波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

文明化した社会の或る終着点 「血を見る」ことを忌避した社会の黄昏

2005-09-25 02:36:33 | 雑感
 最後に本網誌を更新してから3週間弱経ったが,仕事の締切が9月中旬から9月末に延びたため(実質10月に繰り延べか),更新する余裕が見出せないままになっていた.先月より職場が変わったが,仕事場の物理的環境の向上が,そこで働く雇用者の生産性を如何に高めるかを改めて感じている今日此の頃だ.そのような忙しい最中,ある大学教授の一時間程の講演を聞く時間を設けて聴講に出向いたが,講演の内容は今一つ以上のもので,あのまま仕事に専念していればよかったかなどと一瞬後悔したが,その後色々考える切っ掛けになったので,完全に無駄ではなかったようだ.当該教授は1950年代前半から在米生活50年余りで近頃名目上退職されたようだが,自分の在米体験と,第二次世界大戦前後米国Yale大学で教鞭をとっていた日本人教授の故 朝河貫一(あさかわかんいち:http://www.db.fks.ed.jp/txt/10011.103.nihonmatsu/index.html)の半世紀に渡る在米体験(昭和23(1948)年に逝去)を重ね合わせて,日露戦争と大東亜戦争の戦後について論じていた.早い話が,当該教授は,今の平均的日本人の心情(日露戦争は勝って良かったが,大東亜戦争は負けて残念だった)とは全く逆のことを感じている,即ち,日露戦争は勝ったものの問題を彼是残して良くなかったが(帝国主義の継続),大東亜戦争は負けたが戦後出来した新秩序は良かった(帝国主義の終焉),というものだ.敗戦時10歳であった此の教授はいわゆる「国民学校」の世代で,この世代の日本人は,昭和一桁前半以前に生まれた連中と比較して,一般的に,何か物足らなさを感じることが多い.結局当該教授は,戦後の米軍占領中に受けた洗脳を,疑うことなく,そのまま有難く頂いて今日まで研究・教育生活を続けてきたことが講演内容から分かった.まさに,片岡鉄哉氏が述べているところの「マッカーサーの宣伝相 ライシャワー」(『日本永久占領』第12章 標題)の申し子の一人として洗脳に沿って忠実に生きてきた人生と言える.
 この教授の講演を聴いていて思い浮かんだことは,彼が礼賛していた米露二大強国の均衡による第二次世界大戦後の世界秩序は或る暗黙の前提に基づいていて,今その前提が崩壊寸前にあるにもかかわらず,彼はこのことに気付いていないのではないか,気付いていても真剣に認識していないのではないか,ということだった.それは,統一された支那が経済的・軍事的に米露他の強国の後塵を拝したままでいるという前提だ.近年海外からの投資で潤ってきた中共は,その経済的成長を維持するため,形振り構わず,必要とされる資源を世界中から掻き集めることを意図していて,そのためには軍事的手段による威嚇その他の行使も厭わない立場を鮮明にとっている(例えば,沖縄近辺の海底油田問題等での日本に対する各種の威嚇).或る意味で,中共の地位を相変わらず見下して,自分(日本)よりも,社会経済的に数段下の国という趣の古い認識で,自分達の存在を脅かす競争相手という真剣な認識が欠落している.戦後賠償の一変形として日本から中共に公的な資金を恤(めぐ)んでやっているという事実をとられえて,日本の金持ちとしての立場の高さを彼是論じることは出来ようが,中共がそのように理解せず,米の核の傘の下に安住するような意気地なしの日本が中共の各種の威喝に怯えて見ヶ〆料的に「財政支援」している,というような認識をその国民に言い触らして周知徹底している現状がからすれば,笑止千万の自惚れではないか.確かに経済的に中共は日本程度の生活水準に未だ達していなので競争相手とは見做せないが,外交・軍事の断面については,そのような経済的な視点からの認識は全く通用しないのではないだろうか.外交・軍事では別の原理・原則が働いているのではないか.
 此処まで考えてふと思いついたのは,予てから考えていたcivilized society(文明化した社会)の「終点到達」現象だった.最近の太田述正氏の網誌では,度々日本その他の「いわゆる」先進国社会における中性化が論じられている.彼の中性化論で未だ詳しく論じられていないことに,中性化と武力の行使,或は流血を厭わない紛争解決を忌避する傾向の関係がある.戦後日本を振り返ると,国際紛争の武力による解決の原則否定の憲法を頂いてから,何事につけても,「血を見る」問題解決を最大限に忌避してきた,「血を見る」問題解決を行わないことが「文明化した社会」であるという建前を維持してきたと言える.勿論,本音は別で,国会での乱闘や暴力を伴う路上威示行為等に見られるように,公的な側の法的裏付けを持った暴力行使(警察)は「人権弾圧」の枕詞で極力否定・攻撃するが,非公的な側の自力救済的暴力行使は「革命肯定史観」に則り造反有理的に可であり,暴力を厭わないことが明らかで,「暴力反対」も所詮建前だけのことが分かる.紛争解決において武力行使を厭わない「文明化していない社会」と其れを厭う「文明化した社会」が衝突した際にどのような結果になるかは,人間の歴史を振り返れば自明だ.そのような武力を厭わない非文明化社会が,経済的に豊かで血を見ることを避けたがる社会に乗り上がり武断政治で統治を継続すると言う形態は,支那の「元」や「清」を見れば明らかであり,現在の中共の政治体制から判断すると,日本が米国から見放された場合,中共の餌食になり,朝貢国に転落ということも十分在り得る.
