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乾庄司 新介  伊吹に住む(3)乾駒之丞雅勝と永原越前守重行

2023-11-17 | 乾氏
『雅勝』という名前と『重行』という名前には隔たりがあるため、この間に養子縁組か賜字か何かがあったと思われる。

さらに、永原城主の乾主膳正秀之と『雅勝』も遠い。



系図を見ると、同じ年代の永原氏(別系)の正光も「まさ」、乾雅勝も「まさ」である。

さらに、次の年代の別系の永原氏重・吉重と本家の永原重行以降「しげ」が通字となっている。




もっと俯瞰的に見ると、佐々木流山崎氏の系から出た永原氏の名前とリンクしていることに気が付く。

上のアドレスの中の系図(54)に 山崎氏から分かれた永原に頼行という名が現れる。
宗行・雅行ときて雅勝となる秀郷流の永原氏と佐々木流山崎氏の間で何かあったと考えられないだろうか?

(56)の年代を見てみると、六角高頼の弟が、山﨑氏流永原氏と秀郷流永原氏の両方に弟を養子に出している。
永原高賢と永原重賢である。

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近江國野洲郡永原村に入った山崎氏が(49)の代で 『初代の永原右馬助景長』となり、(54)の代で、同化したのではないだろうか?

さらに、その間に永原新左衛門入道正光の系が挟まる形で入り込んでいる。

秀郷流の永原氏は足利将軍家を支える系、佐々木流山崎氏の永原氏は永原城主の系、永原新左衛門の系はやがて佐々木六角家を支える系になっていく、、、のように見える。

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上記より、気になる部分をピックアップと少し改変。


永原重隆 (~1550)太郎左衛門・越前守。六角家家臣。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。
九里源兵衛もその調停の場にいた。

永原重澄 (~1561)安芸守。六角家家臣。六角義賢に従い、畠山高政の後詰として、1万兵を率いて出陣。


(水茎岡山城) 
九里信隆 (~1514)くのり・備前守。将軍・足利義澄を岡山城に保護
足利義稙の追討令で管領・細川高国、京極高清、六角氏綱に攻囲されるも、伊庭貞隆が救援。将軍・義晴は岡山城で誕生した。水茎岡山城主。

九里浄椿 (~1514?)くのり。信隆の息ではないかもしれない。 
伊庭貞隆、貞説親子と結んで反乱。高頼に暗殺される。水茎岡山城主。

九里宗恩 (~1525)くのり・伊賀入道?・宗忍?(宗恩と宗忍は別人)
後藤氏の被官・杉山藤三郎に討たれる。与力に西川又次郎


1525年軍代・六角定頼(~1552)の軍事編成
1525(大永5)年、対浅井亮政戦 守=佐々木一門、殿=朽木氏。
守護代家。1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。

先陣 佐々木五郎<朽木殿>
右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)
目賀田・池田・後藤・三雲・上城
左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原

後詰 田中<朽木殿>・横山<朽木殿>・山崎<朽木殿>・馬淵
堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)

六角義賢(1552~1561隠居)の軍事編成
1560年「野良田の合戦」浅井長政の独立、肥田城・高野瀬秀隆の離反。
『江濃記』・『浅井三代記』
六角軍2万2千兵。
先陣=蒲生右兵衛大夫定秀・(結解十郎兵衛)・永原太郎左衛門重興・進藤山城守賢盛・池田次郎左衛門景雄

第二陣=楢崎壱岐守・田中治部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
本陣=六角義賢・後藤賢豊・(平井・和田和泉守)

永田景弘 (~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。
舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか(スパイ容疑で信長に嫌われ浅井氏配下に行ったか?)
永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。

・・・・



はて、乾主膳正秀之(=乾甲斐守秀之)は、一番上の系図には見えてこない。

しかも、この人物の系こそが、九里のいた水茎岡山城城主と長命寺縁起に載っているのである。







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