家康により、真田丸、外堀、中堀も、までが、約束違反で埋められ
(戦後交渉では、違反が普通であり、そんなことも知らなかった交渉人が甘かった?か?・・・だけ・・・)
そうして小さくなってしまった、裸状態の大坂城、城なか、三の丸にあった玉造稲荷神社も城外に
この辺り、千利休の屋敷や、前田氏の館があった場所”
おそらく、徳川方の旗印で埋まっていたのでしょう。
2018・6月2日、夜明けすぐ
大坂城へ行きました、撮影だけのつもりで来たのですが、たくさんの笑覧も
「スゴイ”」 「カワイイ”」など、スマホ撮影も・・・
現府警本部から、環状線森ノ宮駅までを想定して作りましたが、展示撮影場所は、城の西側(大阪府庁舎前方)に・・・。
天王寺合戦での、赤備えの軍団も帰城し、真田大助と共に、籠り・・・
場所は西の城門側です・・・
北西の矢倉
茅葺屋根は「足軽長屋」城門は、「森ノ宮口」
ぐるりと城を囲む徳川軍
ジオラマ人形は、徳川軍40体 豊臣軍35体を配置”
混乱している豊臣軍を演出”
家康の戦後処理は、大坂に限っては容赦無く、絵巻物にあるように、暴行、偽手柄首殺戮や、落ち武者狩りも長く続き、
大阪城内に捕らえられた、兵、女中、労役人、物資協力者、歳わもいかない子どもまで、約3万人(とも?)を処刑”
大坂城から、5、6人づつ数珠繋ぎにされ、千日前処刑場に向かう列が、毎日、日暮れまで、半年ほども続いたそうです。
町びとは皆、手を合わせ見送り、家康に怒りをあらわにした事は、想像できます。
また、道頓堀の芝居小屋の上の階からでも、雛段に晒された、武将達の首が見えたそうです。
ちなみに、現心斎橋東、「三休橋」の地名は、城から三度目の休憩場所、橋を渡った所、ここが最後で、町びとに見送られ刑場に・・・から、由来しています。
・夏の陣での、大坂方の死者、民間人を含め20万!とも・・・
「大阪人は家康嫌い”」は、この頃からのDNAが、か?
先年、九度山の真田三代の墓で出会った、
岡崎の人「我が地では家康は神様になっていますよ」
私 「皆んなが、家康好きですか?」
男性 「私はそう好きではありませんが、あまり悪く言われると、チョットねえ・・・土地柄まで非難されているようで・・・」
私 「この戦まえまでの家康は、多くの敗者に寛大であった事は承知しています、秀吉嫌いと年齢への焦りが、あったのでしょ、と」弁護?
記事、後半、リアルになりましたが、
「真田丸、道明寺、天王寺、大坂落城、などのジオラマ造りにあたり、欠かせない、最小限の知識だと、また、そうでなければ、人形にも、観覧頂く方にも失礼である」と、
けっこう、聞き取り等しての作品なんです、それだけに、戦国もの人形達へは、それなりに思い入れも入ってます。
これは、玉造稲荷神社にある、秀頼の像、今日の締めくくりに、お参り。
「おのれ”家康・・・無念なり”」
大坂の陣終わります。
・これらの徳川人形の次期登場場面は、明智軍に変化し「本能寺」「大山崎」「勝竜寺城」などに展開予定・・・です。