シーをルックしていない |
ルー大柴が熱い。「ルー語」と呼ばれる彼独特のしゃべり方を前面に押し出して今、芸能界を騒がせている。例えば、次のような感じ。彼のブログからその様子をのぞいてみよう。
ディスイヤーはシー(海)をルックしていない。しかもスイミングもしていないオーディアー! やはりサマーといえば、チャイルドの時からスイミングインザシー(海水浴)をファストにシンクする。ディスサマーはスイカもかき氷もイートしたし、ジョブ(仕事)で夏祭りもエクスペアレンス(体験)した。ファイアーワークス(花火)もドライブしている時、ファー(遠く)からワンス(1度)ルックする事が出来た。 |
「ディスイヤーはシーをルックしていない」とはなんとも笑える表現である。会話の中に簡単な英単語?を入れるのその話し方が人気を博しているようだ。私などがルー大柴さんのことを聞けばまず思い浮かべるのが「トゥゲザーしようぜ」という名台詞。これは彼がアデランスのCMで放った神の言葉であるという※1。好きな人にとってはたまらないルー語。私も好きだ。そのような人は「ルー語変換」を訪れてみるとよいだろう。自分の好きなページのURLを入力することによってそのページの文章を「ルー語」に変換することができる。ルー語を好きなだけお楽しみいただけるだろう。
例えば、英語教育の目的について学習指導要領では「外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力の基礎を養う。」となっているが、これを「ルー語」に変換してみると次のようになる。
フォーリンカントリー語を通じて,ランゲージや文化に対するアンダースタンディングを深め,ポジティブ的にコミュニケーションを図ろうとするマナーのトレーニングを図り,聞くことやスピークすることなどのプラクティス的コミュニケーションアビリティーのファンデーションを養う。 |
バカリズムの「山田さん⇒Y(ワイ)まださん」という芸も好きですがね。長井秀和さんも「ルー大柴を超える」と言ってニューヨークに語学留学をするみたい※2。
レジーム・チェンジ |
「サダム・フセインの死刑執行にはデュープロセス※3が全然なくて…」「現実的にはデ・ファクトにそれは進んでいる」「北朝鮮に対するブラフがなかなかかけられなくなってきた」「あなたたちがすすめている体制転換というレジーム・チェンジ」「起きるならレジーム・チェンジではなくレジーム・トランスフォーメーションですよ」「別に僕がコンクルードを言うわけではないけれども」…。
これはまたもやルー大柴さんの芸だろうか。いや違う。これはある討論番組で論客たちによって語られた場面の一部である。「またまたルー大柴さん」と思わせるような彼らの会話は公共の電波を通じて行われている。わかったようでわからない。わからないようでなんとなくわかるこれらのカタカタ語はルー大柴さんの芸と相通ずるものがある。それは日本語で言えるところをあえて英単語?で置き換えているという点である。異なる点は、ルー大柴さんの方は「芸」として意識的にやっている一方で彼らの会話は無意識的に出ているという点である。つまり彼らは「デュープロセス」や「デ・ファクト」「レジーム・チェンジ」などが日本語の一部であると思っているということである。「デュープロセス」などは日本語に言い換えにくい言葉かもしれないが、「デュープロセスがなかった」という代わりに「法に基づく適正な手続きがなかった」と言えばわざわざ言い換えることなどしなくとも意味が伝わるしわかりやすい。
以前、塩崎官房長官が会見のたびにカタカナ言葉を連発したということがあった。政権当初から安倍政権の異様ぶり(的をはずしたこだわり?)は発揮されていたと思われるが、その時に批判を受けた表現を並べてみよう※4。
この塩崎氏の発言の前にはまけずと安倍首相もカタカナ交じりの所信表明演説を行っている※5。若さをアピールしようとしたのだろうか。
これらの発言に対しては「欧米か!」というツッコミも可能であるし、「芸人か!」というツッコミも可能である。「レジーム・チェンジ」に始まる彼らの言語感覚はルー大柴さんの芸とどこが違うのだろうか。芸として皆を笑わせることを目的としたルー大柴さんの言語使用と政治を語る言葉としての、あるいは国民に語りかける言葉としての彼らの発言が同列のレベルに居座っても良いのだろうか。バラエティー番組に出て時代劇風の政界ドラマに出演する政治家にも見られるレベルの低下は開かれた政治・国民に近い政治を表すものなのだろうか。ルー大柴は芸人だが政治家は芸人ではないのだ。彼らはルー大柴さんのときと同じようにつっこんでもらえることを期待しているのかどうか。ルー大柴さんの芸はおかしくて笑ってしまうのだが、彼らの「芸」にも笑いを持って迎えるべきなのかどうか。彼らは将来コメディアンにでもなろうとしているのかどうか。私たちは彼らの「芸」を受け入れて、今後はわれわれも彼らと同じような言語使用をすべきなのかどうか。私の答えはいずれに対してもNOである。
好きなときに好きなだけ |
私たちは誰からも言語使用を強制されるものではない。ルー大柴さんが「シーをルックしていない」と言おうと、それを聞いて私たちが微笑を浮かべようとも、政治家が「アジア・ゲートウェイ構想」を打ちたてようとも、いやはや北朝鮮が「レジーム・チェンジ」をしようとも、すべては自由である。言語使用の権利はすべてその使用者にある。私たちは彼らの権利を奪うことはできない。彼らの無作法な言語使用を聞きたくなければ耳をふさげばよい。テレビならばチャンネルを変えればよいし、電話ならば受話器を置けばよい。面と向かっての会話であればその場を去り、相手が政治家であれば投票をしなければよい。使用する側も自由ならばそれを受ける側も基本的には選択の自由がある。
しかし、時にそれは選択的強制をともなうようなこともある。先ほど、「テレビならばチャンネルを変えればよい」と書いたがすべてのチャンネルがそうであればどれかを選択せざるを得ない。新聞ならば、わざわざ購読する新聞を帰ることはできないので辞書を引き引き読むほかない。政治家個人の発言ならば我慢ができるが、政府が国民に語り掛ける言葉がそのようなものであれば意味の取れない国民は無視をされていることになる。
基本的には好きなときに好きなだけカタカナ語を使えばよいのだが、情報の流れが一方的なとき(テレビや新聞など)には一般的日本人にとってできる限りわかりやすいものにしていただきたい。何がわかりやすい表現なのかについての簡単な指標は子どもたちに話しかけてみることである。それは特にカタカナ語について言えることである。英語教育を受けていない純粋な子どもたちがわかるカタカナ語であればそれは一般的に日本で受け入れられている語であるといえる。学校の教員が突如として「私たちと君たちの関係はウイン・ウインの関係だからね」など言ったとき、その意味がわかる子供が何人いるのか。これが表すのは少なくともウィン・ウィンは日本語の中のカタカナ語としては定着していないということである。
▼記事紹介
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※1 ウィキペディアを参照
※2 「長井秀和がNY語学留学」を参照。本当の理由は英語圏で活躍できるお笑い芸人になるためだというものらしい。なかやまきんに君に触発されたか。
※3 デュープロセスについてはこちらを参照すると理解できる。
※4 こちらを参照。
※5 こちらを参照。
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