だった。
「私、好きよ。リョウスケ君のこと。」
その瞳のまま、美鈴は僕に言った。他の誰にでもない、紛れも無く僕に対しての言葉だった。静かに鼓動が高鳴っていくのを感じた。深く深呼吸する。心の奥から、ゆっくりとその感情は溢れ出しそうだった。
“嬉しい”という気持ちが生まれるまで、少し時間がかかった。
僕が言葉を発するまで、美鈴は何も言わずじっと僕を見つめていた。何か言わなくちゃと思っても、どう応えていいか分からなかった。
どんな言葉を期待しているのだろう。素直にその気持ちに応えるべきだった。
「でも・・・。」
分かっていても、出てきた言葉は弱々しかった。胸の鼓動が高鳴るたび、息苦しさが僕を襲う。あの時、僕は何を考えていただろう。何年も思い続けてきた人に好きと言われた喜び。健司の姿が思い浮かんで素直に喜べない気持ち。その両極端な思いに、僕は揺れた。
まだ足が地に着かない乳児のように、ゆりかごのなかで揺れて、望んでいてもその愛情に手が届かない。喩えてみるとそんな気持ちだろうか。ただ僕は、感情をコントロールできない乳児のような、生まれたての不自然さに頭がおかしくなりそうだった。正しく呼吸をして、正しい言葉を発することが困難だった。真っ直ぐに美鈴を見つめることも、自分の気持ちを押し殺すことも出来なかった。
いわばフリーズ状態だった。
だけど、そんな僕に対して美鈴はすべてを察したような、凛とした表情で僕を見ていた。その表情はどこか神秘に満ちていて、僕はそれに魅力的な危うさを感じてしまった。足を踏み入れてはいけない領域に、立ち入ってしまう、そんな危うさ。
美鈴はぽつりとつぶやく。僕はごくりと息を呑んだ。
「嘘だったの?」
相変わらず、僕の目をじっと見つめて言った。
「あの日、一緒にいたいって言ったのは嘘だったの?」
その核心を突く台詞は、僕を追い詰める。
「嘘じゃないよ。」
自分に正直になろうと一瞬で決意して僕は強く返した。
「僕も、中沢さんのこと、好きだ。」
覚悟を決めた。
そうだ・・・そうに決まってる。
そんなに簡単に諦めることのできる恋じゃなかったはずだ。
何かを犠牲にしても、僕を生かし続けてくれたのは、美鈴への思いだけだったから。もう僕は自分に嘘は付かない。そう決心したのだった。
「ずっと、好きだった。」
そこに居たのは、数秒前の自分じゃなかった。
あの時間が永遠に続いて欲しかった。二人で歩いて、二人で笑い会えるあの時間を僕は求めた。
こんなに近くにあって、こんなにも簡単に伝えることができたことを僕は心の中で奇跡と呼んだ。僕の中に振り続ける奇跡の雨は、轟々と大きな音を立てながら、今でも流れ続けている。
そして僕らは付き合い始めた。
「このことは、みんなには黙っておこう。」
美鈴はそう言って笑った。その笑顔には、少し動揺が見えた気もするが、美鈴の目はまっすぐだった。
秘密の関係
その響きに僕は不思議とすぐに溶け込んだ。それは、「いけないことをしている」
という気持ちよりも、その関係に何か特別なものを感じていたからだった。
そこには、何故か、どのカップルよりも濃密な、本当の愛があるような気がしていた。
僕らは、放課後みんなが帰ったあと、密かに会った。誰にも見つからないようこっそり学校に忍び込んで、ひっそりと二人で会う。その時間がかけがえのないものだった。
しだいに健司と話をするのが気まずくなってしまって、いつの間にか僕は自然と健司を避けるようになっていた。仲良く話すことも少なくなったし、健司と美鈴が学校の中で二人で居るところを直視できなくなった。
それでも、この秘密の関係は壊したくなかった。全部間違っていたとしても、僕のこの気持ちだけが真実だと、そう自分に言い聞かせた。
付き合い出してから、少したったある日、僕と美鈴は放課後の校舎以外で初めてデートをした。誰にも見つかることのない場所にひっそりとある公園で、僕らは会った。ここを二人の秘密の場所にしようと誓った。
一緒に居られるだけで幸せだった。それ以上、何もいらなかった。
飾られた言葉も、大袈裟な演出もないありふれた世界で、僕らは必死でお互いを見つめあった。それは限られた時間で二人の距離を縮めるための精一杯だった。
そんな時、美鈴はふと呟いた。
「一年間だけ・・・。」
人差し指を立てて、真剣な表情で美鈴は僕に言った。
「一年間だけ、みんなに黙っていよう。」
一年間という具体的な数字が、この秘密の関係の曖昧な部分を埋めてくれた。
「一年経って、お互いの嫌な所とかも分かって、完璧なカップルになれるまで、ね。」
美鈴は真剣な表情を解いて、にこっと笑う。
「じゃあ、まだ付き合うための免許を貰うための仮免許って、とこかな。」
僕も笑いながらそう返した。
「じゃ、仮カップルだ。」
くすっと静かに笑って、美鈴もつぶやく。
そうだった。僕らは、地に足の着かない場所で、必死に何かにしがみつこうとする、不自然な関係を築いていたんだ。
不器用でも、器用に生きられると信じていた、あの頃。
僕らは出会って、恋をして、それから・・・。
愛し合っていたんだ。
僕の中のシナリオは、恐ろしいほど順調に読み進められていた。
奇跡の雨の中で、どうしようもなく純粋に。
だけど、そんな奇跡も長くは続かなかった。
重いクラスの雰囲気、ざあざあと降り続ける雨、誰かの噂話。
ぽつぽつと髪の毛から滴り落ちる雨の雫。
その日は誰も私語をせず、真っ直ぐ前を向いて、先生の話を聞いていた。
急に、キーンと頭の中の線が切れるかのように、一瞬視界が揺れて、僕は耐え切れず、机の上に頭をうずめた。
遠くから、先生の声が聞こえていた。
聞こえるか、聞こえないかの小さな音が僕の耳に届く。
「今朝、中沢美鈴さんが亡くなりました。」
覚えているのは、ただその日の雨は、いつもより冷たく、激しかったということだけだ。