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A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

教育について1

2007年02月05日 23時34分05秒 | 哲学
 まず今日は、教育の話をしたいと思う。簡単に教育を説明するのは困難を極める。したがって、私は教育に対する絶対的な規律などの断片的な諸問題にまで手が伸びるであろう。その点に関して、どうぞお許しいただきたい。
 さて、教育という言葉が旋風を巻き起こしている、この日本で教師や指導者が何を行うべきか?を解明する必要がある。
 第一に教育とは直観に訴えるものであって、それを否定する事はできない。補足すると、この私の用いた直観という言葉は目に直接訴える器官だと思って、もらって結構である。とりあえず、その直観は正規の教育者を生み出すのである。この説明はおいおいするが、決してそこに誤謬は無い。
 もし出来れば昔の事を思い出して欲しい。その時、浮かび上がってくるのは輝かしい思い出であろう。自然や動物たちとのふれあいが直観を刺激し、物事の理解力を高めるのである。例えば、子供はよく母親に質問する。それは子供の探究心と直観が生み出した現象である。
 第二に教育に対しての規則を多く作ってはならない。 
がんじがらめで育った子供とは一見、頭脳明晰に見えるが、しかしそれは違う。規則が多いと、子供の遊びなどを廃絶させてしまうのである。これはまがう事ない事実である。そしてその方法で育った人間は将来的に阿呆になってしまうのである。
 皆さんに考えて欲しい、教育を受けた当時、私は何をしていたか?それは景色や情景である。人とは自然に喜びを感じる。これは自然に対して、従属関係があるのが、自然に喜びを感じるもっとも重要な因子は自然だという事になる。したがって、子供を机に向かわせるべきではない。子供たちが望むのは自然なのである。我々は常に自然の保護下にいる。人間が自然を構築したなどという、馬鹿げた論争はするべきではない。
 そして最後に述べておく。
 「自然は我々の親で、人間は決して自然を超える事ができない。
 

