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秋田史まとめ1

2013年07月23日 | 暇人の無駄知識
蝦夷(えみし)

7世紀の中ごろ阿部比羅夫(あべの ひらぶ)が180そうの水軍を率いて秋田の地に来た。
それ以前の土着の民族は蝦夷と呼ばれた狩猟を主とする温厚な民族であった。
毛皮を着てたことからか、毛深かったことからか、毛人とも呼ばれていた。
古代の蝦夷は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に
入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。
統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。
蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は
日本人につながったと考えられている。

 

「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚はなかったようだ。
蝦夷については『日本書紀』に、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷で
あったとされる。
659年「日本書紀」には遣唐使と唐の高宗の問答があり、蝦夷は穀物を食べず、家を建
てず、樹の下に住んでいたとされている。
しかし、実際には争いごとを好まなかった蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。
長髪でひげ面で体毛が濃い「毛人」と呼ばれた土着人から領土を広げるに当たり、温和
な民族として報告すればなにかと不便だったのだろうか。

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部
分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。日本が支配領域を北に拡大する
につれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。
最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた宝
亀(ほうき)の乱の伊治呰麻呂(これはる の あざまろ)、789年に巣伏の戦いで遠征軍を
壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。
日本は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて
征服し、日本の支配に服した蝦夷は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれた。

秋田で名前が登場する蝦夷には「恩荷(おが、おんが)」がいる。
658年に阿倍比羅夫の180そうの水軍が秋田の地に来たとき、その船に驚き即刻降参。
朝廷への服従を誓い小乙上(しょうおつじょう)の冠位を与えられた。
男鹿半島の男鹿と関係があるのかは定かでないが。

蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、
代わりに米・布・鉄を得た。
しかし、蝦夷という民族統一されたものではなく、土着の先住民というだけのことで、先住
の地を奪われることに反発する住人も多かっただろう。
それを討伐するため、蝦夷征伐は繰り返されたようだ。


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