ある村に、たった一人の床屋さんがいた。その主は、典型のガンコ親父だ。
”俺様はな、自分でヒゲを剃らない人のヒゲしか剃らねーんだ”
そこで常連の客は、笑って言い放つ。
”だったら、アンタのヒゲは誰が剃るのか?村の全員が誰かにヒゲを剃ってもらうとしたら、そんな床屋は存在しないぜ!”
数学的に言えば当然だ。その床屋の主が自分でヒゲを剃らないのなら、その定義からすれば、自分でヒゲを剃れば、自分でヒゲを剃らないという条件に反する。
床屋さんのパラダクス
私も子供の頃、全く同じ様な事を考えてた。床屋さんの髪の毛は誰が切ってるんだろう?まさか神様が切るのか?それとも切らなくても伸びない髪の毛なのか?
高校生の頃、地元の床屋さんが、”街の床屋なんてフザけてんな!顔剃りだけで数千円も取り上がる”
その言葉を聞いて、”ああ床屋さんのヒゲは、床屋さんに剃ってもらってんだ”と妙に納得した記憶がある。
つまり、床屋の主はやはり”自分でヒゲを剃らない”のだ。
という事は、実際には、”自分でヒゲを剃らない人のヒゲしか剃らねー”っていう頑固親父の床屋はやはり存在する。
しかしこれには、床屋さんが2人いるという条件だ。先程の定義では、床屋さんは1人しかいない事になってる。
故に、数学的に見ても現実的に見ても、そんな床屋は存在しない事になる。
このパラダクスにも反例を挙げる者が現れた。
”床屋の主が女性だったら?女性は自分でヒゲは剃らないぜ”
でもこれも間違ってる。今や女性も顔をシェービングする時代だ。女主人といってもやはり誰かに剃ってもらう必要がある。
また、”村には床屋が二人いるとする。一人の髪はボサボサで、もう一人の髪は整ってる。どちらに散髪を頼むべきか?”
普通に考えれば、髪の整ってる人に頼みたくなる。しかし、この2人はお互いに散髪し合ってるから、髪の整っている主に頼むとボサボサにされ、髪がボサボサの主に頼むときれいに散髪してくれる、というジョークもある。
しかし、これは現実にも当てはまるもので、ボサボサの髪の人ほど、意外と腕はいい。
医者も同様で、白衣を来てキチンとしてる人より、普段着でボヤボヤの人ほど、執刀の腕はいいかもだ。
人は見かけによらない様で、見かけによるのだろうか。
ラッセルのパラダクス
これは、数理論理学と集合論における重要なパラダクスで、イギリスの論理学者バートランド•ラッセル(1872-1970、イラスト左)により考案されたパラダクスを分かり易くした例である(Wiki)。
ラッセルは、ゴッドロープ•フレーゲ(1848-1925、イラスト右)が考案した”数の基本原理”に、敢えて異議を唱えた。
因みに、ドイツの数学者であるフレーゲは、”数の定義”について以下の様に考えた。
例えば、7個のカップを数える時、私達は1,2,3,,,7と数える。
しかしフレーゲは、カップの集まり(クラス)に注目した。カップを数える事が出来るのは、”クラス”があるからだ。つまり、カップの集まりと数の集まり(1,2,3,,,7)の間に対応関係を作ったのだ。
逆を言えば、数が存在しなくても、カップに完全対応するソーサ(のクラス)があれば、カップの数とソーサの数が同じ事が証明できる。
つまり、数を知らなくても、カップの個数を数える事は可能なのだ。
カントールの”対角線論法”で紹介される、全く教育を受けてない羊飼いが100匹の羊を数える事が出来るという有名なジョークも、ここから生まれている。
更にフレーゲは、”数が何であるか?”を突き止めた。つまり、クラス(の対応)の概念を使う事で、”数を定義”した。
この様な対応関係を集合論では、”1対1対応”と呼ぶ。大げさに言えば、数論を集合論に置き換える事が可能になったのだ。
ところでラッセルは、フレーゲが考案した”クラス”には、この床屋と同じ様に振る舞う”パラダクス(反例)”が存在する事を主張した。
それは、”自分自身を含まない全てのクラスのクラス”である。
このクラスは自分を含んでるのか?含んでいないのか?
