LanguageStyle

■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

前倒しではないという小学校英語

2007年09月11日 | 記事
小学生の英語、「点数評価せず」 文科省方針
2007年09月11日00時28分

 文部科学省は10日、学習指導要領の改訂で導入を検討している小学校の「英語活動」について、検定教科書を使わず数値評価もしないという案を中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の教育課程部会に示した。部会では反対意見は出ず、教科ではなく現行の「道徳の時間」や「総合的な学習の時間」などと同様の位置づけになりそうだ。

 小学校高学年で早ければ11年春から英語活動を導入するという文科省案は、教育課程部会の下部にある小学校部会が大筋で了承している。教育課程部会はその結果を受けて検討した。

 文科省がこの日出した案では「幅広い言語に関する能力や国際感覚の基盤を培う」ことを目的とし、「中学校の英語教育を前倒しするのではない」と明記。教科のように数値評価すべきではなく、検定教科書を使うのではなく「国として共通教材を提供することが必要」と記された。

 委員から明確な反対は出なかったが、なぜ小学校から始めるかという点では、「中高の英語教育の課題や反省点を踏まえないと(導入に)納得を得られない」(中村正彦・東京都教育長)、「(目的は)国際理解なのかスキル養成なのか。文科省案には両方の考え方が並んでいる」(市川伸一・東京大教授)といった意見があり、引き続き議論することになった。


 重要な点をまとめると次のようになる。

  • 検定教科書を使わない
  • 数値評価をしない
  • 教科ではない
  • (中学の)前倒しではない

     「英語教育」ではなく「英語活動」なのだと文科省が言い張るところあたりは何とも言えないあいまいさを表している。彼らは小学校英語をしたいわけではなく、せざるを得ないだろうなと漠然と考えているような印象を私は受ける。これはよく言えば非常に慎重なものであり、悪く言えば中途半端以外の何物でもない。検定教科書を使わないということは何を教えるかが決まっていないことを表している。教科書は子どもたちに身につけさせるべき力が記述されている。
     評価をしないということは良く言えば自由で柔軟な指導ができるのだということになり、悪く言えば何でもありということになる。子どもたちから英語を学ぶ理由を問われたとき「世界中みんなが英語を話す時代だからだよ」などという返答を返す教師が現れるとしたらこれはある意味で洗脳教育だと言えよう。
     「教科」ではなく「活動」なのだと言うことにどれだけの意味があるかは分からないが2002年度から総合的な学習の時間などを使って英語活動をしても良いことになったときからこの点は一貫した言い方になっている。
     前倒しではないという言い草は何であろうか。一般的日本人の英語学習はかつては中学校から始まっていたわけであるが、これが小学校からということになったとき、それが「前倒しではない」という理屈はどこからやってくるのだろうか。13歳から学んでいた英語を11歳から学ぶことになったとき、それは前倒し以外の何者でもない。しかし文科省は前倒しではないと言う。ここに小学校英語のいかがわしさがある。小学校英語で一体ぜんたい何をしようとしているのだろうか。子どもたちに何を教えようとしているのだろうか。果たしてそれは英語なのかどうか。前倒しではないと言う理屈はこのあたりにあいまいさを残しており、中途半端さを感じさせる原因となっている。小学校英語を推進する論理には今、霧がかかっているのである。

    小学英語は「教科外」、教材は全国共通 中教審部会
    9月11日6時19分配信 産経新聞

     中央教育審議会の教育課程部会は10日、次期学習指導要領で導入を予定している小学校高学年の英語について、(1)算数や国語のような「教科」として扱わず、数値評価もしない(2)全国共通の教材を国が提供する-とした文部科学省の素案を大筋で了承した。
     素案によると、小学校の英語を教員免許の必要な教科とは別扱いとし、学級担任がアシスタントなどの支援を受けて授業を担当。一般教科のように3段階・5段階の評価をせず、教材は教科書でなく、道徳で用いられている「心のノート」のような副読本とする。
     ただ、授業目的や内容については委員の意見が分かれ、結論を持ち越した。文科省の素案は英語教育の目的について、言語や異文化理解の一環として「英語を中心とする外国語活動」と位置づけたが、委員の一人は「地域特性でスペイン語やポルトガル語などの指導も可能なら『英語』の表現を外すべきだ」と指摘。別の委員は「英語を学ぶためにスキル(技術)を教えるべきだ。『中学英語の前倒し』で何が悪いのか」とし、きちんと語学を学ばせることを求めた。
     梶田叡一部会長(兵庫教育大学長)は「玉虫色の表現では現場が混乱する」とし、改めて検討することとしたが、教育目的については「中学英語への導入でもあり、語学を学ぶとの表現が強くなるのではないか」との見通しを示した。
     小学校の英語導入をめぐっては、伊吹文明文科相が「必修化は不要」と難色を示すなど意見が分かれ、英語に慣れ異文化を理解するとの意味合いが強調されている 。


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  • 世界自殺予防デー

    2007年09月09日 | 記事
    自殺の現状


    児童・生徒の自殺者推移(文科省発表)
    ※警察庁の調査とは齟齬が見られるがこれについてはこちら(PDF)を参照
     WHO(世界保健機構)は9月10日を「世界自殺予防デー」としているようだ。明日がその日。ということで自殺に関してすこし調べてみようと思う。人はいずれ死ぬとはいえ、自ら命を絶つということは異常事態である。
     「自殺」に当たる英語はsuicideだ。sui(=self)は「自ら」という意味で、cideはdecideにもあるように「切る」という意味だ。語源から分析すると「自らを切る」という意味になる。日本では年間3万人以上もの人たちが自殺により自ら命を絶っていると言われている。先進国G7諸国(日・米・英・伊・加・独・仏)中で日本人の自殺率は1位(こちらこちらを参照)である。男女別に見ると日本では男性の方が女性の2倍以上の率で自殺にいたっている(こちらを参照)。先日も引越会社の社長が自殺により命を絶ったというニュースを耳にしたばかりだ。死ぬことを考えることとそれを現実に移してしまうことは紙一重なのか。それとも自殺にいたるには何か決定的な原因があるのだろうか。そのような難しい問題は私の手に負える問題では到底ありえない。ここで扱うのは昨年に大きく表面化したいじめによるいじめ自殺の問題である。
     文部科学省は「児童生徒の自殺の状況(PDFファイル)」においてその自殺者数を表にしてまとめている。右図はその数をもとに作成されたものである。これを見ると相対的には子どもたちの自殺者数は減ってきていることが分かる。しかし少子化といわれる世の中だ。子どもの数自体が減っていることも勘定しなければいけない。
     昭和25年には総人口の3分の1を超えていた子ども(14歳以下)の数が第1次ベビーブーム期(昭和22年~24年)を越したあたりから昭和45年にかけて減り続け約4分の1となった。第2次ベビーブーム期(昭和46年~49年)の出生児数の増加によってわずかに上昇したも50年代に入って再び低下し平成19年2月現在では13.6%にまで落ち込んでいる。数で言えば昭和49年には2600万人を超え、昭和53年には2777万人を超えていた子どもの数が平成19年2月現在では1739万人にまで減少している。
     しかしこのように見ていっても全体の傾向としては子どもたちの自殺率は減っているというのが事実だ。それではなぜ子どもたちの自殺が社会問題となったのか。それは自殺がいじめの問題と結びついたからである。
     ここで私は子どもたちが自殺をする原因にまでは立ち入らない。自殺の理由はさまざまあり、特に子どもたちの場合はその時の突発的な行動によるものが多いのではないかと思われるからである。ちなみに文科省の発表している数字によれば平成16年度にいじめを理由にして自殺した子どもは0人であり、平成17年は1人である。が、この数字が事実を表しているかどうかは分からない。
     
    いじめの定義

     文部科学省は2007年1月19日、これまでのいじめの定義を見直すことを決めた。従来のいじめの定義は次のようになっていた。

    文部科学省(1985)の定義
    1.自分よりも弱いものに対して一方的に、
    2.身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、
    3.相手が深刻な苦痛を感じているもの。
    4.学校としてその事実を確認しているもの。
    ・なお、起こった場所は学校の内外を問わないこととする。

    文部科学省(1995)の定義
    1.自分よりも弱いものに対して一方的に、
    2.身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、
    3.相手が深刻な苦痛を感じているもの。
    ・なお、起こった場所は学校の内外を問わないこととする。


     新しいいじめの定義では「一方的」「継続的」「深刻な苦痛」などの条件を見直し、次のようになったと伝えられた。

    子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行う。


     これは見直し案ということだが、いじめがいじめであると判断される条件がゆるやかになったとは言えそうだ。

    いじめと自殺


    文部科学省調査
     昨年、いじめを理由にした子どもたちの自殺が相次いだ。皆さんもご存知の通りだ。テレビをつければ自殺のニュース。これから自殺しますという予告文が文科省に送りつけられるという事態まで発生した。これらの事態に対して文部科学大臣が「文部科学大臣からのお願い」と題するメッセージを発表するという対応もあった。いじめ問題に対して真剣に対応してゆくという姿勢を見せたという点では文部科学大臣をはじめとして文科省の対応はすばやかったといえる。
     しかしいじめと自殺が直結する問題なのかについてきちんと考えておくことも必要である。文科省によればいじめの発生件数は右図のようにまとめられる。しかし先に見たようにいじめを原因に自殺をしているのは平成11年に1人、平成12年から平成16年度までは0人、平成17年度に1人である(「子どもの自殺予防のための取組に向けて(一次報告、PDFファイル)」児童生徒の自殺予防に向けた取組に関する検討会)。この数値が信用に値するかどうか、現実を正しく評価しているかどうかは議論の余地があるだろう。ただ、ここから言えることは、いじめは自殺の主要原因ではなく、その一つであるということである。
     
    自殺と報道

     いじめが自殺の原因のひとつであることに間違いはない。しかし一方でいじめの問題と自殺の問題は分けて考えなければならないという議論もある。これは言い方が難しいが、いじめと自殺の問題は別問題だというわけである。いじめに対する対応も充実させる必要があるが、自殺を防止するための対策もまた重要である。
     WHOが9月10日を「世界自殺予防デー」としていることを紹介したが、WHOはまた「自殺を防ぐために-マスコミへの手引き(PREVENTING SUICIDE A RESOURCE FOR MEDIA PROFESSIONALS)」において自殺報道のあり方を勧告している。原文はこちら(PDFファイル)で読むことができる。この中では「WHAT TO DO(するべきこと)」に関しても述べられているが、それ以上に「WHAT NOT TO DO(してはならないこと)」に挙げられている項目に注目する必要がある。それは次のような行為である。
     
    してはいけないこと

    □写真や遺書を公表しない
    □自殺の方法について詳細に報道しない
    □原因を単純化して報じない
    □自殺を美化したりセンセーショナルに報じない
    □宗教的・文化的な固定観念を用いない
    □自殺を責めない


     これらは群発自殺(自殺の連鎖)を起こさないための報道ガイドラインである。X-JapanのHIDE氏の自殺報道、ネット自殺報道、練炭自殺の報道などからこの度のいじめ自殺報道も含めて日本のメディアを振り返ってみてどうだろうか。これらをきちんと守っているといえるのだろうか。自殺予告文に代表されるように、自殺を言葉の上では拒否しながらも行為から見れば助長をしているといえないだろうか。メディアの目には見えない自殺助長が行われているとするならばメディアの責任は重いし、ほとんど取り返しのつかない問題である。

