”人は見かけによる”で検索すると、殆どの人は”そうだ”と答える。
つまり、多くの人は見た目や外見という第一印象だけで、その人となりが見抜ける自信があるのだろう。
因みに、私は人を見た目ではなく色眼鏡で見る悪い癖がある。
スタイルのいい美人を見るとデリヘル嬢かなと勘ぐるし、チャーミングなアイドルを見るとスラムの出だと決めつける。
独裁者や権力者は狂人だし、著名な政治家は派閥や戦犯の家系に頼る無能議員、成金の実業家は札束に群がるハエと決めつける。
勿論、例外はあろうが、大体において当っている。
つまり、知の欠片もない無能な独裁者は見た目そのものだし、デリ嬢もアイドルも政治家も実業家もまた、見た目が全てである。
外見こそが全てを支配する
つまり、外見には人間性や健康状態や経済状況に、自信や趣味やセンスなど、”人としての全ての要素や本質が凝縮されている”と言われれば、(外ズラが悪すぎる)私には反論のしようもない。
確かに、今も昔も権力者や独裁者らは、そういう事を見抜く力を持っている。自分が最も強く偉く見える様に、大衆の前で振る舞う術を身に着けている。故に、我ら大衆は彼らをカリスマともてはやす。
一方で、見てくれを良くする安上がりで簡単な方法の1つに、服装や身なりを整える事がある。
つまり、TPOに合わせたオーダーメイドのスーツとか高級なコートとか、そんな安易で高価なモノじゃなく、普通に清潔感のある格好をしてれば、(バカであろうがスラムであろうが狂人であろうが)少なくとも悪い印象を与える事はない。
一方で、英国王室や皇族じゃないが、外見上の素敵さは大衆を魅了する。
大英帝国時代の上流階級の家庭では、子供の教育として服装の大切さを厳しく叩き込んだ。戦争や競争に勝つ為に大衆の支持を得るには、服装が重要な時代だったのだ。
かつて、欧米の列強に植民地にされたアジアの貧乏国は、先進国の見た目の素敵さに憧れ、見た目だけで国家や人の優劣を判断するようになっていく。しかし、価値観が多様化した今、”見た目は所詮見た目に過ぎない”とも言える。
つまり、覇権主義は見た目に依存した欺瞞の産物でもあったのだろうか。
日本では、身だしなみや振舞いは礼節の1つとみなされる。戦後の今でも日本では、人前での服装や態度が重要視される。
人前で権力を誇示する独裁者は自身の弱さや臆病さを見抜かれたくないし、バカほどバカに見られたくない。また粗悪品こそ、その粗悪を隠そうとする。
故に、独裁者とバカとモノは見た目を最優先する。これは貧しさも同じである。
特に、貧しい時代が長かった日本では、貧しさを隠す為に礼節を覚え、身だしなみや礼儀を大切に生き延びてきた。が、戦争で全てが一変する。
礼節や見た目を重んじてきた日本人は、アメリカの圧倒的で無差別な破壊力の前になす術もなく自虐的になり、最悪の惨劇を生んだ。
見た目が如何に脆いかを日本人は痛いほど思い知らされた筈だったが、日本人だけでなく、多くの人類はやはり見た目で人やモノを判断する傾向にある。
しかし、バカとモノは見た目で判断できるが、時代と物事の本質は見た目では判断できない。つまり、精度の高い考察と鋭い観察眼が必要なのだ。もっと言えば、見た目で物事を判断すると、その見た目に裏切られ、最後には自滅する(多分)。
例えば、実数には見える数(有理数)と見えない数(無理数)がある。勿論、見える数は見た目で大方は判断できる。しかし、見えない数は見た目では全く判断できない。
だが、見える数の代表的な数学の分野として整数論があるが、フェルマーの定理に代表されるように、数学史上の難題も数多く存在する。勿論、数学という学問は答えが見えない学問でもあるから、当然の事ではあるが・・・
つまり、現実にも見える現実があり、見えない現実もある。また、見えない現実にこそ本質が隠されている。
一方で、人には絶対に知られたくない部分があるし、そんなコンプレックスを隠す為に外ズラがある。故に、見た目の裏側には、その人の致命的な弱点が隠されてるとも言える。
メラビアンの法則
メラビアンの法則とは、アメリカの心理学者アルバート・メラビアンが提唱した”非言語コミュニケーションの重要性を説く法則”の事である。
彼は、人がメッセージを発した時、”相手が受ける印象はどの情報が最も参考にされてるのか?”を実験を行って計測した。
その結果、視覚情報(身だしなみ・しぐさ・態度・目線など)が55%で、聴覚情報(声のトーンや大きさ・挨拶や言葉遣いなど)が38%、その他の情報(話の内容など)が7%との分析がなされた。
人は”デリバリー・スキル”という(分析結果の9割の部分)非言語コミュニケーションと話す内容(1割の部分)のトータルでメッセージを発している。
つまり、それが「人は見た目が9割」(竹内一郎著、2005年)という乱暴な表現になって人目を引き、大した内容でもないのに10万部も売れたが、”理屈は見た目には勝てない”とは言い得て妙ではある。
メラビアン博士以前にも、”人は見た目”問題に言及した心理学者は存在し、”人間は初対面の人の正体を3秒で見抜く”と発表し、学会の笑われ者になった。
一見、アホ臭にも思える主張だが、大衆は”人が見かけで決まる”事を潜在的に認めている。
大統領選挙を有利に戦う為には、資質や能力よりも見た目が決め手となる。故に、候補者たちはTV映りを意識し、メイクアップや服装のコーディネートに細心の注意と多大な費用と努力を費やす。
話の内容より見た目の印象が遥かに大事なのは、トランプ元大統領のケースがそれを裏付けている。
特に、(選挙戦などの)短期的な勝負であれば、なお一層、見た目で勝負が決まる。
つまり、頂点に立つ生き物は大衆が見た目だけで人を判断する事を見抜いてるのだ。
しかし人生は長い。
初対面が(その見た目が故に)損をした人は、一寸した事で高い評価に転じる。逆に、高評価だった人が一旦マイナスの評価に落ちると、(見た目だけで)評価されてただけに、浮上するのは困難になる。
つまり、長い勝負になれば、見た目は脆く不利になる事が多々ある。故に、見た目も中味も上手くバランスを取る事も必要になる。
数学的に見た”人は見かけ”論
心理学的に見れば、(例外を除き)やはり”人は見かけ”という事に帰着する。
しかし、数学的に考察すれば、”人は見かけ”は正解なのだろうか?
