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模様眺め

3DCGと模様と宇宙

第二の人類

2010-08-22 02:24:02 | もの思い

 加速する時代、進化を止めた人類。技術だけが驚異的な進歩を遂げ、取り残される人類。
 人間は、文化の担い手としての役割を終えるのか? 文化の集大成として地球圏を構築するのか?
 銀河系内のあらゆる恒星を分析調査するためのシュミレータを惑星規模で構築する計画「第二の地球」構想。
 決定的な問題、短すぎる寿命、狭すぎる行動範囲。
 最も深刻なのが、自滅の道を最後まで克服することができない人類が、恐怖に駆られ、神を創る誘惑に幾度となく晒されること。
 やがて人類は自らを処すすべを考え始める

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笑い(続き)

2010-05-21 12:47:42 | もの思い

 “笑い=機能停止”説とは、思考を止め、身体的に無防備であると示すことが笑いである、という考え方。
 笑いを分析するには、認識過程で緊張と緩和が再現されていることと、もう一つ、無防備になる理由に注意する。
 笑う、つまり無防備になる理由には、無抵抗であることを示して止めさせたいのか、さらに求めているのかの2パターンがありうる。いずれのために笑うのか、これらは区別できない(お笑いで「やるな」が「やれ」を意味する等)。

 区別できない理由があるから緊張し、緊張で選択が迫られ、緩和で選択される。無防備になることを選択するか、選択によって無防備になるか。無防備な選択をするか、無防備で選択するか。状況は千差万別、言い方にも色々あるが、いずれにせよ無防備になれれば、それが笑ったことになる。

 発生学的に、区別できないことを笑いで処理することは、社会性をさらに上の段階に推し進める、とは考えられないか?
 飼い犬が腹を見せるのは楽しげで可愛らしい印象さえあるが、生物学者が服従のポーズだと言うと、印象とは真逆の笑いとかけ離れたものだと思いこんでしまう。しかし、笑いについて考えていくと、この犬の行為が笑いと同源だと思えてならない。
 赤ちゃんは無防備な存在である。新生児ですでに笑う機能はあるものの、笑うのは求める理由で笑い、止めたいときはむしろ泣く。止める理由っぽい笑いもじきに現われる。
 やがて成長すると、依存するだけだったのが少しずつ自立するようになり、比較的に依存されるという状況も出てくる。そうなっても子供は何もできないので、無防備な存在となり、笑いが生まれる前提ができあがり、笑うこともあればそうでないこともある。頼られることは認められることであり、笑いにつながる関係は成長に合わせて変遷する。
(ここには共感しうる親の立場も存在する。その脳内では緊張と緩和が再現されており、そして無防備になれるなら笑う)
 さらに成長すると、区別できない選択をいくつも見聞、経験し、笑うに笑えない空間に放り込まれることもしばしば。無防備でいられる仲間があれば、遊び笑い、自ら笑いを生み出すということもあるだろう。
 以降、いくつになろうと、どんな社会にいようと、笑いにつながる関係性に変わりはない。

 区別できない選択は、他の感情「怒り」「悲しみ」などの下地、引き金にもなる。

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魂の揺籃

2010-04-18 23:56:34 | もの思い

 脳、神経細胞の振る舞いは、思考の傾向・パターン、記憶の振る舞いと一致していなければおかしい…と、人は思い込むはずである。
 神経細胞の観察は、客観的にできる。が、解釈の段になると、人の思考パターンというか限界がそこに働く。さらには、この解釈によって、思考パターンが制限される。
 これは最先端の脳科学研究を待つまでもなく、人が考えることの単位を想定するだけで陥ってしまう思考の落とし穴でもある。単位として想定しやすいのは、人、魂、精神、思想、言葉、そして時間。
 枠をつくっては自らを押し込め、そこから抜け出そうともがく。

 思考の単位にはそれぞれで有効な文脈があり、それぞれのスケールで思考・叙述法をもつ。各単位をわたる文脈、思考法ももちろんある。これだけで複雑性と、完全性と不完全性の両立が担保されると考えられそうであるが…

 あとは脳の仕組みを解明すればいいだけ、というものでもないはず。
 視野は大観するほど優れているというものでもないし、細分化するほど正しくなるというものでもない。
 それがもしも、全体を見渡して得る答えでもなければ、細部を突き詰めて得る答えでもないとしたら。

 ふつう“殻を破れ”というと、こちらへ来いという意味になる。差別化し、偏見に陥れ、利で誘う。寛容とは無縁の、迎合排除手法。かといって寛容で道なき道を進むことはできない。
※●×●=○?

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ラスコーの洞窟学校

2010-03-12 14:27:36 | もの思い

 言語の修得方法は、いわゆる学校教育でなされる勉強方法とは違う。そこが勉強する現生人類とそれ以前の人類との差なのではないか。
 境目は遺伝子的に変化のなくなる3万年前頃。ちょうど最古級の壁画が見つかっている時期だ。
 なぜ壁画が描かれたのかの理由は、人間が勉強するようになったことと関係があるのではないか。
 集落規模で学ぶだけなら学校はいらない。身近な先人についていたほうが、よほどためになる。ただ、それがたとえ3万年前であっても、学ぶための体裁が学校になることは十分にありうる。

 現存の宗教は教化が前提となる。儀式とか宗教的とかいうのは学校のマイナー形態と考えられる。壁画の目的の総体としてなら、「学校」とするのが一番適しているのでは。

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A進化論

2010-02-02 04:15:19 | もの思い

 果物の木の実は動物に運んでもらって繁殖範囲を広げるために適応的にあのようになったといわれている。
 この手の繁殖範囲を広げる形態は多くの植物で共通することだが、それは、この形態が「植物が植物として分化したときからの根本的な性質」だからということにならないか。
 そこに“植物とは何か”の答えがある気がする。

 繁殖の形態が種のあり方に多大な影響をもつことは十分考えられる。本質的に変わることのなかった形態であれば尚更。
 繁殖の形態が種の本質だとしたら、一部の発現をもって種を語るのでなく、それを繁殖と絡めてこそ種を語るべきであろう。
 自然選択で語られることの多い進化だが、性選択のほうが本質に近いのではあるまいか。

 いかに性選択をされたかを語らなければ、進化論は分断されたまま、探究の糸口を見失いかねない。
 自然選択は結果であって、種の性質ではない(答えのない選択に意味を見出すのは難しい)。あるいは、すべての生命に共通する性質とする。よって生命維持に関してのみ限定的に適用する(ただし、生命の根幹にかかわる性質は進化の全過程において影響を与えうる)。
☆単細胞レベルでは性選択は自然選択に等しい。
 いっそのこと性選択だけで進化を再構築してみても面白いかもしれない。
 数億年かけて生命が獲得した形質はすべて性選択の名残り。受精卵から生殖までの期間は、性選択の積み重ねを意味する。
 手がかりの少ない話ではあるが、証拠は残っているはずである。形態、遺伝子、永い世代にわたる性選択の傾向、個体ごとの性格。
 あと、選択の基準が知覚であろうと、行動であろうと、生理現象であろうと、大雑把にいって人間も同じような仕組みをもっているのだから、人間が判断することもあながち間違いではない(解釈を変えて応用可能な範囲)、という考え方もできる。

 自然選択で進化はない。性選択だけでは生き残れない。

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