
前回の”ゴッホとゴーギャン”では、「ひまわり」を巡る2人の関係について書きましたが、今回は2人の本質的な相違に視点を当てて書きたいと思います。
ゴッホは感情で"ひまわり"を描き、ゴーギャンは友情で"ひまわり"を描いた。ゴッホの感情は、ゴーギャンとの友情をも燃え尽くし、ゴーギャンの友情は、亡きゴッホの後もなお続いた。
ゴッホとゴーギャンの作風は、似てる様で非常に対称的でした。
色彩を全面に押し出し、自然をありのままに描こうとするゴッホと、強く太い輪郭線を使い、神の様に創造(想像)で抽象を描こうとするゴーギャン。人間の生々しい感情と、一方では神の冷静な創作意志。
ゴーギャンにとって色彩は、独立したものではなく、色彩の最適な調和を意味した。それに対してゴッホは、各々の強烈な色彩が絵画画面の中で主張し、その色彩こそが絵画画面を支配した。
故にゴッホの色彩には、荒々しく生々しくも感じるが、それに比べゴーギャンの色彩や筆遣いは、繊細で整いすぎた感じがしなでもない。
しかし、ゴッホの色彩表現があまりにも刺激的で熱情的で時代を超越してた為、当時の美術界は勿論、前衛的画家である筈のゴーギャンでさえ、自分と全く異なる絵画手法の価値を十分理解できなかった様に思える。
以下、”ゴッホとゴーギャン”を参考です。
ゴッホとゴーギャンの歩み寄り
ゴッホからの度重なる要請にゴーギャンが折れた形で始まった生活には、強烈な個性がぶつかり合う絵画の実験場でした。
1888年10月から始まった共同生活だが、2人は11月初めには、カフェの女主人をモデルに「アルルの女」を競作、同月末にはお互いの椅子を描いた。ゴッホの耳切り事件で終わるまでの2カ月間、ゴッホは37点、ゴーギャンは21点の作品を描いた。
速描きのゴッホはともかく、ゆっくりと静かに描きたがるゴーギャンの制作量としては異例の多さだ。これだけをみても、共同生活がいかに濃密な時間であったか。
しかし、この制作の多忙さがゴーギャンを次第に追い詰める事になるのだが。
ゴッホはゴーギャンを”詩人”と呼んだ。そして、ゴーギャンが想像や思考から絵画世界を広げていくアプローチに驚き、尊敬を覚えた。
ゴーギャンは”芸術は自然の象徴。自然の前で夢を見つつ、そこから抽象を作り出す”と言って、ゴッホに”完全に想像から描く”よう指導し、励まし続けた。そんなゴーギャンの影響を受け、ゴッホも新たな表現に挑戦した。
一方、ゴーギャンも新たな展開を見せ、広く平らな色面を用い、現実の形態や色彩を変え、想像に基づいて絵を描く事を更に重視していく。
お陰で最初の頃は、ゴッホのゴーギャンの個性に対する歩み寄り感じる作品が続く。
しかし、これらの作品にはゴッホの晩年の作品の様な張り詰めた緊張感はない。パリの画家仲間らと親しく交わり、筆を走らせ、明るさやくつろぎすら感じさせる。
互いの気質の違い
オランダ南部生まれのゴッホは、人付き合いが苦手で内向的。一方、パリ生まれのゴーギャンは都会的に洗練され、静かな環境で絵を描くのを好んだ。
牧師の息子とジャーナリストの息子という違いもあるが、2人の性格と気質は絵画の手法以上に対照的だった。
ゴッホは自然をありのままに描き、ゴーギャンは自然をありのままに描くのを嫌った。
ゴーギャンは、万物の創造主である”神の様に創り”出さないと気が済まなかった。一方でゴッホは、”絵全体をでっちあげる事は出来ない”と、暗にゴーギャンを批判した。
画家として異次元の才能を持つが、社会生活のバランス感覚に稚拙なゴッホには、自らの才能に自信を持って語るゴーギャンに、自らの美学を上手に伝える事が出来なかった。
つまり、2人の気質の違いも、破綻を引き起こした大きな要因と言えよう。
世間知らずのゴッホは、パリに上京して舞い上がってしまい、ユートピアを夢見てアルルに移ったが、この飛躍的な発想に賛同する人は唯一ゴーギャンだけだったが、ゴーギャンがゴッホの呼びかけに応じたのは、当時全く絵が売れず、ゴッホの弟で画商のテオからの金銭的援助が目的でもあったとされる。
一方、都会育ちのゴーギャンは一人で思策を重ね、一人静かに身を置き、湧き出す創造力で作品を描くタイプだった。毎日の様にゴッホにつき纏われ、自分の絵をじろじろ見られ、説教されるのは苦痛でしかなかった。
ゴッホの獣性とゴーギャンの総合主義
