昨日は、木枯らしが吹いて急に寒くなりました。
北海道の札幌は、あっという間に雪に覆われてしまいました。
私も、毛布やあんかを出して、電気座布団を敷きながら仕事をしています。
今日から、ジョージ・ミュラーの「ブリストルの風」を描いていますが、ジョージもやっと苦しかった2年間を通り越しました。
私も、この2年間は、大変だったので、同じような感激と励ましを受けています。
試練の中で、信仰は練られるので、神様に不信の念を抱くのではなく、信仰をもって単純に主に信頼するとき、神様の時に解決の手が動くのです。彼の、人を頼るのではなく、神様のみを頼るという信仰にいろいろ語りかけを受けています。
詳しく知りたい方は、み声新聞をお読みくださいね。
イザヤ書16:6「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は、実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。」 これから、私たちの働きは大きく開かれて行きますが、教会で何度も語られているようにへりくだりが必要になってきます。
「実るほど頭(あたま)のさがる稲穂かな」ということわざのように、実のたくさんついた稲穂ほど垂れ下がっていますが、人も中味の充実している方ほど頭が低く謙遜だという意味です。
説教が、自分の自慢話になると人の心には触れません。本当に、へりくだって神様に栄光を帰す説教は人々の心に触れます。
それにしても、今日まで「実るほど頭(こうべ)の垂れる稲穂かな」だと思っていましたが、辞典には、「頭(あたま)のさがる」となっていました。へー!驚き!