静かな場所

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【ふたりの恩師】 その2「U先生」(前編)

2019年07月17日 14時17分12秒 | 履歴書(昔話、音楽など)
【ふたりの恩師】

二人の「恩師」とは、K先生とU先生のこと。

その2「U先生」(前編)

【赴任直後】
1976年4月、K先生は伊勢高校に異動、入れ替わりに伊勢高校からU先生が宇治山田高校に赴任された。
私は大阪の大学へ。
大学真ん前の田んぼの真ん中にある寮に入った。

合唱部の様子は気がかりだった。
新年度になって初めて帰省した5月の連休に音楽室を訪れた。
部長のMさんが指揮をしていて、U先生は準備室で座ってみえた。
そのころのことは、よく知らないことが多く、記憶違いや事実誤認があるかも知れない。

とにかく、U先生は合唱部顧問になったものの、全体指導はされていなかったようである。
パート練習などサブ的な役割は献身的に係っておられたが、全体練習の指導は主に部長(と部員)に任せていたのである。
私は、現役高校時代、伊勢高校の友人からU先生の合唱指導の録音を聞かせてもらったりして、先生の指導力やその素晴らしさはある程度知っていたので、残念に思えて仕方なく、先生にも「指導してやってください」とお願いしたし、部員たちにも「頼んで(指揮、指導を)やってもらったら」と話したことは憶えている。
しかし、事実は同年のコンクールが終わるまで、U先生は合唱部の指揮台に立たなかったのである。
(そのいきさつは今でも詳しくは知らない)
コンクールに向けての練習は、宇治山田高校合唱部OBで中学の音楽教師をされていたNさんが定期的に指導に来られていた。
部員たちが頼んだのであろうか、U先生が頼んだのであろうか、その点も私は知らない。

【山高と伊勢高】
両校の合唱部は同じ伊勢市内ということもあり、いわばライバル校としてしのぎを削っていた。
コンクールはNHK主催と三重県合唱連盟(全日本合唱連盟)主催(私たちは「アサヒ」と呼んでいた)との二つがあった。
伊勢高校はNHKのみに出場していて、そちらでは伊勢高と山校が金賞を代わる代わる取っていたのかも知れない。
その両校の指導者が入れ替わったのである。
伊勢高に赴任したK先生は初年から指揮台に立ち、大物OBの居並ぶ前でそうとう苦労されたようである。
U先生が前面に出なかった、その理由は、今でもはっきり分からないが、K先生色に染まり切った山高の生徒たちを自分流に変革していくのにK先生より遠い道を選んだのかも知れない。
また、私が驚いたのは準備室に3月まではなかった弦楽器群がけっこう揃っていたことである。
もしかしたら、合唱よりもオーケストラをしたかったのかも知れない。
全て、私の推測でしかなく、その点も、より詳しく知っている人がいると思う。

【76年のコンクール】
そして、76年の「アサヒ」コンクールの日を迎えた。
どういう訳か、伊勢高は出なかった。
1学期の三重県合唱祭や連合音楽会で、早くも指揮をしていたK先生だったが、山高時代、ずっと連続で出ていた「アサヒ」コンクールにどうして出なかったのか、その訳も私は知らない。

宇治山田の合唱は聴いていて、本当に鳥肌が立つものだった。
去年まで一緒に歌っていた後輩たちと新しく入った1年生が全身全霊で歌っていた。
響きも表情も他を圧していたと思った。
結果発表で「金賞、宇治山田高校」と聞いたときは本当に狂喜した。
ところが、続いて「同じく、金賞・・・四日市南高校」とのアナウンスに、みんな「えっ」となった。
今までの県大会で金賞が二つなどなかったから。
そして、中部コンクールに行くのは宇治山田ではなく四日市南であることが分かった。
天国から地獄のような時間。
会場の外で、たくさんの部員が泣いていた。
部長のMさんは号泣しながらも後輩たちへのメッセージを語っていた。

それを横で聴いているU先生の目も真っ赤だった。

続く。








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