    -------------参照-------------
  • 我が国の推計人口(大正9年~平成12年)
  • 推計人口(平成19年2月、XLSファイル)
  • こどもの割合は30年連続低下
  • 「自殺を予防する自殺事例報道のあり方について」のWHO勧告(PDFファイル)

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  • 英語村について

    2007年09月03日 | 記事


     拙ブログでは以前「英語熱の行方」(2007年02月18日)において「英語教育のために移民したい」という韓国国民の英語熱、その結果生まれる「雁のパパ」の問題を紹介した。同記事では「舌を切る子供たち」という問題も取り上げたが、この話はどこまで本当かどうかは分からない。
     話は変わるが、私は以前『暗号読解』(サイモン=シン、新潮文庫、2007)を読んだ。軍事目的のために暗号が必要となったこと、そこで繰り広げられた暗号作成者と暗号解読者のいたちごっこの様子が興味を引くかたちで書かれていた。史上最強の暗号として外国語の存在が書かれていたことは非常に興味深かったが、ここでは取り上げるまい。ここでは次のことばを紹介したい。それは埋蔵された2000万ドル相当の宝のありかを示す謎の暗号文の解読に一生をささげた者からの話を伝えた名の知れぬ“筆者”※1からのことばである。

     三つの文章を公開するに先立ち、興味をもたれるかもしれない人たちに、苦い経験から得られた教訓を一つだけ与えておこう。暗号解読をやるのは生業(なりわい)の余暇だけにしておくこと。余暇がなければ、この件にはかかわなぬことだ。……繰り返すが、夢かもしれないことのために自分と家族を犠牲にしてはならない―この私がいい見本だ。しかし、一日の仕事が終わり、暖炉の前でくつろぐわずかな時間を捧げるのであれば誰にも迷惑をかけはしないし、それが報われることもあるかもしれない。
    [ p.189 ]


     この忠告は英語学習にも当てはめることができるのではないだろうか。英語の宝箱を開けてみたところで本当に宝が入っている保障はどこにもないのだから。
     そのようなことが頭にあるかどうかは分からないが、韓国人の英語に対する態度は明るい。英語村と称される仮想村を韓国国内に作ってそこに韓国人を放り込む。その姿を直接的に見たことはないが、能天気だなという印象を持つ。これが「暖炉の前でくつろぐわずかな時間」を捧げているのであればまだしも、伝え聞くところによると本気(マジ)らしい。ここで「英語村」についてその成立をまとめておこう。
     ウィキペディア※2によると最初に英語村(English village)が登場したのはスペインはソリアにあるValdelavilla(読みが分からないのでアルファベットで書く)という村らしい。2001年7月のことだ。スペインでは標準スペイン語(Castilian)が全域にわたる公用語となっているが、ウィキペディア※3によればこの地方では英語も公用語らしい。ちなみにスペインの憲法では第3条で次のように定められている※4
     
    第3条
    1.カスティージャ語は、スペイン国の公用語である。すべてのスペイン人は、これを解する義務を負い、かつこれを使用する権利を有する。
    2.スペインの他の言語もまた、各自治州において、その自治憲章に基づき、これを公用語とする。
    3.スペインの言語の豊かな多様性は、文化遺産であり、特別の尊重及び保護の対象とされる。

     
     英語が公用語になっているということは第3条2項にその根拠を置くのだろう。その設置目的などは知りたいところであるがスペインの英語村についてはこのくらいにしておこう。
     さて、本題の韓国の英語村。韓国で最初に英語村が開かれたのは2004年8月のこと※5。京畿(キョンギ)道にある安山(アンサン)市においてであった。その後、いくつの英語村が韓国に建設されたのかは調査不足で分からないが(2006年11月時点では全国に10箇所)、この英語村の発想は韓国政府が主導的に実行に移しているという点ではまさに韓国国民一丸となった取り組みなのである。朝鮮日報の社説(2007年8月17日)によれば韓国政府は、済州島で建設が予定されている426万平方メートルの「英語専用タウン」に、英語による教育を行う小中高校を12校設立する方針を決めたという。英語村の様子についてみていこう。「第25回:韓国の英語教育事情」によると、英語村はキャンプと称した合宿形式で、1週間コースや週末コース、4週間コースなどが用意されており、その間に日常生活に必要な英語を実践で学ぶのだという。日帰りコースもあるようだ。村民希望者はそれぞれのコースを事前に選択しておくのだろう。以前に放送された「小学校に英語がやってくる?」ではその入場料は子どもが100円、大人が200円ということだった。経済的に塾に行けない子どもたちも利用できるように考えられているのだという。村民希望者たちは到着後、入国管理局へ行くことになるがその対応は英語で行わなければならない。パスポートを示しながら、入国管理間から一対一の口頭審査が行われる。これをパスすれば審査官から英語村内だけで通用するお金30ドルを受け取る。その先に待っているのは英語村。広さは東京ドーム6個分。レストランやショップはもちろんのこと路面電車まで用意しているところもあるという。飲食など必要なものに受け取ったお金を使うことになるが、使い切っても心配は無用だ。村内にある工場で働けばバイト代がもらえる仕組みになっている。野外・屋内劇場では楽しい劇やショーが繰り広げられている。子どもたちの顔には笑顔があふれるわけだが、彼らはおそらくそこを新世界だと思うことだろう。
     英語村という発想。それは教室で学ぶ座学としての英語ではなくスポーツ感覚的な英語である。英語をどのように学ぶのか―それは大きく分けると次の2つに分けられる。
  • 英語の型である英文法を徹底的に勉強し、辞書を引きながらていねいに英語を学ぶべきである
  • 英語のシャワーを浴びながらコミュニケーションを通じて楽しく自然に学ぶべきである
     前者の態度は『英文法の論理』(斉藤兆史、NHKブックス)で英語学習の王道として勧められているものであり、後者の態度は同書が批判をしている態度である。みなさんは経験上どのようにお考えになるだろうか。
     韓国の英語村は政府が率先して勧めているため、おそらくは税金が入っているのだろう。それは国家戦略として英語教育を進めているという言い方もできるし、子どもたちに英語遊びをさせるために税金を無駄使いしているということもできる。日本では英語村の話を聞くことは「まだ」ないが、仮に出来るとしても政府が税金を使って建設するということは起こらないと私は妄信的に思っている。ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのような一つのテーマパークとして民間が建設する分にはよいが、税金を使って国が施設を作るとなれば話は別である。昨今は政治と金の問題が世間を賑わせており、グリーンピアのような問題もある。レジャー施設として“筆者”が言うように「暖炉の前でくつろぐわずかな時間」を捧げるための場所であるならば私が口を出す範疇にはない。

    英語村 (えいごむら)
    -国際関係 -2006年8月7日

    韓国の地方自治体が最近相次いで開設している、海外に行かなくても留学体験ができる施設。韓国では2004年度だけで1万6000人以上の小中高生が、アメリカ、カナダ、ニュージーランドなど英語圏の国々に留学しており、これに大学生を加えると10万人以上の留学生を送り出している計算になるという。また地方都市では、子供が小学生になると英語教育を求めて家族でソウルへと移住してしまう傾向が強くなっている。そこで英語しか使えない施設をつくることによって、人口流出に歯止めをかけようとしているのである。韓国国内で海外生活ができる仕組みとなっていて、英語だけでなく生活や遊びなどを中心に英語圏の文化を自然に体験できる施設が多い。商店街、ホテル、郵便局、病院、銀行、警察などもあり、内装も全て欧米風である。この施設で使用できるのは英語だけで、韓国語は絶対に使ってはならない。06年春にはソウル近郊に27万平方メートル(東京ドームの約6個分)の巨大施設が誕生し、話題を集めている。
    [ 新語探検 著者:亀井肇 / 提供:JapanKnowledge ]


    ---------------〔注〕---------------
    ※1 “筆者”とは本書の著者であるサイモン=シンのことではなく人生をこの暗号(ビール暗号)解読に捧げたモリスという人物から事情を聞き1885年に小冊子においてそのことを書き記した名の知れぬ人物のことである。
    ※2 English villageこちらを参照しても良い。
    ※3 Valdelavilla
    ※4 スペインの公式ホームページ(英語編)を参照。訳はこちらを参照。
    ※5 ウィキペディア〔English Village in Korea〕〔English Village〕を参照。

    ---------------〔英語村に関する朝鮮日報の記事〕---------------
  • 「国内で海外留学」 慶北・浦項に英語村誕生(2005/09/26)
  • 済州道オリジナルの「英語村」造成へ(2006/04/07)
  • 城南英語村、29日オープン(2005/12/30)
  • 安山英語村の広報大使に「爬虫類少女」キム・ディエナーさん( 2004/08/20)
  • 京畿道・安山の「英語村」、23日オープン(2004/08/20)
  • 「自分のタイプ把握して英語学習を」 駐韓米大使夫人パティ・ヒルさん(2005/01/20)

    ---------------〔参考〕---------------
  • 韓国「英語村」 “Edutain(楽しい英語教育)”(2007/01/26)
  • 英語村の様子が写真で見られるホームページ

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  • カタカナの王様!万歳!

    2007年08月25日 | 記事
    シーをルックしていない

     ルー大柴が熱い。「ルー語」と呼ばれる彼独特のしゃべり方を前面に押し出して今、芸能界を騒がせている。例えば、次のような感じ。彼のブログからその様子をのぞいてみよう。

    ディスイヤーはシー(海)をルックしていない。しかもスイミングもしていないオーディアー!

    やはりサマーといえば、チャイルドの時からスイミングインザシー(海水浴)をファストにシンクする。ディスサマーはスイカもかき氷もイートしたし、ジョブ(仕事)で夏祭りもエクスペアレンス(体験)した。ファイアーワークス(花火)もドライブしている時、ファー(遠く)からワンス(1度)ルックする事が出来た。


     「ディスイヤーはシーをルックしていない」とはなんとも笑える表現である。会話の中に簡単な英単語?を入れるのその話し方が人気を博しているようだ。私などがルー大柴さんのことを聞けばまず思い浮かべるのが「トゥゲザーしようぜ」という名台詞。これは彼がアデランスのCMで放った神の言葉であるという※1。好きな人にとってはたまらないルー語。私も好きだ。そのような人は「ルー語変換」を訪れてみるとよいだろう。自分の好きなページのURLを入力することによってそのページの文章を「ルー語」に変換することができる。ルー語を好きなだけお楽しみいただけるだろう。
     例えば、英語教育の目的について学習指導要領では「外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力の基礎を養う。」となっているが、これを「ルー語」に変換してみると次のようになる。
     
    フォーリンカントリー語を通じて,ランゲージや文化に対するアンダースタンディングを深め,ポジティブ的にコミュニケーションを図ろうとするマナーのトレーニングを図り,聞くことやスピークすることなどのプラクティス的コミュニケーションアビリティーのファンデーションを養う。