つまり、複雑な事象という点で言えば、正解は一意的に決まらないし、”人は見かけ”というのはそうでもあるし、そうでもないとも言える。
若い頃に論理や理屈の世界に魅了された人は、実態や本質を見ようとせずに言葉の論理構成のみから、その言葉の真偽を決めつけ様とする危い傾向にある。例えば、”専門的な言い回しだから正しい”という勘違い。
人は成長するに従い、理屈を超えた世界としばし遭遇し、物事の複雑性を理解し始める。しかし、そんな複雑多岐な人間のあり方を僅か2,3の言葉で表現する事は危険すぎるし、無理がある。
つまり、ある人は”人は見た目”だと決めつけ、ある人は”人は中身”だと反発する。いや、ある人は”見た目も中身も重要だ”と理想論を垂れる。
連続体仮説ではないが、”人は見た目”というのは証明も反証も成されてはいない。だが、人はずっとそれを黙認してきたし、そしてこれからもそうであろう。
結局、人は中身であろうが見た目であろうが、モノや権力者と同じ様に、その本質や実態を見抜かない限り、場違いな空疎な議論に終止する様に思える。
故に、単純な事象で言えば、”人は見かけ”とも言えるが、複雑な事象となれば、その本質を見抜かない限り、答えは出ない。
つまり、人は見かけ論も無限に存在する答えの1つに過ぎない。
”40を過ぎたら自分の顔に責任を持て”と言い放ったリンカーン大統領も奴隷解法という名目で多くのインディアンを虐殺した。
そのリンカーンもアメリカの英雄のままである。つまり、権力者も英雄も悲しいかな、見た目で決まるのだ。
最後に〜見た目論のジレンマ
人はバランスを取る生き物である。
中身が腐ってれば、外ズラを良くし、それをカバーしようとする。一方で、中身が優れてれば、外ズラはどうでも良くなる。
アイドルやジャニーズではないが、生い立ちがスラムであっても外ズラを良くすれば、大衆が憧れる存在になれる。逆に、いくら生い立ちがよくても、外ズラが悪ければ、大衆は彼らを見下すだろう。
生まれながらに強面の人は周りから警戒されて育つので、怖がられない様にと必死に努力する。結果、優しい心が育つ。逆に、チヤホヤされて育った子は(思春期になると}ナメられまいとしてヤンキーになり、内面も外面も荒んでいく。
元々強い人間は周囲を威嚇する必要がないし、誰からも好かれる性格を持つ人は(好感度を得る為に)外面を磨く必要もない。
結局、外面や外ズラってもんは自己表現に過ぎない。それは内面が外面に現れるものではなく、内面に足りないもの、つまりコンプレックスを覆い隠す為の”お面”(マスク)とも言える。つまり、外面と内面は同じスペクトル上にあり、互いに対極の関係にあるとも言える。
家電モノで言えば、外面はデザインであり、内面は性能と言える。デザインは性能の不足をカバーし、性能はデザインの不器用さを補う。
故に、見かけは人や物事の本質を見抜く為の一要素に過ぎない。
そこで、私は”人はその考え方による”というのを最適解の1つにしたい。モノで言えば、(作られる)そのコンセプトによる。
つまり、考え方こそが人やモノを進化させ、生存戦略としての最適解を生み続ける。
しかし、ここまで書いてきた私も、やはり見た目で人を判断する傾向にある。それは悲しいかな、私が自分自身を見た目で判断してるからに他ならない。
つまり、”人は見た目”と言うのは、”囚人のジレンマ”でいう(ナッシュの)均衡状態であり、最適解ではない。が故に、互いを見た目で判断し続ければ、最終的には最悪の方向へと向かうだろう。
そういう事が解ってながら、見た目という最悪のジレンマを選択する。
結局、”人は見た目”というのは、大衆の本質の一つなのかもしれない。
花はなぜ色彩豊かなのか? 昆虫を引きつけるため。
孔雀の雄の羽根はなぜ立派なのか? 雌にアピールするため。
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サンテグジュベリは『星の王子さま』でこう書きました。
「大切なことは目では見えない。心で見るんだ」
その象徴が『象を飲み込んだ大蛇』の絵を大人は『帽子』の絵と勘違いしたというエピソードですが、人間が「心で見る」という心境に達するのは、なかなか大変ですよね。
まさにその通りだと思います。
言われる通り
もしかしたら、人以外の生物の方が物事を見た目で判断してるかもですね。
見た目で判断するというシンプルで単純な生存戦略こそが、種を長く存続させる最高戦となる。
そういう意味では、見た目で判断するというのは物事の本質を見抜く近道の1つかもですね。
サンテグジュベリの言葉、とても印象に残りました。
コメントありがとうございます。