幹事さんのひとりごと

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日和山

2013年07月22日 | 地域の話題
菅江真澄(すがえますみ)宝暦4年(1754年)~文政12年7月19日(1829年)
江戸時代後期の旅行家、博物学者。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。
1811年、久保田藩を訪れた真澄は、藩主の佐竹義和から出羽六郡の地誌を作ってほしい
と頼まれ久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、久保田藩の地誌の作成に携わり、
その後は久保田藩領から外に出ることはなかった。

菅江真澄の随筆《水の面影》の一節に土崎寺内周辺の状況を、地誌風に書き残したと
されるものがあり、「日和山」についての記述がある。

「日和山」とはどこなのか。

いろいろ調べてる方々も多いようだが。

日和(ひより)とは天候のことであり、土崎で天候を見るのは船の往来にかかわる
重要なこと。

秋田孝季が書いた「東日流六郡誌絵巻」には「飽田日和見山城跡」というのがあり、
「飽田」とは現在の「秋田」のことで今は寺内から土崎にかけての地名。
地名研究賞を受賞された南波氏によると「日和山」(法政大学出版局、昭和六三年)
において
『日和山は、千石船時代に日和見をしたために名づけられた小山で、(中略)
入港船の目印ともなり、頂上には方角石の外に、大樹があり、祠・灯篭・塔等が
建てられている所もある。』
とされ、穀保町にある虚空蔵堂(こくぞうさん)で旧藩時代にありては此の丘上に
竹竿を設けて燈火を掲げ、以て夜間舟行の便に供したとしていることから、
そこを「日和山」とする説が土崎史談会などで強いようだ。

しかし、土崎神明社の近くに「日和見小路」があったことや、神明社の神主が
「ここは日和山であり、今でも例祭の前夜、日和まつりを行っている」」と
言っていたという話もあり、神明社の場所が「日和山」だとする説もあるようで。

孝季が「飽田日和見山城跡」と記したのは「秋田城跡」つまり現在の高清水の
丘のことではないかと。
《水の面影》によると両津八幡宮の記述がある。
現在も両津八幡神社として寺内大畑にある。
想像するに、雄物川を挟んで両岸が港だったようで、土崎湊と勝平浦。
大型船を勝平沖に停泊させ土崎に小型船で積荷を運んだようなので、言わば港が2箇所。
それで両方の港の守り神として両津八幡。
個人的推測だけどね。

真澄の指摘によれば両津八幡神宮の裏側が秋田柵址。
旧秋田城址であり、日和山であったと。

神明社の神事で日和をまつるのは穀保町のお旅所が日和山のすそ野に当たるだろうから
日和をまつってもおかしくはないだろうと。
これは個人意見ね。

寺内から土崎にかけて寺が並んでる。
佐竹が久保田城建築で土崎の住民をごっそり千秋に移動させ、寺内の寺も半分以上
現在の寺町に移動させたと。
その寺の並びをみると寺内から神明社のあたりまでで、神明社の北も土崎のはずなのに
寺はほとんどない。
もしかして神明社のあたりが昔は山でそこまで寺を並べたのかもと。
古い土崎の絵では湊城らしきものが山の上に建ってるし。
神明社の宮司が言った「神明社の地が日和山だ」というのが本当なのかもしれないと。

秋田城が日和山の上にあり、その日和山が見える丘として湊城の丘が「日和見山」と
呼ばれてたという可能性もあるのではないだろうか。

日和山から日和見山に行く道が山道通りだとすればつじつまが合いそうで。

まぁとにかく、「日和山」だの「日和見山」だの「日和見小路」だの、聞き覚えのない
名称が見えただけで新たな発見の喜びだな。


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2 コメント

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日和山 (るーと356)
2013-07-22 10:52:09
というと
石巻の日和山公園を思い出してしまいました
震災の時はそこに避難された方が多くいたのではないかと思います
20年くらい前に行った時の記憶では
石巻の海が一望できる小高い丘って感じでした
海運を生業とする土地では大切な場所だったんじゃないかと思われます
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日和山 (幹事さんの愛読者)
2013-07-22 21:41:59
幹事さんもお書きのように、菅江真澄の紀行文に日和山とあるらしく(私は原物、現代文を見ていませんので、らしいとしか言えませんが)、日和山に関しましては渋谷鉄五郎氏も六箇所を比定した論文を書かれてらっしゃるます。ただ、問題なのは、幹事さんも書かれてらっしゃるますが、日和山の資料として引用される東日流六郡誌絵巻、実際に有名なのは、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)で、古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされています。(一部Wikipediaより)。ですが、現在では偽書とほぼ見做されています。一連の資料は、青森在住の和田喜三郎が発表したもので、ご本人も平成まで健在でした。それら資料は和田氏の先祖と秋田藩士秋田孝季の残したものと、和田氏は主張していましたが、秋田孝季は実在の三春藩主で藩主が、書くわけもなく、いつの間にか秋田の藩士と和田氏は主張したようです。ちなみに三春に転封になった安藤氏の分家は、大高氏、湊氏を名乗っていたようです。赤穂浪士の大高源五はその子孫と言われています。そのほか、冥王星などその時代に発見されといない表現があることから、いまでは東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)はほぼ偽書と見做されていますが、発表時にインパクトが大きく、地元の役場が大々的に町史として発行したため、研究者、在野の歴史愛好家が、資料として引用したようです。その経緯で、和田氏文書が偽書である以上、史談会資料は一度再検討すべきと思います。ちなみに両津八幡神社は、秋田城代である秋田城ノ介の庇護を受け、25石を与えられていたようです。八幡とついているので、源氏、もしくは武家の信仰の対象かもしれません。推測ですので、間違いの可能性大です。すみません
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