    バカリズムの「山田さん⇒Y(ワイ)まださん」という芸も好きですがね。長井秀和さんも「ルー大柴を超える」と言ってニューヨークに語学留学をするみたい※2

    レジーム・チェンジ

     「サダム・フセインの死刑執行にはデュープロセス※3が全然なくて…」「現実的にはデ・ファクトにそれは進んでいる」「北朝鮮に対するブラフがなかなかかけられなくなってきた」「あなたたちがすすめている体制転換というレジーム・チェンジ」「起きるならレジーム・チェンジではなくレジーム・トランスフォーメーションですよ」「別に僕がコンクルードを言うわけではないけれども」…。
     これはまたもやルー大柴さんの芸だろうか。いや違う。これはある討論番組で論客たちによって語られた場面の一部である。「またまたルー大柴さん」と思わせるような彼らの会話は公共の電波を通じて行われている。わかったようでわからない。わからないようでなんとなくわかるこれらのカタカタ語はルー大柴さんの芸と相通ずるものがある。それは日本語で言えるところをあえて英単語?で置き換えているという点である。異なる点は、ルー大柴さんの方は「芸」として意識的にやっている一方で彼らの会話は無意識的に出ているという点である。つまり彼らは「デュープロセス」や「デ・ファクト」「レジーム・チェンジ」などが日本語の一部であると思っているということである。「デュープロセス」などは日本語に言い換えにくい言葉かもしれないが、「デュープロセスがなかった」という代わりに「法に基づく適正な手続きがなかった」と言えばわざわざ言い換えることなどしなくとも意味が伝わるしわかりやすい。
     以前、塩崎官房長官が会見のたびにカタカナ言葉を連発したということがあった。政権当初から安倍政権の異様ぶり(的をはずしたこだわり?)は発揮されていたと思われるが、その時に批判を受けた表現を並べてみよう※4

  • センシティブ
  • インテリジェンス
  • キック・オフ・スピーカー
  • ウイン、ウイン
  • フォーミュラ
  • エクスパティーズ
  • カウンター・インテリジェンス・ポリシー

     この塩崎氏の発言の前にはまけずと安倍首相もカタカナ交じりの所信表明演説を行っている※5。若さをアピールしようとしたのだろうか。

  • イノベーションの力とオープンな姿勢
  • 自宅での仕事を可能にするテレワーク人口の倍増
  • 子育てフレンドリーな社会を構築する
  • 日本がアジアと世界の架け橋となる『アジア・ゲートウェイ構想』の推進
  • 未来に向けた新しい日本の『カントリー・アイデンティティー』
     
     これらの発言に対しては「欧米か!」というツッコミも可能であるし、「芸人か!」というツッコミも可能である。「レジーム・チェンジ」に始まる彼らの言語感覚はルー大柴さんの芸とどこが違うのだろうか。芸として皆を笑わせることを目的としたルー大柴さんの言語使用と政治を語る言葉としての、あるいは国民に語りかける言葉としての彼らの発言が同列のレベルに居座っても良いのだろうか。バラエティー番組に出て時代劇風の政界ドラマに出演する政治家にも見られるレベルの低下は開かれた政治・国民に近い政治を表すものなのだろうか。ルー大柴は芸人だが政治家は芸人ではないのだ。彼らはルー大柴さんのときと同じようにつっこんでもらえることを期待しているのかどうか。ルー大柴さんの芸はおかしくて笑ってしまうのだが、彼らの「芸」にも笑いを持って迎えるべきなのかどうか。彼らは将来コメディアンにでもなろうとしているのかどうか。私たちは彼らの「芸」を受け入れて、今後はわれわれも彼らと同じような言語使用をすべきなのかどうか。私の答えはいずれに対してもNOである。

    好きなときに好きなだけ

     私たちは誰からも言語使用を強制されるものではない。ルー大柴さんが「シーをルックしていない」と言おうと、それを聞いて私たちが微笑を浮かべようとも、政治家が「アジア・ゲートウェイ構想」を打ちたてようとも、いやはや北朝鮮が「レジーム・チェンジ」をしようとも、すべては自由である。言語使用の権利はすべてその使用者にある。私たちは彼らの権利を奪うことはできない。彼らの無作法な言語使用を聞きたくなければ耳をふさげばよい。テレビならばチャンネルを変えればよいし、電話ならば受話器を置けばよい。面と向かっての会話であればその場を去り、相手が政治家であれば投票をしなければよい。使用する側も自由ならばそれを受ける側も基本的には選択の自由がある。
     しかし、時にそれは選択的強制をともなうようなこともある。先ほど、「テレビならばチャンネルを変えればよい」と書いたがすべてのチャンネルがそうであればどれかを選択せざるを得ない。新聞ならば、わざわざ購読する新聞を帰ることはできないので辞書を引き引き読むほかない。政治家個人の発言ならば我慢ができるが、政府が国民に語り掛ける言葉がそのようなものであれば意味の取れない国民は無視をされていることになる。
     基本的には好きなときに好きなだけカタカナ語を使えばよいのだが、情報の流れが一方的なとき(テレビや新聞など)には一般的日本人にとってできる限りわかりやすいものにしていただきたい。何がわかりやすい表現なのかについての簡単な指標は子どもたちに話しかけてみることである。それは特にカタカナ語について言えることである。英語教育を受けていない純粋な子どもたちがわかるカタカナ語であればそれは一般的に日本で受け入れられている語であるといえる。学校の教員が突如として「私たちと君たちの関係はウイン・ウインの関係だからね」など言ったとき、その意味がわかる子供が何人いるのか。これが表すのは少なくともウィン・ウィンは日本語の中のカタカナ語としては定着していないということである。

    ▼記事紹介
  • 外来語とコミュニケーション(1)
  • 外来語とコミュニケーション(2)
  • 外来語とコミュニケーション(3)
  • 外来語とコミュニケーション(4)

    --------------------[注]--------------------
    ※1 ウィキペディアを参照
    ※2 「長井秀和がNY語学留学」を参照。本当の理由は英語圏で活躍できるお笑い芸人になるためだというものらしい。なかやまきんに君に触発されたか。
    ※3 デュープロセスについてはこちらを参照すると理解できる。
    ※4 こちらを参照。
    ※5 こちらを参照。

    --------------------[参考]--------------------
  • 「ディスイヤーはシー(海)をルックしていない。しかもスイミングもしていないオーディアー!」『ルーブログ』
  • 「1泊3日でエジプトへゴー。ピラミッドにエモーション!Butリトルブルー」『ルーブログ』
  • 「ルー語変換」

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  • 自民党「英語が使える日本人育成」

    2007年07月26日 | 記事
     自民党は「クローズアップ あなたの生活 こうなります」において「『英語が使える日本人の育成』のための行動計画(pdf:47.6KB)」について簡単な解説をしています。自民党は英語教育を論ずるとき、国語教育の視点も入れて論じているようです。

     英語が使える日本人育成
     外国人とのコミュニケーション能力を飛躍的に向上させる

    「適切に表現、正確に理解」国語力増進にも力点

     今年度より「英語が使える日本人」を育成するための向こう五年間の行動計画がスタートしました。国際化が進むなか、自らの意思を表現できる語学力を持ち、外国人とのコミュニケーションを円滑に図ることができる人材を育てることが目的です。しかも、単に英語力だけでなく、国語力の増進にも力点が置かれています。こうした人材の育成は、わが国が世界とつながり、一層発展していくための極めて大きな課題といえます。わが党は早くからこの問題の重要性を認識、公約にも掲げてきました。これにより、日本人の英語力が飛躍的に向上することが期待されます。

    「文法・訳読」中心から「聞く・話す」能力を重点に

     経済・社会のグローバル化が進展するなか、これからの日本人が二十一世紀を生き抜くためには、語学力の重要度がますます増加しているといえます。しかし、外国人とのコミュニケーションを図るには、単に外国語の能力だけでなく、まず、しっかりとした自分の考え方を持ち、それを表現できる国語力も兼ね備えていなければなりません。
     わが党は、早くからこうした問題意識を持ち、英語教育をはじめとする外国語教育の充実や国語力増進についてさまざまな取り組みを行ってきました。平成十三年に行われた参院選の公約には一項目を割いて、「外国語教育の改革・拡充」を掲げ、国語力と語学力の双方を身につけた人材の育成に努力する方針を打ち出してきたところです。
     これを受け、文部科学省は一昨年、「英語指導方法改善の推進に関する懇談会」を設置。この報告や「英語教育改革に関する懇談会」で二十人の有識者から聴取した意見を基に、「『英語が使える日本人』を育成する戦略構想」をまとめました。さらに、今年三月には同構想を実現するための今後五年間の行動計画を策定。今年度からさっそく実施に移されています。
     これにより、英語教育は大きな転換が図られることになります。
     まず、これまでの「文法・訳読中心」から「聞く・話す」など、コミュニケーション能力を向上させることに重点が移されます。また、中学校卒業段階では「あいさつや対応等の平易な会話ができる(英検三級程度)」、高校卒業時には「日常の話題に関する通常の会話(英検準二級~二級程度)」、仕事で英語が使える人材は各大学が育成するなど、具体的な達成目標が示され、この目標に向かってさまざまな施策が講じられることになりました。

    戦略構想を具体化した今後5年の行動計画策定
     英語による少人数・習熟度別指導を実施

     今年度よりスタートした五カ年計画には、英語の授業の大半を英語で行い、二十人程度の少人数指導・習熟度別指導を取り入れることなどが盛り込まれています。
     授業には英語圏出身の外国語指導助手、英語に堪能な地域の人材を活用し、優秀な外国人助手の正規教員への採用を国で後押しします。
     すでに国が地方公共団体に外国人教師を紹介する「JETプログラム事業」で、昨年度は英語圏を中心に六千人以上が、わが国に招致されました。
     さらに、英語教育を重点的に行うスーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクールを平成十七年度までに百校指定(現在は五十校)。成功例を蓄積して、成果の普及を図ります。
     中・高校の英語教員六万人に対しては、都道府県が指導力向上を図る二週間程度の集中研修を今夏より実施。費用の半額を国で補助します。また、優れた教員の海外研修制度も充実されました。

     高校生の留学を倍増 大学入試とも連携

     英語学習への“やる気”を向上させるため、高校留学生を倍増させ、年間一万人を目指します。国際生活・異文化を体験することで、より広い視野と適応力が身についていくことは大きな意義を持っています。
     そして、せっかく小学校から一貫性ある指導によって全体のレベルが上がっても、入試と連携しなければ意味がありません。大学入試センター試験でリスニングテストの導入(平成十八年度実施予定)を決め、さらに英語による口頭試問の導入、検定試験の活用を促しています。

     小学校の英会話支援 外国人助手を活用

     総合的な学習の時間などを使い、すでに全体の半数を超える公立小学校で、会話を中心とした英語活動が行われています。実施回数は週一回から月一回とバラツキはありますが、今後は三回に一回は外国人教員や中学校の英語教員が指導することを目指します。
     外国人の先生と一緒に歌ったり、ゲームをしたりして、楽しみながら外国の生活や文化に触れることで英語に対する関心を身につけていきます。

     しっかりした日本語力を身につけさせる

     国語力の推進については、「朝の読書」の推進などにより、子どもの読書に親しむ態度や習慣を身につけさせることや、諸学校教員の国語に関する知識や運用能力を向上させるための研修などを実施する考えです。また、児童・生徒の意欲、習熟の程度に応じた補充学習を実施することにより、「適切に表現し、正確に理解する」能力の育成を目指します。


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    公明党「小学校で英語教育を必修に」

    2007年07月25日 | 記事
     公明党のマニフェスト(公約)に「小学校で英語教育を必修に」というのがあるようですね。はじめて知りました。


     参院選も近いので下手なことは書けませんが、小学校に英語を導入すること自体を公約にするという感覚にはわたし自身は首を傾げたくなります。以上。

  • 公明党ホームページ
  • 小学校で英語教育を必修に」(公明党の公約052)

