バウハウスの人々――回想と告白
エッカート・ノイマン (編集), 向井 周太郎 (翻訳), 相沢 千加子 (翻訳)
バウハウスの運動にかかわっていた人々の証言を集めた貴重な記録。
建築運動が一つの社会的な風俗にまでなっていたとは、おもしろい。
アヴァンギャルドから機能主義に転換していくプロセスを含めて、
この運動にはいろいろと考えてみたいところがある。
いつかゆっくりと読んでみたい一冊。
単行本: 416ページ
出版社: みすず書房 (2018/12/15)
言語: 日本語
ISBN-10: 4622087227
ISBN-13: 978-4622087229
発売日: 2018/12/15
内容紹介
第一次大戦の敗戦から間もない1919年、ドイツ・ヴァイマールに
革新的な造形学校がつくられた。その名も「バウハウス(建築の家)」。
創立者グロピウスの宣言「あらゆる造形活動の最終目標は建築である。
建築家、彫刻家、画家たちよ、我々は手工作に戻らなければならないのだ」
の言葉に触発された才能ある若者たちが、世界中からこの学校を目指してやってきた。
ドイツの伝統的な職人養成制度に倣い、教師・技術指導者・学生を、
マイスター・ゲゼレ・レアリングと呼び、教師たちは知識や技術だけでなく、
感覚、感情、精神にも働きかける全人的な教育を志向して、独自の授業を開発した。
それゆえバウハウスでは、学生も教師も一緒になり、パーティーやお祭り、
演劇や演奏会の活動にも熱中した。
グロピウスの理念に応じ集まった綺羅星のごときマイスターたち、
ファイニンガー、イッテン、クレー、カンディンスキー、シュレンマー、モホイ=ナジ…
誰もが芸術上新しい道を歩もうとしている人々だった。そして、この
共同体に暮らす学生たちは、男子は長髪、女子はミニスカートにショートカット、
襟もつけず、靴下もはかずに町を歩き、ヴァイマールの人たちから
「バウハウス人」と呼ばれていた。
この書には、そんなバウハウス人、54人の生き生きとした証言・追想が収められている。
両大戦間期、デッサウへの移転を経て、14年の間だけ実現した
この伝説の造形学校の日々を物語る、かけがえのない記録である。
目次
アルフレート・アルント バウハウス落成式のあいさつ──デッサウ、1926年
エッカート・ノイマン [序文]誰もが自分自身のバウハウスを持っていた
ヴァルター・グロピウス バウハウス理念──新しい教育基盤のための闘争
ヨハネス・イッテン ヴァイマール・バウハウスの重要性
ブルーノ・アドラー あの頃のヴァイマール
ヨハネス・モルツァーン 一通の手紙から
ゲルハルト・マルクス 私のヴァイマール短期滞在
フェリックス・クレー ヴァイマール・バウハウスの思い出
パウル・シトロエン バウハウスでのマスダスナン
カール=ペーター・レール ヴァイマール州立バウハウスの理念と形態とその時代
アルフレート・アルント いかにしてバウハウスヘたどりついたか
ロベルト・ミヒェル ヴァイマールの隣の家で
ヘルタ・ヴェッシャー バウハウス以前及び前期におけるヴァイマールの画家
ハンス・ハッフェンリヒター ローター・シュライヤーの舞台工房
ローター・シュライヤー 新たな世界への希望
クルト・シュミット 機械のバレエ:バウハウスの作品
ヴェルナー・グレーフ ヴァイマール・バウハウスとデ・ステイル 1922年の構成主義者会議
ジクフリート・ギーディオン ヴァイマールのバウハウス週間 1923年8月
フェルディナント・クラマー バウハウスと新建築
ギュラ・パプ 自由主義のヴァイマール
サンドール・ボルトニュイク バウハウスのこと
ゲオルク・ムッへ ヨハネス・イッテンの75歳の誕生日に寄せて
マリアンネ・ブラント 若い世代への手紙
エーリヒ・リスナー 1923年、バウハウスをめぐって
ヴァルター・デクセル 「バウハウス・スタイル」――ひとつの神話
エーリヒ・ブッフホルツ バウハウス・バウハウス・バウハウス
ルー・シェーパー 回顧
ハインリヒ・ケーニッヒ バウハウス 過去と現在
ヘレーネ・ノンネ=シュミット インタビュー
カール・マルクス ちょっとヨースト・シュミットのところで
マックス・ゲプハルト バウハウスの広告とタイポグラフィー
ハーバート・バイヤー グロピウスへの賛辞
フリッツ・ヘッセ デッサウとバウハウス
グンタ・シュタードラー=シュテルツル バウハウスの織物工房について
ジクフリート・ギーディオン バウハウスの実用的な成果について
クサンティ・シャヴィンスキー バウハウスとその変化
トゥート・シュレンマー 生き生きとしたバウハウスとその舞台芸術
ニーナ・カンディンスキー インタビュー
ウルズラ・シュー カンディンスキーの教室で
