古代日本は母系社会でした。
母系社会の子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続します。
男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通ったのです。
家に父親はいないので一家の主人は女性でした。
古代は女性が戸主で主導権をにぎっていました。
鹿児島から台湾の間の島々を琉球弧といいます。
その島々の祭祀の主体は女性で守護する神は母神です。
日本列島は鎌倉時代頃より女人禁制が出てきましたが沖縄では現在もウタキ(御嶽)への男性禁制が残されています。
古代の信仰を残していた琉球では、神に仕えるのは女性とされていたので、祭祀をおこなう聖地の御嶽(うたき)への男性の立ち入りは禁止されていました。
例外とされた男性の琉球国王でさえ、聖域内に入る際には女性用の衣装に着替えたと伝えられています。
これと似たような説話が日本書紀の神代記に出てきます。
「お前を斎主として、女性らしく厳姫(いつ姫)と名付けよう」と神武天皇が男性の道臣(みちのおみのみこと)に語る場面があります。
古来から呪術能力があるのは子を宿す女性という信仰が強かったので、祭祀を行う男性に女性の名前をつけたのです。
家の守護神である台所(かまど)のヒヌカン(火の神)を祀るのは女性の役割です。
女性と火は深い関係にあります。
炉の形は女陰であり、 古代日本の女性の女陰の呼び方はホト、ヒと呼びました。
女陰から命が生み出されます。
女性は生と死を司る霊力を持っていたのです。
カマドは神聖な場所でした。
火(ホト、ヒ)をおこして、火を絶やさずにすることは女性の大切な仕事で呪術的宗教行為でもありました。
天皇候補を意味する言葉の日嗣の御子(ひつぎのみこ)は火を継いでいく巫女、すなわち「火継ぎの巫女 (ひつぎのみこ)」でもあります。
終戦までの久高島は、海岸から持ってきた自然石3つを並べたかまどで、煮炊きをしていました。このかまどが家の中心で、自然石3つが家の守護神ヒヌカン(火の神)でした。
沖縄の歴史は旧石器、貝塚、11世紀以降のグスク時代に区分されています。
グスク時代になると鉄器による農業が盛んになり集落が増えました。
グスク時代の琉球は小国に分かれて争っていましたが14世紀には中山・山南・山北の三国が成立していました。それぞれの国には国を守護する女性シャーマンがいました。
日本列島では縄文から弥生にかけて母系集団を父系集団が支配的になると母系の社会体制を取り込んだヒメヒコ制が出てきました。
女性(ヒメ)が宗教的な権威をもち男性(ヒコ)が政治をおこなったのです。
母系の時代は夫婦が女男(めおと)、父母は『母父(おもちち)、男女は『妹兄(いもせ)』と呼ぶように女性の順位が先でした。
琉球ではオナリ神と呼ばれる姉妹が兄弟を霊的に守護するという信仰がありました。
神や精霊や祖霊と交流する職能者をシャーマンと呼びますが、琉球ではユタと呼ばれています。
琉球の島々を創成したのはアマミキヨとういう女神で、その女神がニライカナイ(神の世界)から五穀を詰めて流した瓢箪が久高島のイシキ浜に流れ着き、これを栽培して子孫が繁栄したと伝えられています。
久高島で一番古い家は大里家と言われています。
始祖家にはこのような話が伝わっています。
琉球国の第一尚氏7代目尚徳王は久高島の大里家の娘クゥンチャサンヌルと恋に落ちてしまいました。
政治を忘れて久高島で滞在しているうちに城内で革命が起きてしまい、帰りの船の中で王位を退けらてしまったことを聞いた王は望して海に身を投げて死んでしまいました。それを聞いたクゥンチャサンヌルは家の前のガジュマルの木で首をつって後を追ったと伝わっています。
クゥンチャサンヌルは美しいシャーマンだったようです。
三代目尚真王の時代に八重山のオヤケアカハチが反乱を起こしました。
その戦勝に導いたのが久米島の君南風(ちんべー)という神女だったと伝えられています。
それぞれの国には、国を守護する女性シャーマンがいて、呪詛合戦が繰り広げられていたのです。
目に見えないアストラル界の出来事を感知できても、それより上位の自我を超えた世界を自覚できなければ、自己中心的な自我の次元に引き戻されてしまいます。
神とつながっている霊能者といっても、自己中心的な自我をもっているので注意が必要です。見破れない人は「君子危うきに近寄らず」です。
女性シャーマンは力を持っていたと信じられていたので琉球国王の第二尚氏王統の第2国王の尚宣威王(しょうせんいおう)は女性シャーマンのキミテズリの神託によって退位させられています。
15世紀の頃から中央集権が進んで三山(中山・北山・南山)の小国家が統一されて琉球王国が成立しました。
琉球国の第二尚氏王統の三代目尚真王の時代に各地の神女をまとめて組織化されました。
政治は尚真王が行い祭礼は王の妹の月清が聞得大君(きこえのおおきみ、チフィジン)として組織の長(おさ)になり、その下に大阿母志良礼(おおあむしられ)が、その下に大阿母(おおあむ)」と呼ばれる高級神女が配置されました。その下に各地の神女(ノロ)がいました。
古代日本のシャーマニズムは巫女によっておこなわれていました。
しかし、地方のそれぞれの神々が勝手に託宣していては統制がとれなくなります。
そこで天皇を頂点とする国家体制がしかれると、中央に神の託宣を審議する男性の役職がおかれるようになりました。神の序列がなされ、女性の地位は低下して巫女は正式の官職ではなくなり、宮廷神祇官の男性神職の下にされて儀式から遠ざけられるようになりました。
琉球は、トップの聞得大君(きこえのおおきみ、チフィジン)から末端まで女性神職者による世界に類のない女性による祭祀制度を維持してきました。
日本列島にも、卑弥呼のように女性が女王だった時代がありましたが、徐々に女性原理から男性原理優位に移り変わっていきました。
琉球の島々は男性原理の影響が少なかったので、太古の女性原理の社会構造を維持してきたのです。