 世界の文明化した国が中共,そして或る程度露西亜に対して疑義を拭えないのは,彼等の国の規模の大きさだけでなく,彼等の武力行使機構に対する法的拘束やその運用にまつわる不透明さであり,いざとなれば,結果が全てを肯定するという「何でもあり」,という点にあると思われる.特に中共の場合,一党独裁状態が半世紀以上続き,自国民を何千・百万人死に追いやっても,共産党を牛耳っている限り,その責任を全く問われない,という指導者が「血を見る」ことに対して全く無神経な点も更に疑念を深くしていると推量される.米軍の日本占領を安全なものにして,占領終了後も日本を波多黎各(Puerto Rico)的な保護国として繋ぎ留めて置くためは,武力行使(血を見ること)の忌避の建前を「文明化した社会」の最重要条件として日本人に吹き込むことは大義名分の立つ有効な洗脳手段だったに違いない.勿論この現代版「刀狩」の背後には,元来軍人嫌いで有名な元外交官の吉田茂が長期に渡り首相として日本側の窓口になったという予想外の援助も当該洗脳を深化させ,また吉田の弟子が占領後の日本の政界を支配したことも洗脳の継続に役立った.「血を見る」ことを厭わない中共の最近のあからさまな世界戦略は,従来洗脳に浸かってきた日本人を漸く覚醒させることになったようだ.このように,今の極東の情勢は日支が対峙する日清戦争直前の世界に逆戻りしたと認識することが不可欠と考えられるが,「血を見る」ことを忌避し,経済的側面からしか日支関係を見ることが出来ない連中にとっては,元と宋,後金と明という関係の将来しか描けないのかも知れない.
 米国の様子を眺めていると,先に触れた社会の中性化が必ずしも「血を見ることの忌避」に直結していないのではないか,と思われてならない,日本とは違い,「紛争解決の最終手段としての武力」に対する認識には変化がないように見える.典型的な性差による認識からすれば,社会が女性的な極に接近する形で中性化が進めば,武断的な行動は忌避されることになるはずだが,米国の場合,この点に関しては女性側が社会的進出を認知されるために男性的な極の方向に歩み寄る形になったようだ.女性が知事や自治体の首長を努める条件として,警察・軍等の指揮能力が不可避であり,そのような意志・能力がなければ選挙では勝てないことになる.またどの国でも同じだが,武力行使に対する認識や尚武の傾向も地域や社会層によって差があり,戦前の日本では,九州,北海道出身者には強兵が多いが,商都であった大阪からの兵隊は今一つと見做されていたように,米国の場合,田舎の州ほど銃規制への反対など武断的或は尚武的傾向が強い.また,尼日利亜(Nigeria)出身の留学に昔聞いた話では,同国の軍隊の基幹を構成しているのが北部の田舎の回教徒系で,南部の基督教徒系は都会育ちの軟弱傾向で兵隊には向いていないそうだ.
 時によっては血を流すことも逡巡しない人間を世襲の社会の指導層として維持して来たのが日本の幕藩体制の政治的一側面であった.戦後の日本は,そのような「侍」の存在の意味を忘却し,尚武という価値観を否定することによって成立してきたと言える.平成15年の内閣府の世論調査(「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」:http://www8.cao.go.jp/survey/h14/h14-bouei/index.html)を見ても自衛隊や防衛問題への関心に対する女性の関心は男性より明らかに低い.最近の日本の保守系論者による社会の中性化批判は,中性化=武力解決の忌避あるいは尚武の否定,という等式を暗黙の前提としているのではないだろうか.米国の先の例を見る限り,中性化=女性化でない以上,男性側に女性側が歩みよる中性化の選択肢もありうる.最近の保守系論者による法的な男女平等の実現を脇に置いた鸚鵡返し的「ジェンダー・フリー」攻撃は,人間社会において武力というものが最終説得手段である,という事を「血を見る」ことを厭う「戦後民主主義」的人間に対して巧く得心させることが出来ずにいる苛立を別表現したものではないか.多分,尚武というものを男の独占物とみなし,兵役・国防の責任を男女共通のものとみなしていないことに根本的な問題があると思われる.男女平等の原則に立脚していれば,以色列(Israel)で実施しているように,女性に対しても兵役の義務を課することは可能で.武力という最終説得手段の行使も不可避なのが人間社会の理(ことわり)であり,国防の基本原則の一つである,という風に女性を説得させることも可能なはずだ.従来男の独占物であった尚武の精神を性別を超えた普遍的な価値に高め,自由民主主義国家の基幹である男女平等の原則を逆手にとって女性側にも「血を見る」ことの不可避性を納得させない限り,戦後の洗脳=「血を見ることの忌避」から解脱できない状態が続き,日本が中共にとって実質的な一朝貢国に成り下がる日も遠くないかもしれない.

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