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欽明天皇は遺言で【任那復興】を敏達天皇に託し、敏達天皇は復興できずに次へと託す。(3)欽明天皇

2023-01-11 | 古代からのつながり

欽明天皇と任那 wikipedia「任那」より  

欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。

 

この欽明天皇時代以前から任那周辺とはつながりがあり、行き来していたと思われるが、欽明天皇時代に問題が起こり、任那(加羅他)の存続、百済の存続が、危うくなってきているようだ。

そこで、百済の聖名王によると佐魯麻都が百済の内情を新羅に伝えるスパイだ。…ということなのだ。

佐魯麻都にも言い分はあり、東進する百済から安羅を守るために新羅との連携をするために取った行動ということである。

 

さて、欽明天皇は在位539‐571年とあり、すでに一度任那は滅亡しているようで、その後百済と手を結び任那再興に着手しようとしていたのかもしれない。その辺りを調べてみようと思う。

 

ジャパンナレッジを読むと、

「五六二年、「任那十国」が新羅に滅ぼされるが、これは大加羅の滅亡をさしている。」とある。

(562年は欽明天皇在位中)

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1934

また、下記のような記述もある。

朝鮮古代の国名。〈にんな〉ともいう。532年に滅亡した金海加羅国の別名であるが,562年までつづいた加羅諸国を指すこともある。(これは欽明天皇の在位以前で、宣化天皇在位中となる。)

 

任那は《日本書紀》など日本の史料と〈広開土王碑〉や《三国史記》など朝鮮の史料とでは,使用頻度,読み方,領域などに,相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,これをミマナとよみ,洛東江流域の加羅諸国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。朝鮮の古代史料には任那の名称は,わずか3例しかみられない。これをニムナとよみ,金海加羅国のみをさしている。ミマナのよみは,ニムナの転訛したものである。ニムナのよみは金海加羅国の始祖王后の許黄玉が来臨した聖地主浦の古訓に由来している。日本で広義に任那を使用したことは,韓(から)や唐(から)の場合と同様に,もっとも関係の深かった任那の国名を,加羅諸国などに拡大使用したためである。
→加羅 →金海加羅
[井上 秀雄]

 

欽明天皇はこの大加羅という小さな国の集団を守ろうとしていたのかもしれない。

金海加羅国とは金官加羅国と読み替えて良いようである。

 

コトバンクも読んでみよう。

「4~6世紀頃,朝鮮半島南部に日本 (倭) が領有していた属領的諸国総称。日本が楽浪・帯方郡時代 (前 108~後 313) に朝鮮半島と交渉があったことは文献的に確認されている。4世紀に入ると,半島は高句麗が南下して楽浪郡を陥れ,同じ頃韓・濊 (わい) 諸族によって帯方郡が滅び,同世紀中頃には半島の西部百済東部新羅が建国した。『日本書紀』によれば,このような半島の情勢に対して,日本は半島に有利な立場を築くため,370年前後に大軍を送って半島南部の諸小国群をその支配に繰入れ,いわゆる「任那」を成立させた。なお「任那日本府」という『日本書紀』の表現は後世の総督府的存在と解釈すべきではない。5世紀以後,大和政権動揺と百済,新羅の進出によって任那は分割され,やがて欽明 23 (562) 年に滅亡した。  

 

532年に滅亡した金海加羅国(金官加羅国)は、信(宝姫・文姫の兄)が其の王家の血筋と言われている。
信(キム・ユシン)が生まれたのが595年なので、すでに新羅に組み込まれた後に生まれたことになる。

 

532年のあたりの新羅の王はどなただったのか。

法興王という人物で、この時代に新羅に仏教が公認されたとある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%88%88%E7%8E%8B

 

532年には金官国を滅ぼした。投降してきた金官国王金仇亥の一族は王都に移住させたが、本国を食邑として安堵したとともに、こののち準王族的に優遇したという。なお、金仇亥の末子の金武力は新羅に仕えて角干(1等官)の位にまで上ったと記されているように、服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り入れていくことは、新羅の対外伸張政策の特徴であった。ちなみに、金武力の孫に、三国統一の大功を挙げる金庾信(『三国史記』金庾信列伝によると、金庾信は中国黄帝の子・少昊の子孫である[3])が現れることとなる。 」

 

なるほど!

服属させた王を貴族階級に取り入れていく‥‥このシステムが日本にも入ってきていたのではないだろうか?

それが「渡来人・帰化人」という名になって、日本の皇族・貴族の中に入ってきたとも考えられるのではないだろうか。

 

さて、上記に「370年前後に大軍を送って半島南部の諸小国群をその支配に繰入れ,いわゆる「任那」を成立させた。」とあったが、

その時代は仁徳天皇の時代であった。

 

memo ↓

https://web.archive.org/web/20211127011246/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-04j.pdf

 

 

 

 


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