答えは、そのどちらも否定される。
もし、自分自身を含んでいるとすれば、全てのメンバーと同じく自分自身を含なない。また、自分自身を含んでいないとしたら、全てのメンバーと同じく自分自身を含む。
抽象的で判りづらいが、自分自身を要素として含まない集合全体の集合の存在から矛盾が導かれますが。
”素朴集合論”のパラドックスとして、数学的に説明すると、とても単純です。
今、R∈Rと仮定すると、R={x|x∉x}の定義より、R∉Rとなり、これは明らかに矛盾です。故に、仮定なしでは、R∉Rですが、Rの定義よりR∈Rとなり、これも矛盾ですね。
カントールのパラダクス
しかし、このラッセルのパラダクスは、フレーゲによる数の定義が論理的に矛盾してる事を証明してる訳ではない。
事実、”集合論の父”ゲオルク•カントール(1845-1918)は、フレーゲの”クラス”を”集合”に置き換え、同じ様に1対1の対応関係を作る事で、数ではなく”無限大”を定義しました。因みにカントールの無限大の考察に関しては、”リーマン1の8”と”無限大ホテル”も参照(Click)です。
しかしフレーゲと違ったのは、論理ではなく直感からスタートした事でした。
更にカントールは、無限大には加算無限大と非可算無限大がある事を証明した。
つまり、有理数までの数の集合は加算無限大で、実数や複素数の集合は非可算無限大であると定義した。
判り易く言えば、有理数は自然数との1対1の対応が成り立つが、実数は自然数との1対1の対応が成り立たないのだ。
もっと判り易く言えば、無限大にも濃度があるという事。
更にカントールは、ラッセルのパラダクスを拡張させ、”最も大きい無限大は存在しない”と主張した。
これは、最大の数は存在するが”最大の無限大は存在しない”と言い換える事もできる。
カントールも数学者も所詮は人間だから、この”最大の無限大は存在しない”という無限大のパラダクスを追い求めたくもなる。
しかし、カントールの対角線論法をもってしても、これを証明する事は出来なかった。
そこでカントールは、非加算無限大の事を”連続体”と表現し、”加算無限大の濃度と非加算無限大(連続体)の濃度の間には他の濃度が存在しない”と予想した。
これこそが有名な”連続体仮説”ですね。彼が32歳の時に初めて提示した1877年の事です。以降、143年経った今でも、立証と反証の試みがなされてます。
事実、このカントールの予想(パラダクス)の答えは、YES(ゲーデル、1940)でもあり、NO(コーエン、1963)でもある。
以上、UNICORNさんのコメ参考です。
故に、神の領域を凌駕しようとしたカントールの予想は、クロネッカーの反感と嫉妬を買ったんでしょうか。それ以降、カントールは精神を大きく病んでいきます。
最後に〜数学的公理に拘るとアホを見る
因みに、リーマン予想も今では、カントールの予想と同じく立証と反証で揺れてます。
従来は99.9%正しいとされてたが、レーマーの観察に代表される様に、その反例にも注目が集まってる。
コンリーが”リーマン予想は40%は正しい”と証明した様に、今では”リーマン予想は正しいかもしれないし、そうでないのかもしれない”のだ。
カントールも非加算無限大で終えとえばよかった。フレーゲも”全てのクラス”と言い張ったから、ラッセルの反感を買ったのだろうか?以上、腹打てさんとHooRoo嬢のコメ参考でした。
つまり数学において、決め付けは禁句なのだ。
カントールは更に、”絶対無限大が存在する”と予想したが、絶対無限大とはあらゆる種類の無限大を全て含んだ最大数の事です。
流石にこれは、神の思考を超えた問題であり、数学的にその存在は示せないとされます。
しかしこの事は、数学が論理的に矛盾してる訳ではない。この疑問の答えは、どんな集合論を使うかで答えが変わってくる。