ヴィル・グローマン バウハウスと現代芸術
ヨゼフ・アルバース バウハウスでの13年
T・ルックス・ファイニンガー バウハウス──ある理念の絶えざる発展
ハンネス・ベックマン 設立の日々
ルートヴィヒ・グローテ バウハウスと機能主義
ゲオルク・ムッへ バウハウス碑文
マックス・ビル 継続は必然である
ルチア・モホイ 解釈の問題
ラディスラフ・ズトナー 南の隣人から見たバウハウス
エミール・ラッシュ バウハウスとの共同作業
グスタフ・ハッセンプフルーク 今日の観点から見たバウハウス
ハワード・ディアスタイン デッサウ・バウハウスにおけるミース・ファン・デル・ローエの教師活動
フランク・トゥルーデル 一人のバウハウス人の思い出
ピウス・E・パール アカデミーで学んだ建築学生の経験
クルト・クランツ バウハウスでの教育法とその後
アルフレート・ホッペ ひとつの例
リチャード・コッペ シカゴのニュー・バウハウス
フーベルト・ホフマン 一九四五年以後のバウハウスの復活
テオ・オットー 理念─形態─目的─時代
向井周太郎 [解説]バウハウス──〈生〉の全体性への問い
人名索引
著者について
1933-2006。ケーニヒスベルク生まれ。グラフィックデザイナー、デザイン史家。マンハイム応用科学大学コミュニケーション・デザイン教授。1953年からベルリンの広告専門学校でデザインを学んだ後、1956-57年にウルム造形大学の基礎課程を修了する。1957-71年、フランクフルト・アム・マインのスイス・エア・ドイツ支局の広告責任者を務める。1965-67年、ウルム造形大学でコミュニケーションの歴史を講じる。1973-75年、ブラウンAGでコミュニケーション・デザイン部門の責任者を務め、1975-85年には、ドイツ・デザイン協議会のデザイン促進部門の責任者を務める。主著に『1920年代の機能的なグラフィック・デザイン(Functional Graphic Design in The 20's)』(1967)、『ハーバート・バイヤー――アメリカにおける芸術とデザイン1938-1985(Herbert Bayer. Kunst und Design in Amerika 1938-1985)』(1986)がある。2006年3月24日、フランクフルト・アム・マインにて死去。
エッカート・ノイマン (編集), 向井 周太郎 (翻訳), 相沢 千加子 (翻訳)
バウハウスの運動にかかわっていた人々の証言を集めた貴重な記録。
建築運動が一つの社会的な風俗にまでなっていたとは、おもしろい。
アヴァンギャルドから機能主義に転換していくプロセスを含めて、
この運動にはいろいろと考えてみたいところがある。
いつかゆっくりと読んでみたい一冊。
単行本: 416ページ
出版社: みすず書房 (2018/12/15)
言語: 日本語
ISBN-10: 4622087227
ISBN-13: 978-4622087229
発売日: 2018/12/15
内容紹介
第一次大戦の敗戦から間もない1919年、ドイツ・ヴァイマールに
革新的な造形学校がつくられた。その名も「バウハウス(建築の家)」。
創立者グロピウスの宣言「あらゆる造形活動の最終目標は建築である。
建築家、彫刻家、画家たちよ、我々は手工作に戻らなければならないのだ」
の言葉に触発された才能ある若者たちが、世界中からこの学校を目指してやってきた。
ドイツの伝統的な職人養成制度に倣い、教師・技術指導者・学生を、
マイスター・ゲゼレ・レアリングと呼び、教師たちは知識や技術だけでなく、
感覚、感情、精神にも働きかける全人的な教育を志向して、独自の授業を開発した。
それゆえバウハウスでは、学生も教師も一緒になり、パーティーやお祭り、
演劇や演奏会の活動にも熱中した。
グロピウスの理念に応じ集まった綺羅星のごときマイスターたち、
ファイニンガー、イッテン、クレー、カンディンスキー、シュレンマー、モホイ=ナジ…
誰もが芸術上新しい道を歩もうとしている人々だった。そして、この
共同体に暮らす学生たちは、男子は長髪、女子はミニスカートにショートカット、
襟もつけず、靴下もはかずに町を歩き、ヴァイマールの人たちから
「バウハウス人」と呼ばれていた。
この書には、そんなバウハウス人、54人の生き生きとした証言・追想が収められている。
両大戦間期、デッサウへの移転を経て、14年の間だけ実現した
この伝説の造形学校の日々を物語る、かけがえのない記録である。
目次
アルフレート・アルント バウハウス落成式のあいさつ──デッサウ、1926年
エッカート・ノイマン [序文]誰もが自分自身のバウハウスを持っていた
ヴァルター・グロピウス バウハウス理念──新しい教育基盤のための闘争