    ※小学校英語についての公明党の公約は〔教育毒本〕というブログサイトで知りました。

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  • 百ますを英語に

    2007年07月17日 | 記事
     「百ます計算」というのをご存じない方はいらっしゃらないでしょう。岸本裕史という元小学校教師の方が考案されたそうです(ウィキペディアを参照)。この方はもうすでに亡くなっていらっしゃるようですが、この方の考案された百ます計算を世の中に知らしめたのが陰山英男という方です。陰山氏がこの百ます計算を活用し、小学生の基礎学力向上に成果を見せたことが百ます計算を有名にすることになったのでした。
     百ます計算の様式を右図に示しました。これはインターネット上で自動的に作成できるサイトでこしらえたものですが、百ます計算の方法は単純で、左上に「+」とあれば、それぞれ交差するマスをどんどん足してゆくというまさしく計算ドリルです。ドリルというのは本来的には複雑な要素が入ってはいけない。それは単純な練習を無意識的に行い、ある技能を自動化してしまうという訓練です。その意味で百ます計算は小学1年生にも理解可能なようにもってつけのドリルだと言えるのです。
     実はわたしはこの百ます計算というのをやったことはないのですが(今からやってみようと思っても、やる気がしないのは年齢のせいか?)、非常に興味は持っています。これは小学生だから、あるいは友達と一緒に学校という場で行うから集中して行える代物なのかもしれません。
     いずれにしても、この百ます計算というものにとても興味を持っています。わたしは現在、非常勤講師ではありますが、英語教師の端くれであることはすでに別の記事で書きました。そんなわたしはこのような機械的訓練を英語にも応用できないかと少し考えたことがあります。そうすると次のような教材があるのを知りました。



     これぞまさしく英語の百ますドリルです。実はこれは以前も紹介させていただいた「英語教育2.0 ~my home, anfieldroad~」というブログで知ったものです。この問題集の見本を右図にて見てみましょう。
     「百ます」っぽい感じがします。実は「3×7=21ます」なんですが。これで何ができるのか。1つには三人称単数現在の練習ができるでしょう。もう少し発展させれば否定文や疑問文の練習もできるでしょうし、過去形の練習にも応用できるでしょう。
     そんなわけでこの問題集を各学年1冊ずつ購入してみようかと思ったのですが、正進社という出版社は「個人向け」には販売しておらず「学校向け」の商品のみだということを知りました。残念ながら…でした。
     こういった機械的な練習を通して学ぶことは、教師に長い説明をされて学ぶよりは簡単だし、身に付くのではないかとわたしは思っています。特に三人称単数現在の-sなどは教師にとっても合理的に説明のしようがないものなのではないかと思います。なぜ-sをつけるのか、ということよりも、-sをつけるのだということを知っておくことが、そして実際に生徒自らが判断して三人称単数現在の時には一般動詞の語尾に-sをつけることができるようになることが大切なのではないかと思います。
     とても惜しい教材だと思いました。1冊ずつだけでも購入の方法があるのかどうか、今度学校の正規職員に尋ねてみようと思います。

     これは余談ですが、『英語のたてよこドリル』の発売元である正進社のホームページではファイルが数点ダウンロード可能になっており、その中にはとても便利なファイルも含まれています。例えば、中学1年生を終えた頃から書きたくなる人には書きたくなる筆記体。この練習プリントがPDFファイルで公開されています。
  • 筆記体ペンマンシップのダウンロードページ

     わたしもこのファイルを使わせてもらい、筆記体をかけるようになりたいという生徒がいたらこのプリントを配布したいと思います。
     その他の参考サイトを以下にあげておきましょう。とはいっても、もうすでにリンクを張っているものですが。
  • ㈱正進社 ホームページ
  • 英語のたてよこドリル


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  • 藤原正彦、小学校英語を語る

    2007年07月16日 | 記事
     Youtubeに藤原雅彦氏(お茶の水女子大学理学部数学科教授)の小学校英語についての考えを述べたシーンがアップされています。以前、フジテレビで日曜朝に放送されている「報道2001」に出演されたときのシーンです。『国民の品格』の著者である藤原雅彦氏は本来は数学者であるといいます。著書を並べてみますと、やはり数学者列伝的なるタイトルが並びます(『国民の品格』出版前の著書)。

  • 若き数学者のアメリカ』〔1977年、新潮社〕
  • 数学者の言葉では』〔1984年、新潮社〕
  • 父の旅 私の旅』〔1987年、新潮社〕
  • 遥かなるケンブリッジ―一数学者のイギリス』〔1991年、新潮社〕
  • 数学者の休憩時間』〔1993年、新潮社〕
  • 父の威厳 数学者の意地』〔1994年、講談社〕
  • 心は孤独な数学者』〔1997年、新潮社〕
  • 古風堂々数学者』〔2000年、講談社〕
  • 天才の栄光と挫折―数学者列伝』〔2002年、新潮社(新潮選書〕
  • 祖国とは国語』〔2003年、ISBN 4062117126(講談社) ISBN 4101248087(新潮文庫〕
  • 国民の品格』〔2005年、新潮社(新潮新書)〕


    わたしが見学したある小学校の英語授業の様子
     『国民の品格』は大ベストセラーになりましたね。藤原氏は「武士道」や「祖国愛」、「情緒」の大切さを常に訴えておられます。
     藤原氏の小学校英語反対論は「英語より国語」という主張に集約されます。英語をやる時間があったら国語をやれ、というわけです。とてもわかりやすい議論ですし、一応の説得力ある議論です。日本人であるならば国語(日本語)をやれというのは当然といえば当然です。それは第二言語を小さなころからやれば効果があるのだとする議論とは別の議論として成り立つでしょう。藤原氏の議論だと、仮に“The earlier, the better”の仮説が支持されるとしても、英語を小学校教育に入れるかどうかの判断は別に行われるでしょう。
     以前、小学校英語についての討論(BSディベート「どうする小学校の英語」、2006年8月27日)を見たときに、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が持ち出しておられたたとえ話を思い出します。鳥越氏は小学校英語の大切さについて、野球を例に出して「中学校ではじめて野球ボールを握るような子がプロ野球の選手になることはない」というようなことを述べ、小さいころからの積み重ねが大切であることを主張なさいました。しかし、この主張には少なくとも次の3つのレベルにおいて疑問を抱きます。
     
    1.小学校英語と野球とがどのようになぜ結びつくのかが不明。
    2.野球の開始年齢と野球に関する総合的な力(以下、「野球力」と言おう)がどの程度はっきりしているのかが不明。
    3.全員が野球選手に「ならなければならない」ことはない。
     
     これは誰もが抱く疑問ではないでしょうか。仮に、小さい頃から野球をすることと野球力に秀でることとが結びつくとしても、その論理がなぜ英語に当てはまるのかは不明です。英語と野球の関係、言語とスポーツの関係がどのようになっているのかわたしは知りません。鳥越氏がこの関係についてはっきりした根拠を持って述べているとも思えません。
     次に、そもそも野球にそのようなこと(開始年齢と将来的な野球力の高さが相関すること)が言えるのかどうかわたしは知りません。毎日とは言わずとも毎週毎週「野球」の練習をしなければプロ野球選手にはなれないのか。もちろん「小さな頃からの夢でした」というのはよく聞く話ですが、小学校で少しやり、中学校では陸上部、高校では外野手で、大学からピッチャーとなった巨人の選手などの例もありますからね。
     さらに言えば、全員が全員プロ野球選手にならなければならないということもないはずです。野球をやりたい人だけが野球をやってがんばればよいし、その中でも野球に対して特別に情熱のある人が「特訓」と呼ばれるその他の選手とは格段に厳しい練習を行えばよいし、その中の何人かがその努力を結果に結びつけてプロ野球選手になればよいのではないかと思います。彼らは学校の授業を通じてプロ野球選手になるのではありません。あくまでも個人の選択の結果としてそのようになるのだとわたしは思います。毎週毎週、全生徒(法律的には「児童」)に、「野球」を「強制」するといった話は聞きませんし、そのようなことを思いつく人もいないでしょう。休憩時間、あるいは学校外活動として野球のボールを握るのと、学校の授業として英語を行うというのはそのレベルの違いをわかっていないたとえだといわざるを得ません。この点、その意味では学校を離れたところで小学校から英語をやるぶんには文句を言えないということになります。しかしそれは個人の自由として認められるべきで、親の権利というべき問題かもしれません。
     小学校教育は義務教育です。義務というからにはそこには何かしらの強制的な力が働く。言語の場合、それを強制するならば徹底的な強制をしなければ効果は薄い。「できるようにならなければ、殺される」というような環境に置かれれば、あるいは「できるようにならなければ、生きてゆけない」という環境に置かれれば、強制としての言語学習はその効果を生むことでしょう。しかし、この日本ではそのような環境を用意することはあり得ませんから、強制としての言語学習〔教育〕には限界があるということです。「馬を水のみ場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というたとえはよく知られています。どんなに我々が言語を教えようとしても、学ぶものにその意思がなければそれは飲まれることのない水なのです。そもそも言語が教えられるのかどうかも疑問です。知識の塊として言語が成り立っているならばその知識を徹底的に叩き込めばよいわけですが、言語の本質がルールの発見とその応用にあるとするならば、学習者に言語の根っこを発見する意思とそれを応用する冒険心がなければできるようになることはないことは言うまでもありません。小学校で野球をさせることもよいでしょう。しかしそれは硬式ボールによる練習ではなく、軟式か、あるいは走りを中心とした全身運動としての野球であるべきではないでしょうか。
    と、わたしは思います。


    藤原氏のYoutube動画を貼り付けておきましょう(初めてgooブログで動画を貼り付けます。試験的意味合いもこめてブログパーツ機能を使っています)。




     最後にもう一度。
     You can lead a horse to water, but you can’t make it drink.

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  • Don't mind.は新英語?

    2007年02月22日 | 記事
    「英語はもはや英米人たちだけののもではないのだ。英語はもはや国際語であり、世界中みんなのものなのだ。世界に様々な形で存在する英語はそれぞれ平等なものなのであって、それぞれの形を受け入れる必要がある。よって日本人は自信を持って日本人英語を話せばよいのだ」

    国際英語に対する私が持っている印象はこのようなものですが、このような視点に立ったとき、例えば次のような「英語」はどのように扱うのでしょうか。

    Don't mind.

