Englishに複数形はありませんよ
私も含めて一般的日本人の英語学習は中学校に入った段階からスタートする。最近では小学校でも「英語活動」がと入れられてはきているが、それらは「活動」という中途半端な名前からもわかるように、一種の「お遊び」と見てよい。よってここでは一般的日本人の比較的落ち着いた英語学習は中学移行に始まるものとして論じる。
われわれは中学校の授業を受け始めて何時間かすると「English」という単語を学ぶ。そしてそれからもう何時間かすると単語の単数と複数を学ぶ。その後、冠詞のaや複数のsなどを一応に学び、waterやmoneyなどの数えられない名詞を学ぶ。わたしが教わったときは「言語」もこの中(付加算名詞)に入っていたと記憶している。考えてみれば分かるように「日本語が一つ」、「日本語が二つ」とは言わない。「韓国語が一つ、韓国語が二つ」とも言わない。
もちろん、ある言語内には「違い」はある。例えば日本語は日本語でも、九州のそれと東北のそれとでは一般人の話し言葉には違いがあるだろう。しかしそのような現象は一般には「方言」や「なまり」などと呼ばれるわけであって、日本語がいくつあるかと言った話題にまでは発展しない(「方言」と「なまり」の間にも明確な違いがあるが、ここではそれは問題にしない)。言語にはある民族の統一性を象徴するという性格がある。統一ならば二つも三つもあっては困るのである。
しかしわれわれは英語を相手にしたとき、この前提ともいえる認識を改めなければならないことを自覚する。英語だけはその複数形を認めなければならない現実が世界に存在するのである。本名信行の『世界の英語を歩く』(集英社新書、2003)の目次には「ヨーロッパの英語」「アフリカン・イングリッシュ」「インドの英語」「マレーシアの英語」「シンガポールの英語」「ブルネイの英語」「フィリピンの英語」「中国、台湾、韓国の英語」「アジアの英語」「アメリカ英語」「カナダの英語」「イギリスの英語」「オーストラリア英語」「ニュージーランドの英語」というさまざまな英語を思わせる表現が並んでいる。英語が複数形で呼ばれる所以はここにある。英語はアメリカ人だけが使うのではない。イギリス人だけが使うのではない。英語は世界で使われる言語なのである。その意味で学校の先生も「英語に複数形はありませんよ」などと呑気(のんき)なことは言っていられなくなってしまったのである。上の図は本名信行氏の『アジアの英語』(くろしお出版、1999)に紹介されていたものである。参考までに見てみるとよいだろう。
世界諸英語
世界には英語が複数形で存在する現実があることは今確認したが、専門家はこの状況を「世界諸英語(World Englishes)と呼んでいる。World Englishesという理念を最初に提唱したのはB・B・カチュル Braj B. Kachru という人物であるという。斎藤兆史(よしふみ)氏の『これが正しい!英語学習法』(筑摩書房、2007、125頁~126頁)には次のようにある。
「世界英語」という理念を最初に提唱したのが旧植民地出身のB・B・カチェルという学者であったというところが重要です。つまり、自分たちの言語文化を奪われた植民地の人たちの立場からすれば、宗主国への恨みつらみを含めて「この言葉はもはや宗主国の占有物じゃない。私たちみんなのものだ」というしかない。イギリスにしてみれば、どんな形であれ英語が世界に広まればその本家本元として大もうけできますから、「そのとおり、みなさんのものです。どんどん英語を使いましょう」と言う。 |
今や英語は「世界語」や「世界共通語」「国際語」「国際的共通語」などという名で呼ばれるまでにその重要性が強調されている。英語は英語なのであって、これらの呼び名にはそれぞれ問題があるが、英語の重要性が強調されているという現実はきちんと受け止める必要がある。
英語史を少し見てみればわかるように、数百年前までは英語の勢力など問題にならないレベルであった。例えばシェイクスピア William Shakespeare の時代(1564-1616)には全世界にその母語話者は500~600万人程度しか存在していなかった。しかしこれが1952年の調査では2.5億人と推定され、50倍にも膨れ上がっている(石黒昭博、『現代の英語教育法、2003)。最近の調査では3億人を超えた数字が出されるまでになっている(
WIKIPEDHIA)。
母語として英語を使う人、第二言語として英語を使う人、外国語として英語を使う人。英語とどのような係わり合いを持っているのかを大別すればこのような3つのタイプに分けることができる。母語として使う人の数であれば中国語(数え方には問題があるがここでは触れない)やスペイン語、ヒンドゥー語やアラビア語なども負けてはいない。いや日本語の1億2千万人でもたいしたものである。しかし英語以外の言語の重要性はそれほど声だかには聞こえてこない。なぜだろうか。
英語がその力を発揮するのは実は母語話者よりも第二言語や外国語として使う人によるところが大きい。インド、フィリピン、ガーナ、ナイジェリアなどでは英語は国の公用語として機能している。日本や韓国などは外国語として英語と係わり合いを持つ国である。
言語には深く狭く使われるものと、薄く広く使われるものがあるのだろうか。いやそれは言語の特徴ではなくて、われわれがどのように使うかという問題である。英語の母語話者は英語を深く使っているだろう。しかし英語の力は薄く広く使われるところにある。野球で言えば4番タイプの巨人ではなく、俊敏性・機動力の野球だろう。世界各地をキビキビと動き回っている、そのような印象である。俊敏性・機動力野球といえば広島カープだが、カープは最近弱すぎて困る。新しい球場が完成するというのに、ここまで低迷した野球を続けていてよいのだろうか。カープは江藤といい、金本といいよい選手を育てては他球団に持っていかれるという特徴がある。選手育成工場でよい選手が育てばそれを他球団に高値で売るということを商売にしているのかもしれないが、自球団がもう少し勝てるような戦略を立ててほしいものである。これは余談であった。
植民地化による英語の普及
英語の話に戻ろう。英語の力が薄く・広く使われるところにあるとすれば、英語はなぜそのような使われ方をするようになったのだろうか。英語は言語としてわりかし簡単だという理由で世界のあちこちで使われているのだろうか。英語がなぜ世界にこれほどまでに普及したのか、その答えはすでに出ている。
「植民地政策」
これが答えである。
そもそも英語の歴史は侵略の歴史だと見てよい。英語の歴史は5世紀にアングル人やサクソン人がブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したところから始まる。英語の歴史が侵略の歴史だという意味は英語自体も侵略されかけたことを含んでいるが、19世紀から20世紀あたりの帝国主義が跋扈していた時代は英語が他の言語を飲み込んだ時代だと見てよい。上の図は
ウィキペディアに載せてあったものである。これはピンク色の地域が1921年当時にイギリスが植民地にしていた地域である。全世界をまたに掛けていることがわかる。もちろん当時はポルトガルもオランダも、フランスもドイツもそれぞれ植民地を持っていた時代である。日本でさえも韓国や台湾、東南アジアの地域を植民地にした時代であることを忘れてはいけない。しかし日本は言語までも奪うことはしなかった(韓国や台湾における日本語教育の実態は存在するが、現地語が消滅するまでのことはしていない)。しかし英語の場合は・・・である。オーストラリアの事例を見てみよう。
オーストラリアは現在では「英語圏」の一つとして数えられている。しかし1788年に白人が入植をはじめるまではオーストラリアは英語圏ではなかった。それまでオーストラリアには30万人以上のアボリジニーたちが暮らしていたが、1901年に連邦政府が置かれて初めて行なわれた国勢調査ではアボリジニーの数は約6万人にまで減少している。オーストラリアの原住民語に詳しい
角田太作氏は
ホームページの中で次のように語っている。
オーストラリア原住民語はイギリスによる植民地化が始まっていらい、抑圧と衰亡の歴史を辿って来た。 |
オーストラリアの言語は白人入植当時、多く見積もれば700、少なく見積もっても200程度の数存在したという。しかしそれがすでに100ほど死滅し、現在さらに100ほど死にかかっており、子供たちによって学ばれているのは20ほどでしかないという(フィッシャー、スティーヴン・ロジャー、2001、『ことばの歴史』、研究社)。一説によればオーストラリアの言語は1年に1言語の速度で消えていっているという。これらが「全て」英語のせいだと言い切ることはできないが、英語がまったく関係ないともいえないだろう。
現在、英語は世界中で使われており、英語に全く触れることなしに人生を終える人というのはほんの一部のように思われる。しかし英語が現在の地位に至る過程には侵略の歴史、植民地の歴史がその中央にドスンと居座っていることを忘れてはならない。英語は簡単だから世界に広まったのだという馬鹿げたことを言う人がたまにいるが、認識不足にも程々にしてもらいたい。
学ぶのはどこの英語?
今見たように、英語の人気の裏には暗い過去がある。そのことを踏まえた上で、世界にはさまざまな英語が存在していることを理解しなければならないが、日本人が英語を学ぶ際、最近よく聞く問題に「どの英語を学ぶのか」というものがある。先ほど紹介した図を見てもわかるように、世界にはさまざまな英語がある。ある人は英語は母語話者の手を離れたのだというが、母語話者は現に存在するわけだから離れたというよりは別の英語が生まれたのだと捉えるべきである。世界にさまざまある英語は特に発音、語彙の面に際立った特徴が現れているようだが、中には文法に関しても独特なものがあるようである。新しい英語が生まれたとすると、日本人の英語学習にとって一つ重要な問題が生じる。
「
どの英語を学ぶのか」
英語学習のモデルをどうするかという問題である。
「英語は母語話者だけのものではありませんよ。英語は第二言語話者のものでもあるし、外国語話者のものでもあるのですよ。英語は今や
われわれの言語なのです」
このように言ってみたとき、問題の「われわれ」とは「誰」のことなのだろうか。日本人が学んだ英語とは誰の英語なのだろうか。それは日本人の英語なのか。それとも彼らの英語なのか。
国際英語との折り合い
現在、雑誌『英語教育』の中で「国際英語の視点を授業に」という特集が組まれている。1月号、2月号、3月号とこれまでに3本の記事が記載されたが、今後どのくらい続くのかについては知らない。2007年1月号では世界の言語政策に詳しい河原俊昭氏が「「何を」「どう」教えるか」という題で論を展開している。まず河原氏は次にように問いかける。
このような問いかけをする裏には「ネイティヴスピーカーが最高の教師だとは言えない」という思いが隠れている。河原氏は国際英語の視点からネイティヴスピーカーに対する信仰を明らかにしようとしている。
ネイティヴスピーカーが何でも最高というネイティヴ信仰は、一般の人、生徒・学生たち、またその親たちの間では根強い。実は我々英語教師の間でも根強いのではないだろうか。国際英語の理念とは、このような信仰に対して、警鐘を鳴らすものである。 |
もっとはっきりとした形で国際英語の視点を紹介しているのは第二回目の日野信行氏である。日野氏はまず国際英語に対する3つの視点・解釈を次の3つに整理している。
①多様な英語
②中立的な単一の英語
③人工的な英語
日野氏も支持するWorld Englishesの英語とは①の多用な英語を受け入れるという態度である。②の中立的な単一の英語とはいったい何を指すのかよくわからないが、本多勝一氏が「英語をイギリス語と呼ぶ」ことを主張したことを思い出せば中立的な英語という主張が意味不明であることがよくわかる。③の視点は鈴木孝夫氏のEnglicを思い出させる。
それはさておき、このような「多様な英語」の視点に立つとき日野氏は日本人学習者に対する日本人教師の存在を次のように語っている。
英米語の教育ではん、教員は母語話者が理想とされ、日本人教員は二番煎じのような扱いを受けるが、国際英語の教育では、主役は日本人教員である。Japanese Englishの良き例を生徒に示すことができるのは日本人教員であり、わが国の教育風土を熟知しているのも日本人教員なのである。 |
「主役は日本人教員である」と言われれば聞こえはよいがこれは一体何を意味するのだろうか。日野氏は「「国際英語」教育では、非母語話者のみならず、母語話者も学習者である。英語による異文化コミュニケーションを円滑に行うためには、母語話者の側にも教育が欠かせないのである。」と述べているが、母語話者の側にも欠かせない教育とは具体的にはどのようなものをいうのであろうか。
英語のモデルは日本人英語?
最初に紹介した図を見ればわかるように、英語は複数形の時代に入っている。図をしっかり見ればそのなかに「日本人英語」も数えられていることがわかる。国際英語の立場から言えば、日本人英語も立派な英語であり、その他の英語と対等な存在であるということだろうか。日野氏によれば、国際英語の視点では日本人英語は英米の英語を学び損ねた結果ではなく、日本人にとってもっとも好ましい英語であるのだという。
これは決して、母語話者の英語を習得するのが困難だから日本的な英語で妥協するという消極的な姿勢ではない。むしろ、英米語は日本人の国際コミュニケーションの手段としては適さないと考え、「良い日本式英語」のほうが理想であると見なすのである。 |
ただ私が納得がいかないのは、「日本人英語」とはいったい何を指すのかはっきりしないことである。「良い日本人英語」があるならば「悪い日本人英語」もあることを思わせるが、それがいったい何のことであるかは闇の中である。
学校で英語を教わるとき、日本人学習者のモデルは日本人教師であることは言うまでもないが、その日本人教師のモデルは誰なのだろうか。国際英語の視点ではその日本人教師のモデルはその日本人教師自身なんだ、胸を張れ、というわけであるが、その教師が持っている英語が日本人英語であるという保障はどこにあるのだろうか。日本人が使う英語が日本人英語なのだと開き直ればそれまでだが、日本の教師は英語を「教える」主体ではあっても「使う」主体ではない。彼らの英語が日本人英語を代表するものだといえるのだろうか。
なぜアメリカ英語やイギリス英語がモデルであってはならないのか私には今のところ納得のいく説明が得られていない。ネイティブ信仰と言語学習は切り離すべきだが、信仰という極端な議論を持ってネイティブスピーカーたちを無視しても良いのだろうか。アメリカ英語を学び、それを日本人が使う。そこで現れてくる特徴が日本人英語なのだと考えればよいのではないか。「日本人英語を学ぶ」という言い方にはあたかもそこにはっきりとした形で日本人英語が存在するのだという前提があるように思うが、それは幻想ではないか。
なるほど日本人が日常的に英語を使っているのであれば話は別であるが、英語を日常的に使うには日本語を捨てる必要がある。残念ながら日本人には日本語で事が足りる環境が現に存在している。英語は本当に日本人のものなのかどうかよく考えてみる必要がある。
日本人英語は日本人が使う英語に現れる特徴を言い表す表現であっても、学ぶ対象ではないのではないだろうか。
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