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模様眺め

3DCGと模様と宇宙

全知全能

2009-11-27 12:22:41 | もの思い

 インターネットの普及によって、個人が扱える情報量は30年前の知識人、100年前の天才を凌ぐようになった。
 ところがそれを使う方はというと…
 私の情報源が検索→ウィキペディア、でも、理解できるのは最初の3行までということもしばしば。

 高機能化した家電でよくみられることだが。その人が認める認めないにかかわらず、機械に使われている現状は厳然としてある。

 どこで蝶が羽ばたこうが知る必要はない。しかし、無数にある∞を計算しつくすことはできない。
 計算できなくてもシュミレータによって予測はできる。予測は現実となり、未来が予測でつくられる。
 正確な予測も、善良な予測も、理解の範疇を超えて人間は一喜一憂するのみ。人間性さえもシュミレータで代行したなら、人間は人間でいられるだろうか。

 脳は一種のシュミレータ。メディアに触れることは仮想世界に生きるのと同じこと。我々が身を投じている現実からは、すでに人間性が削がれつつある。

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谷越えSOV

2009-10-19 01:22:43 | もの思い

Tani03
 図のような考え方ができそうではないか。
 知覚情報を扱う直感と、言語情報を扱う論理があり、両者を結びつけるときに谷が生じる。
 ひとつなぎの認識過程の中でSOVが派生しうる、というのは、脳の仕組みを考えるうえで非常に都合がいい。

 主語は述部を待ち、あらゆる可能性の中で直感的に認められる。目的語は論理的な産物なので論理に寄る。
 情報は処理のためにも記憶のためにもコンパクトに要約されていく。それが言葉と結びつくと強く印象づけられ、動詞が形づくられる。心が動けば言葉も動く。感動があるから動詞が意味を持つ。(動詞は直感と論理いずれにも渡る)
(直感と論理の結びつきは、同時に情動とも結びつく。結びつき方の好悪正否がこれにより選別される。これが少なからず動詞のあり方に影響を与えている)

※言語化の前提として非言語SOVを想定してもいいのでは。
 非言語SOVは認知とも言い換えられ、思考と行動の制御、脳内の情報はすべてSOVで管理される。とくにVには基本動詞として相同と比較(=、>、<)がある。

 昔テレビで言語学者が、あらゆる言語がSOV(順不同)の型を持ち、なぜSとOとVなのか解明されていない、と言っていたのを覚えていて、今でも重要な問題として心にとどめているのだが。
 とりあえずこんな解答でいかがだろうか。

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谷を越えて行こう

2009-10-09 11:25:08 | もの思い

 こういうのを作っていると、いつかは「不気味の谷」という言葉にぶつかる。
 思うにこれは、谷ではなく二つの山なのではないか。
Tani01
 そもそも、絵がどんなでも見えるようにしか見えないわけだし、作り手としてもできる範囲内でやっているわけだから、谷なんか気にしていられない…と、これまでは思っていた。
-そういえば、不気味というのは動きにも当てはまる言葉であった。
 モデルに動きをつけるほどに、イメージからかけ離れていく。これはT字I字から形が崩れ、作業も難しくなるからだと思っていた。
 動きにも「不気味の谷」があるとすれば、がんばって動かそうとするほど谷にはまり込んでしまう可能性だってあるわけだ。
 バレエ、日舞、魅せるための洗練された動きは、そう容易く表せるものではない。自然体と動きが相反する場合、現状で谷を回避する術はない。
 

 
 ところで、人の顔と人の動きとの不気味という共通点は、両者が同じ仕組みによって認識されていることを推測させてくれる。
 と同時に、このことは、山と谷が図の左方向へつくられていることを示唆している。(抽象画が評価される所以か)
Tani02
(直感と論理は、経験とその解釈としても当てはまるかもしれない)

 私は常々、人が現象や経過を含む状態までも認識できていることを不思議に思っていた。(SOVのV)
 人なら歩く、走る、座る、寝る。植物なら芽が出る、葉が繁る、花が咲く等。人がなぜ、こうした変化を認識し、言葉にして表すことができるようになるのか。
 今回不気味の谷について考えてみて、写実と記号あるいは直感と論理の間に大きな溝が必ずできるのだとすれば、このような疑問が生じることにも納得がいく気がした。
 もしも不気味の谷を打破することができたならば、この疑問に対する答えにも近づけるかもしれない。

 認識の谷は、人の、人間的とされる心理行動の多くを説明してくれる?

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いろせんすきる

2009-08-09 03:58:40 | もの思い

 色彩ではセンスもスキルもないことを改めて痛感した。
 自分のことでもあるが、
『好きな色が黒という場合、色としての黒ではなく、白黒の白い地に対しての黒かもしれない』
 地が白なら色といえるのはあとは黒しかない(これは黒が赤でもピンクでも一緒)、というような意識で好きな色をいっている人は結構いるはず。

 色彩のセンスがないということは、色に時間をかけ苦心しなければならないということ。

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笑うべからず

2009-07-26 00:55:41 | もの思い

 笑いがことのほか疲れることに気づいた。人は何故、こんなに疲労してまで笑うのか。
 笑いとは、心身を疲労させて、他に何もできなくさせる機能・反応なのではないか?
 笑い顔は、音声をカットすると、苦しみや悲痛な表情にも見える。
 笑い=機能停止説は、人が何に対して笑うのかということとも合致する。意味不明のことを言われて、笑って考えるのをやめる。人が失敗するのを見て、何もできない状態で失敗パターンを頭から追い払う。(笑いの基本である緊張と緩和は、笑いそのものの再現)
 また、人前で笑うことは、何もできない心身をさらす意思表示になる。笑いにつられて笑うのも同様で、こちらには共感も働く。共に笑っていられることで、悪い気はしないものだ。
 逆に、人を笑わせるということは、相手を何もできなくさせるということにもなる。笑いのための手段では、支配力の行使ということにはなりにくいが、ある種の強制力が働いた状態にはなる。
 犬が腹を見せるのは服従のしるしと言われるし、似たような行動は多くの動物にも見られる。笑うのは人間だけという言われ方をすることもあるが、人が他の動物と比べて、精神構造的に特別であるという証拠はどこにもない。(服従ではなく笑いと解釈すべきか)
 もっと単純に考えてみてはどうだろうか、人間はただ高度に共感する生態を得たにすぎない、のだと。

 長らく体調悪が続くと、いろんな民間療法を編み出しては挫折を繰り返す。気も弱くなる。今やっているのは「なにもしない」こと。リラックスしようとすると余計にできないけれど、1年くらい何もしないと思うと頭がすっと軽くなる。
 笑いも「なにもしない」につながるが、笑うだけでも消耗するし、これが「お笑い」になると考えることが山ほど出てくる。
 実のところ、何もしないでいると何もできなくなってしまいそうで、怖かったりもする。そういいながらも、こういうことを思いついたりする。また気が弱くなっての迷信にすぎないかもしれないが。

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