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秋田史まとめ5

2013年07月29日 | 暇人の無駄知識
安東氏

日本の中世に、北東北地方を支配した武家の一族。本姓は安倍。
鎌倉時代には御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に
組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。

安藤氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏宗家(得宗)の
被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、北条氏を通じて
鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられている。
その後、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えた。
さかのぼって以前は奥州現岩手の一族で、藤原の里を追われ、青森に逃げた。
安倍の「安」と藤原の「藤」をとって「安藤」としたという説がある。
十三湊を拠点に栄えた安藤氏の所領は稲作には適さない土地が多く、内陸部から
得る利益が少なく、日本海に大きな交易網を形成することにより多大な経済的利益
を得ることが可能な沿岸部の良港を押さえていた海の豪族だった。

鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となり、安東氏が
その地頭代となったと説がある。出羽小鹿島は現在の男鹿半島だろうか。
そこから出羽湊に湊城を築城。天守閣もない平城だったと言われる。
初代湊城当主安藤鹿季(かのすえ)

鎌倉末期には一族で争いが起こり、正中2年(1325年)に北条高時が蝦夷管領を
又太郎季長から従兄弟である五郎三郎季久に代えると、争乱に発展する
(蝦夷大乱)。
室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立。
上国家は出羽小鹿島や出羽湊を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称する。
このころから「安藤」から「安東」へ表記が替わっている。
一方、津軽を領した下国家は15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばして
きた南部氏に追われ、いったん蝦夷島に逃れた後室町幕府の調停で復帰したも
のの再度蝦夷地に撤退、更に出羽に移り檜山を中心に出羽最北部西半から蝦夷
地南部を領した。
初代檜山城当主安藤忠季(ただすえ)

上国家は、一般的に湊家と称し、遅くとも天文年間には京都扶持衆となっている。
京都扶持衆(きょうとふちしゅう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍と直接
主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士。
代々「左衛門佐」を名乗り本願寺や細川氏と通じるなど中央との交流があった。

長く分裂していた檜山系と湊系の安東氏は戦国時代後期に入ると上国家湊安東
氏に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため檜山下国家の安東愛季が湊家をも継承
して安東家を統合した。
愛季(ちかすえ)は織田信長とも誼を通じる一方、浅利勝頼ら領内の反抗勢力を
滅ぼし、由利地方から大宝寺氏の干渉を駆逐した。安東氏は戦国末期になって
ようやく、秋田郡・檜山郡・河辺郡・由利郡を領有する戦国大名へと脱皮を遂げた。
半ば独立勢力であった国人の浅利則祐を討って、その弟の浅利勝頼を傘下に置
いて勢力を拡大1564年(永禄7年)から南部領に侵攻し鹿角郡獲得を目論むが、
これは1569年(永禄12年)に石川高信に阻まれた。

安藤氏の家系には諸説あり、安藤から安東を名乗ったり、改名も繰り返されている。


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