「宗教哲学」再考
西谷啓治:『宗教とは何か』
「宗教哲学」について考えてみたい。
「宗教」と言うと、「危ないもの」...そのようなイメージを持つ人も多いはずである。
最近も話題になった「オウム真理教」など、宗教が社会的に大きな話題になる機会というのは、大体においていわゆる「カルト教団」の犯罪がらみの事件がほとんどであるから、それはそれで無理もないところがある。
だから、「宗教」すなわち、いわゆる「カルト宗教」という括りになりがちである。
あるいは、もう一方で「伝統教団」について言えば、こちらも社会的に関心を集めるのは、高額のお布施、葬式不要論など、金銭にまつわるいかがわしい話題が多い。
だから「伝統宗教」も、どちらかと言えばいかがわしいもの、というイメージになりがちである。
しかし、例えば明治の文豪 夏目漱石は、小説『行人』の中で、主人公にこんなことを言わせている。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない...」
漱石がここで主人公に語らせている言葉は、宗教のもつ危険さ、危うさを、一層深いところから炙り出している。
「カルト宗教」のようなものでなくとも、宗教そのものが、「死ぬ」(ここでは「自殺」が暗示されている)あるいは「発狂する」といったギリギリのところで問題とされるのだ、というのである。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか」...この言葉が、「一層深いところから...」と書いたのは、「宗教」というものが本来、めいめいの「信念」、根本的なところでの生き方そのものにかかわる「信念」「信仰」に関わるものであるからに他ならない。
つまり、「宗教」が時としておそろしく「危険」なものになり得るというのは、危険で狂気に満ちた「カルト教団」が宗教の世界に存在するから...というのではなく、宗教の問題が、「自死」や「狂気」の危険に曝されるような問題であるから...そのように考えるべきではないか...
自分の生き方を左右するような「信念」「信仰」...こうしたものが根本的に問題となるような事態は、その人にとって文字通り「死ぬか、気が違うか...」という極限の問題となり得る。
だから、「宗教」という危険なものが存在する...というのではなく、人間の心の底の底、人格を根底から揺さぶりかねないような信念や信仰の次元で苦悩し、精神的な危機にさらされるとき、初めて宗教の問題が立ち現れる...
つまり、「危険」なのは宗教の方ではなく、人間の心...精神的な苦悩の深み...
そして、そうした危険な心の深層の問題に踏み込むことができるのは、宗教だけ...だから、宗教は時として信じられないような狂気を露わにすることがある...
ひょっとすると、カルト教団の狂気は、教団が信者の心を食い物にし、利用した、などと言うのではなく、むしろ反対に、教団そのものが、人間の心の奥底にある狂気の闇に蝕まれ、呑み込まれてしまった結果なのではないのか?
いまは、この問題に立ち入ることはここまでにしておこう。取り敢えず、こうした考え方も可能である、少なくとも吟味し、検討に値する仮説である、ということだけを確認しておこう。
さて、そのように考えるならば、私たちは一体、「宗教」に対してどのように向き合っていくべきか...?
ここで、「宗教哲学」の問題が改めて問われることになる。
心の奥底、時として狂気をはらむ闇の深層...こうしたものに向き合い、しかも呑み込まれないためには、自分の信念や信仰が根本のところで揺さぶられる危機の最中にあっても、それを耐え抜き、乗り切っていくだけの精神的な強靱さが必要となる。
そして、この勁さ、この強靱さをわがものにするための武器として、哲学が考えられる。「宗教-哲学」は、宗教という闇く非合理的な世界に向って、哲学のもつ思惟の明瞭さ、論理の明晰さによって挑む試みであり得る。
次回から、哲学者の西田幾多郎に始まる京都学派の思想家、西谷啓治の著書:『宗教とは何か』を採りあげる。この著作は、いま述べてきたような問題連関に対して、かなりの見通しを与えてくれる。
この著作、『宗教とは何か』という標題から、「宗教入門」「宗教哲学入門」といった入門書的な性格のものを想像されるかもしれないが、実際にはそうではなく、「宗教とは何か」という問いが、私たちが生きていく上で、最後にして最大の問いとなる...そんな問題意識が響いてくるような標題なのである。