波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

謾録,それとも漫録?

2005-04-29 00:49:41 | 江戸
 テレサ・テンや都はるみ等についての著作で有名な有田芳生氏が書き綴っている網誌の標題は『酔醒漫録』で,三水の「漫」とになっている.一方,当該網誌の標題では常用漢字外の同音異字「謾」が使われている.『角川必携漢和辞典』で調べると,「謾」の三番目の意味として「ひろい」を挙げ,「荘子」中の使用例を引用している.今から百七十年程前の江戸末期は天保8(1837)年,或る浪華生まれで当時江戸深川住まいの日本人が,此の世での自分の知的営みの証として,近代以前の意味での「文学」に挑戦しようと思い立った.しかし,哀しい哉これといった主題に思い至らず,自分が見聞きした三都(大坂[従来使用の坂が「土に反える」と読めることを忌んで阜(こざと)偏の阪に変えたのは明治以降の筈],京都,江戸)の比較を絵入で今日で言う所の百科事典風に丹念に書き綴っていく事にした.これが今日,時代劇の考証や江戸末期の民俗的研究において貴重なネタ本的存在になっている『守貞謾稿』の由来である.標題中の「守貞」の部分は勿論同著者である喜田川守貞の名前から来ている.同書名の響きを気にする者(東日本系と想像される)がいるのであろう,明治以降は姑息にも『[類聚]近世風俗志』という勿体振った書名で刊行されている(岩波書店刊の文庫版も此れを踏襲).市井の庶民の日常生活に注目して云々の仏歴史学者フェルナン・ブローデル等のアナール派が台頭したのが前世紀中葉だったが,彼等に繋がるような視座を持った人間が二百年近く前の日本に存在していたのだ.『守貞謾稿』を捲った者は,大抵此処彼処(ここかしこ)的に挿入されている図の豊富さに圧倒されるが,後世の我々は喜田川守貞の筆記力だけでなく素描力にも感謝せざるを得ない.

註:明治以前の「文学」の意味については,坂本多加雄『20世紀の日本 11 知識人:大正・昭和精神史断章』の第一章の山路愛山について論じた部分を参照

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