突然,不治の病になりましたとさっ。

病気が大っキライです。
何年経っても受容できず、コントロールの愚痴、毎日の出来事を愚痴る後ろ向きブログです。

発症時の記憶

2008年01月09日 | 発症時の記憶

2年前のことです。



お正月があけても、娘がお留守番出来ないので、学校が始まるまでは、私の仕事もお休みしていました。

始業式の金曜日に久しぶりに出勤しました。

ですが、半日で帰ってくるので、私も半日で退社しました。

(お気楽な職場であります。)



「その日」、朝から、なんか、体がだるかった。

目も見づらい。コンタクトが濁っているのだろうか。

風邪かなー。

・・この自覚症状が、あとから、散々な目にあうことの発端だった。・・・



午後、娘がそのころ習っていた新体操のお稽古へ送り、自分は久しぶりにスポーツジムへ行きました。



エアロビクスのレッスンに出たのですが、体が重くて重くて。

腕も足も上がらなかった。

重い体を引きずるように、シャワーを浴びた。

ロッカールームで着替える時、立っているのもしんどかった。



このとき、完全に「病気」だと自覚したのですが、風邪だろうと思っていたんです。




その夜、何度もトイレに行き、嘔吐した。

嘔吐するときは水分補給をしなくちゃいけない、そう考えて、ポカリやタリタTをガブ飲みした。

そのせいで、トイレが近いんだと思っていた。


翌、土曜日の朝、近くのクリニックに行っておいた。

病院は午前診だけで、日曜、そして月曜は祝日であるため、風邪でも掛かっておいた方がいいだろうと思って・・・。


「胃腸風邪ですね」

といわれ、点滴を(ブドウ糖入り)2本された。

どんどん、身体は重くなっていきました。



いつも、尿検査をするクリニックだったのに、その日はなかった・・。

あれば、発見が早かっただろうか?

どちらにせよ、今の私の状態が変わるわけではないし。




もうすぐ、2度目の「その日」を迎えることになる。。




発症時の記憶

2008年01月09日 | 発症時の記憶

金曜日に体調不良。

土曜日に最初の受診(近くのクリニック、MY病院ではない)をした、

吐き気止めとブドウ糖の点滴を受け、一向によくならなかった私の「胃腸風邪」



・・・・ますます、身体はしんどくなっていきました。


日曜日、ダーリンが消防署に電話して、救急診療を受け入れている病院を教えてもらった。

それが、今のMY病院である。



娘をお留守番させ、ダーリンに連れられ、受診した。

後から判明したが、その時の当直医は娘のクラスメートの父親でした。



「金曜日から、体がだるくて、なんか、目も見にくかったデス。」

「まったく、食事は摂れませんが、吐き続けています」

など、問診をした後、

「やっぱり、胃腸風邪だと思うよ。多めに点滴しておこうね。」

と診断されました。



点滴で1―2時間かかるといわれ、留守番させている娘が心配で、点滴を断ったら、

ダーリンが「したほうがいい、早く、治るから」と言うので、しぶしぶ。



翌日には、娘が習っている楽器のコンクールがあるから、早く治りたかった。


点滴を受けたけど、ちぃっとも、良くならなかった・・・。




その日の夜、

私の寝室は2階だが、ベッドまで戻れなくて、トイレとリビングの往復で一晩を過ごした。


何も食べていないのに、吐き気は強くなり、吐くために水分が欲しいのか、ペットボトルの水をトイレにおいて、飲んでは吐く、を繰り返していた。




もう、立ち上がれなかった。



トイレからリビングまで、よつんばで這って移動した。


翌朝は祭日で、娘のコンクールの日だった。




そして、私が入院した日、になった。


発症時の記憶

2008年01月09日 | 発症時の記憶
私が入院した日、

その日は娘のコンクールの日でもあった。

お弁当が必要だったけど、もう、私は立ち上がることすら出来なかった。



ダーリンが冷凍食品をつめて持たせてくれた。

娘ははじめて、おにぎりではなく、お弁当箱に平らにつめたご飯のお弁当を食べることになった(らしい)



ともかく、娘を会場入りさせたダーリンは、取って返し、私を抱えて病院へ行った。

病院に着くと、車椅子に乗せられた。



そのころ、既に意識朦朧としており、記憶が無い。


その日の当直は院長先生だった。



「奥さん、普段もこういう喋り方するの?」とダーリンに聞いたらしい。

私は舌がもつれて、肩ではぁーはぁーと大呼吸して、体温が33度の低体温だったらしい。


昨日の初診時のカルテから、

「目が見にくかった」、「吐く」 から

脳外科がご専門の院長先生は、脳出血を疑い、頭のCTを指示された。

だが、病変箇所が見当たらないので、何度も撮り直し、結局3回も撮った。

CTだけで何時間も費やした。



院長先生は、「イミダス」のような超分厚い本のページをめくりながら、

何度も首をかしげ。。。

ダーリンは不安でたまらなかったらしい。



たまたま、簡易測定器で血糖値を測ったら、(糖尿が出ていたのかもしれない)

HIをマークした。



MY病院は血液検査は外部委託であるため、私の発症時の正確な血糖値は判らない。



ここで、糖尿病昏睡、ケトアシードシスであることが判明した。


そして、そのまま、37日間の入院となった。





しかし、「劇症1型糖尿病」の診断が付くのは、もっと、後からである。

発症時の記憶

2008年01月09日 | 発症時の記憶

入院時、記憶が無い。


意識がほとんど無かった。



夢か現か、まぼろしか・・・。



私の脳裏には、砂漠のような荒野、極彩色の江戸小紋のような柄の服と、近未来のような機械、ロボットが見えた。


マッドマックスという映画のような光景である。



人は死に掛けると、あの世を垣間見るという。。。


では、私の夢に出てきたのは、地獄だったのか。

私がそういう人間である証明だ。。。






だんだん、周りの状況を、理解でき始めたころ、

ベットの上に主治医の名前を見つけた。



だが、主治医と対面するのには、数日かかった。




相手が主治医だったかどうか、記憶が定かではないが。

院長先生だったかも。

「ベットへ回診に行くと、『いつ、退院できますか?』って、そればっかり言ってた」・・・らしい。



ダーリンは何日か会社を休んだが、娘は休まなかった。

そして、娘は、4時に下校してから、ダーリンが帰宅するまでの3時間、はじめてのお留守番をすることになった。


私が退院を切望した理由である。







結局・・・・。

2008年01月09日 | 発症時の記憶

発症時の記憶をたどってみた。



忘れないように書き留めておくために、「私のための覚書」カテゴリーでしたが、無意味でした。



意識が無かった時を別として、私が、あの時、覚えていること、感じた事は一つも忘れていない。


忘れられない・・・。




きっと、一生、その日を受け入れられない。

結局、病気を受容することも無い、する気もないんだと思います。



私はDMが大っ嫌いだから。




こういう生き方や考え方が、自分自身を不幸にしているのかもしれません。

DM以外の部分では、十分、幸せを感じていますし、何より、正直な感情に偽りもありません。



いつか、受け入れられるかもしれないし、一生、できないかもしれません。

もう、受容するための努力はしないデス。

無理して得られるものじゃないから。。。。




こんな記事でも、読んでくださった方に感謝。

今、一番、MY主治医に読んで欲しいと思いました。