maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

超光寺 那須の与一と飛燕戦闘機 豊中-08

2002-11-03 10:17:41 | 支離滅裂-城市有情ー豊中

大阪国際空港(伊丹の飛行場)の東、千里川の東岸にあります。
豊中駅からやと、真西に1Km足らずです。

1915年(大正4年)第一回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の選抜高校野球大会)が開かれた豊中グラウンドは、駅とお寺の丁度中間に有ったそうですが、今は住宅になって記念の小公園が有ります。
豊中駅西側のこの辺り一帯は、大企業の社宅が多く、子供の頃は自分の事を「ボク」などと言う、関東語を話す小綺麗な子供が多い町と感じていました。
それに反して、岡町駅周辺は地場の商売人や個人の持ち家が多い, 言わば原住民の町、大阪弁各種に北摂弁が混じった「オレ、ワシ」の悪ガキの町という感じでした。

その、チョット上品な豊中駅西側から坂を下ると、麻田地区。
ここは麻田藩というチリメンジャコみたいな藩があった古い地区。
その一角に超光寺が有ります。
何を隠そう、ウチの旦那寺。
(そうなった経緯はココ。)
今上天皇の生誕を記念して、このお寺が作った幼稚園がウチの近所に在りますねん。
一番上の姉以外、私の妹、子供は皆そこの卒園生。
現住職の奥さん(惜しくも亡くなった)は、私の小中高と同窓生。
墓は本堂の裏に置かせてもろてるし、オヤジの葬式もここでさせてもろた。

子供の頃は山門の前に、エビガニ(ザリガニ)の宝庫やった久保池という大きな溜池があったけれど、今は埋められて公園になってます。
自宅からやと直線で1.5Km、道なりでは2Km強、丁度ええお散歩の距離です。

開山は空海、という事は、最初は真言宗のお寺やったんですね。
源平屋島の合戦、扇の的で有名な、弓の名人、那須の与一が仏門に入った寺と伝えられています。
ショボクレてたのを那須の与一(空覚)が一向宗(浄土真宗)に改めて、勢いを取り戻したと伝承されてるそうです。
道理で山号が那須原山ですわ。
那須山超光寺が正式な名前。
平家を追って西進する途中、那須与一は、このお寺に立ち寄って武運を祈願したんやそうです。
そのご利益があったのか、見事に波の上に揺れる扇の的を射落として、敵味方からやんやの喝采を受け、功名を上げた那須与一は屋島の帰りに、超光寺に鎧を奉納したと言われてます。
しかし、その鎧は見せて貰ろた事無いで。

追加情報: 昨日散髪に行って、お寺の話になったんです。
「うちは超光寺さんの檀家」言うたら「アア、那須さんとこのお寺ですか」
又エライ那須の与一さんと親しそうな事言うがな。
このおばちゃん、私が子供の時には既におばちゃんで、えろう変わってないけれど、人魚の肉でも食べた八百比丘尼か?
確か実家は中国山地のど真ん中、若狭ではなかったけどなぁ?と思て訊いたら、さすがに与一さんとは面識無いらしい。
驚いた事に、那須与一の子孫と称する方がお寺のすぐ横に今でも住んではりますねんて!
そう言えば、南側にその苗字の大きなお宅があるわなぁ。
けど扇の的とは結び付かんかったなぁ。
お宅の脇の大っきなマンションも持ってはるねんて。
何と鎌倉時代からず~っと居てはりますねんで。
ただし、これは、系図も見てなけりゃ、DNA鑑定もしておりません、あくまでも未確認情報。
けど、面白いですやんか。
情報源:近所の散髪屋のT田おばちゃん(2002/12/02) 

阪神大震災で太鼓櫓は傾くは、本堂の中は梁が折れてグチャグチャ。
墓石は将棋倒し。
「天災とはいえ、ウチが預かってるお墓。欠けたり、折れたりしたのはよう治さんが、こけたままにはして置けん」と住職が石屋の尻を叩いて、半月もせん間に全部元通りにした。
地震の3日後お墓を見に行ったら、もう作業に掛かってた。
「お預かりしてるお墓の事やから、費用は全部お寺で持ちます」と、これには檀家一同、「さすが住職!エライ!」と見直した。
そうなると、毎月の月参りのお布施もちょと考えまっせ。
あの心意気に免じて、何ぼかお布施増やそうかしら?と思うのは人情。
報恩講や何やいうたら、知らん顔も出来へん。
「損して得取れ」この辺の呼吸は、さすがですなぁ。
「下司が何を言うか、縁無き衆生やの~」と怒られるかいなぁ。
もっとも、ウチの九州から移転した墓石は、据わりが悪かったから、石屋の反対を押し切って、船舶エンジン補修用の特殊な接着剤で貼り付けたんが効いたか、倒れんかった。
今は本堂の建て替え中。
そんな訳で本堂の写真は無し。

本堂裏には、報恩と刻まれた、飛行第五十六戦隊「飛燕航空隊」の慰霊碑も有ります。
伊丹空港からB29を迎撃したは、1944年4月26日から敗戦の1945年8月15日までの間に、39名の戦死者と6名の戦病死者を出したそうです。
中佐1名少佐2名(戦死による特進を考えると大尉、中尉だったのでしょうね)を含む39名は搭乗員がほとんどです。
スーパーチャージャー付きで高高度を飛ぶ爆撃機B29はハリネズミみたいに機銃だらけ、弾は何ぼでも有るから撃ち放題。
味方の高射砲は届かんし、何ぼ飛燕が名機というても、整備に手間の掛かる水冷エンジン、戦争末期で部品の供給もままならず。
「ガソリンの一滴は血の一滴」その血も貧血気味で「松根油」などと言う松から採った油を混ぜたとか、混ぜんとか。
粗悪なガソリン積んで、敵の高度まで上がるのもヤットコセ、少々弾を命中させても、防弾に配慮した設計のB29は簡単には火を吹かん。
片や日本の戦闘機は、運動性能と攻撃力重視、搭乗員の安全は2の次。
弾を喰らえば一瞬で火達磨。
ようヤケクソにならんと頑張ってくれはったもんです。
慰霊碑には何時でも花が供えられています。
大阪に近い上に、飛行場が有るので爆撃されて、豊中市内で戸数3540戸12951人が罹災。
近くにある某大生命保険会社の戦災慰霊碑に刻まれている名前は児童、幼児と女性ばかり30数名。
住宅地やから、犠牲者に女子供が多かったという記録には胸が痛みます。
数年前も、豊中駅の近所で、不発の1トン爆弾が出てきて、大騒ぎしてましたねぇ。

ウチは1945年の3月に空襲で焼け出されて、初夏に豊中(岡町)へやって来たんです。
空襲の最中で何時爆弾が落ちてくるかわからんと、疎開してる所に引っ越して来るねんから、家も土地もゴッツイ安かったらしい。
幸か不幸か数ヶ月で敗戦、家は焼けずに無事残りました。
「命さえあったら、土地は燃えへんねんから、何とかなるわい」とオヤジは開き直ってたいうから、直ぐに開き直るんは遺伝かいな?

2002/11/03

 

 



最新の画像もっと見る