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養和二年 賢清 

2024-06-25 | 九里バラバラ情報
養和二年後七日御修法記(賢清)養和二年(1182年)

群書解題 第18巻 下 (文筆部 第2,釈家部 第4)
 
  • 目次: 養和二年後七日御修法記(賢清)/17
  • 14 コマ: は修法の伴僧、大法師賢清(二五五-三〇四)と考えられる。賢清は仁和寺の学僧、弁僧都と称し、右馬権頭藤原実清の子である。
  • 4 コマ: 二年後七日御修法記(賢清)86後七日御修法部類8地蔵菩薩霊
  • 元久元年十月十一日寂す、寿五十
藤原実清 八条院関係紙背文書  藤原実清(従五下公補,世紀 兵範記) 
義家の郎党藤原実清と、義綱の郎党清原則清が所有地のことで争いを起し…

美濃国住人藤原清兼の子実清は、美濃国の所領を頼定卿に寄進してその家人となった。

▽藤原実清 (*)右馬権頭。公卿。崇徳上皇側近。1156年「保元の乱」に崇徳上皇・頼長方。 

此の清兼こそが、中河辺清兼で、藤原清兼で、源義朝に嫁いだ女性の父親なのではないだろうか?
つまりは、源朝長の祖父、中原久経の祖父でもあるのではないだろうか?

清兼ー実清ー賢清…となる。

この賢清は、近江国御家人井口中原系図に登場する経久の祖父、経任の父として系図に登場する『賢清』なのではないだろうか?

もしもそうならば、実清の姉か妹であった久経の母が、配流となった実清の息を中原の子としていたのではないか?
また、賢清が中原久経かもしれないが、もしかすると義理の兄弟、従兄弟、の関係であったかもしれない。

1181年に仁和寺の学僧として名前が残っている、御修法(みしほ)という最も重要な儀式にも加わっていたようである。あるいは、様子を書き残していたのかもしれない。


そのような賢清が、還俗して中原久経となり源頼朝の御使となるだろうか?
しかし、此の賢清は東寺ともつながりのある僧であったのだろうと思う。
すると中原の親厳とも近い処に存在していたと思われる。

実清の息であるという事は、1156年あたりに配流となっているので、賢清を預かり育てた可能性は大きいと思う。

藤原清兼の息である実清の兄は藤原資清となるそうだ。
元久元年1204年に50歳。という事は1154年生まれ。

と、ここまでは良かったのだが、
他の系図で 藤原実清ー賢清を見つけてしまった。
大ショックである。
公季孫(閑院流)の中に見出してしまったのだ。
どうみても、こちらに軍配は上がる。

という事は、実清の父が清兼というのは妻の父…と云う事なのだろうか。
この実清が保元の乱で頼長の味方をしたために配流となったのは1156年なので、賢清が二歳の頃である。
此の「清」という位置文字をもらったのが、妻の父「清兼」からであったら、繋がってくるのだが。
そして、預かられた先が近江国の中原氏であった‥‥という事になり、近江国の中原の系図の中に賢清が登場してくるという事になるのだろうか?

真実はどうなのかが気にかかる。
実清も何名か同時代に見えるようなので、混同もあると思う。
賢清もそうかもしれない。






コメント
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