    「ドンマイ、ドンマイ」と私も中学時代に野球でフライを落としたときなどは言われたものです。しかしこれは一般的には「英語ではない」と考えられています。「英語ではない」という表現は正しくないかもしれません。言い直しましょう。

    一般的に日本人が相手を慰めてやる意味で用いる「ドンマイ/Don't mind」は「本来的な英語」では通じないといわれています。「本来的な英語」では「Never mind」というのだ、そうです。「Wikipedia:井戸端/subj/カタカナ表現について」で述べてあることを引用してみましょう。

    次に「ドンマイ」です。この綴りを戻せば「don't mind」となり、とりあえず文法的な誤りはありません。しかし、使う場面について日本人は大いなる誤解をしているのです。ベッカムがシュートを放ち、外れたとします。「気にしないで」というつもりであなたは「ドンマイ」と言う。ベッカムは余計に苛立ちます。なぜでしょうか。「don't mind」と耳にすれば英語人は「I don't mind」(どうだっていいよ=どうせ入らないおまえのシュートなんてはじめっから期待してねえよ)と捉えるのです。日本人にとっては「気にしないで」にて省かれている主語が「あなた」であっても、「don't mind」で略されている主語は「I」なのです。つまり、日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです。
    (強調は引用者)

    最後の記述に注目しましょう。「ドンマイ」を「慰め」の意味で日本人が使っていることに対して、「日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです」と批判的な見解が述べられています。ここで「本来的な文法性格」という表現が使われていることにも注目したいと思います。私も先ほど「本来的な英語」という表現を使いました。私が使った「本来的」の意味は「イギリス英語(アメリカ英語)」を指しているわけですが、先の文章におけるそれもそのように捉えてよいのではないでしょうか。

    このことをどのように考えるのかについて述べたいと思いますが、私自身は一応は「間違いだ」と言わざるを得ないのではないかと思います。なぜかといえば、英語はわれわれの言語ではないから。つまり「ドンマイ」を日本人に対して日本語として使う分には問題はないだろうと思うのですが、英語話者に対して使えばコミュニケーションが破綻する可能性があると思うわけです。

    もちろんこのようなことはたいした問題ではなくて、相手に「日本では「ドンマイ」に「慰め」の意味を与えているのですよ」と説明してあげれば済む問題でそこから何か新しい話題が見つかるかもしれないという意味では「ドンマイ」と言ったってたいしたことはないと言えますが、問題の本質は別のところにあります。つまりこのような例は無限とまではいかなくとも、数多く存在するということです。一つ一つ説明していてはコミュニケーションが成り立たなくなるのは明らかです。一般に「カタカナ英語」と呼ばれているカッコつきの「英語」にどう対応するのか。

    国際英語という視点からは、このように一見すると「間違いだ」と判断されるようなカッコつきの「英語」にどのような対応をとるのでしょうか。これも「立派な」日本人英語なのだ、自信を持って使っちゃえ、と言うのかどうか。

    それとも国際英語という視点では「発音」のみに許容範囲をおいて、語彙や文法などは母語話者が話す英語の規則に従うべきだと考えるのかどうなのか。そこらあたりがあいまいなままでは「国際英語の視点を授業に」と言われても「ウーン」という感じになってしまいます。世界に様々な英語が存在することを受け入れたとしても、その状況をどのように捉えるのかについてはいろいろな考え方があると思います。みんなばらばらの英語を話せばよいという考え方を受け入れたとしても、どの程度までというその許容範囲の問題になるとひとそれぞれいろいろな考え方があるのではないかと思います。

    英語を学ぶ目的の一つに「国際社会におけるコミュニケーション」があるとするならば国際英語という問題にも一応のケリをつけたいところです。学校でなぜ英語を学ぶのか、他の言語の扱いはどうするのかという議論もしなければなりませんが、どの英語を学ぶべきなのかという問題もまた興味深いところではあります。

    ただ今思っているのは、英語の雑多性を強調しすぎると、英語を学ばなければならないと主張する人たちの根拠の一つである「世界における英語の通用性」がぐずれる可能性があるということです。現地で「英語」だといわれている言語がわれわれの基準ではもはや「英語ではない」代物になりかわってしまうことだって考えられるわけです。

    日本人のカタカナ英語であっても「英語ではない」と批判されるわけですからね。

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    英語の時代:日本人英語

    2007年02月20日 | 記事
     Englishに複数形はありませんよ
     私も含めて一般的日本人の英語学習は中学校に入った段階からスタートする。最近では小学校でも「英語活動」がと入れられてはきているが、それらは「活動」という中途半端な名前からもわかるように、一種の「お遊び」と見てよい。よってここでは一般的日本人の比較的落ち着いた英語学習は中学移行に始まるものとして論じる。
     われわれは中学校の授業を受け始めて何時間かすると「English」という単語を学ぶ。そしてそれからもう何時間かすると単語の単数と複数を学ぶ。その後、冠詞のaや複数のsなどを一応に学び、waterやmoneyなどの数えられない名詞を学ぶ。わたしが教わったときは「言語」もこの中(付加算名詞)に入っていたと記憶している。考えてみれば分かるように「日本語が一つ」、「日本語が二つ」とは言わない。「韓国語が一つ、韓国語が二つ」とも言わない。
     もちろん、ある言語内には「違い」はある。例えば日本語は日本語でも、九州のそれと東北のそれとでは一般人の話し言葉には違いがあるだろう。しかしそのような現象は一般には「方言」や「なまり」などと呼ばれるわけであって、日本語がいくつあるかと言った話題にまでは発展しない(「方言」と「なまり」の間にも明確な違いがあるが、ここではそれは問題にしない)。言語にはある民族の統一性を象徴するという性格がある。統一ならば二つも三つもあっては困るのである。
     しかしわれわれは英語を相手にしたとき、この前提ともいえる認識を改めなければならないことを自覚する。英語だけはその複数形を認めなければならない現実が世界に存在するのである。本名信行の『世界の英語を歩く』(集英社新書、2003)の目次には「ヨーロッパの英語」「アフリカン・イングリッシュ」「インドの英語」「マレーシアの英語」「シンガポールの英語」「ブルネイの英語」「フィリピンの英語」「中国、台湾、韓国の英語」「アジアの英語」「アメリカ英語」「カナダの英語」「イギリスの英語」「オーストラリア英語」「ニュージーランドの英語」というさまざまな英語を思わせる表現が並んでいる。英語が複数形で呼ばれる所以はここにある。英語はアメリカ人だけが使うのではない。イギリス人だけが使うのではない。英語は世界で使われる言語なのである。その意味で学校の先生も「英語に複数形はありませんよ」などと呑気(のんき)なことは言っていられなくなってしまったのである。上の図は本名信行氏の『アジアの英語』(くろしお出版、1999)に紹介されていたものである。参考までに見てみるとよいだろう。


     世界諸英語
     世界には英語が複数形で存在する現実があることは今確認したが、専門家はこの状況を「世界諸英語(World Englishes)と呼んでいる。World Englishesという理念を最初に提唱したのはB・B・カチュル Braj B. Kachru という人物であるという。斎藤兆史(よしふみ)氏の『これが正しい!英語学習法』(筑摩書房、2007、125頁~126頁)には次のようにある。

    「世界英語」という理念を最初に提唱したのが旧植民地出身のB・B・カチェルという学者であったというところが重要です。つまり、自分たちの言語文化を奪われた植民地の人たちの立場からすれば、宗主国への恨みつらみを含めて「この言葉はもはや宗主国の占有物じゃない。私たちみんなのものだ」というしかない。イギリスにしてみれば、どんな形であれ英語が世界に広まればその本家本元として大もうけできますから、「そのとおり、みなさんのものです。どんどん英語を使いましょう」と言う。


     今や英語は「世界語」や「世界共通語」「国際語」「国際的共通語」などという名で呼ばれるまでにその重要性が強調されている。英語は英語なのであって、これらの呼び名にはそれぞれ問題があるが、英語の重要性が強調されているという現実はきちんと受け止める必要がある。
     英語史を少し見てみればわかるように、数百年前までは英語の勢力など問題にならないレベルであった。例えばシェイクスピア William Shakespeare の時代(1564-1616)には全世界にその母語話者は500~600万人程度しか存在していなかった。しかしこれが1952年の調査では2.5億人と推定され、50倍にも膨れ上がっている(石黒昭博、『現代の英語教育法、2003)。最近の調査では3億人を超えた数字が出されるまでになっている(WIKIPEDHIA)。
     母語として英語を使う人、第二言語として英語を使う人、外国語として英語を使う人。英語とどのような係わり合いを持っているのかを大別すればこのような3つのタイプに分けることができる。母語として使う人の数であれば中国語(数え方には問題があるがここでは触れない)やスペイン語、ヒンドゥー語やアラビア語なども負けてはいない。いや日本語の1億2千万人でもたいしたものである。しかし英語以外の言語の重要性はそれほど声だかには聞こえてこない。なぜだろうか。
     英語がその力を発揮するのは実は母語話者よりも第二言語や外国語として使う人によるところが大きい。インド、フィリピン、ガーナ、ナイジェリアなどでは英語は国の公用語として機能している。日本や韓国などは外国語として英語と係わり合いを持つ国である。
     言語には深く狭く使われるものと、薄く広く使われるものがあるのだろうか。いやそれは言語の特徴ではなくて、われわれがどのように使うかという問題である。英語の母語話者は英語を深く使っているだろう。しかし英語の力は薄く広く使われるところにある。野球で言えば4番タイプの巨人ではなく、俊敏性・機動力の野球だろう。世界各地をキビキビと動き回っている、そのような印象である。俊敏性・機動力野球といえば広島カープだが、カープは最近弱すぎて困る。新しい球場が完成するというのに、ここまで低迷した野球を続けていてよいのだろうか。カープは江藤といい、金本といいよい選手を育てては他球団に持っていかれるという特徴がある。選手育成工場でよい選手が育てばそれを他球団に高値で売るということを商売にしているのかもしれないが、自球団がもう少し勝てるような戦略を立ててほしいものである。これは余談であった。


     植民地化による英語の普及
     英語の話に戻ろう。英語の力が薄く・広く使われるところにあるとすれば、英語はなぜそのような使われ方をするようになったのだろうか。英語は言語としてわりかし簡単だという理由で世界のあちこちで使われているのだろうか。英語がなぜ世界にこれほどまでに普及したのか、その答えはすでに出ている。
    「植民地政策」
    これが答えである。
     そもそも英語の歴史は侵略の歴史だと見てよい。英語の歴史は5世紀にアングル人やサクソン人がブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したところから始まる。英語の歴史が侵略の歴史だという意味は英語自体も侵略されかけたことを含んでいるが、19世紀から20世紀あたりの帝国主義が跋扈していた時代は英語が他の言語を飲み込んだ時代だと見てよい。上の図はウィキペディアに載せてあったものである。これはピンク色の地域が1921年当時にイギリスが植民地にしていた地域である。全世界をまたに掛けていることがわかる。もちろん当時はポルトガルもオランダも、フランスもドイツもそれぞれ植民地を持っていた時代である。日本でさえも韓国や台湾、東南アジアの地域を植民地にした時代であることを忘れてはいけない。しかし日本は言語までも奪うことはしなかった(韓国や台湾における日本語教育の実態は存在するが、現地語が消滅するまでのことはしていない)。しかし英語の場合は・・・である。オーストラリアの事例を見てみよう。
     オーストラリアは現在では「英語圏」の一つとして数えられている。しかし1788年に白人が入植をはじめるまではオーストラリアは英語圏ではなかった。それまでオーストラリアには30万人以上のアボリジニーたちが暮らしていたが、1901年に連邦政府が置かれて初めて行なわれた国勢調査ではアボリジニーの数は約6万人にまで減少している。オーストラリアの原住民語に詳しい角田太作氏はホームページの中で次のように語っている。

    オーストラリア原住民語はイギリスによる植民地化が始まっていらい、抑圧と衰亡の歴史を辿って来た。


     オーストラリアの言語は白人入植当時、多く見積もれば700、少なく見積もっても200程度の数存在したという。しかしそれがすでに100ほど死滅し、現在さらに100ほど死にかかっており、子供たちによって学ばれているのは20ほどでしかないという(フィッシャー、スティーヴン・ロジャー、2001、『ことばの歴史』、研究社)。一説によればオーストラリアの言語は1年に1言語の速度で消えていっているという。これらが「全て」英語のせいだと言い切ることはできないが、英語がまったく関係ないともいえないだろう。
     現在、英語は世界中で使われており、英語に全く触れることなしに人生を終える人というのはほんの一部のように思われる。しかし英語が現在の地位に至る過程には侵略の歴史、植民地の歴史がその中央にドスンと居座っていることを忘れてはならない。英語は簡単だから世界に広まったのだという馬鹿げたことを言う人がたまにいるが、認識不足にも程々にしてもらいたい。