数学の論理的構築はとても複雑で、初歩的な事項に関しては全て一致するが、もっと高度な概念においては食い違う場合がある。数論においては特にそうだろう。
”敵に出会ったら、それは自分だった”
つまり、決め付けは敵なのだ。故に、数学的な公理に基づく論理にこだわると、逆に痛い目に遭ってしまう。
数学と言えど、時には哲学的で柔軟な対応とアナログな直感が必要だという事を教えられた気がする。
以上、後半部を更新&追記しました。
数学者の中にはラマヌジャンのように、敬虔なヒンズー教徒もいるし、オイラーやリーマンのように、筋金入りの有神論者もいました。
そう考えると、奇妙でもないんですが・・・
わかったったようなわかんないような
それに数学と哲学がなぜ結びつくんかいな〜
ウーンやっぱ数学って奇妙だな
答えは出そうで出る筈もないですね。全ては集合の種類と条件次第ですから。
リーマンも関数の事を”穏やかな変化量”と抽象的に表現しました。リーマン予想ですら、”おおよそ正しい”と書いてます。
数学と言えど、直感や洞察、哲学などのアナログ的思考も必要なんですね。
高校の時に聞いたことあるけど
写像のことだよね
カントールもフレーゲも
数を数える代わりに写像を使ったんだ
互いの対応が全て1対1であれば
無限大が幾つかは問題ではなく
互いの集合の濃度が同じってことだ
自然数と有理数は同じ濃度だけど
有理数と実数では濃度が違う
無限大と言っても濃度が問題ってこと
数学って数の学問だと思ってたけど
濃度というアナログの学問でもあるんだ
こっちこそ勉強になったよ
でも、ある程度当ってると思います。
フレーゲの夢とカントールの希望、それにラッセルの反感とクロネッカーの嫉妬。
数学者といっても、子供のような純真な心を持つ人間なんですよ。
コメント有り難うです。
言われるように、リーマン予想もカントール予想も人類の思考を超えたとされます。
クロネッカーにとってカントールはもう一人のリーマンに思えたでしょうね。
このコメントも補足させて頂きます。
参考になります。
数論を全て集合論で置き換えようとするとどうしても反例が出てくるはずだわ
現実世界には全ての実数で表せない集合もあるはずだから集合によってはカントールの予想が外れることもあるの
フレーゲが全てのクラスの全てのクラスと決め付けたからラッセルの反感を買ったの
カントールも全ての実数体と決め付けたからクロネッカーの嫉妬を買ったんだわ
絶対そうに決まってる
昔は99.9%正しいとされてたんだが、レーマーの観察などが注目されるようになり、反例にも注目が集まってる。
コンリーが40%は正しいと証明したように、今ではリーマン予想は正しいかと聞かれれば、正しいか?正しくないか?その2つのどちらかだというのが答えらしいけど
カントールも非加算無限大で終えとえばよかったのに。神の領域を超えようとしたんだろうか。クロネッカーが嫉妬するのも頷ける。
私が最後に言いたかった事はこれなんです。急いでたんで、上手く纏められなかったんですが。
これ、早速補足として付け加えさせて頂きます。アドバイス有り難うです。
これを連続体仮説と言うんですが、カントールが32歳の時に初めて提示した1877年の事です。
そして、143年経った今でも、立証(ゲーデル)と反証(コーエン)の試みがなされてます。それも無理を承知でですが。
その上、カントールは絶対無限なるものも予想してますが、これに関しては明らかに異論があるんですが、こうした度の過ぎた?無限大の考察がカントールを精神的に追い込んだのは間違いないような気もします。
論理か直感か、難しい所です。
コメントどうもです。
でも無限大の考察も度が過ぎると馬鹿を見るんでしょうか。