Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

モンスター

2007-10-26 | 外国映画(ま行)
★★★★ 2004年/アメリカ 監督/パティ・ジェンキンス

「愛し合うシーンがないのはなぜだろう」


「あの美人のシャーリーズ・セロンが、ここまでやった」という評価が一番になってはいけないのだ、この映画は。それでは、ただの見せ物映画になってしまう。役になりきるため、ここまで変貌したシャーリーズ・セロンはすばらしい。これぞ女優魂。でも大事なのは、その向こうに何を見せるかだ。

少女時代のエピソードを含め、主人公アイリーンが売春婦にならざるを得なかった境遇は、悲しいことにあまり同情を誘わない。私にいつか王子様が現れるというような、短絡的であまり努力をしない女の子に見える。もちろん、それは、恵まれない家庭状況がそのような現実逃避型の思考を生み出した原因ではあるのだが、この映画の演出はあまりアイリーンの不遇を訴えるようにはしていない。

だから、この映画が描きたかったのは、あくまでもアイリーンとセルビーの関係性であり、最初の殺人をきっかけに追い詰められていくアイリーンの心情だと考えざるを得ないのだ。そうなると、二人の関係性というのがどうしても描き切れてないと感じざるを得ない。同性愛者ではないアイリーンが、セルビーを愛するようになる心の動き。セルビーと逃避行を行うために殺人を繰り返すやるせなさ。それが、なかなか伝わってこない。アイリーンのつらい心情がようやく胸をついてくるのは、連続殺人を重ねるうちに何の落ち度もない善良な男を殺さざるを得ない状況になってからである。

自殺したいほど追い詰められていたアイリーンが図らずも連続殺人犯になっていくのは、ひとえにガールフレンドであるセルビーへの思いがあるからなのに、この映画はアイリーンとセルビーが愛し合う場面をほとんど入れていない。だから、アイリーンにもセルビーにもなかなか感情移入できず、ただぼんやりと落ちていく二人を見ているだけなのだ。ふたりの愛というのは、それぞれが何かをごまかすためにでっちあげた都合の良い言い訳だったんだろうか、という気すらしてくる。

ふたりの愛の描き方の物足りなさがとても残念。アイリーンというキャラクターを完璧に自分のものにしていたシャーリーズ・セロンの演技が素晴らしかったゆえになおさらである。体型や顔つきもそうなのだが、ぶっきらぼうな座り方や口角を下げて野卑な言葉を吐く口元など、別人に生まれ変わったシャーリーズは鬼気迫る演技であった。

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