     学ぶのはどこの英語?
     今見たように、英語の人気の裏には暗い過去がある。そのことを踏まえた上で、世界にはさまざまな英語が存在していることを理解しなければならないが、日本人が英語を学ぶ際、最近よく聞く問題に「どの英語を学ぶのか」というものがある。先ほど紹介した図を見てもわかるように、世界にはさまざまな英語がある。ある人は英語は母語話者の手を離れたのだというが、母語話者は現に存在するわけだから離れたというよりは別の英語が生まれたのだと捉えるべきである。世界にさまざまある英語は特に発音、語彙の面に際立った特徴が現れているようだが、中には文法に関しても独特なものがあるようである。新しい英語が生まれたとすると、日本人の英語学習にとって一つ重要な問題が生じる。
     「どの英語を学ぶのか
     英語学習のモデルをどうするかという問題である。
    「英語は母語話者だけのものではありませんよ。英語は第二言語話者のものでもあるし、外国語話者のものでもあるのですよ。英語は今やわれわれの言語なのです」
     このように言ってみたとき、問題の「われわれ」とは「誰」のことなのだろうか。日本人が学んだ英語とは誰の英語なのだろうか。それは日本人の英語なのか。それとも彼らの英語なのか。


     国際英語との折り合い
     現在、雑誌『英語教育』の中で「国際英語の視点を授業に」という特集が組まれている。1月号、2月号、3月号とこれまでに3本の記事が記載されたが、今後どのくらい続くのかについては知らない。2007年1月号では世界の言語政策に詳しい河原俊昭氏が「「何を」「どう」教えるか」という題で論を展開している。まず河原氏は次にように問いかける。

    ネイティヴスピーカーが最高の教師なのか。


     このような問いかけをする裏には「ネイティヴスピーカーが最高の教師だとは言えない」という思いが隠れている。河原氏は国際英語の視点からネイティヴスピーカーに対する信仰を明らかにしようとしている。

    ネイティヴスピーカーが何でも最高というネイティヴ信仰は、一般の人、生徒・学生たち、またその親たちの間では根強い。実は我々英語教師の間でも根強いのではないだろうか。国際英語の理念とは、このような信仰に対して、警鐘を鳴らすものである。


     もっとはっきりとした形で国際英語の視点を紹介しているのは第二回目の日野信行氏である。日野氏はまず国際英語に対する3つの視点・解釈を次の3つに整理している。

    ①多様な英語
    ②中立的な単一の英語
    ③人工的な英語

     日野氏も支持するWorld Englishesの英語とは①の多用な英語を受け入れるという態度である。②の中立的な単一の英語とはいったい何を指すのかよくわからないが、本多勝一氏が「英語をイギリス語と呼ぶ」ことを主張したことを思い出せば中立的な英語という主張が意味不明であることがよくわかる。③の視点は鈴木孝夫氏のEnglicを思い出させる。
     それはさておき、このような「多様な英語」の視点に立つとき日野氏は日本人学習者に対する日本人教師の存在を次のように語っている。

    英米語の教育ではん、教員は母語話者が理想とされ、日本人教員は二番煎じのような扱いを受けるが、国際英語の教育では、主役は日本人教員である。Japanese Englishの良き例を生徒に示すことができるのは日本人教員であり、わが国の教育風土を熟知しているのも日本人教員なのである。


     「主役は日本人教員である」と言われれば聞こえはよいがこれは一体何を意味するのだろうか。日野氏は「「国際英語」教育では、非母語話者のみならず、母語話者も学習者である。英語による異文化コミュニケーションを円滑に行うためには、母語話者の側にも教育が欠かせないのである。」と述べているが、母語話者の側にも欠かせない教育とは具体的にはどのようなものをいうのであろうか。


     英語のモデルは日本人英語?
     最初に紹介した図を見ればわかるように、英語は複数形の時代に入っている。図をしっかり見ればそのなかに「日本人英語」も数えられていることがわかる。国際英語の立場から言えば、日本人英語も立派な英語であり、その他の英語と対等な存在であるということだろうか。日野氏によれば、国際英語の視点では日本人英語は英米の英語を学び損ねた結果ではなく、日本人にとってもっとも好ましい英語であるのだという。

    これは決して、母語話者の英語を習得するのが困難だから日本的な英語で妥協するという消極的な姿勢ではない。むしろ、英米語は日本人の国際コミュニケーションの手段としては適さないと考え、「良い日本式英語」のほうが理想であると見なすのである。


     ただ私が納得がいかないのは、「日本人英語」とはいったい何を指すのかはっきりしないことである。「良い日本人英語」があるならば「悪い日本人英語」もあることを思わせるが、それがいったい何のことであるかは闇の中である。
     学校で英語を教わるとき、日本人学習者のモデルは日本人教師であることは言うまでもないが、その日本人教師のモデルは誰なのだろうか。国際英語の視点ではその日本人教師のモデルはその日本人教師自身なんだ、胸を張れ、というわけであるが、その教師が持っている英語が日本人英語であるという保障はどこにあるのだろうか。日本人が使う英語が日本人英語なのだと開き直ればそれまでだが、日本の教師は英語を「教える」主体ではあっても「使う」主体ではない。彼らの英語が日本人英語を代表するものだといえるのだろうか。
     なぜアメリカ英語やイギリス英語がモデルであってはならないのか私には今のところ納得のいく説明が得られていない。ネイティブ信仰と言語学習は切り離すべきだが、信仰という極端な議論を持ってネイティブスピーカーたちを無視しても良いのだろうか。アメリカ英語を学び、それを日本人が使う。そこで現れてくる特徴が日本人英語なのだと考えればよいのではないか。「日本人英語を学ぶ」という言い方にはあたかもそこにはっきりとした形で日本人英語が存在するのだという前提があるように思うが、それは幻想ではないか。
     なるほど日本人が日常的に英語を使っているのであれば話は別であるが、英語を日常的に使うには日本語を捨てる必要がある。残念ながら日本人には日本語で事が足りる環境が現に存在している。英語は本当に日本人のものなのかどうかよく考えてみる必要がある。
     日本人英語は日本人が使う英語に現れる特徴を言い表す表現であっても、学ぶ対象ではないのではないだろうか。

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    英語熱の行方

    2007年02月18日 | 記事
     日本の英会話教室
     世間の英語への期待は大きい。どのくらい大きいのかについては一言では言い表すことはできないが一つの例として英会話学校の存在が挙げられる。矢野経済研究所が出した『語学ビジネス徹底調査レポート 2006』では、2005年度の語学ビジネス市場(語学スクール、語学学習教材、周辺ビジネスの合計)について、対前年比0.9%増の6383億4000万円という数字が示されている。上の図は近年の語学ビジネス市場の推移を表したものである(矢野経済研究所が作成)。
     英会話教室の数についても少し紹介しておこう。英会話教室は政府の統計資料ではでは他の言語も含めた外国語会話教室の中で扱われている。経済産業省は毎年「特定サービス産業実態調査」という報告書を出している。「平成17年特定サービス産業実態調査」によれば外国語会話教室を営む企業は1144企業であった。外国語会話教室に関する調査は平成9年、平成14年、平成17年の3度行われているが、企業数から見れば調査が行われるごとにその数を減らしている。しかし年間売上高は調査をするごとに増加している。次の表は外国語会話教室の企業数とその売り上げ、さらには外国語会話教室で取り扱われている各言語の割合を整理したものである。
     図を見ても、表を見ても語学産業は全体として成長してきていることが分かる。しかしこのまま順調にゆくがどうかは分からない。需要があるところに産業が成り立つことを考えれば、それは日本人の心がどのように揺れ動くのかが大きく影響している。


     英語教育のために移民したい
     話はそれるが、お隣韓国の英語に対する期待を少し見てみよう。2006年3月31日付けで朝鮮日報に「韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」」という記事が載せられた。記事はインターネットで閲覧することができるが、全文を引用してみよう。

    韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」

     国民4人中1人はチャンスがあれば外国に「教育移民(子どもの外国語教育のために家族が外国に移民すること)」したいと答えたと東亜(トンア)日報が報道した。

     31日、東亜日報が実施した世論調査の結果によると、「チャンスがあれば教育移民、早期留学、キロギアッパ(早期留学のため外国に住んでいる家族のため韓国で単身働く父親)をしたいと思うか」という質問に、回答者の25.2%が「教育移民」、21.8%が「早期留学」、12.0%が「キロギアッパ」をする意思があると答えた。

     このような傾向は小中高校生の親が最も強く、小中高校生の親の32.6%が「教育移民をする考えがある」と答え、早期留学(28.9%)、キロギアッパ(15.5%)を望む親も多かった。

     「家族や親戚の中に子どもの教育のため移民、早期留学、キロギアッパをしている人はいるか」という質問に「教育移民に行った人がいる」という答えが18.5%、早期留学は16.4%、キロギアッパは11.1%だった。

     この新聞はまた、小中高校生の80%が英語と関連した私教育を受けているとした。比率は小学生84.6%、中学生88.4%、高校生64.9%と、中学生が最も多かった。英語の私教育にかかる費用は年平均248万ウォン、月平均20万ウォンだった。


     お隣韓国の英語熱は相当に高まっていることが分かる。人口5千万として計算すると、なんと韓国では1250万人の人が英語のための移民を望むということになる。韓国の親がどのような教育を自分の子に受けさせようとわれわれには基本的にはわれわれには関わりのないことだが、この数字に真実味があるのかどうかについては興味があるところである。調査の方法に何かしら問題があるのではないかとも考えたくなる数字であるが、この英語に対する情熱は現実世界のものになっているようである。


     雁のパパ
     日本の英語熱については後で論じるが、今見た韓国の状況を伝える新聞記事を目の当たりにしたとき、私はこれを卵の例を持ち出してたとえ話をせずにはいられない。つまり韓国の英語熱がゆできっているせいで、日本のそれは半熟にしか思えないということである。先の新聞記事以外にもそう思わせる話はいくらでもある。
     あるとき、インターネットであるサイトを覘いているとWashington Post紙に"A wrenching Choice" というタイトルの記事が存在することを知った。その記事がまさに韓国の英語熱がすでにゆであがったゆで卵であると思わせるものであった。 記事の内容を簡単に紹介しよう。
     それは韓国のある家族についての話である。父親、母親、娘、二人の息子の5人家族。どんな親も自分の子供には幸せになってもらいたいと思うものである。そのため子供によりよい教育を受けさせようとするものだが、この両親も負けてはいない。あるとき、自分の子供にアメリカで教育を受けさせることを決意する。子供だけアメリカに送るわけには行かないため、家族で行こうとするが父親には韓国での仕事がある。そのため母親と子供だけがアメリカに渡り、父親は韓国に残る。
     記事によれば、家族はすでにそういった生活――父親不在の子供、夫不在の妻――を1年続け、あと9年間続ける計画であるという。家族は父親が家族の元を訪れるという形での再開をたまに行うだけである。
     「キロギ・アッパ
     これがそのような父親に名づけられた呼び名だという。これは最初に紹介した新聞記事にも出ていたと思う。韓国語で「キロギ」は「雁(ガン)」を意味し、「アッパ」は「父」を意味する。渡り鳥のように家族と韓国の間を往復することに由来している。
     今、韓国ではこういった家族が増えてきているのだという。記事では2002年に約1万人の学齢児童が海外での教育を受けるために韓国を去ったことを紹介している。
     記事は子供のほうが学校の授業などに合わなくて、グレてしまい、アメリカでの教育をあきらめて韓国に戻った話しも紹介されている。また父親の孤独についても触れられている。家族がいなくなって、小さな家に引っ越した例、食事がファストフードや冷凍食品偏ってしまい肥満になった例、中には自殺してしまった父親までいるという。
     このような状況は現在の日本ではまたそれほど聞かない。メディアが報道していないだけなのだろうか。もうひとつ韓国で起きた話題に触れてみたい。


