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度会康高の娘(和田義盛の妻)

2018-11-18 | 雑記

吾妻鑑より
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma21-07.htm

建暦三年(1213)七月小二十日己未。故和田左衛門尉義盛の妻〔横山権守時広の妹〕を無罪にしました。この人は、伊勢神宮外宮の豊受大神宮の禰宜度会康高の娘です。夫の謀反に連座して、所領を取り上げられたうえ、囚人として預けられました。
しかしながら、その領地と云う所は、伊勢神宮一人が持っている荘園の御厨〔遠江国兼田(静岡県磐田市)〕なんだと、禰宜達が注文を付けて来たので、直ちにその荘園を伊勢神宮に返されて、そればかりか生活費(喝命所)として地頭の職を与えられました。これは、伊勢神宮への神を敬う心が他の寺社とは比べ物にならないからです。

遠江国 兼田 磐田市は鎌田の事であろうといわれており、鎌田では情報が出てきた。

 建久3神領注文=鎌田御厨、内=給主外宮権神主為康等=子細見于嘉承注文、永久宣旨・又云=鎌田御厨内良角神領=二宮=給主禰宜貞雅神主等=鎌田御厨四至之内奉免宣旨重畳、治承2永可停止国妨宣下・神鳳鈔=100町、上分21疋・カ4569=外宮禰宜度会康高女子が和田義盛の妻であるため建保1御厨没収、訴論あり・『出典』追加:日枝神社大般若経奥書・鏑矢伊勢方記

 



◆ かぶらやいせみやがたき【鏑矢伊勢宮方記】
伊勢の外宮神主家檜垣(ひがき)兵庫家に蔵されてきた古文書を類別集録した書。2巻。書名はその檜垣家の家紋が鏑矢であることより付けられたものであるが,もとの名は《檜垣兵庫家証文旧記案集》,また別名《檜垣文書》《一櫟(いちき)文書》という。外宮禰宜(ねぎ)度会(わたらい)常副・度会常基の編。1663年(寛文3)世が安定し,神宮もようやく復興したそのころに,常副・常基が鎌倉時代より戦国末期にいたる古文書を集録したもので,武家の神領寄進また武運祈願関係のものが,その大半を占める。


◆ 勘仲記
かんちゅうき
『兼仲卿記(かねなかきょうき)』ともいう。中納言(ちゅうなごん)勘解由小路(かでのこうじ)(藤原)兼仲(1244―1308)の日記。日記名は、家名と記主名から1字ずつとって後人が名づけたもの。日記の範囲は1268年(文永5)から1300年(正安2)までで、中間に散逸した部分も多い。兼仲は、朝廷の文書を取り扱う弁官(べんかん)や蔵人(くろうど)などを歴任しているため、当時の事件に関する記事を載せている。蒙古(もうこ)襲来、鎌倉将軍の廃立、大覚寺(だいかくじ)・持明院(じみょういん)両統の対立などに関する記事は有名である。自筆本が東洋文庫に現存する。『史料大成』所収。なお自筆本には紙背文書があり、『鎌倉遺文』に収められている。父の経光(つねみつ)にも『民経記(みんけいき)』(別名『経光卿記』)がある。[益田 宗]

もう一つ、遠江に鎌田御御厨と関係がありそうな「中島郷」があった。

こちらは荒木田氏(伊勢神宮 内宮禰宜)がわかれて中島氏も称していたことと関係があるのかもしれない。


 角川地名=「中島御園」記載なし→「中嶋郷」=『猪隈関白記』正治2,8,4ほか「鎌田御厨内字中嶋新開田非理事」などあり
【備考】  カ29033=中島新開園・中島御園は鎌田御厨内部の御園である・→1108002「鎌田御厨」参照

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この和田氏の妻であった渡会康高の娘の他にも、和田朝盛・朝比奈義秀も生き延びたようである。

巴御前と和田義盛の息も逃げ延びているといいのだが…

和田合戦では、和田氏と小野横山氏が壊滅的な打撃を受けた。

鎌倉時代に親鸞・道元・日蓮がうまれたのも、このような人間不信に陥りそうな環境があったからだと思う。

上総氏も、比企氏もそうだが、和田氏も、良い家臣であったのではないかと思うのだが…





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1 コメント

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Unknown (木方)
2021-04-04 12:10:39
静岡磐田市、サッカーのイメージもありますね。
興味出てきます。
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