前述した以外にも、2人の絵画にはもう1つの大きな違いがあった。それは、ゴッホのフォービスム(野獣派)とゴーギャンの総合主義の違いである。
因みにフォービスムとは、写実主義から変異した、目に映る色彩ではなく心が感じる色彩を表現する。
ゴーギャンにとって芸術は、自然の前で夢を見つつ、抽象を作り出す事。
一方ゴッホは、記憶と創造力から絵を描く能力は高く評価していたが、ゴーギャンが率いたポン=タヴァン派の画風は、強く太い輪郭線によって対象の形態を捉え、平坦な色面で画面を構成する手法で、色彩•輪郭線•諸々の主観を”総合”し、より単純化した形が作られるという”総合主義”の主張を持っていた。
ゴーギャンにとって色彩とは、独立した主張を持つものではなく、色面の中で隣り合う最適な調和を意味した。つまり、色彩は単に絵の一部に過ぎない。
それに対しゴッホは、当時誰も発想しない様な各々の強烈な色彩が絵画画面の中で主張し合い、絵画画面を支配する様な作品を描いていた。ゴッホの色彩は描いたばかりの絵具が匂う程の獰猛さを覚えるが、それに比べゴーギャンの筆遣いは、何か神聖で渇いた感じがする。
ゴッホの生々し筆使いは、ゴーギャンの総合主義よりも前衛的で、のちにフォーヴィスム(獣性派)として開花する、極めて斬新な絵画手法ではなかったか。
事実、後にゴッホは”自分の作品が人を驚かせ当惑させるのは、意のままにならない自らの獣性で、それは誰も真似ができない”とまで語ってる。
ゴッホとゴーギャンの椅子
ゴッホとゴーギャンが共に絵画の次の時代を開く前衛的な天才であったにも拘らず、2人の方向性が全く違ってた為、2か月の共同生活を経ても、互いの芸術的価値の高さ、特にゴッホの絵画の前衛性と美樹的な凄さを真から理解し合えなかったのでないか。
それでも2人は互いを思ってたという事実は、天才芸術家の心情や友情の複雑さを感じる。
”2人の椅子”、即ちゴッホの「ゴーギャンの椅子」(写真)とゴーギャンの「肘掛け椅子のひまわり」がその象徴だとされる。
まず、「ゴーギャンの椅子」はアルルでの共同生活が破綻する前を描いた作品だが。
この絵には、ゴーギャンが使ってた椅子に座るべきゴーギャン自身の存在が表現されている。勿論、ゴーギャン自身は描かれてないが、その手法とモチーフは、ゴーギャンの都会的趣味と知性的嗜好を表現してる。
ゴーギャンの色彩理論の影響と思われる隣り合う色彩の高度の調和を感じさせ、”ゴーギャンの椅子”の上に描いた蝋燭は、ゴッホの心象をも映している。
この時すでに、2人の破綻に気付いてたんでしょうね。
次に、ゴッホの死から11年後、ゴーギャンはタヒチで「肘掛け椅子のひまわり」を描いた。
ゴーギャンはひまわりの種をタヒチに取り寄せ、この作品を完成させた。ゴッホが好んで描いたモチーフの「ひまわり」と「肘掛け椅子」を組み合わせる事で亡き友に思いをはせた。この作品こそが、晩年のゴーギャンがゴッホを意識して描いた重要な作品で、ゴーギャンがゴッホに対する尊敬を込めた描いた傑作ではないだろうか。
以上、exciteブログからでした。
最後に〜異次元の天才の苦悩と憂鬱
以上、長々と2回に渡り、ゴッホとゴーギャンの相違を述べたましたが、結論から言えば、ゴッホは異次元の才能を持ちながら、感情と熱情に浮かれ、気が触れた所がないとも言えません。
一方ゴーギャンはゴッホへの友情を支えに、都会的な卓越したセンスで絵を描いた。
ゴーギャンにはゴッホの異次元の才能が手に取る様に解ってたはずだ。しかし、ゴーギャンにも天才として先輩としてのプライドがある。しかし、次第に上から視線になるゴッホの熱情に、ゴーギャンには超えられそうにもない獣性を感じたのではないか。
私はよく、”天才を超えた天才”という言い方をする。ゴッホはゴーギャンを超えた異次元の天才であった様にも思える。
しかし、全てに度が過ぎたゴッホは、我を抑えられなくなっていた。しかし、それが単純に自殺という悲惨な結果に繋がるとは到底思えない。
つまりゴッホは、ゴーギャンの友情も周りの評価も、手に取る様に分ってたからだ。
ゴッホには死ぬ理由なんて1つもなかった。いやもっと長生きして、ゴーギャンとの友情を復活させたいと暗に願ってただろうか。
早く生まれすぎたゴッホ。
今はそれしか言葉はない。
でも超のつく天才にしか理解し得ない所も多々ありますね。