先日ブログ友の記事に、最近は百貨店やスーパーが少なくなったとあった。
確かに私が子供の頃は、百貨店やスーパーで買い物をする事は、貴重な娯楽であり贅沢でもあった。買い物の後は、屋上のレストランで食事をするのが週イチの贅沢なイベントでもあった。
それが今では、通販やネットショップがメインとなり、かつての娯楽の殿堂であったスーパーや百貨店は姿を消しつつある。一時流行ったショップモールも閑古鳥が鳴く。
このままで行けば、昔ながらのウィンドウショップは、不機嫌な排泄と同様に、面倒な”生理的欲求”になりつつある。
真夜中の買い物はストレス発散になる?
そういう私は、今でも買い物はある種のストレス発散にはなってる。すぐ近くに24時間のディスカウントスーパーがあり、夜中にコソッと買い物をする。大したものを買う訳でもないが、日中みたいに誰もいないから、ただそれだけでも自分を開放した気分になる。
”真夜中の訪問者”ではなく”真夜中の買い物”は、人の心と精神を開放し、自由にしてくれるのだ。
しかしこれが日中の、いや夕方の買い物となると極端にストレスが溜まる。自分も含め溢れ返る買い物客の群れが、無機質なイワシの巨群に見える。いやを待つ、生きる事を諦めた肉牛の群れに見える。
一人モンの私は、まとめ買いする方じゃないので、自分の買い物に対しそこまで神経質になる事はないが。他人のクレージーな量と質の買い物を見ると、発狂したくもなる。
加工食品から冷凍食品にお惣菜に、そしてお菓子にジャンクフードにレトルト食品の山山山。これが全て人の胃袋に入ると思うと、背筋がゾッとする。食ってある意味、残酷な事なのかもしれない。
こんな食事が3日続いたら、私めの内臓は破裂するだろうに。
家で料理する私は絶滅種か?自らの買い物かごを見て思わず苦笑してしまう。生肉と野菜だけだもの。殆どの家庭での夕食が、レンジでチンというのは当り前の時代かもしれない。不足分は健康食品やサプリで補うって事で。
人がモノを買わなくなる日
しかし、こういう日常のありふれた光景を見る度に、”人がモノを買わなくなる日”が来る様な予感がする。
最近の若者は恋愛をしないと言われる。恋愛に代わる娯楽や快楽が腐るほどある時代。恋愛という男女の相容れない感情が、無駄に不条理にぶつかり合う、古臭くも生々しいドラマを今の若者は嫌うのかもしれない。
一人モンの私もそういった冷めたドライな感覚も理解できない訳でもない。快楽とSEXと夢は、描くだけで事足りると思う時がある。先日のブログでも書いたが、面白い夢を見るとそれだけで贅沢した気分になる。
夢の中でハバナの女を抱くと、それだけで高質な性欲が満たされる感じがする。”リーマンの謎”ブログでは、素数定理に憑かれたままだが、”ディリクレの夢”の中にどっぷり浸かってる錯覚に陥ってる。
そう、無償の贅沢や娯楽というものも確かに存在するのだ。つまり、人類の知能が正しく真っ当に進化すれば、モノは必要なくなるかもしれない。猫にモノが必要ない様に、人類も恵まれた環境さえあれば、モノは必要ないかもだ。
若者はモノを買わない?
昔の男には、”呑む打つ買う”という3つの娯楽の王道があった。酒と博打と女であるが、全ては”買う”という行為が元となる。
しかし今の人は、バブル期の日本人や一時の中国人みたいに、イタズラにモノを買わない様な気がする。ヤンキーでも10円ライターで済ませるし、1日2食のみという若者も結構多い。旧くヒビ割れたiPhoneを粘り強く使うのも若い娘だ。
SNSが娯楽の王道を闊歩する様になり、人は"買う”という昔ながらの娯楽を見失うのか。買うという行為は所詮、魅力のない投資に過ぎないのか。
確かに、今の若者はお酒を飲まなくなった。私の頃は高校生でも平気で高価なビールを買って呑んだもんだ。事実私の周りには学生でありながら、晩酌マニアが多かった。
それに今の若者が、派手に買い物をするシーンも殆ど見られない。パチンコ屋を覗いても、中年や年金生活者ばかりだ。競馬に関してはジジイしかいない。外人パブも年金生活者の溜まり場となりつつある。つまり、中年や年金生活者が買い物に群がり、消費文化を支えてるという現実。
確かに、”最近買ったもの”ブログで書いた様に、買い物の95%は無駄?である。お金はモノに換えた時点で、その効力を失う。安直な自己満足すら得られない買い物に明日はないのか。全く何時の世も若者は正直だ。
人はモノを生産しなくなる
日本の経済が停滞し、若者の金銭感覚がシビアになった為に、この様な現象が起きてるのか。そうでなくとも大衆の特に若者の消費文化は停滞するのか。高齢化社会と言っても時代を動かすのは若者だ。若者がモノを買わなくなったら、大衆消費に支えられた資本主義は消滅する。人はモノを買わなくなり、人はモノを生産しなくなる。
