象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

マクドナルドの創業者レイ•クロックに見る20世紀のビジネスモデル、その17〜ターナーの拡大政策とボイランの手腕と〜

2019年03月31日 07時30分59秒 | マクドナルド

 3/7以来のマクドナルドですが。前回は若き新社長フレッド•ターナーの記念すべき第一歩について述べました。彼はマクドナルドをもっともっと大きくしようと飛躍したんですが。その読みがピタリと当たる辺りは、若くて賢いながらも大胆不敵で無鉄砲に見える拡大戦略は、実に計算され尽くしてたんですかね。

 でもこうして振り返ってみると、全ては兄モーリスと弟リチャードのマクドナルド兄弟から始まり、マクドの全ての権利をレイ•クロックが奪い取り、そしてターナーにタイミングよくバトンタッチするんですが。流れとしてはごく自然なようにも思いますね。勿論、紆余曲折で波瀾万丈の創世記を経ての事ですが。

 若きターナーの躍動のお陰でマクドナルドの最大のライバルとみなされてた、バーガーシェフは全くの窮地に立たされます。 


ゼネラルフーズの失速

 バーガーシェフがゼネラルフーズの傘下に入った1986年は、マクドの970店に対し、850店を数えてた。これはソナボーンの拡大ペースの3倍に当たり、年間300という驚異的ペースでマクド急追していたのだ。
 ”我々は一段と早いピッチでの拡大を求めたが、資金がそれについて行けなかった。傘下に入ったのもその資金が目当てだったが、現実は甘くはなかった”と、当時のバーガーシェフの元専務は語る。

 ゼネラルフーズも最初は莫大な資金をバーガーシェフに注ぎ込んだが、現場スタッフを54人も辞めさせるという致命的ミスを犯した。この現場スタッフの中にはゼネラルフーズの派遣管理者以上の能力を持った者が少なくなかったのだ。人材と人財を履き違えた。現場スタッフは、材料ではなく財産なんですね。

 現場スタッフを締め出した事でゼネラルフーズは新店舗開発計画の掌握力を失う。1971年、拡大策が手詰まりになり、750万ドルの赤字を抱えたまま、拡大計画をストップさせた。
 結局、僅か1年でそれまでの10年間でマクドが儲けた以上の大金をハンバーガー経営で失う。1970年の1200店をピークに失速し、その後失策を重ね、ハンバーガー経営から完全に手を引いた。

 このバーガーシェフの失敗は、多角経営の大企業がそのトップから出す指令によって、ファーストフード経営をやろうとする、中央集権的やり方にに大きな欠陥がある事をまざまざと見せつけた。

 ファーストフード経営は元々、独立した各々の店舗の地域密着型である。その成功の鍵は地方の経営者が如何に上手に店を経営し、顧客との関係を保つかにある。大手食品加工メーカー達が加工した食品を食料品店に卸すのと、調理した食品をファーストフードの店舗を通し直接顧客に売るのとでは、格段の違いがある事に遅まきながらも気づき始めた。

 食品加工業では製造が中央に集約されており、それだけ管理も容易だ。消費者への販売は間接的だし、宣伝が大いに物を言う。一方フードサービス業では製造が分散化され、管理も難しい。消費者への販売は直接的で、故に地域でのサービス力に掛かってるのだ。
 

ターナーの分散化政策

 クロックがマクドナルドの独立を貫いた事で、バーガーシェフと同じ失敗を犯さずに済んだ。
 拡大政策を推し進めるターナーは、マクドのサービス経営が業界随一のものである事と、地域に根付いて組織された企業である事に自信を持っていた。 
 つまりターナーは、真っ先に地域の活性化に手を付け、地域管理職の権限を大幅に増大させた。従来、フランチャイジーの最終決定は本社中枢で行われてたが、各地域毎に単独で任せた。お陰で店舗経営者の決定こそが絶対なものになった。
 ターナーはソナボーンの中央集権的管理法を、当時最も分権的な企業組織の一つに変えたのだ。最終的な商品が現場で製造されるサービス業において、マクドナルドの分権的機構は、チェーン全体の拡大推進を大いに助けた。管理職と現場を近づける事で、より的確な情報を元に決定が下せる様にした。
 ”意思決定が店や市場に近付けば近付く程、管理者の下す決定はそれだけ適切なものになる”とターナーは胸を張る。

