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模様眺め

3DCGと模様と宇宙

プログラム思考

2011-06-06 02:44:09 | もの思い

 プログラム思考またはアルゴリズム思考。プログラム、アルゴリズムの意味はウィキペディアを参照するとして。

 人は「アルゴリズム」がなくても言葉で思考できるし、言葉がなくても直観的に思考できる。つまりプログラム思考は言葉の上をゆく思考法となる。

 ここで注意しなければならない点は、言葉もまたアルゴリズムで成り立っているということ。おそらく直観思考もまたアルゴリズムで成り立つ。この関係は、マシン語~アセンブラ、高級言語、インタープリタ、スクリプトといったプログラミング言語群に似ている。
 言葉は高級言語の命令にあたる。オブジェクトはかなり言葉的。外部ファイルの呼び出しも言葉的な機能といえる。
 よって「プログラム思考」は、高級言語よりさらに高度なプログラムとして思考する、ということになる。
(今のところ、プログラム思考は、特定の専門分野のために開発されたプログラミング言語、に近い。
 プログラム思考では、しばしば直観思考のコントロールが試みられる。それはオリジナルマシンの製作、新CPUの開発から着手することに相当する)

 言葉にしてもプログラムにしても、習得するには、マニュアルに従うか、例文を参照するかだが、プログラムではさらにアルゴリズムの理解が必要になってくる。理解するといっても、結局は言葉を媒介にして、原因と結果から、その間にあるアルゴリズムを読み解くしかない。さらに、プログラムには試行とデバッグの手順が欠かせない。言葉なら、最悪言葉自体が根拠となり、丸暗記が理解であることも少なくない。
 こういったアルゴリズムの理解のし難さは、伝達のし難さとなり、普及の妨げとなっている。

 コンピュータの発展としては先が見えているというか、高速化と大容量化ぐらいのものだが、それに比べてプログラム法やアルゴリズムにはまだ伸び代があるように思う。
 アルゴリズムの定義は定まっていない。にもかかわらず、人がアルゴリズムで思考できることは、示唆深い。

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自分いぜんの自分のなかの何か

2011-03-06 02:04:26 | もの思い

 「何しよる?」「なにも」「息しよるじゃん」という子供の言い合いがある。
 不毛なうえに、“息をしようとしてしているのか、しようとしていなくてもできているのか”、気になりだすと息苦しくなってしまう。

 ならばこういう考えはどうだろうか。
“記憶をしようとしてしているのか、しようとしていなくてもできているのか”
 “息”と“記憶”を取り替えるのである。
 人は、憶えようとして憶えたことよりも、憶えようとしなくても憶えていることのほうが多い。
 息もしようとしなくてもできているし、記憶もしようとしなくてもできている。
 “なぜ息をしているか”考えるよりも、“なぜ記憶できているか”考えるほうがよほどミステリアスではないか?

 ところで、記憶はしようとしてもできていない、というのは誰しも頻繁に経験することだ。では息はどうか。息は意識的にすることができる、というのは本当か? 意識的に記憶するとは、記憶の契機を増やしてやることができるだけで、記憶を意識することは記憶には逆効果なのでは。だとすると息も、息をしているつもりでも、意識的にしていることは息とはいえないのではないか。

 知ることに違いはなくても、何をどう記憶するかは人によって違う。

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記憶コード

2011-01-29 15:42:14 | もの思い

 考えてみれば、脳細胞1コが1ビットを意味する、なんてことはありえないよね。それはあまり現実的な考えではない。

 たとえば、「通し番号+データ」のようなものがコード化されて記録されなければ、記憶の基本能力さえ説明困難になってくる。
Code01
 思考に論理と直観があるのは、脳細胞への記憶のされ方に同様の類別ができるからではないのか。
 音声と画像、あるいは数軸記憶と空間記憶、あるいは数軸コードと空間コード。
 記憶には数軸性と空間性があり、一つの細胞に両方とも同時にタグと本文の関係で記憶される。
Code02
 記憶するとは新たな脳神経の回路ができることだけでなく、脳細胞の中に新たなコードが書き込まれることでもある。

