先日、年始の挨拶に西日本を回りまして、久し振りに小倉の長浜にある貴布袮神社にお参りしたんです。
長浜と言うのは、「企救の長浜」「企救の高浜」と呼ばれていた小倉から門司の大里までの海岸線で、今は埋め立てられて見る影もないんですが、白砂青松の見事な浜辺だったそうです。
豊国の企救の長浜ゆきくらし 日の暮れぬれば妹をしぞ思ふ
(豊前の国の企救の長浜を歩き続けて、日が暮れてきたら愛しい女(ヒト)を思い出して、もぉたまりまへんわ。)豊国の企救の高浜たかだかに 君待つ夜らは小夜ふけにけり
(豊前の国の企救の高浜みたいに、背ィ伸びするようにあんたを待ってたら、夜はもうふけてしもたやんか、あ~ぁ。)
と万葉集にも詠われてるんですが、余り有名な歌やないねぇ。
私の直系の先祖で、生没がはっきりしているのは文政五年(1822年)生、明治三十六年1903年没の傳四良という人が一番古いんです。
それより前は現時点では詳しい事が不明なんですわ。
天正の末に豊後から豊前に流れて来たと言うんですが、はてホンマかいな?
少なくとも文政五年(1822年)から昭和十年(1935年)の間の100年以上は長浜に住んでいたのは間違い無いんです。
此処でいう「長浜」は「企救の長浜」の東端近い砂津川の西に在った漁師町の町名なんです。
玄海灘、枯木灘、遠く周防灘へも出漁していたそうです。
新幹線の高架で南を、道路拡張で北を削られ浜辺は埋め立てられて、道路で分断された長浜の一部と埋立地を一緒にして末広町などと言う町が海との間に出来てしもたんです。
それでも住民の入れ替わりはほとんどなく、狭い町の中は家族みたいなもんで、70年も前に大阪に出ていったウチを未だに覚えてくれてるんです。
「何時頃からあんまり顔ぶれが変わってないんですか」と訊いたら、「長浜が戦争で丸焼けになってからよ」
丸焼け?第二次大戦の小倉空襲では焼け残った筈やがなぁ?
「イ~ヤ、長州との戦争いな!」
オイオイ、それは又話が古いなぁ、高杉晋作が奇兵隊連れて攻めて来た時の話しかいな!
その長浜の鎮守さんが貴布袮神社。
神主のいない小じんまりしたお宮さんで、地元の氏子がお守りしてますねん。
2~3年前にもなるやろか?
お宮さんの鈴の綱を変えたいんやけど、と突然貴布袮神社の氏子総代さんから電話がありましてね。
何で又ウチに電話してきたんかと思ったら、昭和十六年(1931)に親父と大伯父2人が今の綱を寄進したんやそうな。
そら70年も経ったら傷むわねぇ。
変えるにしても一言断りを言うとかんと、大阪からお参りにきて、親父の寄進した綱はどないした?と言われたらいかんじゃろ、と電話してきてくれたんやそうな。
「新しい綱はどうしますねん?」と訊くとこれから町内に芳賀帳を回すんやて。
鈴の綱ちょな物は2階や3階から垂らすんや無い。
1階の梁からでんがな。
いくら軒が高いいうても、何十mも要るで無し、幸いロープはウチに売るほど有る、実際に売ってるんですけどね。 「しかし、麻のロープのそないに太いのは無いねぇ・・・。ナイロンやったら切れッ端が有るけどなぁ」と話したら、「ナイロンでもかまへん、幾らで分けてもらえるやろ?」
ウチにしたら3mや4mの長さのロープは売り物にもなれへん。
捨てるのにもお金が掛かるから無料でエエけど、房や上の取り付けの細工はどないする?と訊くと、さすがは元漁師町、「綱の細工ならお手のモンやから任せといて!」
ほんならと宅急便で送りました。
産廃の処理費考えたら、喜んで貰えるだけでも儲けもんでんがな。
「年寄連中が昔取った杵柄で上手い事取り付けたから、見においで」と言うてくれたけど、そうそう気軽には行けまへんで。
そうこうしている内に、氏子一同からの礼状と綱の写真、雲丹の瓶詰めがダンボール一箱届きましてん。
元々が半端物を使って貰ったのに、気づづ無いなぁ・・・、と思いながらもありがたく頂戴したんです。
年明けの挨拶回りで、長崎、佐世保、博多と済ませて、JR小倉駅北口のビジネス・ホテルまで辿り着いての翌朝、5時に目がさめたがすることが無いんですねぇ。