 結果このマクドがとった分権化が、サービスの質や新店舗の立地決定に大いにプラスになる。他のライバルの売上がガクンと落ちた60年代末、ターナーが引き継いだ後の5年間のマクドナルドの店舗あたりの売上は、33万ドルから62万ドルにまで跳ね上がった。店舗数がライバルチェーンの3倍あるにしてもだ。

 それでもこれら経営分権化は、急激な拡大政策に纏わるほんの一部の問題に過ぎなかった。それより店舗の急激な拡張による資金的負担がみるみる大きくなっていく。 


ターナーの土地買い取り政策

 ソナボーンは 新店舗用地をもっぱらリースに頼った。ターナーはそれをやめ、買い取りを指示した。マクドナルドの経営陣は一夜にして、新店舗用地の2/3について土地所有権確保の手を打つ必要に迫られた。

 リースよりも土地買取りの方が当初は高く付くが、完全に入手すれば支払いは終わる。つまり、リースは義務が永久に続くし、事業が成功し、地価が高騰すれば、再契約する度にリース料も高騰する。
 ターナーは考えた。”リースにすれば最初の5年間は儲かるが、先の事を考えれば、自前の土地の方が儲けは多くなる”と。

 このターナーの土地買い取り戦略は、長期的利潤を当てにしたものだった。
 しかし、ターナーの戦略は短期的には大きなリスクを伴った。それぞれの店舗に必要な資金が数倍に膨れ上がるのだ。フランチャイジーは、今まで以上に重たい借金を背負う事になる。最初の1、2年で現金が底をつくのは目に見えてた。

 実際ターナーが不動産で打った博打に比べれば、ソナボーンのギャンブル的財務すら色褪せて見えた。今日アメリカ国内のマクドナルド店は65%が自前の土地である。他の35%はリースで賄ってる。故に、20年という契約期限切れを前に、リースの大幅な値上げの危機に直面する。
 かつてソナボーンが不動産リースの旨味を全国のフードチェーンに教えたとするなら、ターナーは小売り業界で世界最大の土地所有者という、羨ましい立場にマクドナルドを誘い込んだのだ。


店舗デザインの変貌

 マクドナルドの資金負担を大きく増大させたのはもう一つ。店舗の全面的なオーバーホール。マクドナルドの店舗デザインは、マクド兄弟が作った頃と基本的には殆ど変わってはいなかった。
 全ての店舗が中央にカウンターを置き、テイクアウトを主力にしたデザインだったが。カリフォルニアでは、クロックが中庭を作り、座席の設備を取り入れてた。ターナーは今こそクロックの実験を全システムに広める時期だと判断する。
 それに60年代末の環境保護運動もデザイン変更の追い風となる。”屋根に金色のアーチももう時代遅れだ。もっと自然にマッチした色彩にすべきだ”

 1968年、長年親しまれた旧来のデザインは世代交代を迎える。マクドの象徴であった金色のアーチは外され、外観は一新した。それ以上に劇的で危険を孕んだ変化は、店内に50の座席を作った事だ。
 マクドナルドは持ち帰りのドライブインとして発展してきた。それがレストランへと方向転換したのだ。

 ここでターナーは大きな賭けに出る。フランチャイジー達に高額の再融資を促したのだ。”座席を設ければ最低でも20%の売上アップは堅い”とターナーは確信した。”3年もすれば元が取れる”と彼らの説得に努めた。
 結果から見ればこの見込みも随分と控え目だったが、本社と店舗の信頼関係は半端じゃなかった。故に何とかこの危機を乗り越えることが出来たのだ。

 新マクドナルド店の建設費は1店舗辺り10万ドルで従来の2倍である。その上土地購入費などの様々な経費が上乗せされる。今から思うと、如何にマクドナルド拡大計画の資金繰りが画期的なものだったかが窺える。

 
ターナーとボイランの和解

 こうした切迫な財務事情があるにも関わらず、ターナーは財布の中身には頓着しなかった。この問題はそっくりそのまま財務担当重役のリチャード•ボイランに任せてしまう。ボイランに関しては「その10」参照です。
 かつてボイランはソナボーンの右腕とまで言われた。ソナボーンの有力な後継者と言われてたが、事実ソナボーンは、ターナーよりもボイランを後継者として考えてた。
 こういった関係からして、社長に就任したターナーはボイランの首をすげ替えると見られてた。が、ターナーは、ソナボーン以上にボイランを信頼した。多くの自由裁量を与え、彼に指図をする様な事はなかった。

 というのもターナーは財務経験が乏しく、現場での采配に専念する為に、拡大計画の資金繰りを一切ボイランに任せる方が効率的でもあった。彼は有力な財務系社外重役を動かす力に長けてたのだ。
 ”ボイランは事を面倒にしようと思えば出来た筈。自分こそが次期社長だと確信してたし、資格もあったろう。でも我々はお互いに認めあう仲になってたし、仕事上では距離をおいて付き合った” 


再び借金生活へ

 ターナーとボイランの関係は、かつてのクロックとソナボーンの犬猿の関係とダブる。しかし2人の協調関係は、ソナボーンの更迭劇に劣らぬ重大なターニングポイントでもあったのだ。
 もしターナーがボイランを更迭し、財務を引き継いでたら、マクドナルドの株を売り、拡大資金の大半を調達したであろうか。事実、資金調達には最も手っ取り早い手段でもあった。
 ”株式発行による資金は、自由に使えるお金だった”とターナーも振り返ってる。

 しかし、ボイランの見方は全く逆だった。”難しい言い方だが、株を売るというのは成長期にある会社にとって、結局は高く付く資金調達の形。つまり、借金なら利率は固定してるし、何時かは返済できる。しかし株による資金調達は返済し終わる事がない。持株比率の低下は永続的なものだし、新株にてはこの先ずっと配当金を払い続ける必要がある”

 こうして、100%の借金経営に同意する事で、短期的視野に見る最も安直な利益ではなく、長期的視野に立っての最上の成果を生み出す戦略を選んだという点で、この2人はガッチリと手を組んだのだ。
 しかし、このコンセプトを経営陣に納得させるのは容易ではなかった。マクドナルド株はヨダレが出る程の株価収益率を弾き出してるのだ。これを利用しない手はない、株を武器に使えば、莫大な利子を払う必要はないのだから。
 ”勿論、株を売るべきだという声は日毎に強まっていた。私はそのプレッシャーと闘う必要があった”とボイランは当時を回想する。

 当たりの柔らかい温厚なボイランは当初、意志強固なターナーの敵ではないと思われた。しかし財務となると、一歩も引かなかった。
 株の売却を迫る圧力に妥協や動揺の素振りも見せず、ターナーの野心的な拡大策に次から次へと社債を発行し資金をやりくりした。
 ボイランは長期社債を68年末の4350万ドルから、74年末には3億5300万ドルにまで増発する。その間マクドが株式によって調達した資金は僅かに6500万ドル。それもターナーによるボイランの妥協の産物だ。その上マクドナルドが株を売ったのは、クロックの創業時に株を売りに出したのを除けば、この一回こっきり。

 しかし、このボイランがとった大々的な借金策はギャンブルの最も危険な側面でもあった。拡大が上手く行けば、株主にとって成功の甘い果実を約束するが、同時に莫大な利子返済の責任を負う。それにもしここでファーストフード業界に何らかの変動が起きれば、倒産の可能性も出てくる。

 結局マクドナルドは、経理面ではボイランの師ソナボーンの逆を辿る。ソナボーンは会社の負債を確実に減らす戦略を練ったが、それを逆転したのだ。こうしてボイランの指揮の元、マクドナルドはフードサービス産業から”借金活用産業”へと切り替えていく。
 このボイランの資金繰りは非常に興味深く映りますね。逆転の発想もここまで来れば、革命とも言えますね。タイトルは”クロックのビジネスモデル”としてますが、実質は”ターナーの革新モデル”とも言えます。



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