医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

飛び込みの儀式

2006-09-23 12:28:35 | 日記
基本的に男は臆病である。今日も高校に性教育をしにいったが、男の子はびびってなかなか現場に近寄らないのに対して女の子はあっけらかんと参加してくれるものである。そういえば飲み屋なんかでも同じ現象が認められる。お初の一人客は大概女性で、すっと入ってくるものである。男なんてのは初めて入る知らないバーには友達と、びびりながら入るものである。

 未知のもの、未知の世界に堂々と加わってくるのは太古の昔から女性であった。古事記にもアメノウズメという私のお気に入りの女神がいる。彼女こそ天の岩屋戸にこもったアマテラスをおびき出すために堂々と裸踊りで賑わせた神であり、ホノニニギの天下りの際出会った見知らぬ神に対し気後れすることなくのこのことその所在を尋ねに行った。何も考えずに行動しているという見方も可能だがその堂々ぶりは魅力的である。しかし何故男性はこれほどダメなのだろうか。

 郡上では街をながれる川に13mの高さの橋がかかっている。街の若者はそこから川へ飛び込むこと多数、ある種の風物詩ともいえるほど。ここまできてチャレンジしないなんてことがあろうか、私も若者に混じってトライした。橋から川をのぞくと確かに高い。これは一度でも躊躇したら期を失うと一気に飛び込む。ややバランスを失い背面着地気味。股と背中が痛い。股は相当痛い。しかし確かに飛び込むと身体感覚が変わる。飛び込むという感覚がつかめる。これは何か別の大きな事、未知のことをする時に同じイメージを身体感覚として再現でき、そのまま「飛び込んでゆく」ことが出来るようになる。

 見ると小さな男の子が橋の上に立っていた。見た目小学生、年は10歳くらいだろうか。明らかに初めてそこから飛び込むところであった。子ども達は基本的にその橋から飛び込む前に、近くにある5m弱の岩から飛び込む練習をする。この少年もそうしてやってきたのだろう。ただ、高さの差は大きい。彼はちゅうちょしていた。何度も飛び込もうと身を乗り出すが橋げたを握る手を離せない。そうしているうちに回りの街の先輩から声がかかる。「心の準備はできてる?じゃぁ飛び込むぞ」カウントダウンの合唱。それでもなかなか彼は飛び込む事ができない。「なんかあったら下にいる兄ちゃんが助けたるから大丈夫」と川辺にもスタンバイ。街みんなで彼のサポート体制が整う。カウントダウンと声かけが続いたが、20分後遂に彼は飛び込む事が出来た。なんといい景色だろう。きっと彼はこのことを忘れる事はないのだろう。飛び込んだ後の彼はちょっと恥ずかしそうに、でもいい顔をしていた。もうこれで大丈夫だ、次はすぐに飛び込める。

 飛び込みは儀式である。陳腐な言い方をすれば大人になるための。別の角度で言えば、「男はこんな儀式をしなければ大人になれない」のであろう。先ほどの少年が将来なよっとしたびびりになるとは到底考えられない。この街の青年達はみんな気さくで堂々としており都市の青年とは明らかに違う腹のすわり方をしている。こういう儀式は世界各地で認められる。おそらくは男児にとって必要なものなのだろう。現代社会でこれらの儀式は消え去ってしまった。文部省はクラブ活動なんかがその役割を担っていると思っているのかも知れないが。身体感覚として「飛び込む」という感覚が大切なのである。

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