コロナ禍の “いま”
仏典を読む時節だとおもいませんか!
世尊、お釈迦さま。
佛陀の意訳は、「覚者」です。
コロナ禍の “いま”。
テレビ等を通して流れてくる情報量・数字・内容に迷わされることはありませんか!
なかなか、各各がストンと領解・体解が難しい時代のように思います。
我々凡夫が、覚者になることは難しいですよね。
只、大量な情報・数字から自分にとって安心できるものを選択はできます。
また、情報・数字を忘れて、日々を健やかに過ごすことはできます。
覚者に近づくプロセスとして、忘れる力・選択力を大事することが要のように思います。
先日、東伊豆町稲取の生家で過ごす数日でありました。
物理的にテレビがありませんので、
コロナをわすれて、ゆったりとした日々でありましたねー。(笑)
仏典を読みますと、「不思議」の語が目に飛び込みます。
手近にある広辞苑を開きますと、
①よく考えても原因・理由がわからないまま、また、解釈がつかないこと。
いぶかしいこと。あやしいこと。奇怪。
②あやしく思う。不審の念をもつ。
とあります。
仏典に出ている「不思議」は、①でも②でもないように思います。
ボクの領解は、「不思議」とは「分別を忘れる」こと。
所謂、専門家といわれる方々の言説や、
日々大量に届けられる数字から離れてみる、
忘れてみてはどうでしょうかねー!
コロナの時代。
『仏説無量寿経』から、力になる語句を拾っています。
汝自當知(ニョジトウチ) 汝自ら当に知れ
身心柔軟(シンジンニュウナン)
和顔愛語(ワゲンアイゴ)
勇猛精進(ユウモウショウジン)
身意柔軟(シンニニュウナン)
自然相和(ジネンソウワ)
各各安立(カクカクアンリュウ)
勇躍歓喜(ユヤクカンギ)
独来独去 無一随者(ドクライドツコ ミイチズイシャ)
身自當之 無誰代者(シンジトウシ ムスイタイシャ) 身自らこれを当(ウ)く。誰も代わる者なし。
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