波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

Morning Sun(「八九点鐘的太陽」)を見て

2005-06-19 02:53:39 | 近現代史
先日地元の米公共放送局PBSで次のような文化大革命批判ドキュメンタリーを見た.

Morning Sun(支那語題名は「八九点鐘的太陽」)
http://www.morningsun.org/index.html

今後の北米各地のPBSでの放映予定は,以下のリンクで確認可能.
http://www.itvs.org/search/broadcast.htm?showID=340


同番組を見た後,太田述正氏のコラム(#745「厳しく再評価される毛沢東 その2」)を読み,番組中に挿入されていた歌劇と映画によるDadu River渡河英雄譚は実のところ中共共産党の制作の虚構で存在しなかった,という証言が最近出てきたことを知った[橋の名前は,瀘定橋(Luding Bridge)].このドキュメンタリは文革時代を生き延びた中共人へのインタヴューが重要な部分を占めていて,太田氏のコラム中に引用されていたTaipei Timesの書評記事中に登場する毛沢東の元秘書であった李鋭(Li Rui)と彼の娘のものも含まれている.彼等へのインタヴューは,文革中,反革命分子と烙印を押された親の子が,自分の国家への忠誠心を証明するため,親子の情を断ち切って,呵責なく親を糾弾した一例という趣だった.また,走資派の首魁として粛清された国家主席劉少奇の夫人の王光美は何とか文革を生き抜いたようで娘の劉亭と共に証言に応じていた.王光美は戦前ミッション系の大学で学び英語に堪能であったとされるが,インタヴュー時の80過ぎという齢を感じさせない服装のセンスや容姿をみると,文革中に大群集の前で公開吊るし上げに遭ったのは,単に劉少奇の身代わりということだけでなく,このような彼女の「ブルジョア」的センスも仇となって槍玉に挙げられる格好の理由になったのに違いない(「真珠の首飾りをしてインドネシアに外遊したのがけしからん」という批判は噴飯物だったが,「[旦那の]劉少奇の言うことには従っても国家主席の毛沢東の命令には従えないのか」という群集の野次のエグさには絶句).勿論,文革中ブイブイ言わせた連中,例えば「紅衛兵」結成時のメンバー(北京大学の学生?)や紅衛兵として暴れまわった人物のインタヴューも含まれているが,彼等の顔は無照明で隠されていて,現在の中共における彼等の位置付けを暗喩したものになっていた(彼等が中共内でインタヴューされたかどうかは,番組を見た限り不明,顔を隠したのは,当局の指示か,それとも復讐等を恐れる本人達の希望だったのだろうか).

文革については同時代的に基本的なことは知ってはいたが,今まで専門書等を読んだことが無かったため,当番組によって初めて知ったことも色々あった.1958年に始まり悲惨な結果に終わった「大躍進」政策は,当政策に批判的であった劉少奇にしても,既に神格化されていた毛沢東の面子との兼ね合いで,あからさまに毛沢東の失政と断罪できなかったため,「大躍進」の惨禍は中共国民に知らされず現在も隠蔽されたままになっている.ところが皮肉なことに,文革中の下放政策が農村に行った学生に大躍進の惨禍を直に見聞きする機会を与えてしまい,党から垂れ流される御用情報について懐疑心や幻滅を抱くことになったことが証言されていた.また,文革中の下放政策を「走資派等の反党分子の子弟の再教育手段として彼等を強制的に農村に送り込んだ」とい風に理解していたが,当番組によると,丁度日本の大学紛争の頃と同じ感じで,大学内外が混乱して勉学・就職どころではないので,学生が都会で無為徒食の生活を送るのではなく,農村に行き何か生産活動に貢献する,という政治的に腰が入った学生側からの先導もあったことになっている.文革中に学生だった者から其の頃の話を聞くと,大抵「農村で働かされて」云々という受身的な返事が戻ってくるが,当時の学生の中には報国的な熱意・理想を持って農村に自主的に行った者もいたのだ.このような反論できない崇高な建前を主張して止まないマジ学生が周りに一人でもいると,都会でぷらぷら無為徒食でも結構と思っていた者も,反党分子の烙印を押されることを恐れて,心中不本意ながらも農村に行かざるを得なくなり,雪達磨的に学生達が農村に向かったことが想像される.

文革の紅衛兵は,日本の「♪戦争を知らない子供たち♪」に対して,「革命を知らない子供たち」に相当する.文革は,そのような「革命を知らない子供たち」が神話化[洗浄]された支那本土統一過程(革命)の精神を温故的に継承しようという側面もあった.いわゆる紅衛兵ファッションにしても,当局の押し付けではなく,父母ないし祖父母の革命時代の古着を子供や孫が押入れから取り出して再利用したことに由来し.また,革命精神の世代間継承の一環として,延安等の革命の聖地へ巡礼することも流行ったそうだ.中共樹立の裏には共産党員以外の様々な背景を持つ人間の協力があったが,文革はそのような非正統の過去を持つ人物を反革命分子として「革命を知らない子供たち」に摘発・断罪させた.この粛清によって,中共成立の正史は更に洗浄されて,史実からますます掛離れたものになったのに違いない.国共内戦勝利における「旧満州国」の貢献(同地で終戦を迎えた日本の陸軍航空隊関係者が戦後中共空軍創建に関与したなど多岐に渡る)にしても,毛沢東たち革命第一世代は,建前はともかく,内心忸怩たる思いだったかもしれないが,後継世代は正史洗浄によってそのような事実を知る機会もなく,日本を叩くことに何の躊躇もないに違いない.

唐の太宗の「貞観政要」に出てくる創業と守成の話からすると,「大躍進」失敗を真摯に受け止めた劉少奇にとって,創業の時代は既に終わっていて,これからは堅実な守成(経済発展による民心の安定)こそ最重要課題と認識していたのであろう.しかし,毛沢東はそれを「自分」の革命に対する冒涜と見做し,文革を通して,神話化された創業精神の再興を次世代に訴えた.「御上を批判しても良いのではないか」という「大躍進」失敗以来の民心の燻り(民主化の芽生え)を逆手に取って煽り,そのはけ口を当該政策の責任者である自分ではなく,時の指導部に向けて暴発させ,自分の再起と引き換えに中共を大混乱に陥れた.しかし,文革時代の野放図な主張・批判の応酬とそれに伴う混沌は,或る意味で,共産党にその独裁を正当化する口実を与えたのではないか.ブルジョア民主主義的に各自が好き勝手な事を主張しても文革のように国を混乱させるだけであり,共産党の指導に沿って人民が秩序正しく行動すれば,社会の安寧が維持され経済も発展するのだと.

文革の混乱に終止符を打ったのは人民解放軍の武力であって,法と秩序を守ろうとした各個人の意志の結集ではなかった.法規はあっても恣意的な運用が強く遵法の精神も脆弱という今の中共の現状を考えると,遵法精神が社会の底辺まで行き渡らない限り,民主化への動きは文革の再現か暴力的衝突(例えば天安門事件)で終わる可能性が高いのではないか.英国議会の下院議場の床には今でも2筋の赤線が2刀身間隔で引かれている.与党と野党の議論が白熱してサーベルを双方振り回しても刃傷沙汰にならないようにするための配慮の名残だ.しかし,この配慮も,議論中は双方とも当該線を踏み越えない,という議員各自の自律(遵法)の前提の上に成立しているのだ.法による統治と各個人の遵法(自力救済の放棄),民主主義実践のための十分条件ではないが,必要条件の要素と言えよう.

21世紀初頭を生きる日本人からすると,文革時代の中共における既存秩序の破壊と過去の歴史との訣別は確かに大衆の「狂熱的情緒爆発」として奇異に見えるが,日本の近・現代史を振り返ってあれこれ反芻していると,いささか暗澹とした気分にならざるを得ない.例えば,文革中の文化財破壊(特に仏閣・仏像)の記録映像を見ていると,明治初期に猖獗(しょうけつ)をきわめた廃仏毀釈による文化財の遺失(特に海外へのもの)を連想せざるを得なかった.また,先に触れた法による統治と各個人の遵法に関連して,戦後の教科書では,明治時代憲政の実践のために努力した議会の動向よりも,法による統治を否定して自力救済に走った事件(秩父事件や米騒動等)に注目した革命史観的構成が目立つ.藩閥政府の壟断に反対し,五箇条の御誓文の完全実施(民意を汲み上げる機関の設立)を背景に高まった自由民権運動もその本来の意義が忘れらて革命前史の一齣的扱いになっている.護憲云々という主張と,文革的な動乱万歳という趣の法による統治を軽視した史観の信奉は本来両立しないはずだが,当の本人達は革命達成のためには何でも有りという発想なのだろうか.更に,「大躍進」失敗で露呈したように,守成でも指導者としての資質を疑われ,また革命家という創業者としての金看板ですら鍍金が剥げかけようとしている毛沢東の呪縛から解脱できずにいる今日の中共人民と,半世紀経っても占領軍と吉田茂合作の呪縛から解脱するどころか,むしろ米軍依存で安逸を貪っている日本国民に大差があるのだろうか,と.


註:太田述正氏の掲示板へのコメントを推敲・加筆

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