峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

NHKスペシャル「亡き人との“再会”」から見えてくるもの...

2016-09-18 23:35:31 | 哲学・思想

はじめに、こちらを...

記事も、コメントも二年前のものですが。 

被災地で続出する「亡くなったはずの家族との“再会”」

PRESIDENT 2014年9月29日号 村上庄吾=撮影

これはとても難しい問題です...

ここでこの番組のディレクターは、考え抜いた上で「ありのまに見せる」という選択をした、と語っています。この判断は、この番組が、自局(NHK)においては、それ以前にこのような問題を取り扱ったことのない、いわば未知の領域に踏み出すものであったという点を考えれば、とりあえずは、理解できるものです。
しかし、オカルトではないのか、というような批判が少なかった、という点で安堵しているとすれば、それは本当の問題を先送りしているだけのことになるかもしれません。

 

このディレクター自身も気が付いているように、この場組では、こうした現象を通じてこころの安心を得ることのできた人々が選ばれているのですが、それとは反対に、同様な現象によって、いまもなを苦しみ続けている人もいるのですから...
自分たちにとって理解できない出来事を、わからないことなのだから、とりあえずナマのままに近い状態で、判断を極力交えることなく提示する...というスタンスは、それがもたらす結果によっては、無責任な行動として判断されねばならない場合も起こりうる...

このドキュメンタリーは、ネット上で観ることができましたので、私も観ましたが、当然ながら「ありのまま」ではないですし(そのようなことは、いうまでもなく原理上不可能です!)、安易だと感じられるような演出がそこかしこに散見されるものでした...(個人的な感想を言わせて貰えば、蝶々や花のイメージを挿入する遣り方はとても陳腐で、映像的にも、演出としてみても、センスが悪い...もう少し上手なやり方があるだろうと思われるものでした...それは、もう少し言えば、語っている人の心の苦しみに対して、安易すぎるのではないか...違和感として、後味の悪いものでした。もっとも、中立性を際立たせるために、敢えてそういうクリップにしたのかもしれませんが...)

さて、ここで問題となるのは、この番組においては、採り上げられたような「死者たちと出会う」という現象を通じて、自分たちの経験し、背負わざるを得なくなってしまった過酷な現実に対して、肯定的な関係を結ぶことができた人たちの事例だけが描かれているということです。だからこそ、このドキュメンタリーを観るものは、そのように、この現象をバネに立ち上がろうとする人々の心に向かって、水を差すようなことは決して言えないのです。
要するに、この番組の手法、スタンスに対して批判がないのではなく、番組に登場する人々の精神的な苦悩と、克服への努力に尊敬と敬意を向けるからこそ、番組へのさまざまな疑問や見解をさし控えているのです。
この部分に関して、このディレクターは、十分な考慮を向けていないように思われます。
「死者たちと出会う」という経験が、肯定的なものばかりをもたらすなどということは、あり得ないではないですか。もちろん、そうした形で苦しんでいる人たちは、絶対にこうした番組などには登場しません。だからこそ、そういう否定面を番組の企画にどう反映させるのか...敢えて放送しない、という判断も含めて、きちんと考えていかなくてはならないのです。そこのところを、このディレクターは、あるいは番組のプロデューサーは、とことん考え抜いているか...

どのようなことでもいいから、知らせるべきことは知らせた方が良い...
その場合、判断できないことに関しては、中立的な立場で伝えて、視聴者に判断を促せばよいのだ...
こうした立場は、それなりに説得力のあるものですし、「報道の自由」あるいは「知る権利」の問題と絡めてみても、スタンスとして、わからなくもないのですが、「知らせること」は、情報という破壊力を持ったものを発信することですし、そうした情報が何らかの反応を社会的に引き起こす場合、伝えることは少なくとも正義なのだ、ただ、その結果おこることは予想できないし、知りません...というわけにはいかないのです...

一頃、オカルトブームやスピリチュアルブームの負の側面が問題になり、こうした精神的な問題を取り扱うことを、メディアが過剰に恐れた時期がありました。この番組が、そうした過去の経緯と教訓を活かして、「喉元過ぎれば...」ではなく、ちゃんと考え抜いた上で企画され、演出されたのか...そういう観点で見る時、果たして、納得できるであろうか...

さて、この番組で描かれているような現象については、さまざまな方面から研究が進んでいます。
心理学、脳科学、社会学、宗教学、哲学...
さまざまなアプローチから、さまざまな形での「解明」が試みられているのですが、大切なことは、そうしたさまざまな解釈の「どれが正しいのか」ということは、本質的な問題ではない、ということです。
大事なことは、現にそこに起きていること...
その、起きていることを、さまざまな方向から探究する時には、必ず探究の「スタンス」が生まれ、そのスタンスが精度を高め、対象に肉薄するための洗練を重ねることによって、学問的な「分野」が生まれ、枝分かれしていくのです。
しかし、そうした「分野」の枝分かれは、私たちが対象に向かう時に、私たちの方でこしらえていくものでしかない...要するに、学問的な「分野」というのは、私たちの側でこしらえたきわめて人為的な区分け、私たちの側の都合で生じた区別でしかないのです。
それに対して、現実に起きていることは、一つ...
このドキュメンタリーでも描かれているような出来事...苦しんでいる人がそこにいて、その人にとっては、常識的な日常が一方にあり、同時に、普通に考えれば、あり得ないように思われるような出来事が起きるある種の非日常的な経験がある。そしてその両者が、同じだけの臨場感を持った日常として互いに浸透している...
どのようなスタンスから問題の核心に肉薄するとしても、最後は、再びこの出来事の全体にかえってこなくてはならない...
つまり、こうした問題を考えることは、とても難しい、ということなのです。専門知識や、学問的な研究によって解決できるようなものでもないのです。最後は、一人の人間として、その人間の知識と、精神と、生き様を含めたその人の人生が試される...それは、思想と信念の問題なのです。
それは何も、この問題に限ることではありません。
最終的には予想できないこと、結論が出せないことに直面した時、人は必ず、そのように、知識と、精神力と、体力気力を総動員して、思想と信念の上において、人生を掛けて決断し、生きていかねばならないのです。