ヨハネス・イッテン ヴァイマール・バウハウスの重要性
ブルーノ・アドラー あの頃のヴァイマール
ヨハネス・モルツァーン 一通の手紙から
ゲルハルト・マルクス 私のヴァイマール短期滞在
フェリックス・クレー ヴァイマール・バウハウスの思い出
パウル・シトロエン バウハウスでのマスダスナン
カール=ペーター・レール ヴァイマール州立バウハウスの理念と形態とその時代
アルフレート・アルント いかにしてバウハウスヘたどりついたか
ロベルト・ミヒェル ヴァイマールの隣の家で
ヘルタ・ヴェッシャー バウハウス以前及び前期におけるヴァイマールの画家
ハンス・ハッフェンリヒター ローター・シュライヤーの舞台工房
ローター・シュライヤー 新たな世界への希望
クルト・シュミット 機械のバレエ:バウハウスの作品
ヴェルナー・グレーフ ヴァイマール・バウハウスとデ・ステイル 1922年の構成主義者会議
ジクフリート・ギーディオン ヴァイマールのバウハウス週間 1923年8月
フェルディナント・クラマー バウハウスと新建築
ギュラ・パプ 自由主義のヴァイマール
サンドール・ボルトニュイク バウハウスのこと
ゲオルク・ムッへ ヨハネス・イッテンの75歳の誕生日に寄せて
マリアンネ・ブラント 若い世代への手紙
エーリヒ・リスナー 1923年、バウハウスをめぐって
ヴァルター・デクセル 「バウハウス・スタイル」――ひとつの神話
エーリヒ・ブッフホルツ バウハウス・バウハウス・バウハウス
ルー・シェーパー 回顧
ハインリヒ・ケーニッヒ バウハウス 過去と現在
ヘレーネ・ノンネ=シュミット インタビュー
カール・マルクス ちょっとヨースト・シュミットのところで
マックス・ゲプハルト バウハウスの広告とタイポグラフィー
ハーバート・バイヤー グロピウスへの賛辞
フリッツ・ヘッセ デッサウとバウハウス
グンタ・シュタードラー=シュテルツル バウハウスの織物工房について
ジクフリート・ギーディオン バウハウスの実用的な成果について
クサンティ・シャヴィンスキー バウハウスとその変化
トゥート・シュレンマー 生き生きとしたバウハウスとその舞台芸術
ニーナ・カンディンスキー インタビュー
ウルズラ・シュー カンディンスキーの教室で
ヴィル・グローマン バウハウスと現代芸術
ヨゼフ・アルバース バウハウスでの13年
T・ルックス・ファイニンガー バウハウス──ある理念の絶えざる発展
ハンネス・ベックマン 設立の日々
ルートヴィヒ・グローテ バウハウスと機能主義
ゲオルク・ムッへ バウハウス碑文
マックス・ビル 継続は必然である
ルチア・モホイ 解釈の問題
ラディスラフ・ズトナー 南の隣人から見たバウハウス
エミール・ラッシュ バウハウスとの共同作業
グスタフ・ハッセンプフルーク 今日の観点から見たバウハウス
ハワード・ディアスタイン デッサウ・バウハウスにおけるミース・ファン・デル・ローエの教師活動
フランク・トゥルーデル 一人のバウハウス人の思い出
ピウス・E・パール アカデミーで学んだ建築学生の経験
クルト・クランツ バウハウスでの教育法とその後
アルフレート・ホッペ ひとつの例
リチャード・コッペ シカゴのニュー・バウハウス
フーベルト・ホフマン 一九四五年以後のバウハウスの復活
テオ・オットー 理念─形態─目的─時代
向井周太郎 [解説]バウハウス──〈生〉の全体性への問い
人名索引
著者について
1933-2006。ケーニヒスベルク生まれ。グラフィックデザイナー、デザイン史家。マンハイム応用科学大学コミュニケーション・デザイン教授。1953年からベルリンの広告専門学校でデザインを学んだ後、1956-57年にウルム造形大学の基礎課程を修了する。1957-71年、フランクフルト・アム・マインのスイス・エア・ドイツ支局の広告責任者を務める。1965-67年、ウルム造形大学でコミュニケーションの歴史を講じる。1973-75年、ブラウンAGでコミュニケーション・デザイン部門の責任者を務め、1975-85年には、ドイツ・デザイン協議会のデザイン促進部門の責任者を務める。主著に『1920年代の機能的なグラフィック・デザイン(Functional Graphic Design in The 20's)』(1967)、『ハーバート・バイヤー――アメリカにおける芸術とデザイン1938-1985(Herbert Bayer. Kunst und Design in Amerika 1938-1985)』(1986)がある。2006年3月24日、フランクフルト・アム・マインにて死去。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます