前回の”その3”では、リーマンの第三の論文「アーベル関数の理論」の概要とアーベルの楕円関数について述べましたが、理解し難かったですかね。
”アーベル物語”に関しては、ここではとても書ききれないので、別途ブログを立てる予定です。
では続けて、”その4”に行きます。
リーマンの不幸の日々と
さてと、アーベルからリーマンに話を戻します。
リーマンは1857年に念願の准教授となり、僅かな報酬(年200ターラ)が政府から支給される様になります。
お陰で極貧の底から抜け出し、何とか軌道に乗りかけたリーマンの人生ですが、1855年2月にガウスが亡くなると、同じ年に父と妹のクララを失います。お陰で、3人の姉妹は故郷クヴィックボルンを離れ、弟のいるブレーメンに移ります。
因みにガウスの死後、その後釜にはディリクレが引き継ぐ事になりますが。そのディリクレも2年後にこの世を去ります。
僅か4年間で4人もの最愛の人を失い、落ち込みかけたリーマンですが、熱意も新たに、(1851年から始めていた)”アーベル関数”の研究に再び取り組んだ。
1856年夏、ゲッティンゲン科学協会の補助会員に任命され、同年11月には、ガウス級数に関する論文を提出する。
”私の論文が協会の雑誌に載るかも知れません。ガウス以来50年ぶりの快挙です”と当時のリーマンは興奮した口調で語った。
一方で講義の受講生は多くて5人程で、本人の努力とは裏腹に閑古鳥状態が続いた。
”講義の方はかなり満足してます。初めは3人、次が4人、その次が5人で、嬉しい事にこれは私の講義がわかり易くなった表れではないでしょうか。でも正式な登録はないのですから、いつ聴講者に見捨てられるかわかりません”
この時期のリーマンは、暇さえあればアーベル関数の研究に全力を費やした。某雑誌社からもこの論文の出版を催促されたからだ。1857年の7月には何とか全てを書き終えた。お陰で健康を損なうも、デデキントの別荘で英気を養った。
しかし、この頃からリーマンは冗談を言う様になり、活発な愛すべき人となっていく。
そして、躍動と絶頂の日々へ
予備教授となったこの年の11月、哲学部の員外教授にも任命され、給与も200ターラから300ターラに上がったが、最愛の弟のヴィルヘルムを失った。リーマンは残り3姉妹の生活を引き受けたが、翌年一番下の妹マリーをも失う。
最悪の時期ではあったが、最愛の姉妹たちと一緒に住む事で鬱病も回復していく。
この頃から仕事が広範囲にゆっくりと認められる様になると、沈んでた心も回復し、研究に対する新たな勇気が湧いてきた。
しかし先述の様に1859年5月には、最愛の師ディリクレが死んだ。リーマンはディリクレに代り、かつてガウスがいた天文台の中の住居に移り住む。
一方で、この年の7月末には待望の正教授に任命され、8月にはベルリンアカデミーの通信会員に任命された。10月には第四の論文である「素数の明示公式(リーマン予想)」を提出し、12月には満場一致でアカデミーの正会員に選ばれた。
この頃のリーマンは心身ともに絶頂期で、電気と光に関する「電気力学論」を王立協会に提出した。11月にゲッチンゲンに提出した「有限な振幅を持つ空気中の平面波の伝搬について」も非常に興味を覚えますね。
翌1860年には液体楕円体の運動や熱伝導に関する懸賞論文を書いている。3月にはパリへ旅行し鋭気を養い、リーマンが享受できたこの何年かの曇のない幸せな日々が最高潮に達した。
そして1862年6月、妹の友人のエリーゼ•コッホ嬢と念願の結婚をしたのだ。しかし彼女は、夫と苦しみの年月を分かち合い、弛む事のない愛で残りのリーマンの人生を美しいものに運命づけた。
しかし、翌7月には死因の元になる肋膜炎に罹ったが、急速に回復したようにも見えた。実は、この肺の病気が元で”痕”が残ってしまったのだ。
リーマンは医者の勧めの元、治療の為にイタリアへ赴く事になるが、以降は”その5”で紹介したいと思います。
”その2”で見た様にガウスは、リーマンの教授資格論文(1854)「幾何学の基礎にある仮説について」の中の多様体や曲率に関する成果を見て、リーマンの可能性と才能に驚嘆した。
しかし、数学界全体がそれを認識したのは、アーベル関数(積分)に関する第三の論文が発表(1857年)されてからだった。
リーマンは第二の論文(1854)の中で、ガウスの曲面論(複素曲面)の影響で”多重延長量”について記述し、多様体の概念を提案したが。これによりリーマン幾何学の道が大きく開けました。
”この研究こそが、多価解析関数の取扱いに必要になった。これが欠けてた為にアーベルの定理や微分方程式の一般論におけるラグランジュやヤコビらの研究が長く実を結ばないままになっていた”とリーマンは後に語ってる。
つまり、リーマン多様体の概念が現代数学の大きな分岐点になった事にリーマンは既に気付いてたんです。そして、この多様体の概念がアーベル関数論の完成に繋がったのだ。
リーマンが眺めた楕円関数
前述の1857年に発表した、リーマンの第三の論文「アーベル関数の理論」というのは、ヤコビが提示した”逆問題”の解決の軌跡です。ベルリン大でのディリクレやヤコビとの出会いが、とても大きかったんですね。
そのヤコビに”逆問題”の示唆を与えたのはアーベルでした。
このアーベルこそが、”ヤコビの逆問題”の真相ですが、アーベルの数学研究は僅か3年程にすぎなかったんです。アーベルの値打ちを洞察した所にヤコビの真価があります。
リーマンの博士論文である「一変数の複素解析の基礎の構築」は勿論評価に値しますが、上述した様に、リーマンの第三の論文「アーベル(楕円)関数論」こそが”ヤコビの逆問題”の解決とアーベル関数論の完成の試みでした。
第一の論文がアーベル関数の基礎ならば、第三の論文はアーベル関数の完成形ですね。
でも”その3”で述べた様に、リーマンと並び、ヴァイエルシュトラスの名を無視する事はできない。
リーマンとヴァイエルシュトラスは、”ヤコビの逆問題”を一般的な形に設定し、解決を試みます。
しかし、”ヤコビの逆問題”は最初から一般的な形だった訳ではなく、ヤコビが提示した当初の形は、この”基本問題”という趣のもので、ヤコビの逆問題の”原型”といえるものでした。
その原型のヤコビの逆問題を、そのままの形で解決した人が2人いた。”その3”でも述べた様に、1人はローゼンハインで、もう1人はゲーぺル。同じ時期(1847年)に互いに知らないままの状態で、それぞれ解決に成功していた。
一方ヴァイエルシュトラスは、この2人のヤコビの逆問題の”原型”の解決に手掛かりを求め、一般化に向かう道筋を模索します。
しかし、リーマンはそんなバカ正直?な模索をせず、彼独自の斬新なアイデアがあったんです。その斬新なアイデアこそが”解析接続”というマジックだったんです。
それでヴァイエルシュトラスがリーマンの独創性と創造性に恐れをなし、慌てて論文を引っ込めたと。
事実、ヴァイエルシュトラスもアーベル関数における論文は出版してたが、一部だけで上手くは進まなかったようだ。
因みに、リーマンによる”ヤコビの逆問題”の解決ですが、実際には最終的な解決とは言えず、完全な形で解決するには多変数解析関数論の基礎理論の建設が必要とされると。
しかし、アーベル関数論を完成させた事で、リーマンは楕円型偏微分方程式によるモジュラ理論の研究の先駆者となり、双有理同値、ヤコビ多様体、テータ関数論などの研究は、その後の代数幾何学の研究の端緒となります。
ガウスを超えたアーベルの洞察
”その3”で述べた様に、アーベルは「超越関数族の一つの一般的性質」(1829)で、代数関数の積分から”加法定理”を発見し、アーベルの死後それを引き継いだヤコビは、加法定理の中から”逆問題”を造り上げます(1835)。
この基本問題を解く事こそが、若き日のリーマンの目標になったんですが。このアーベルも、リーマン以上に恐ろしく突飛で斬新な数学者でもあったんです。
楕円積分から加法定理の流れはとても難しいですね。アーベルは、ガウスの等分理論をヒントにアーベルの定理を加法定理へと導くんですが。
アーベルがいう超楕円積分とは有理整関数です。これを因数分解表示して得られた代数的可解な方程式を、超楕円関数における”アーベルの方程式”と呼びます。
そこでリーマンは、この方程式をある代数方程式の助けを借りて”加法定理”へと結びつけます。
因みに、ヤコビの言う”アーベルの定理”とは「アーベルの定理」から導き出される”加法定理”であり、リーマンの言うアーベルの加法定理とは本来の「アーベルの定理」です。
こうしてオイラー積分の一般化はアーベルの定理により得られたんですが。ヤコビはこんな凄いアーベルの論文が学士院で認められない事の方がもっと驚きだと語ってます。
一方でガロアも”アーベル積分の変換と等分の理論”を遺書として残してます。
この変換と等分の理論を語るには、アーベル積分の一般論を語る必要がありますが、このガロアの記述はリーマンの第三の論文「アーベル関数の理論」のスケッチに酷似してるとされます。
ガロアはアーベルの9つ下で、アーベルが死んだ3年後にこの世を去ります。故に、アーベルが見抜いた楕円関数論をガロアが考察したとしても不思議ではないですが。それでも出来すぎの様な気がしないでもないですね。
結局アーベルは、ガウスがレムニスケート積分を利用して”等分理論”を引き出したのと同じ様に、ガウスの等分方程式を”代数的可解条件の探索”という新たな手法を用いて、超楕円関数の領域に踏み込みました。
ガウスの巡回方程式に加え、”アーベル方程式”を提示した事には、アーベルに及ぼしたガウスの影響力の大きさとガウス理論を包んでた神秘のベールを暴いた、アーベルの洞察力がありありと具現されてます。
どこまでもガウスに共鳴し、易易とガウスを超えていくアーベルの情緒力には恐れ入りますね。
故に、代数方程式論と楕円関数論はアーベルの数学を支える二本の柱ですが、19世紀から21世紀に及ぶ”数学の大河の源泉”となってるんです。
オイラーとガウス、そしてアーベルへ
オイラーは、ある虚数乗法を持つ変数分離型の微分方程式の積分を求めようとしますが、直ぐに頓挫します。そこでファニャノの論文に活路を見出し、そこで偶然に現れたのが楕円積分だったんです。
この微分方程式の一般解を考察した所、その方程式の中に含まれる加法定理を発見します。しかし、不思議とオイラーは楕円関数へは向いませんでした。
このオイラーの加法定理を大きく進化させたのがアーベルですが、ガウスの「整数論」の冒頭にあったレムニスケート積分を見て、等分理論へと誘い込まれたアーベルは、オイラーの出発点に立ち返る事の出来た人でもありました。
つまり、アーベルはオイラーの楕円関数論を知ってたが、オイラーとは全く異なる過程で加法定理を切り開いた。
”楕円関数論の創始者”と言えばオイラーですが。同時期にファニャノが、次にランデンにラグランジュの、この4人で楕円関数論の基盤は出来上がったとされます。
この楕円関数論の集大成を初めて書物にしたのがルジャンドルです。アーベルもヤコビもリーマンも彼の本を通じて楕円関数論を学びました。
そのアーベルに深い影響を及ぼし、アーベルの「楕円関数研究」の根幹を作ったのがガウスです。
そして、そのガウスの片言のアイデアを読みとったアーベルこそがガウスやオイラーと並び、稀有で不世出の天才と言われるのも頷けますね。
最後に
何だか、リーマン物語というよりアーベル物語となってしまいましたが。
アーベルと”アーベル関数”における記述は、まだまだ出揃ってない様に思います。
因みに、アーベルに関する記述は「アーベル(前編)〜楕円関数論への道」(2016)を参考にしました。著者の高瀬正仁氏は一番好きな数学者にアーベルの名を挙げてます。
アーベルの回想こそが必ずや数学に新時代を築く機縁となると締め括ってます。その気持ち痛いほど解ります。
代数学は勿論、複素関数や楕円関数におけるアーベルとリーマンの密な関係を知る事で、”リーマンの謎”がより明らかになりそうな気もしますね。
次回の”その5”では、リーマンの第四の論文「リーマン予想」とリーマンの晩年について述べたいと思います。
拙いコメント追記させて頂いて
とても恐縮です。
でもアーベルについて知らなかった事が少しづつ解ってきたような気がします。
面倒かけて本当にごめんなさい🙇
アーベルにゾッコンしました。
私の理想とする数学者ですかね。
お陰で色んな事を学びました。
こちらこそ有難うです。
でも、もう少し修正の余地があるますが
ボチボチとです。
それがもし本当だとしたら
ガウスがアーベルの論文を却下した
というのも合点がいく
多分ガウスはアーベルの才能を
すでに見抜いてたんじゃないだろうか
でもガウスを中心に回ってる数学界がひっくり返るのを恐れたんでしょうか。
それだけのパリの論文だったんですかね。
何だかネコの名前みたい(^_^)
いろんな数学者が競い合って
そして協力しあい
最初は意味不明だった楕円関数が
ハッキリと姿を現すのかな〜
超越関数と言われてたのも
解りそうな気がする👋👋
ヤコビって顔も猫みたいなんですが(^^)
実はとっても凄い数学者だったんです。
楕円関数の構築にはアーベル関数の等分理論と変換理論の2つの大きな発見が必要とされましたが、その変換理論を発見したのがヤコビだったんです。この変換理論を元に生まれたのが”ヤコビアン”という変換行列ですね。
アーベルの影に隠れて、逆問題ばかりが目立ってますが、もっと評価されてもいいと思います。
Hoo嬢の目の付け所も素晴らしいです。ヤコビに関しても後にブログ立てたいと思います。
アーベルの楕円関数研究の二大主題である”変換理論”と”等分理論”、及びそこで見出された”虚数乗法”と”アーベル方程式”という発見の連続に先ずは注目すべきです。
ファニャノによるレムニスケート積分の変換に関する結果に触発され、オイラーが変数分離型微分方程式の代数的積分法の着想を得た事はよく知られてます。
例えば、レムニスケートの弧長微分式をn倍する様な変数変換式を見出そうと当時の数学者は必死でした。もし代数的な変数変換式が存在すれば、この変換式こそがその微分方程式の代数的積分を表す式であり、微分式を積分した対象(楕円積分)の逆関数に関する”n倍角の公式”を表しているという事実は極めて興味深い事です。このn倍角の公式は加法定理から導かれますから。
そこでまず注目すべきは、アーベル楕円関数論の目標は楕円積分の逆関数そのものではなく、楕円積分の”変換理論”と”変数分離型微分方程式の積分”にあったという事実です。
アーベルの逆関数(φ、f、F)は、変換理論では有用な補助ツールとしての位置付けで、等分理論では逆関数φは研究の実体にすぎず、”特殊等分方程式の代数的可解性の考察”から楕円関数の二大主題である虚数乗法とアーベル方程式が発見されたという事実は、とても重要な事です。
アーベルの等分理論においては、一般等分方程式の代数的可解性を示すのに、アーベルが構成的に根の代数的表示式を書き下したという事実こそが、アーベルの驚くべき独創性を表してます。
つまり、代数的に可解な方程式の根のあるべき姿を具体的に書き下すという、アーベルの着想がもたらしたアーベルの楕円関数論なんです。
これこそが、ガウスですら出来なかったアーベルの面目躍如っていう奴です。
因みに、レムニスケート積分とはレムニスケート曲線の延長を表す積分の事で、今で言う”楕円積分”の一種ですよね。
ファニャノは、このレムニスケート積分に強い愛着を示し、オイラーの微分方程式の研究に影響を与え、楕円関数の変換期に立ち会う貴重な人物となったんです。
このファニャノのレムニスケート曲線の延長積分の導出の手順は、アーベルの「楕円関数研究」に詳しく書かれており、ファニャノの名が大きく世界に知られる事になりますが、ガウスはファニャノの事には殆ど触れてませんね。
つまり、アーベルはガウスの論文に書かれてたレムニスケートの等分方程式の一語を読み取り、それに隠された”ファニャノの解法”という神秘のベールを見事に暴いたんです。
「アーベル〜楕円関数への道」の著者である高瀬氏が”易々とガウスを超えていく情緒の力”と称賛したのは、この事だったんですね。
貴重なコメント有難うです。
ルジャンドルについても補足です。
アーベルの逆関数(φ、f、F)で思い出したんですが、厳密には、φα、fα、Fαですね。
φαはルジャンドルが名付けた第一楕円関数α(=∫dθ/√(1−c²sin²θ)の逆関数です。
アーベルはこれをx=sinθ=φαと考察し、α=∫dx/√(1−x²)(1−c²x²)と変換します。後にヤコビが逆関数φαを楕円関数と呼ぶんですがアーベルは第一種逆関数と呼びます。
これこそがアーベルの楕円関数研究の土台になるんですが。アーベルは今で言う楕円関数ではなくルジャンドルの楕円積分に関心がありこの楕円積分の為に逆関数を利用したに過ぎなかった。
アーベルの目標が楕円積分の変換理論にあったのもこれで頷けます。
楕円関数という言葉を初めて提案したのはルジャンドルです。しかし彼の前にそびえてたのはオイラーでありラグランジュとランデンの変換理論でした。しかし楕円関数の一般形を提案し3種の基本形に帰着させました。
これこそがアーベルとヤコビの楕円関数論の土台となった訳で、オイラーやガウスと同様にルジャンドルはもっと評価されるべきです。
これは、dx/dα=φ’α=√((1−c²φ²α)(1+c²φ²α))から来てるんですが、計算の見通しを良くする為なんですね。
そこで、φα、fα、Fαの定義域を虚数範囲にまで広げるんですが、アーベルは加法定理を利用し、更に定義域を広げます。細かい計算式は省きますが、φα、fα、Fαの加法定理であるφ(α+β)、f(α+β)、F(α+β)を書き下し、φα、fα、Fαの2重周期性を発見するんです。
つまり、一般的な楕円関数の加法定理はルジャンドルにより紹介されてたんですが、アーベルは独自の加法定理を書き出します。
アーベルやヤコビがオイラーやガウス以上にルジャンドルを敬愛するのも頷けますね。
paulさんの言う通り、アーベルとヤコビの楕円関数の研究はルジャンドルから始まったといってもいいすぎじゃないです。