 右脳と左脳で、タグと本文の関係が逆になっていれば、右脳と左脳の機能の差、論理と直観の差になる。
(あるいは、処理装置が同じフォーマットをそのように別々に扱っているか。そのようにデータが分類されて、結果的に処理内容が差別化されてしまったか)

 一つの脳細胞で複数のコードを記録すれば容量も増える。
Code03

 記憶容量を増やすなら、こういう方法もある? コードを連結させることで記憶を長文化する。
Code04

 脳細胞を連結して長文化するとともに、個々の脳細胞の負担を減らして処理の安全性を向上させる。
Code05

 この考えは、見た目では計れない脳の進化という視点を与えてくれる。
 これが正しいというわけではない。

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穏やかな脳の自殺

2010-11-15 14:01:25 | もの思い

マイナス思考:細く弱い神経経路を探索し、より古い・深い記憶をたどる。熟考するのに必要だが、脳に負荷がかかり、やりすぎは心身の失調を招く。
プラス思考:楽しいとか幸福感を呼び起こすような思考。直近の記憶や、強烈な記憶を使う。身体的には良いが、目先のことにしか考えが巡らないとか、より強い刺激を求めるとかの弊害もある。
Pmsikou
 年を取るとマイナス思考にばかり考えが行く。負荷はかかるが知恵は廻る。
 だいたい老人は古い記憶しかないのだし、新しいことはすぐ忘れる。マイナスからしか考えることがない、というのが本当のところ。
 マイナスでばかり考えて、身も心も衰弱していく。それはあたかも脳が自身を緩慢に殺そうとしているかのような。 

 ポジティブ、ネガティブという意味ではない。おそらく脳の活性とは同義ではない。

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未数

2010-10-12 13:51:20 | もの思い

 全方向に無限に、連続的に広がる宇宙。この実数世界にも、“粒子が他の粒子とは別物”という意味での自然数の性質が見出せる。しかしそれは、そのままでは数字ではない。
 “広がり”実数から数学的な実数へ。“別物”自然数から自然数へ。ここには大きな隔たりがある。

 この隔たりを考えると、数字以降の数学の発展は目覚しい。
 人が数字らしきものを使うようになって数万年、演算込みなら数千年として、この間、人類に遺伝的な変化はほとんどない。
 そこでこういうことが考えられる。
数字を使うことと、数学的難問を解くことは、同じ能力に由来している

 数を理解し得ない赤子が、成長するにつれ高度な数学を操れるようになるのは、その間に脳に新たな機能が加わったからだとは思えない。数学が得意な人とそうでない人の差は歴然であるが、器質に差があると考えるのは危険だ。数学の天才たちが突然変異によって生み出されるのならまだしも、数学の解が遺伝子で導かれるわけではあるまいし。
 答えはもっと単純で、複雑に考えすぎて、わからなくなっているだけ、ということはよくある。

 これはとりもなおさず、脳が常に数学よりも遥かに複雑なことをしていることを意味する。
 数学は脳の一部でしかない。しかも、法則や演算方法など当たり前のように思っていることの多くが人の思考傾向に依拠していて、みな正当性や有効範囲を気にすることなく計算を駆使している。
 もちろん現実とのすり合わせや、宇宙の原理のような曲げられなかったものもあるだろう。人の思考に根拠がないわけではない。しかし、数学が、人の脳が見せている幻想に過ぎないかもしれないことは、心にとどめておくべきだ。


※実数は論理的に認識され、自然数は直観で認識される。“広がり”実数、“別物”自然数についても同じことがいえる。
 空集合に広さがないように、粒子がなければ空間に広がりは与えられない。つまり広がりは粒子が担い、数で表され、実数として論理的に認識される。別個判定は空間が担い、集合で表され、自然数的直観的に認識される。 
 歴史的には、直観的に自然数が使われるようになり、実数が定義されるのはずっと後のこととなる…が、中間的な実数の概念はいつでも潜在しうるし、自然数を実数に含まれるものとして考えるならどちらが先ともいえない。
 人類進化のなかで、実数世界の認識が先か、“別物”自然数の認識が先かも、なお考証の余地がある。

 重要なのは数学以前。数学は一つの突破口になるかもしれない。

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