goo blog サービス終了のお知らせ 

模様眺め

3DCGと模様と宇宙

未だ見ぬ幸福のかたち

2012-10-25 13:24:55 | もの思い

 豊かさを求めても幸福感を得られない現代。これはもはや暗黒時代と言っていい。

 現代は宗教がないがしろにされている感もあるが、そうではなくむしろ過分に宗教的とさえいえる。政治、メディア、教育、これらは宗教的機能を効率的に果たしている。

 人間の欲望に比して宇宙は不寛容にできていて、幸福は人間同士で奪い合うしかない。ならば人類はどん詰まりかと思いきや、それでもまだ生き延びているのは、幸福を分かち合う道もあるということか?

 ゲームはクリアできなさそうでできるくらいが一番面白い。ゲームにも色んなゲームがある。世界はよくできている。

 幸福感をいかに演出するか、それが必ず宗教という形態をとるのだとしたら?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

跳ねる鞠

2012-07-18 08:55:36 | もの思い

Mari01
 化石燃料は数億年かけて地下に蓄積されたエネルギー。それに対して核(原子力)エネルギーは数十億年~100億年かけて蓄積されたもの。化石燃料でさえ、地表にエネルギーを放出することでこれだけ問題を引き起こしているのに、いわんや核エネルギーでは。
 エネルギーを使うということは、地球をその当時の状態に戻してしまうことなのかもしれない。

 放射能ははじめは地表に垂れ流しだった。これではまずいと気づくと地中で核実験を始めた。今は分厚い殻の中だけで核エネルギーを放出し続けている。
 もしかすると人の営みがそうなっていくのかもしれない。
 生産を自然から隔離し、廃棄をあらゆるものから隔絶する。
 人は自ら造った自然の中でのみ生きていく。できればであるが、できなければ人類の未来は来ない。

 ただ、核エネルギーは、それとこれとは別の話だ。放射能とは別の問題で、核エネルギーの放出自体が地球環境に害をなす可能性だってないわけではない。なにせ数十億年かけて蓄積されたエネルギーだ。
 これらのエネルギーが何のために蓄積されているのか。適切な時期に適切な方法で使うことなら許されるのか。
 核エネルギーを使う適切な時があるとしたら、それはアルマゲドンの時しかないだろうに。

 人はどう選択するだろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見る力

2011-12-18 00:20:35 | もの思い

 望遠鏡を覗くのも、顕微鏡を覗くのも、同じこと。遠いか近いか、巨大か微細かだけで、本質的な違いはない。
 とくに遠くの宇宙を見ている時と原子の姿を見ようとしている時にそうなる。
 観測が困難になると像がぼやけてきて、得られる情報が点でしかなくなってくる。対象そのものではなく、媒介物によって情報を得ているためだ。
 観測結果が似てくるのは、ただそう見えるだけなのか。それとも、そもそも同質のものだからなのか。

 人間の目も同じ。目では光を受信して脳で情報処理するため、そこには人間特有のクセが差し挟まれてしまう。直接確認が不可能な以上、観測主体によるクセみたいなものが出るのは仕方のないこと。
 見えないものを見ようとするとき、人間なら想像力で補おうとする。得られる情報が少なくなると、観測のクセも顕著になり、最終的に人間が穴埋めをする。
 注意すべきなのが観測対象の性質、観測方法の性質、計算方法の性質で、いずれにおいても真に正当性があるのか、望遠鏡・顕微鏡の観測では考慮する必要がある。

 結果が出ていない時点でこう言うのもなんだが、光よりも速いニュートリノやダークエネルギーの問題も、そのへんに理由があるのではないか。
 いずれにも共通するのが、完成された理論に対して、当然の疑問としてきちんと観測計測してみたら、理論を超える結果が出てしまったということ。観測機器の発達で、今後従来の理論では説明できない観測結果がいくらでも出てくるのかもしれない。
 理論通りの精密な観測結果が出るのも、それはそれでめでたいことではあるが。

