象が転んだ

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アーベルとその時代、その1(3/26更新)〜ノルウェーが生んだ人類最強の天才数学者の悲運と〜

2020年02月07日 03時05分44秒 | 数学のお話

 リーマンを超える天才が、仮に人類の歴史上に存在するならば、私はまっ先にニルス•ヘンリク•アーベル(1802−1829)を挙げます。

 というのもアーベルは僅か24歳で、「パリの論文〜ある非常に広範な超越関数の一つの一般的性質」(1826)を書き上げます。一方リーマンは25歳の時に、”アーベル関数の基礎”に相当する学士論文の「複素関数の基礎」(1851)を発表します。
 因みに、アーベルの「パリの論文」はリーマンに大きな影響を与え、リーマンが31歳の時に書いた第3の論文である「アーベル関数の理論」(1857)に結びつき、この論文こそがアーベル関数の完成形となるんですね。
 つまり、リーマンが31歳の時に書いたレベルの論文を、アーベルは若干24歳の時に書いていたのです。
 少し大げさな言い方になりましたが、アーベルとはそんなレベルの数学者なのです。
 アーベルの楕円関数論に関しては、”超天才リーマン”の”その3”から”その4”にかけ(クリック)長々と述べました。

 そこで今日は、ニルス•アーベルの謳歌と悲運について語る事にします。


アーベルという人

 ”ある数学の先生との出会いから少年アーベルは、数学の才能に目覚めた。
 家は貧しかったが、20歳を過ぎる頃には、当時の数学界の重要課題だった高次方程式の解法の問題に新境地を開く。
 23歳の時、最先端の数学環境を求めてヨーロッパ諸国に旅立ち、優れた数学者たちと親交を深めるが、丹精こめて書いた論文が科学アカデミーに無視されるという悲運に遭う。
 そしてアーベルは、貧困と病苦に悩まされながら、婚約者クリスチーネの腕の中で26歳の生涯を閉じるのだ”

 「アーベルとその時代〜夭折の天才数学者の生涯(2003) ストゥーブハウグ•アーリルド著」のこの”下り”を聞いただけで、アーベルがどれ程の崇高無垢な数学者だったかが理解できよう。

 アーベルは1802年8月5日にノルウェーのフィンネイという島に生まれ、1829年4月6日に死んだ(享年26歳)。名はニルス•ヘンリク
 アーベルは1824年の若干22歳で、”一般5次方程式の代数的解法の不可能性”を証明した。それは自費出版され、僅か6頁しかない。それ故に誰も理解してくれなかった。
 当時は出版費が非常に高くついたので、婚約者との結婚を先延ばしし、僅かな費用を捻出する。その2年後アーベルは、クレルレ誌に詳細な証明をつけ、20頁程の論文を寄せた。

 アーベルの仕事で最も大きなものの一つは、楕円関数(積分)の逆関数を考え、それが2重周期を持つ事を発見した事だ。
 少し難しい話ですが、我々はまず三角関数を学んだ後、2次式の平方根の積分を習い、そこに三角関数の逆関数が現れてびっくりします。何と2次式の平方根の積分の逆関数が周期を持つのだ。
 一方、楕円の周を計算する時は、3次式や4次式の平方根の積分が現れる。ルジャンドルはそれらの積分を深く研究してたが、決定的な結果は得る事ができなかった。
 アーベルは21歳の時、コペンハーゲンに行き、初めて楕円関数の重要性を知る。それから2年後には既に逆関数の考えに達していたのだ。
 これらに関しては次回で詳しく述べますから、外枠だけを大まかに理解です。
 
 ニルスの父セレン•ゲオルクはルター派のアーベル牧師で、勢力的な活動家でもあり政治家でもあった。それに激動期のノルウェー議会議員も務めたが、アーベルが大学に入る前に他界する。
 アーベルは1815年、クリスチャニア(今のオスロ)のカテドラル•スクール(聖堂学校)の門弟になった。16歳の時、ホルムボーという若い数学教師が学校にきて、アーベルの数学熱が急速に高まっていく。
 ニュートンの「一般算術」に始まり、オイラーの「無限解序説」「微分計算教程」「積分計算教程」を読んだ。因みに、それ以前は文学作品ばかり読んでたらしい。
 ホルムボーは、17歳のアーベルの事を”注目すべき数学の天才だ、数学に対する熱意•興味と、到底信じ難い程の才能が兼ね備り、生き長らえれば、偉大な数学者の一人になれる”と評した。


アーベルと代数方程式論

 アーベルは代数方程式論に興味を寄せた。1821年の18歳の時、5次代数方程式の解法を得たと思い、論文を書いたが、ホルムボーもクリスチャニア大学の数学者ハンステーンとラムスセンも誤りを見つける事が出来なかった。
 コペンハーゲン大学のデーエンの所へ送るも、やはり誤りを見つける事はできなかったが、懐疑的に思い、数値計算をするようアーベルに勧め、アーベルは自分の誤りに気が付く。
 つまりこの時点で、アーベルに誤りを正す人物が存在しなかったのだ。
 しかし、”こんな実りのない問題より楕円関数を研究し、数学の大海にマゼラン海峡を見つけて欲しい”とのデーエンの勧めもあり、アーベルは楕円関数の研究に没頭するキッカケを与えられる事になるが。

 1821年にクリスチャニ大学に入学し、アーベルは本当の数学者になっていく。1823年にはガウスの「アリトメチカ研究」を読んだ。
 この本の中でガウスは、”4次を超える高次一般方程式の代数的可解性をきっぱりと否定”していた。このガウスの言葉の影響を受けてか、「代数方程式にて、5次の一般方程式の解法は存在しない」を執筆し、1824年に出版した。
 これこそが、”5次方程式の解法の不可能性の証明”を報告した最初の論文であり、僅か6頁の借り綴じの小冊子であった。
 因みに、この1824年の12月にはクリスチーネ•ケンプ(クレリ•ケンプ)と婚約しますが、その婚約費用の全てをこの小冊子の印刷資金に充てた。故に、26歳で夭逝したアーベルは彼女と正式に結婚する事はなく、親友のキール・ハウと結婚します。アーベルの悲しき運命は既に決められてたんですかね。

 アーベルの証明は極めて構成的で、そこに独自の創意が現れる。観念的に可能性を判定するでなく、解ける場合は根の代数的表示(解の公式)を明確に提示する事を目指す。不可能の時は、5次方程式が代数的に解けると仮定し、可能性として考えられる根の代数的表示式を明示して観察し、”根の置換”の考察を通じて矛盾取り出した。
 アーベルのこの証明は一種の”背理法”(消極証明)であり、より一般的にはガロアの群論により、完全な裏付けがなされた。
 つまり、”根の置換”への着目は補助手段であり、アーベルの創意の核心は根の表示式(解の公式)を書き出す事にあった。”解の置換”に着目し、群や体の概念を使ったガロアとの違いはそこなんですね。”ガロアを巡る旅、その1”も参照(クリック)です。

 因みに、背理法や帰納法もある意味、消極証明ですが。これらはむしろ固有の定理や性質に関する”裏からの”論理上の証明であり、”オモテからの十分性を随伴する証明”はかなり難しく、ワイルズが解いた「フェルマー最終定理」もその一つです。


欧州留学への旅とアーベルの躍動と

 このアーベルの証明論文は、かのガウスの手にも届いたとされる。しかしガウスは全く顧みなかった様だ。
 というのも、論文の表題の”解法”の所に”代数的”という形容詞が欠如してたからともされるが、ガウスにとって”不可能の証明”は殆ど自明な事であり、”この問題にそれ程の重要性を認めてなかった”というのが真の理由とされる。
 つまり、コペンハーゲン大のデーエンが言った事は図星だったのだ。

 翌1825年、アーベルはこの論文を書き直し、「4次を超える一般方程式の代数的解法は不可能である事の証明」を執筆。この年の9月、この論文を携え、ノルウェー政府から給付を受け、ヨーロッパ大陸への2年間の留学の旅に出る。
 ベルリンでは、鉄道技師のクレルレと知り合い、彼が創刊準備に掛かってた「純粋応用数学誌」(クレルレの数学誌)に、アーベルが持参した「不可能の証明」論文が搭載される様になる。以降、クレルレの数学誌はアーベル論文の主要な発表舞台となった。

 アーベルは何とかしてガウスを訪問する機会を伺ったが、会うべきとは思っても不思議と気が進まなかった。以前に不快感を顕にしたガウスに気を遣ったんでしょうか。真相は明らかにはされてない。
 翌1826年2月にはベルリンを経ち、同年7月には憧れのパリに到着した。パリでのアーベルは、後年「パリの論文」と呼ばれる事になる「ある非常に広範な超越関数の一般的性質において」の執筆に心身を打ち込んだ。
 天文学のプーヴァールや数学のルジャンドルらを訪ね、コーシーポアソンと出会い、そしてあのディリクレの訪問を受けた。
 因みにディリクレは、アーベルの事を同胞のドイツ人だと勘違いしてたという。

 1826年10月、アーベルは「パリの論文」を科学アカデミーに提出する。審査員はルジャンドルとコーシーだったが、結局何も起こらずに論文は失われた。12月までアーベルは結果を待ち続けたが、失意のうちにパリを離れ、翌年の5月には帰国した。
 しかし、アーベルが大陸旅行の途中で恩師のハーンステーン教授やその夫人、そしてホルムボーに出した手紙はどれも感動的だった。
 ベルリン、ドレスデン、その他の滞在した町の様子や途中の景色などもアーベルは実にまめに書いてる。
 ”とうとう、私の数学の全ての願望の中心パリの到着しました”と熱い思いを語った。
 しかし、パリそのものはアーベルは気に入らなかった様だ。
 ”大陸でもっとも喧騒で活気ある場所にいながら、砂漠の中にいる様な気持ちで、知人は殆どいません”


パリでの悲劇と不運と

 「パリ論文」はアーベルの自信作だったが、その反応は生涯なかった。死後10年余を経過し、論文が発見されたのだ。
 楕円関数に関する”アーベルの加法定理”はこの「パリ論文」で証明されたが、当時審査員だったコーシーはアーベルの手稿を自宅に放置したままだったのだ。
 この手稿は1841年に発見され印刷されたが、手稿そのものは消え去り、1952年にフィレンツェで再発見された。
 1826年末、失意のアーベルはパリを後にしてベルリンへと向かい、4ヶ月半ほど滞在するが、そこで再びクレルレと出会う。そのクレルレとは生涯の運命の絆で結ばれるのだが、その絆はあまりにも短かった。

 アーベルは1827年の5月、クリスチャニア大学に戻り、それから2年弱生きる事になるが、定職を得る事は出来ず、その大半を奨学金への応募と借金への奔走に明け暮れた。
 僅かに3年と言われるアーベルの数学研究の大部分は、この帰国後から翌1828年にかけて結実した。しかもその間、楕円関数の逆関数をドイツの若い数学者ヤコビが考えている事を知り、競争心を燃やす。
 しかし、1829年の初めベッドに入ると4月6日に死ぬまで、ベッドから起き上がる事は出来なかった。
 アーベルは自分が重病であると信じようとしなかった。”自分はどうにか生きているのに、なぜ死ぬと決まっているのか?まだ仕上げていない事が沢山あるのに”と嘆いた。
 4月が近づいていた。アーベルは自然はその陽光と温暖をもって奇跡を産み出す自分の上に微かな希望を抱いていたのだ。

 アーベルが息を絶えた2日後の8日、クレルレは、アーベルがベルリンに招かれる事が決定したという知らせを送った。
 ”さあ、親愛なるかけがいのない友よ。君にいい知らせを届けます。教育省が君をベルリンに招き、雇う事を決定しました。
 これで君は自分の将来について完全に安心できるよ。君は我々の仲間になる。これはもう決まった事だ、僕はとても嬉しい。
 この手紙が回復しつつある君を見る事を神よ叶えさせ給え。そして君が大好きな真の友人たちの所へ来るのです”

 少し長くなったので、今日はココマデです。次回”その2”では、アーベルの運命を大きく変えた「パリの論文」の紹介です。



16 コメント

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ガウスからアーベルへ (paulkuroneko)
2020-02-07 12:15:05
「他に色々と仕事がありますので、今はそれら(楕円関数)の研究をまとめる余裕がありません。アーベル氏はこの仕事の少なくとも1/3で私の先を行きました。
アーベル氏は私が1798年に到達した道にぴったりと沿い歩んできてます。故に大半にて同じ諸結果に達したからとて驚く程ではありません。それにアーベルの叙述は洞察力と美しさを兼ね備えてますからもう同じ諸問題を叙述しなくても済むという気がしてます」
との手紙をガウスは残してます。

かつてアーベルの”不可能の証明”を一蹴したガウスもアーベルの楕円関数の事は高く評価していました。
この手紙が書かれた1828年のアーベルは数学者としての名声が既に高まってた事を意味しますが、アーベルに残された時間は既に一年足らずでした。

アーベルがガウスに認められてたのは生前のアーベルにも伝わってたんですね。世界一の数学者へのスターダムの階段を上り詰める途中でなくなったんです。
”俺にはやり残した事が沢山ある。ここで死ぬ訳にはいかない”と悔やんだのも理解できます。
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フスの手紙 (象が転んだ)
2020-02-07 15:42:19
クレルレは失意のまま帰国したアーベルの就職の為に、しばし手紙を書きました。

paulさんが紹介した手紙は、1828/5/18付のクレルレからアーベルへ送った一部だと思いますが、フスという人がサンクトペテルブルクから書いたものだと思います。

このフス氏はパウル•ハインリッヒ•フスといい、父のニコラウスはオイラーと同郷の数学者で母はオイラーの娘です。故にフスはオイラーの孫になりますね。

このフス氏もアーベルには熱い気持ちを寄せてました。そしてガウスからアーベルの評価を伝え聞いて、友人のクレルレに手紙を送ったんです。

でもここにても、オイラーとガウスとアーベルは繋がってんですね。本当に不思議な縁でです。
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ジーンと来るね (#114)
2020-02-07 16:25:43
オイラーの孫が
アーベルに熱い思いを抱き
流石のガウスもアーベルには
カブトを脱いだってわけだ

もしアーベルが長生きしてたら
ガウスの後継者はリーマンではなく
アーベルだったかもな
これも運命なのか
何だかジーンと来たよ
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二人とも (HooRoo)
2020-02-07 20:40:52
詳しいわねぇ〜
多分、タイムトンネルを持ってるんだ
だってその場にいない人じゃないと
わからない事を知ってるんだから

イケメンのアーベル先生も
何も知らないで死んだんじゃないのね
ウルウル〜💧💧
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#114さん (象が転んだ)
2020-02-07 22:21:51
ピンポーンです。
私もそう思います。
でもアーベルがガウスの後継者になってたら、リーマン予想やリーマン面やリーマン多様体の概念はあったのかなとも思ってしまいます。

ひょっとして、リーマンの師匠がアーベルという事も。
運命とは皮肉ですね。
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Re.二人とも (象が転んだ)
2020-02-07 22:29:18
そうでもないんですよ。
数学の専門書やサイトを読む癖を付けてれば、こういうのはそんなに難しい事ではないです。
でも、114さんが言われてる様に、運命とは数学と同様に奇怪なものですね👋
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リーマンを超えた男 (hitman)
2020-02-08 06:18:30
実質僅か3年間の数学研究で
「500年分の仕事をしてくれた」と称賛されたのも何だか理解できそうな気がします。

アーベルが長生きしてたらリーマン予想はなかったというコメントもとても印象的でした。
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hitmanさんへ2 (象が転んだ)
2020-02-08 07:14:14
多分リーマンの第一論文の「複素関数の基礎」はアーベルも書けると思います。
その後、リーマンの第三論文である「アーベル積分」を完成させた後、楕円関数を制圧し、30を過ぎたら、アダマールみたいに数学からリタイヤし世界各地を公演して回るでしょうね。

後はモテモテだから、世界の女と遊びまくるかもしれません。女房のクリスチーヌは不満タラタラでしょうが。
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1798年と言えば (Unicorn)
2020-02-08 08:01:50
ガウスが21歳の時
一方アーベルは24歳だから
その時点で、
1/3前を進んでたという事になる
それだけでもアーベルは凄い。
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UNICORNサン (象が転んだ)
2020-02-08 10:58:24
ガウスの言い訳っぽくにも聞こえなくもないですが
はっきりとガウスの口からアーベルにその事は伝えて欲しかったですね。
ガウスはディリクレを通じてガウスの事は知ってたでしょうから、もっと幅広く後輩を支えてほしかった気もしますが。
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Unknown (Unknown)
2020-02-09 02:26:38
ガロアが長生きしてたら
アーベルとの関係はどうなったんだろ
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Unknown (象が転んだ)
2020-02-09 09:18:55
Unknownさん、面白い質問ですね。
ガロアは数論系でアーベルは幾何学系なので
ガチンコになる事はないんですが
ガウスの後釜としてはガロアが適正かも。
でも革命児の素養を持つガロアは政治の方に進んだ方がいいかもしれません。
コメントどうもです。
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ガウスをも凌ぐアーベルの天才 (paulkuroneko)
2020-02-22 03:27:34
アーベルの天才は或いはガウスを凌ぐでものがあったかも知れないが、才能に恵まれたヤコビは精励に於いてガウスに劣らなかったであろうと、高木貞治氏も述べてます。

転んだサンがアーベルを最大評価する様に、類対論の世界的権威で第一回フィールズ賞の審査委員をも務めた高木氏もアーベルを高く評価してました。勿論、ヤコビもです。

以上、アーベル信奉者の補足でした。
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paulさんへ2 (象が転んだ)
2020-02-22 05:34:38
ヤッパリでしたか
私の洞察も悪くはないですね。
ガウスが数学の巨匠なら、アーベルは皇帝。そしてヤコビは怪人です。
リーマンは聖帝という所ですか。

貴重なコメントいつも助かります。
以上、ヤコビ信奉者のお礼でした(^^)
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アーベルの婚約者は (Unknown)
2020-03-25 18:38:59
「アーベルの生涯」によるとクリスチーヌではなくクレリ•ケンプ(クリスチーネ•ケンプ)という住み込みの家庭教師だったらしい。アーベルの死後彼女はアーベルの親友のキール•ハウと結婚します。

それとアーベルもガロアも代数系ですね。
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Unknown (lemonwater2017)
2020-03-26 02:04:24
Unknownさん、ご指摘どうも有難うです。
ガロアはともかく、アーベルは全ての分野で名前を残してますね。ガロアもアーベルの無念には気付いてたらしく、お互いに長生きしてたら、良い関係だったかもです。
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