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欽明天皇は遺言で【任那復興】を敏達天皇に託し、敏達天皇は復興できずに次へと託す。(2)佐魯麻都(さろまつ)

2023-01-10 | 古代からのつながり

wikipediaより関係部分をpick up

『日本書紀』における任那

 継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。

宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。

欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。

地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求し、それに従って新羅調(貢物)を納めていた事実が書かれている。

なお、『日本書紀』継体紀23年(529年)条、継体紀24年(530年)条には「任那王己能末多干岐」という人物が登場するが、「己」は「巳」の誤記であり、己能末多干岐は任那王ではなく、加羅王異脳王であるとする説が存在する[40]

任那の滅亡

西暦562年任那日本府新羅によって滅ばされた。

 

*****

その頃の傍証となり得る人物

佐魯麻都(さろまつ) コトバンクより

?-? 6世紀の官吏
朝鮮の安羅(あら)におかれたいわゆる任那(みまな)日本府の執事。父は日本人,母は安羅の人という。欽明(きんめい)天皇2年(541)新羅(しらぎ)と通じ,百済(くだら)の招集に応じなかったのをはじめ,阿賢移那斯(あけ-えなし)らと共謀,百済主導の任那再興を妨害したため,百済の聖明(せいめい)王より責められた。

 

生没年不詳
6世紀中ごろの倭系の安羅(伽耶の一国,韓国慶尚南道咸安)の人。いわゆる任那日本府」の執事加不至費直(河内直),阿賢移那斯らと共に佐魯那奇他(那奇他甲背)を祖先とし,倭人を父,安羅の女性を母に持つ「韓腹」すなわち韓人との二世。卿(大臣),臣,執事で構成された倭の使臣団「任那日本府」で,実務担当である執事として力を持ち,阿賢移那斯らと共に主導的役割を果たした。欽明天皇2(541)年,加不至費直らと新羅と通じて百済王(聖明王)の招集に応じなかったため,百済王から叱責された。同4年,百済王は彼らの召喚を欽明天皇に求め,翌年には佐魯麻都らが任那復興を妨げていると報告している。新羅の官位である奈麻の衣冠を身につけた親新羅,反百済の中心人物として,東進する百済から安羅を守るために新羅との連携を推進した。<参考文献>田中俊明『大伽耶連盟の興亡と「任那」』

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%AD%AF%E9%BA%BB%E9%83%BD

 

その他にも百済王腆支王(直支王)の妻が倭人で八須夫人】であったという。息は久尓辛王(くにしんおう、生年不詳 - 429年[1])で、第19代となる。

 

428年直支王妹の新斉都媛と7人の女性を遣わす[10]

 

そこに蘇我氏の先祖と思われる人物が登場する。

414年、(応神天皇25年〔294年→414年〕)、先王(直支王)の薨去に伴い即位したが、王が若かったので木羅斤資(もくらこんし)の子木満致(もくまんち)が国政を行ったとある[8]。(『日本書紀』)

 

論文紀要

『日本書紀』朝鮮関係記事と百済三書 田中俊明氏 著

にも「百済記」に記載の【木満致】のことが書かれている。

 

*****

応神天皇の時代が出てきたので、ココで薬師寺にある像を二つご紹介しておこうと思う。

一つは神功皇后像

 

 

もう一つが応神天皇の皇后となる仲姫命

 

応神天皇2年2月3日、応神天皇の皇后に立后された。

https://yakushiji.or.jp/guide/garan_yasugaoka.html

(残念ながら、800年代の像であった。)

 

http://inoues.net/tenno/oujin.html

応神天皇の古墳はかなり大きそうである。

 

 

韓国の勉強になった。↓ (『いちご畑よ永遠に』さんのページ)

https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12564737418.html

【栗垈里】という地名が出てくる。(ゆるでり、と云うようである。)

http://blog.lookandwalk.com/ja/blog/greenwood/4502

 

論文memo

朝鮮半島南部に倭人が造った前方後円墳 : 古代九州との国際交流 朴 天秀 著

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/48027/mrh_029_053A.pdf

渡来系文物からみた伽耶と倭における政治的変動 朴 天秀 著

 

https://core.ac.uk/download/pdf/147852258.pdf

「日本人」を考える 古代日韓交渉史から 佐古和枝 著

 

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/632/632PDF/choi.pdf

韓半島の栄山江流域における古墳展開と前方後円形古墳の出現過程   著

 


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