 ちなみに私は、『計算』そのものに疑問を感じている身なので、量子力学もビックバン宇宙論もあまり信じていない。

 観測のために設けられた基準が時間。その時間を変えられることにすると観測結果が定まらなくなる。これが時間を変化させてはならない理由。
 この時間を、一定の法則のもとでなら変化させてもよいとすると……時間に対し基準を設け、常に監視観測し、法則性をもって変化させる、ぐらいの仕掛けが要る。できれば実体によって基準を設けたいところだが。
 時間の問題点は実体のないこと、もしくは相対的にしか実体を設定し得ないこと。もともと様々な対象で様々な基準で適用されていたのを、時計を使って機械的に統一させたのが時間で、これまではより精密な時計をつくることで妥当性を保ってきた。さらに精密さが要求されると、一方で正当に適用される時間が他方では誤差が生じるということも起こってくるのでは。
 相互に観測し合い基準となる関係をつくったとしても、その関係においてのみ正しいのであって、時間のように万能性を持たせてしまうとうまくいかなくなる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0と∞の解

2011-10-07 05:28:30 | もの思い

 は中心を意味し、は広がりを意味する。ただし、どこまでが中心で、どこからが∞なのかの指標はないものとする。
 ∞はとらえどころがなく、人が把握するに至らないものと思われがちだが、∞は∞というものであり、他の何かで∞を説明しようとしても当を得ることはない。
 同様に0は0である。

Mugen01
 いくつかの要素からなる便宜上の集合Nがあるとする。
 各要素に順番や大きさはなく、Nに量はない。要素はどの要素をとっても、どの要素に対しても要素でしかない。
 ここに0~∞の中心と広がりをもつ量という性質を適用することで、1~n個までの数となる。
 これは外部から基準を当てはめて計測するというありがちな手法にすぎない。Nは0~∞で計測されて自然数となり、0~∞はNで計測されて実数となる。整数はこの中間形態となる。
 さらにこの数に論理性を適用することで計算が可能になる。

Mugen02
 Nと0~∞は閉ざされた相関関係にあり、数はこの関係においてのみ正しい。いずれかが領分を越えて主張しだすと矛盾が生じる。
 ことに0の扱いには注意を要する。実数ならば0でなくても数を0まで近づけることができるが、整数でNが0を主張しだすと矛盾を招くことになる。
 0+0は0ではない。強いて言うならば2×0だ。∞+∞≠∞であるのと同じ理由だ。
 自然数も整数も(場合によっては実数も)、Nの性質を維持する限り、いくら数を増やしても∞にはならない。

 未数0~∞では次のような計算ができる。
Mugen03
 私にはこの式が存在を表しているようにも見える。0~∞のこの性質がNとの橋渡しをし、演算さらには整数に0、未数Nに空集合を導入することを可能にしているのかもしれない。

※0~∞の実体は次元である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

免疫はじめ

2011-06-16 03:32:28 | もの思い

 自己の定義の難しさ。
 自己とは何かという命題が奥深いのは、これが細胞の発生まで遡って考えるべき問題だからである。

 自然の摂理として…
 他を排除するものは、他からも排除される。それが害をなすからといって、他を排除する存在は、自然界では危険な存在となる。たとえそれが自己に侵入した他だとしても問題は変わらない。
 これが自己なら、不用になった自己を排除したとしても、なんら問題はない。むしろ消化と排泄という自然な振る舞いとなる。
 だったら、自己に害をなす他に対処するには、まずは自己に取り込んでから、不要な自己として排除すればいい。
 免疫とはそういうものではないか?

 自己を識別する、他を識別する、そんなことが本当に可能なのか? そんなことに意味はあるのか?
 免疫にできることは、せいぜい自己の状態を監視することではないか。自己の状態を監視することは、生命の維持にも有用である。また、変化する自己にも対応できる。必要とあらば、監視の精度を上げればいい。
 他を排除する性質は、むしろ自己の曖昧なところにこそ芽生えるのでは?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする