里村専精師の「浄土真宗にようこそ」No61をお届けします。
キリスト教には立派な教義として、大きな神学があります。
その神学は、しかしながら厳しい批判くぐったものなのでしょうか。
中世から近代にかけて、神学は変貌せざるを得ませんでしたが…、
宗教としての本質的な批判を受けたことはなかったのではないでしょうか。
キリスト教を変貌させたさまざまな要素は、
実はキリスト教と同じ立場の理性主義でした。
ですから、変貌しながらもキリスト教は本質的な批判を受けていなかったのではないでしょうか。
本来のヘブライズムのキリスト教は、パウロのローマ的な精神で大きく変貌しました。
が、底辺には人間に特有な相通ずる理性主義がありました。
つまりキリスト教は変貌はしても、その根源の精神は成熟してはいなかったのではないでしょうか。
そして神学が構築されて行きますが、古代から中世への成長過程の間にも理性主義が主流でした。
それは称賛されるべき事ではありますが、何かが根源的に宗教の本質を失わせていす。
理性主義では、本来の宗教は尽くせないものなのですから。
神学の中心は、不思議にもというか理性主義の当然の結果なのでしょうか…、
実はギリシャ哲学が基本になっていたのでした。
それもプラトンの哲学が主流だったのです。
現代に来たって、世界はキリスト教がリードしていますが、人類の本質は実に厳しく追いつめられています。
世界の人類が、理性主義で行き詰まっているのではないでしょうか。
こういう理性主義を、人間の独断だと批判する精神が、キリスト教にはないのでしょうか。
宗教が出現して、それが宗教として機能するかぎり、実は理性主義は乗り越えられるべきなのです。
翻って、仏教全体も大きな批判を受けるべきです。
龍樹・天親で築かれた大乗阿毘達磨は、実は途方もなく宗教的でした。
それは理性主義を徹底的に批判して、存在論的に人間を見つめていました。
理性でとらえただけの人間よりは、もっと根源的に一人ひとりはその尊厳を保持している…。
そういう超理性の宗教として、仏教は5世紀までにその学問は成熟していました。
無明を破るという、ブッダ以来の大切な課題をインド大乗は成し遂げていたのです。
この流れを、改めて見直してほしいものです。
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