雄物川は秋田県の県南を流れる133kmの一級河川。
水源は山形県、宮城県との県境付近にある湯沢市の大仙山。
江戸時代の佐竹のころ山の広葉樹を伐採し、杉を植えることが始まった。
現在は秋田杉として有名になったが。
その材木の運搬や米・農作物の運送として舟ではこんだことから、
年貢米を運ぶ川として御物の川「御物川」と呼ばれた。
その以前は「大川」と呼ばれていたようだ。
「御物川」が転じて「雄物川」となったらしい。
秋田から土崎にかけて、曲がりくねっており、頻繁に氾濫を起こし、
水害が絶えなかったようだ。
古い風景絵図では河口が大きく描かれ、土崎が湾になってる。
それで今の新屋あたりが河口なのかと思ってた。
突き出た岬が向浜なのかと。
そこが土崎だったのかとね。
天長7年(西暦830年)1月3日の地震と思われる未確定な事象により、
秋田河〈雄物川〉の水涸れて溝の如くなり、添河〈旭川〉・覇別〈大平川〉
の河岸崩れ、川を塞ぎ、河水氾濫。
ということがあったようなので、そのときに川の流れが現在のように
変わってしまったのかとも。
土崎港に河口があったが、洪水防止のため大正から昭和にかけて
大改修が行われ、新たな放水路が1938年(昭和13年)、河辺郡新屋町
(現在の秋田市勝平地区)に作られた。
ということは、土の岬だったところは、現在は海底?
北防波堤のあたりに突き出た岬があったということだろうか。
近江谷栄治の港湾工事がどんなものだったのかわかんないけど、
まさか岬を削ってなくしちゃったわけでもないとは思うけど。
土が岬を形成していたから土崎と呼ばれたところは現在は海底。
土崎の港だから土崎湊。
秋田の地名を千秋に持っていかれ、土崎湊があったかたその名前の
町とした。
という流れだとすれば雄物川の影響、佐竹の影響、住民の熱意。
いろいろ重なって現在があるんだね。
水源は山形県、宮城県との県境付近にある湯沢市の大仙山。
江戸時代の佐竹のころ山の広葉樹を伐採し、杉を植えることが始まった。
現在は秋田杉として有名になったが。
その材木の運搬や米・農作物の運送として舟ではこんだことから、
年貢米を運ぶ川として御物の川「御物川」と呼ばれた。
その以前は「大川」と呼ばれていたようだ。
「御物川」が転じて「雄物川」となったらしい。
秋田から土崎にかけて、曲がりくねっており、頻繁に氾濫を起こし、
水害が絶えなかったようだ。
古い風景絵図では河口が大きく描かれ、土崎が湾になってる。
それで今の新屋あたりが河口なのかと思ってた。
突き出た岬が向浜なのかと。
そこが土崎だったのかとね。
天長7年(西暦830年)1月3日の地震と思われる未確定な事象により、
秋田河〈雄物川〉の水涸れて溝の如くなり、添河〈旭川〉・覇別〈大平川〉
の河岸崩れ、川を塞ぎ、河水氾濫。
ということがあったようなので、そのときに川の流れが現在のように
変わってしまったのかとも。
土崎港に河口があったが、洪水防止のため大正から昭和にかけて
大改修が行われ、新たな放水路が1938年(昭和13年)、河辺郡新屋町
(現在の秋田市勝平地区)に作られた。
ということは、土の岬だったところは、現在は海底?
北防波堤のあたりに突き出た岬があったということだろうか。
近江谷栄治の港湾工事がどんなものだったのかわかんないけど、
まさか岬を削ってなくしちゃったわけでもないとは思うけど。
土が岬を形成していたから土崎と呼ばれたところは現在は海底。
土崎の港だから土崎湊。
秋田の地名を千秋に持っていかれ、土崎湊があったかたその名前の
町とした。
という流れだとすれば雄物川の影響、佐竹の影響、住民の熱意。
いろいろ重なって現在があるんだね。
そこが本来の土崎だったんじゃないかと。