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「罪を憎んで人を憎まず」を実践すると言う事

2014-08-01 21:00:00 | 人間としての修業
今でも言われているかどうかはしりませんが、タイトルに書いた事はワタリが小学生くらいの頃からずーーーっと言われ続けていたような記憶の有る台詞です。

この台詞を言うのは非常に簡単だと思うんですよね。
でも、現実にこう言う事を実践出来ている人って早々いません。

だって、嫌な事をされたら仕返しをしてやりたいのが本音ですし、いじめられたらそれ以上の事をやって自分以上に嫌な思いを味あわせたいのが本音。
以前有った殺人事件で被害者の遺族が加害者に対し「殺しても殺しても殺し足りない。」と言っていたのをよく覚えているんですが、これらや怨恨殺人の場合だと被害者の遺体はズタズタにされている。と言う事実も先に書いた罪を憎んで人を憎まずなんて事は実践出来ない。と言われても仕方がない事の証明になると思います。

じゃあ、なんで人間を憎んではならないのか?

それに関して考えると、多分人間を憎むと既に罪を被っている相手と同レベルになるからなんだと思います。

この件に関しては仏教の方が詳細に語っているので知っている人は知っていると思いますが、他者に危害を加えた人間。すなわち恨まれるような事をしている人間と言うのはすでに地獄行き、すなわち転生する事を許されるその日までフォーカス23の囚われの領域で苦しむのが決まっているんだと思います。
で、このすでに地獄行きになる事が決まっている人間の行いと言うのはやれば地獄行きになる事が確定する行為。すなわち囚われの領域で苦しむ事になるのが確定する行為なんですから、憎いからと言って同じ事をしては今度は自分が囚われの領域行きになる事が確定する。

なんと言うか、書いていて思ったのですがこれを知ると「それでも呪いますか?」と言う言葉が聞こえ、ものすごく割に合わない事だなと感じます。

じゃあ何処で人間は被害者感情を発散させるのか?
それのヒントが「罪を憎んで人を憎まず。」と言う言葉なんだと思います。

今解ったような気がするんですけどね、ワタリが小学生位だった頃って第二次世界大戦の成人経験者である祖父祖母世代が健康な頃だった訳なんですよ。

当時と言うのはあまりにも被害者と加害者が多過ぎて、何を憎んでいいのやら解らない時代だったと思うんです。

例えば、戦死した息子は誰が殺したのか?空襲で焼け死んだ家族は誰が殺したのか?
行き場のない怒りや悲しみ、恨みつらみを抱えたまま多くの人々は内心さまよっていたのかもしれません。
でも、そんな中でもこんな思いはもう二度とご免だ。自分だけで十分だ。と言う感情が有る人々がいて、そんな人々を中心に個人に向ける事が出来ない負の感情は平和に対する祈り、或いは子孫達に同じ過ちを起こしてはならない。と言う訴えへと変化したのかな?と思います。

現代でもこう言う事例は有る訳で、例えば犯罪被害者の会とか探すと結構あります。

正直、こう言う犯罪被害者の会の人々の本音と言うのはそれこそ殺しても殺し足りない。極刑が確定したとしても加害者は許せない。もう死語なのかもしれませんがそれこそ仇討をしたくなる位ドロドロとした感情が渦巻いているんだと思います。

でも、その感情を行動で示せば今度は自分が地獄行きになるからやらない。出来ない。
それよりも、もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにのちの人々に訴え少しでも犯罪を減らす活動をした方のが良い。

そう言う発想の象徴が「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉で有り、この言葉を実践するとこう言う事になるんだと思います。

と言うか、今ふと思ったのですがこの「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉、「人は憎めないから罪を憎む」でも良いのかもしれません。

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