若者は安いモノでも無駄に買う事をしない。高価なモノを長く使うというより、安いモノをより長く使う。このままで行けば、確実に人はモノを買わなくなる。厳密に言えば、余計なモノは一切買わなくなる。リサイクルが進めば余計に買わなくなる。
派遣というタダ働きの人種で支えられた製造業は確実に消滅し、”モノ文化”に支えられてきた現代のサピエンスは、趣味に生きる様になる。それも目に見える趣味ではなく、目に見えない趣味に。
爆買いや衝動買いという言葉が消え、やがて大量消費や大量生産という言葉も過去のものとなる。戦後を支えた”モノ文化”は消滅し、消費社会は空洞化する。
物欲なき先進国
「物欲なき世界 菅付雅信 著」では、先進国を中心に急速に冷え込んでる物欲にテーマを当てる。衣•食•住のうちまず、衣であるファンッションにその傾向が極端に見られると。つまり先進国の民はオシャレをしなくなった。いやオシャレをする必要がなくなったのだ。その代り住居にお金を掛ける様になったとある。
富裕層でさえこれだから、中間層や下位層では、衣•食•住の3つにおいても物欲の冷え込みが加速するのは明らかだろう。
「なぜ日本人は物を買わないのか?野村総合研究所」では、若者が”モノよりもライフスタイル”を重要視し、収入が減少傾向である事と若者の減少と富裕な高齢層が消費活発世代から引退しつつある事を、モノを買わなくなった原因に挙げてる。
前者は2015年に、後者は2013年に出版された本だから、数年前から私が指摘した事は予想されてた事になる。
確かに、衣•食•住に限って言えば、衣は布に過ぎず、食はエサに過ぎず、住は空間に過ぎない。ライフスタイルや主観的心地良さを優先すれば、ファッションはカジュアル(普段着)に、ランチやディナーはミール(粉)に、レジデンス(住居)は屋根付き”囲い”に過ぎない。
そこに贅沢や高級感や娯楽性は全く必要ない。むしろストレスが溜まるだけだ。
モノは本当に必要なのか?
人類に果たして”モノ”は必要なのか?モノがないと生きられないのか?今その構図が大きく変わろうとしてる。
今やモノは、資本主義を支えてきた大衆消費財ではなく、大量廃棄物であり、不必要な排泄物に成り下がった。
狩猟民族であったサピエンスは、農耕革命により地球の全域に繁殖し、大量生産大量消費が支えた資本主義の下に、民主主義というフェイクの下に、地球上の生命体の頂点に君臨してきた。
人がモノを買わなくなった時、モノに興味を示さなくなった時、人類が消滅する?時なのかもしれない。
それで、ますます人は物を買わなくなる。
また、現在はユニクロにせよ、百均にせよ、安くて品のいいものが出回っている。
結果、物を持つということがステータスの証しではなくなった。ブランド品ですら。
現在の人が大切にするものは情報です。それはパソコンやスマホなどのIT機器から得られる。ゆえにIT関係の商品にはお金をかけるけれども、それ以外のものにはお金をかけなくなった。実際、ネットで信頼関係が築かれ、良質の情報が得られれば、私達は、過去の友人関係を反故にしてもいいとさえ思える。
今朝のニュースだが、フランスではレンタルが流行だと言う。買うよりもずっと安くつくと。確かに中古でもまだまだ結構高い。
日本ではレンタルビジネスは下火だが、高価な廃棄処分費用を考えると、レンタルがずっと安くつくのは明らかです。
情報もモノも共有する時代。やはり確実にモノを買わない日が来ますかね。
将来も中国人はカネがある限りモノを買い続けます。
モノを買うと云う行為は、誰かの労働に対価を払う行為で、その対価が割安な場合は買い割高なら買わない事が原則です。
つまり、奴隷労働によって生産されたモノは当然買われます。中国製品を米国が買い、日本製品を中国が買うように。昔は、アジア製品を白人が買っていました。
一部の日本人はこの社会構造を、バブル時期を経て、大量消費は奴隷労働によって支えられている事に気が付いたのだと思います。
それでもまだ、外国人観光客によって日本人の労働力が安く買われ、資本家によって外国人の安い労働力が買われています。
買えば買うほど、資本家のみが儲かる。
奴隷制に不慣れな、本来の日本人には、とても耐えれない経済システムです。
全く買えば買うほど、資本家だけが儲かる資本主義ですよね。
奴隷制度という名の資本主義、いや民主主義。安い労働力を買うという事を考えると、買うという事がなくなる日は、来るんかなって感じですね。