記憶

2007年01月13日 05時51分53秒 | 哲学
 記憶

 経験とは個々人によってまったく違うものである。このことから経験的記憶とは空間、時間に制約されない主観的側面からできているといえる。この主観的側面によって人は自分というものを認識する。例えばこれは過ぎ去った過去を思い出すときの状況である。そのときに人は現前に在る世界を見ているのではなく、過去の表象を見ているのである。これが記憶の主観的側面である。このことから記憶にはいかなる場合も客観的要素は成り立たないといえる。そう記憶とは思い出すがために、常に意識的なのである。私はここで後に述べる立ち入った考察のために記憶の二つの要素を提示したいと思う。 
 まず記憶とは①直観的記憶と②抽象的記憶から成り立つ。実際この上には記憶という包括的概念がある。しかしそこに一歩足を踏み込むと、正確な記憶の形態をつかむことが困難となるので分析判断とさせていただいた。同じく記憶の系譜と呼ばれる遺伝子学に通じる問題もこの章では扱わないこととする。
これは言い換えれば無意識的な記憶と意識的な記憶であり、そこには大きな隔たりがあると言わざるを得ない。この場合の無意識的とは現象に対して反応することを示し、意識的とは概念に対しての反応を示す。さてその隔たりの説明として、まず直観的記憶を考察することとする。それはまず持って運動などにおける身体的修練を言う。これはパブロフが言う獲得反射ではあり、最初に必ず意識的に行われるものである。例えば体が居着くという行動は、本来動物にも見られる反射である。しかし人間の場合、この記憶によってその現象を抑制できるようになる。これは本来備わっている能力を改ざんするという意味である。この実例は、交差法などを重視する実践的な古武道を参考にするとよく分かる。またこれと区別される本能に直結した反射的行動は前章で述べた。直観的記憶とは動因によって働く記憶であり、これはすなわち因果性に支配された記憶とも言える。私の見解ではこの記憶の始まりは生理的というより、むしろ意識的である。よって単純にこの問題を因果的に把握することは不可能に等しいといえる。はっきり言って科学ではこの行動の起源を探ることは、未来永劫出来ないだろう。
 直観的記憶とは意識的にある程度抑圧することができる。これは意識的にこの行動を前もって知覚し、把握している場合に限る。例えばここに火があったとしよう。その火に人が触れれば、直後に彼はそれから反射的に手を遠ざける。これは生存に根ざした根拠に支配された自然な動作である。すなわち無意識的動作である。また人とはこの行動を行わないようにすることも出来る。そこに何かしらの反対動機を意識的に提示すれば、その行動は可能である。しかしまたそれが生存に極端に干渉する場合につれ、だんだんと難しくなるのは確かである。私がここまで扱った例はこの説明に適切ではないだろう。なぜならその抗争が生存に根ざしたものである限り、それは常に無意識的に行われるからである。このことは動物の反射が純粋に肉体的刺戟を経て、獲得されることからも証明できる。彼ら全てにこの答えが当てはまるかは甚だ疑問だが、私はこのような反射を因果性に支配された純粋反射とし、この論文から除外することとする。私が述べるのはあくまで、その最初に理性が干渉し、もしくは感情が干渉した直観的記憶である。
 しかし実際直観的記憶とはその概念の範囲に理性を含まないものである。これは直観的記憶が反復によって習得され、そこに意識が付きまとわなくなった最終段階を言う。直観的記憶とは事象その物の動性に対しての反応を記憶したものであり、そこには流動性、時間、空間的観念が付きまとう。一方後者は一度事象を不動のものに置き換え認識するため、そこでは限りなく実在性が少なくなるといえる。さらに付け加えると直観的記憶とはそれを習熟するときは確かに意識的に行なわれていた事柄である。それを会得した後は、すなわちいままでの論述で説明したこのような形態になると、決して意識的には行われなくなる。例を出せば、日本の武術において、「戦闘になったら、一秒で相手を制圧しろ」という格言がある。実際このような技術を身につけるときに人は直観的記憶を使い、流れるような動作を無意識的に行っているのである。反対に不動の精神という言葉の意味を介していない人にとっては、意識的なときがもっとも危険である。いくら訓練を行い体にその技術をしみこませたとしても、その時々の意識的な心情が無意識的な直観的記憶を妨害するのは、常に人間の法則である。人は何かに注意を向けていなければこの記憶を精査に実行する。だがひとたび意識的なものが働けば、そこには認識に支配された自分がたたずむに過ぎない。そのときに不動の心情を持って、直観的記憶を使わなければ到底昔の侍は長生きできなかっただろう。事実このような訓練を円滑に行うためには思考、思慮による改正が所々に必要なのである。これが無ければ騎士のような装備で侍は行動したことだろう。この不合理極まりない手段に頼った装備は武道というより科学的建造物と呼ぶにふさわしいのである。よって人としての能力を根本とした昔の剣豪に道徳的配慮があったとしても不思議だとは私は思わない。宮本武蔵がその著書「五輪所」で述べた文武両道とは、今の言葉で言って哲学的思索をも含んだものである。現代の戦場でもそれは特に重要視されている。イギリス軍特殊部隊のSAS(Special Air Service)の隊員たちも肉体的訓練のCQB(近接格闘術)や暗殺術のほかに語学、戦術、心理学、人相学、作戦の情報収集及びその総合的解釈、拷問セッション時における環境適応能力、またそのときに平静を保ちつつ常に自分のおかれている状況を把握し、冷静に物事を考えるなどの訓練課程を経、彼らは戦場で生き残ろうと努める。そして彼らは敵戦後方地域に潜入し、任務をかなりの精度でこなすのである。このことからも文武両道という昔の日本語の深遠な意味が如何に重要な意義を持つかがわかる。
 抽象的記憶とは読んで字のごとく本を読むなどして、それを覚えることを言う。これは理性を介した記憶方法であり、要は日本の受験勉強と同じであるということである。これはすなわちまったく意識的な概念の暗記を意味する。彼らには本来の表象とこの概念をつなぐ糸が切れているため、非常に現実とは不合理なのである。さらにこの意識的な「覚える」という言葉が、意識的な記憶作業に付きまとう限り、そこに優越感を生み出す。我々が生きている世界はどこからどこまでいっても直観的表象から構成されており、その第二次的なものとして抽象的概念があるに過ぎない。この抽象的概念を第一次的なものとして考える学校教育は常軌を逸した教育といえる。今の学校教育はこれが主流であるが、このことが原因で無知な人々の間にいくら学校の勉強がうまくいっても、実際には役に立たないという誤謬が広がったのである。しかしここにひとつの疑問が湧いてくる。私たちは抽象的記憶といえども修練を重ねることによってはっきりとしたものになることを知っている。ここにその問いの答えとしてひとつの明確な区別を提示したいと思う。それは非常に直観的記憶と似ているものであるが、唯一つすなわち前者は動機に触発された行動においてその姿を現し、決して意識的には認識されない。また後者は思考に応じた格率によって発現するのである。この抽象的記憶の習熟で過去に得られたものが再び表れるときそれは意識的である。この後者を我々は知識と呼ぶのである。これは一般に使われている意味以上に広範な善悪を含めた概念を包括している。言わなくてもいいようなことだが、人はこの知識をがんばって覚えればおぼえるほどそこには感情的不条理が生じるものである。これは概念上のものに感情が付随した一繋がりの怪物である。これは全ての人間にとって非常に厄介なものであるが、またそれがなければ私たちを動かす認識が確立しないのは自明の理であるといえる。実際私たちに好みなどがあるのは、このおかげといっていい。これが大きな意義を備えている必然性は我々の人生行路上においても明白であるといえる。