「そうや、久し振りに貴布袮さんへお参りしょう。」しかし外は真っ暗け。
丑の時参りや有るまいし、真っ暗けのお宮さんてのは、あんまり気色のエエもんやおまへんで。
下手をしたら賽銭泥棒に間違われかねん。
暇つぶしに風呂に入って、ジリジリしてたら7時前にやっと薄明るうなってきました。
ホテルから歩いて5分チョットですねん。
何回もこのホテルに泊まってるんですが、いままでにお参りしてないのは怪しからんね。
六地蔵さん、向うに見えるのは新幹線の高架
先ずは港の入り口の六地蔵さんにお参り。
子供の頃長浜に来ると、真っ先にこのお地蔵さんに必ずお参りしたんですわ。
漁師町やから、お地蔵さんの世話にならんといかんような、海難や事故が多かったんでしょうねぇ。
舟溜まりの傍らに並んでる六地蔵さんの横手には、漁網に掛かった物らしい仏像の欠片なども並んでいます。
ありあわせの花とはいえ、それぞれに供えてあるのを見ると心が和みますねぇ。
形だけでも「まんまんちゃん、アン」とお参りして、道を渡ってお宮さんへ行きました。
なるほど「任しておくれ」と言うだけあって上手い事加工してくれてます。
さすがは漁師町のお宮さんですなぁ。
鈴の綱の写真を撮るにはまだ少々暗いので、アッチコッチ念入りに眺めたけれど、例の万葉歌碑の他には得体の知れん大砲の玉、底引きで掛かったらしい珍しい岩が据えてあるくらいでさしたる物は無し。
小さなお宮さんやから、隅から隅まで廻っても、そうは時間が潰れまへん。
正面に戻って、何とか写るやろう、と写真を撮ってたら人の気配がしますねん。
おばちゃんが境内の掃除をしてはるんですわ。
「おはよう、ご苦労さんです」と挨拶したら「おはようございます。あなたもしか大阪の〇〇さんやないね?」
え~っ、私この人知らんで?何で判ったんやろ?
「はいそうですけど、失礼ですが以前にお会いしました?」
「いんやぁ、そうやないかなぁと思うただけいな」
「何で?」
「この朝の早ようからお参りするのは、長浜のモンか元此処に居ったモンだけでしょう。鈴の綱を眺めてて、大阪の言葉なら〇〇さんに決まりやろうもん」
ほんの短い挨拶の言葉を大阪弁と判断して、瞬時に本人特定まで持ってくるとは、何と恐ろしい推理力やおまへんか!
それより何より、昭和の始めに長浜から出ていったウチの苗字がスルッと出てくるか?
「アンタご存知やろが、末広にご親類が1ッ軒残ってなさるが、寄りなさったですか?」
「え~っ、そうですか?いや全く知りませんでした。」
大阪に帰ってからウチの婆さんに訊いても判らん。たった一人生き残っってる父方のオバサンに訊いたらどうやら、江戸時代に分家した遠~い親戚で、養子養女が何度か続いて苗字は同じでも付き合いはして無いそうです。
もっとも、90歳近いお年やから何処までがどうかははっきり判らんのですがね。
「XXさんへ寄んなさった?」
「いや、お寄りしてませんねん」
XXさんというのは氏子総代なんです。
綱が上手い事付いてるかを見に来ただけで他に別に用事もなし、幾ら何でもこの早朝に突然挨拶には行けませんがな。
ど~です、このこじんまりした佇まい。
そうこうしている内に、鳥居のところが集合場所になってるのか小学生が集まりだしました。
てっきり年寄りばっかりの息も絶え絶えの街かいなと思ってたら、そうでも無いんですなぁ!
これが私みたいな余所者にまで「おはようございます!」と挨拶してくれるんです。
一しきりスズメの群れみたいにガヤガヤやってましたが、時間が来たのか口々に「行って来ま~す!」と言うんですよ。
エッ?と周りを見てもわたししか居て無い、慌てて「行ってらっしゃい!がんばってな!」というと、小走りで元気に登校して行きました。
朝から嬉しいねぇ、この町が出所(デショウ)で良かったなぁ。
再開発の計画が持ち上がってるらしいのが少々気がかりですわ。
2004/07/14:初出(旧OCNホームページ)
2021/09/06:再録
【妄言虚説-神さん 3/4】・【妄言虚説-神さん 1/4】