     舌を切る子供たち
     「舌切りスズメ」の話の中で、意地悪なおばあさんがスズメの舌を切ってしまう場面があった、と私の不確かな脳は記憶をしているが、韓国では一歩進んで「自ら」舌を切る人が出てきているという。「自ら」とは言っても親が自分の子供の舌を切る手術を受けさせるわけである。この手術については日本のテレビなどでも取り上げられたことがあるというから知っている人も多いかもしれない。
     2003年に韓国で『もし、あなたなら~6つの視線』という映画が製作された。これは韓国人権委員会という団体作ったものだというが何をしている団体かはよく知らない。映画の中には「人権」に関する六つのエピソードが盛り込まれている。その中の一つがまさに子供の舌を切る話である。今のところ、私自身この映画を実際には見ていないためどんな内容なのか断言はできないが、話のあらすじが映画の公式ホームページに紹介してあるのでそれを引用する。なお、舌の手術を扱っているエピソードは四番目で、そのタイトルは「神秘的な英語の国」というものである。

    1998年の冬、ソウルにある名門英語幼稚園でクリスマス会が開かれている。6歳のジョンウは両親の期待にこたえ、英語の発表会で上手に歌っている。だが、ジョンウの母親は少しがっかりしたようだ。息子の発音が他のネイティブの子どもほど完璧ではなかったからだ。それから三年後、ジョンウは小児歯科の手術台の上に横たわっていた。痛みは避けられないが、RとLの発音が上手になるよう手術が行われた。母親が期待したようにジョンウの未来は輝かしく、素晴らしいものになるのだろうか?


     番組ホームページによればこの手術の場面には実際のドキュメンタリー映像が使われているという。人権団体が製作者であることを差し引いても「舌の手術」が現実に行われたことは間違いない。
     この話題からは韓国人も日本人と同じようにRとLの発音を苦手にしているらしいことが伺えるが、問題の本質は別のところにある。このような手術をバカバカしくおもう親がいる一方で、日本の親の中にも「発音が良くなるなら、我が子にも・・・」と考える親がもしかしたらいるかもしれない。世界は広いし日本も広い。
     ただこの手術についてひとこと言えば、手術自体の効果はないということである。専門家によればこの手術には実質的な効果はないとみているらしいことは確認しておかなければならない。


     日本の英語熱
     今見てきたような韓国の事例を目の当たりにすると、日本の英語熱はまだ半熟状態だと思わざるを得ない。日本の英語熱はどのような形で表に現れてきているだろうか。韓国のように舌を切ったり別居したりという話はまだそれほど聞かないところを見ると、「韓国の英語熱>日本の英語熱」ということが一応は言えるかも知れない。日本人は「熱しやすく冷めやすい」としばしば言われるが、英語についてはどのような反応を見せるのだろうか。この先、ますます温度を上げてゆくのか、それとも一応の冷静さを取り戻すのか。注目してゆきたい。

    以前紹介した「韓国の英語熱:海外逃亡!」(2007年02月05日)もあわせてみていただけるとよいと思う。

    [参考]
  • 『語学ビジネス徹底調査レポート 2006』概要(矢野経済研究所)
  • 「外国語会話教室の概況」(経済産業省)
  • A Wrenching Choice(washingtonpost.com、2005/01/09)
  • 教育のため 別居選ぶ韓国人(読売新聞、2005/12/06)
  • 韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」(朝鮮日報、2006/03/31)
  • 韓国「大脱出」:加熱する早期留学(上)
  • 韓国「大脱出」:加熱する早期留学(下)
  • 韓国映画『もし、あなたなら~6つの視点』 エピソード4 神秘的な英語の国
  • 「英語発音良くするため舌の手術が流行」(朝鮮日報、2002/01/01)
  • 「英語を正しく発音できるようにと、子供に舌の手術を受けさせる親たち。先ごろ韓国で問題となったこの事件の背景には、過熱する英語競争があります。」(NHK、2005)
  • 「英語の発音をよくするために子供の舌を手術!仰天!ママの行き過ぎた英語教育」(All About、2003)
  • AP:“Tongue Operations” Popular in Korea for English Education(朝鮮日報、2004/01/02)

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  • 韓国の英語熱:海外逃亡!

    2007年02月05日 | 記事
    韓国では以前、英語教育のために子供の舌を切る親がいるということがありました。そのあたりのことは「英語発音良くするため舌の手術が流行」(朝鮮日報、2002/01/01)で確認できますし『もし、あなたなら~6つの視点』という映画の中に収められている「エピソード4 神秘的な英語の国 」でも確認できるようです。(←この映画、私は見ていませんが…)

    そのような韓国ではいま、早期英語教育のために韓国を脱出する人が増えているようです。朝鮮日報(on line)に次のような記事がありました。

    韓国「大脱出」:加熱する早期留学(上)

     「脱韓国」教育を目指す早期留学生たちが急増している。地球のあちこちに韓国の小・中・高校生たちがあふれている。早期留学(を)させる家庭の所得層も広がり、成功例と共にその副作用も目に付くようになった。成功が保障されているわけでもないのに、なぜ競って韓国を脱出しようとするのか。朝鮮日報は教育シリーズ第1部「創意力教育の現場」に続き、早期留学の実態と成功・失敗についてレポートする第2部「海外取材、爆発する早期留学エクソダス(大脱出)」を掲載する。

     京畿道一山新都市に住むキムさん(40)は2004年に中学2年の娘と小学1年の息子を連れ南アフリカ共和国へ渡った。早期留学にふさわしい場所だと考えたためだ。アメリカやカナダは費用が高く、中国は危険な気がしたという。キムさんは「アフリカは遠すぎると思い、初めは悩んだが、生活費と学費を合わせても月350万ウォン(約45万円)で“アフリカの中のヨーロッパ”と言われる南アフリカのイギリス式教育を受けることができ、今は満足している」と語った。

     キム・ボギョンさんは高校1年生だった2005年7月、南太平洋のフィジーへ発った。「イギリス式教育制度がありながら遊興文化はなく、勉強に専念できる」と親が勧めたためだ。現在フィジーには早期留学生約400人を含め、韓国人が約1000人住んでいる。キムさんは「両親や韓国人の友達が懐かしいが、水泳・ゴルフをして楽しく過ごしている」と話す。

     グローバル時代に英語1つきちんと教えられない教育、優秀な学生を下のレベルに合わせる平準化教育、家計を圧迫する私教育費、すぐに変わる入試制度、時代の変化についていけない公教育…。

     韓国の教育に絶望し、韓国を離れていく早期留学生たちは、今や世界も狭すぎると考えているほどだ。子供をグローバルな人材に育てるため、アメリカ・カナダ・オーストラリアなど、すでによく知られている早期留学先のほかにも、東南アジア・アフリカ・インド・南太平洋・南米など全世界に飛び出している。

     中学1年だった双子の姉妹を1年前からインド南部・チェンナイのインターナショナルスクールに通わせているイさんは「子供は英語・フランス語・ヒンディー語を学んでいる。学校は定期的に子供たちの生活について報告するなど、徹底的に管理してくれる」と話す。同様に小学生と中学生の兄妹を南米エクアドルに留学させたチャさんは「スペイン系国際学校を卒業したら、英語・スペイン語・フランス語を話せるようになる。アメリカやヨーロッパの大学に進学させるつもり」と語った。

    特別取材チーム
    [ 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 2007/02/04 07:01 ]


    韓国「大脱出」:加熱する早期留学(下)

     さまざまな国や地域で韓国の早期留学生が爆発的に増える中、現地では以前にはなかった新しい現象が続々と生まれている。

     マレーシアのチェンパカ・インターナショナルスクールは今年1月の新学期から韓国人学生のための「2カ月事前体験プログラム」を新たに設けた。マレーシアでは初めてのことだ。学校生活を2カ月間体験した後、通学を続けるかどうかを決めるものだ。このプログラムは韓国人保護者らが学校側に要請し、実現したという。

     また、アメリカ・イギリス・ニュージーランドなどでは、韓国人学生の増加に伴い、韓国人コンサルタントを採用する学校も増えている。全校生徒3500人のうち、韓国からの早期留学生が約600人いるというニュージーランドのランギトト・カレッジもその1校だ。2004年から同校のコンサルタントとして働いているキム・ヘジョンさんは「滞在6カ月過ぎくらいからの生活を不安なく過ごせるようにサポートするのが私の役目」と話す。

     ところで、こうした早期留学ラッシュにより、東南アジアやアメリカの不動産業界もざわついている。フィリピン・マニラには早期留学生や語学留学生が押し寄せ、マンションの売買価格や家賃が急上昇している。マンダルヨン市にある30坪のコンドミニアムは2年で家賃が2万ペソ(約4万9000円)から3万ペソ(約7万4000円)へと50%も上がった。ソウル市江南のような高級住宅地マカティをはじめ、アラバン・オルティガスといった韓国人の集まる地域は、家賃がここ数年で約30‐50%上昇した。パラニャケで不動産業を営むイ・ジェヒョンさん(50)は「広くてきれいで現代的な家はすべて韓国人が押さえているため、物件があまりない」と言う。

    特別取材チーム
    [ 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 2007/02/04 07:02 ]


    この記事のほかにも、

    韓国国民の25%「英語教育のために移民したい」」(朝鮮日報、2006年3月31)
    教育のため 別居選ぶ韓国人」(読売新聞 2005年12月6日 )
    Phuong Ly, 'A Wrenching Choice', Washington Post (on line), Sunday, January 9, 2005

    などを読んでみるとより韓国の状況を把握できるでしょう。早期英語教育の問題をどのように考えるのかについて私はそれ自体には否定的な考えを持っていますが、「自由」社会である韓国や日本では「親」が自分の「子供」にそのような教育を受けさせたいと思えばそれを止めることはできません。

    早期英語教育が子供の幸せにつながるのかどうかは一概には言えませんが、英語ができることと幸せであることは全く無関係であると言うことはできるでしょう。『レイコ@チョート校―アメリカ東部名門プレップスクールの16歳』という本は面白く読ませていただきましたが、この著者のように海外での生活を楽しみ、将来へのはっきりとした目標をもって生きていると言うのは、早期教育云々にかかわらず幸せそうに思います。

    広島市では来年度から小学校英語(広島市の独特なカリキュラム)が研究校(パイロット校)で行われます。全国的にもますます広がりを見せると思われる小学校英語はどのようになってゆくのでしょうか。果たして小学校英語は日本人の幸せにつながるのか。これからも考えてゆきます。

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    『語学の脳みそ―11ヵ月で4ヵ国語をマスターした僕の語学のツボ』 矢部 太郎

    2007年01月31日 | 記事
    文法を覚えることより“聞いて⇒まねる”が僕の語学のツボです


    このように主張されるのは矢部太郎氏です。ナインティーナインの矢部浩之さんではなくて、「カラテカ」というお笑いグループの人です。彼は『電波少年』という日本テレビ系列のバラエティー番組の中でスワヒリ語や韓国語など4ヶ国語をやらされたのだそうです。電波少年という番組は私は「猿岩石」以来あまり見る機会は減りましたが、たしかロバみたいなのを連れて外国を旅していたのをちょろっと見たような記憶もあります。

    矢部太郎さんはある日、アイマスクをかけられ、ヘッドフォンをつけられて、殺風景なマンションの一室につれてこられたといいます。番組自体見ていないので本を頼りに書きますが、電波少年は彼に語学の課題を与えました。

    スワヒリ語を勉強してアフリカ人を笑わせる


    それ以来、これが矢部さんの第一の目標となったのだそうです。「ボクはこれまでどの外国語もちゃんとマスターした経験はありませんでした」と述べているように、矢部さんは一通りの受験勉強以外はそれほど語学に打ち込んだという経験もなかったようです。

    番組で与えられた語学という課題。電波少年という番組は普通の番組と違っていろいろと無理難題をだしますが、矢部さんには「一日三回行われる会話テストにクリアしないとご飯が食べられない」という条件を課したそうです。

    スワヒリ語に続き、モンゴル語、韓国語、コイサンマン語、アラビア語とつぎつぎといろんな言葉を矢部さんは学んでいきました。コイサンマン語というのはあまり聞きなれませんが、アフリカにあるコイサンマン村の言葉だといいます。いろいろな言葉をやったという矢部さんがまず抱いた印象は「今までの勉強法は役立ちませんでした」というものだったといいます。

    まずやりだまにあがるのが、"This is a pen."という文。いつ使うんだー?というわけです。
    その次に"There is a book."だから何なんだー?というわけです。

    矢部さんの意見も一理あるとは思いますが、私はこの点は学校教育という性質上致し方ないところがあるのではないかと思います。学校は不特定多数の子供が一緒に学ぶ場で、全員に意味のある文というのを毎回毎回提示するのはなかなか難しい。それに言語学習の基本を文法学習だとすれば、文法の魅力は応用にあります。This is a book.やThere is a book.という表現を直接使わないとしても、This is ....やThere is ....という文はしばしば使われます。

    少し本書を読む際に注意をしていただきたいのは、「文法」に対する態度です。本書では「文法も捨ててしまえ」という表現に見られるように、文法を軽視しているようにも思えますが、次のようにも矢部さんは述べています。

    矢部 「それで入江君の場合は、はじめに何を覚えていったんだっけ?」

    入江 「あいさつと自己紹介の言い方、それから『ごめんなさい』。ホント、なぜかよく怒られたから。あとは『私はお腹がすいています』。これぐらいかな」

    矢部「そういう言葉は会話として使う場面が多いから当然使うことも多かったと思うけど、なんか単語ばっかり覚えてたよね。文法も覚えなきゃダメだよ、しゃべれないよって何回も言ってたのに」

    入江 「いや、文法って好きじゃなかったし……」

    矢部 「好き嫌いじゃなくて1!
    (強調は引用者)

    入江さんというのは矢部さんの相方ですが、矢部さんは文法自体は否定はしていないわけです。それはそうです、文法を否定して「4ヶ国語をマスターした」なんていう副題のついた本を出版したらそれは詐欺になりかねません。その点、本書を買った私は少なくとも詐欺にあってはいないということですから一安心です。

    文法学習は大きく分けると直接的に学ぶ方法と間接的に学ぶ方法とに分かれます。直接的というのは指導者による文法の直接的な説明や文法書による勉強を意味します。一方、間接的なものは文法規則を直接教わるのではなく、いろいろな文章を自らが類推して文法を見つけるというやり方です。矢部さんの学習スタイルは「文法なんてあとからついてきます」と述べていることからも分かるように、後者のスタイルであるといえます。

    「単語の丸暗記は良くないです」とか「興味のあることからはじめましょう」というあたりを見ると矢部さんの学習方法はそんなに間違ったものではないといえます。少なくとも「丸暗記」を勧めていないというところは見習うべきです。丸暗記…それは単語であれ文章であれよくないと私は思います。単語はその語が用いられる状況や前後の関係とともに覚える、つまりその使い方を覚えるべきで、文章は自分でつくればいいわけです。

    矢部さんの次の言葉は特に傾聴に値します。

    その言葉が自分にとってどうしても必要なんだという状況を作り出せることを祈っています。


    その言葉ができるようになっていったい自分は何がしたいのか、なぜその言葉が必要なのか。この視点はとても大切だと私も思います。

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    「英米か!」というツッコミを。

    2007年01月07日 | 記事
    カタカナ連発塩崎官房長官に思わずツッコむ「欧米か!」

     安倍内閣の“番頭格”の塩崎恭久官房長官(56)がカタカナ言葉を連発し、報道陣を悩ませている。外務副大臣などを務めた経歴を持つ国際派だが、最近では「センシティブ」など英単語を多用。記者から意味を突っ込まれると窮する場面も。日本語による、分かりやすい説明が求められる立場なだけに、人気お笑いコンビ「タカアンドトシ」ばりに「欧米か!」とツッコミを入れる声が出てきそうだ。

     「インテリ長官」-。外務副大臣、ハーバード大行政学大学院修了という経歴を持つ塩崎氏に対し、報道陣が最近、付けたあだ名だ。昨年9月の官房長官就任以来、英語を頻繁に使い、会見を行う姿勢に担当記者が頭を悩ませている。

     例としては、北朝鮮の核問題や米国とのやりとりについて、常に「インテリジェンス(機密情報)にかかわる」とコメントを避け続けた。昨年12月の日本とオーストラリアの経済連携協定の交渉開始決定に際し「互いにセンシティブ(微妙)なものがある」と指摘した。

     記者から「センシティブの日本語訳は」と問われ、塩崎氏は「うーん」と逆に立ち往生。「何となく言っているけど…。『配慮が必要な』ってことなんでしょう」と得意げな表情で説明した。

     それでもめげずに「キック・オフ・スピーカー(冒頭発言者)」「ウイン、ウイン(双方有利)」「フォーミュラ(計算式)」「エクスパティーズ(専門知識)」など、連日“横文字通”ぶりを発揮。昨年末の記者会見で「カウンター・インテリジェンス・ポリシー(情報保全方針)の策定などの取り組みを推進する」と説明すると、記者団もあきれ返った。

     塩崎氏の姿勢は、安倍晋三首相(52)にも相通ずるものがある。昨年9月の所信表明演説では、平易な外国語や地名を含め、109回のカタカナ言葉を多用した。

     逆にカタカナ言葉嫌いで有名だったのが、小泉純一郎前首相。首相就任後の所信表明で使った英語の数は、安倍氏の4分の1だった。厚相時代には省内からのカタカナ言葉追放のための検討委員会まで設立。首相時代は、英語を多用する答弁をした閣僚に「分かりやすく表現しろ」としっ責した。それ以降、役所内では日本語表現に重きを置いた一方で、漢字が並ぶ「戒名」のような用語にまみれる弊害も出た。

     それでも、小泉氏はカタカナ言葉や英語の多用を改めるよう指示していた。以前、「お役所言葉は日本語にするともっと難しくなる」と語ったことがある安倍首相も「伝統文化を大切に」と訴えているが、塩崎氏に注文を付ける気はないようだ。

     ビジネスの場でも英語多用は知識をひけらかす行為として、好ましくないとされている。それだけに、塩崎氏にはやはり「欧米か!」と突っ込みを入れる必要がありそうだ。
    [ 2007年01月07日08時15分 ]


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    LOTE教育:英語以外の教育

    2006年09月15日 | 記事
    現在、オーストラリアについて少々調べています。アボリジニの問題、白豪主義の問題、移民政策の問題などいろいろ出てきますが、その中でも現在につながるものとして出てきたのがLOTE教育というものです。LOTEとはLanguages Other Than Englishの頭文字であり、LOTE教育とは「英語以外の言語」の教育のことです。オーストラリアでは「英語」が「公用語」ですからこのLOTE教育は母語以外教育というわけです。日本だったら日本語以外教育であり、筆頭に上げられるのは英語でしょう。日本において英語以外に言語戦略が存在するのかどうかは私の知るところではありません。

    岡戸(2002)によればオーストラリアでは1987年に「言語に関する国家の政策(National Policy on Languages)が公表され、そこでLOTEについてさまざまな問題が取り上げられたそうです。さらに1991年には連邦雇用・教育・訓練省(Department of Employment, Education and Training)によって「オーストラリアの言語:オーストラリアの言語と識字政策(Australia's Language: The Australian Language and Literacy Policy)が出され、現在これに基づいて言語政策が行われているといいます。そして「言語に関する国家の政策」では、Nine Key Languages(9つの重要な言語)として、アラビア語、中国語、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、インドネシア/マレー語、イタリア語、日本語、スペイン語の9言語が挙げられているようです。きちんと「日本語」も入っていますね。岡戸(2002)ではグラッドルの『英語の未来』から「第一言語としての使用者数から見た世界の主要言語」の表を紹介しています。これを見ると日本語は世界で9位となっています。だからでしょうか?Nine Key Languagesの1つとして日本語が挙げられているのか。よく分かりません。

    岡戸(2002)によれば、「オーストラリアでは、ただLOTEを学校段階で提供するだけにとどまらず、より多くの言語を学ぶ機会について持続的に支援できるような体制が設けられている」といいます。オーストラリアにはオーストラリアの事情があり、日本には日本に事情があるでしょうから、単純な比較はできませんが、それにしても日本の言語戦略にははっきりしたものが見えてきません。単一言語主義を超えて二言語併用を推進しようとしているように見えますが、オーストラリアは多言語主義、あるいは複数言語主義と一歩も二歩も先をいっているようです。このへんどうでしょうか。

    岡戸(2002)では現在のオーストラリアでのLOTE教育が成功しているのかどうかについてはあまり述べられていませんが、強いて言えば、「教員不足」「予算不足」によりLOTEを提供することにおいて足踏みをしていることを挙げています。しかし例えば、デイヴィッド・マイヤーズ(David Myers)氏は「オーストラリア人の言語事情」の中で「成功していない」とはっきり述べています。

    我々が学校で導入している英語以外の言語(LOTE [Languages other than English])プログラムが成功していない理由には、学習言語の評価をする厳正な試験基準を設けていないこと、親と教師が外国語学習というのは価値のないものだと思っている子供たちに対して、未知の単語を暗記することは楽しいことなのだと教えることを怠っていることが挙げられる。我々が数カ国語をあやつることができるようになった時、また本当の読み書き能力というのは1ヵ国以上の言語を用いて自分を表現できる喜びを味わうことなのだということを悟るようになった時、オーストラリアは多文化主義社会になるのである。

    どちらにしてもこれからの改善が期待されるところなのでしょう。我々もLOTEの理念は受け入れてもよさそうに思いますが、どうでしょうか。

    [参考]
    ・岡戸浩子 (2002) 「オーストラリアの多文化社会とLOTE教育」 河原俊昭(編) 『世界の言語政策―多言語社会と日本』 くろしお出版
    ・ディヴィッド・マイヤーズ (1999) 「オーストラリア人の言語事情」 中京大学社会科学研究所オーストラリア研究部会 『日・豪の社会と文化Ⅱ―オーストラリアをどう認識するか―』 成文堂
    ・David Graddol (1997) The Future of English? British Council

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