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A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

形而上学

2007年06月11日 22時15分36秒 | 哲学
形而上学の務め

 私の望む事は形而上学の務めを果たすことである。形而上学の意味とは、全ての学問の上に立ち、諸学問の限界を定める事にある。したがってショーペン・ハウアーが認識の根拠律によって物理学の限界を定めた事は賞賛に値するのである。昔から優れた自然科学者は、思想家でもあった。例を挙げれば、ハイゼンベルクはプラトンの信奉者であり、シュレーディンガーはショーペン・ハウアーの本に畏怖の念を抱いた、とその著書で語っている。アインシュタインですら、相対性理論を完成させるために、友人から進められエルンスト・マッハの本を読んだ。ニールス・ボーアに至っては、すでに別格である。彼の本を読んで推察する限り、彼は哲学の他にも精神医学の本を読んでいた。そしてボーアは自書の中で、「量子力学の世界では、既存の観測の概念が通用しなくなっている。そのため早急に新たな方式を作り出す必要がある。」と、述べている。このことは主に哲学者に発した言葉だろう。くだらない社会心理学などの馬鹿げた学問は除いて、哲学者は真摯な自然科学者の警句には耳を傾ける必要がある。確かに観測機器の影響により、量子が散らばり、精微な実験が出来ない状況においては、観測と呼ばれる概念の大きな変革が求められる。ボーアは、その中でも独自に相補性と言う理論を考案し、急場を凌いだが、これは本来形而上学者の務めである。さらに現代では、脳科学が急速な勢いで進歩しており、それにも対応する真理が求められている。明らかに哲学的な観点から見て、アインシュタインが死ぬまで考え続けた大統一場理論は無理である。それらの過ちを優れた自然科学者に、起させないためにも、形而上学は務めを果たさねばならないのである。したがって、私が生涯をかけて行なうのは、自然科学に対しての新たな根拠律の制定である。だがこれは言うは易し、やるは難しである。これはかなりの天賦を備えていなければ出来ない。バッカスの杖を携える者は多いが、真のバッカスの杖を携える者は少ない。この言葉にあるように、真の形而上学を知る者は、限られている。しかし私にはその資格がある。なぜなら私は「汝自身を知れ」を実行し、自分の能力を理解しているからである。まず本を読むより、汝を知る必要がある。自分を知って、初めて道は開けてくるのだから。

論理学

2007年05月14日 15時11分20秒 | 哲学
 人々は往々にして、論理学を知らないうちに用いている。これは人間性の一つの特徴であり、なおかつ理性のなしうる技である。まず理性とは概念をつかさどる。この概念の相違が論理学の出発点となる。概念のいくつもの可能性が論理学の根本的な意味である。人々によって、概念の持つ意味合いは多少違う。それが暫時、組み合わさっていき、論理が成り立ってゆくのである。例えば、旅行という概念を見てみよう。ある人にとって、それは楽しい事である。またほかの人にとっては面倒くさい事である。すでにここから概念の相違が見られる。そしてこの概念の相違を吟味し、統合してゆく事で、論理は成り立ってゆくのである。もしここにかくかくを証明しろなどという愚かな事を述べるのは、精神的な盲者のみである。なぜなら、概念という代物はそれが形成された時点ですでに論証不可能なものになっているからである。私が前に述べた旅行の概念にしてもそうである。だが論証可能なものも存在する。それは現実世界の表象である。木や水などがそうである。これは感覚が直接に感じ取る一種の複合体である。この部分についてはすでに過去の哲学者が詳しく述べている。それをかいつまんで述べるとこうなる。
 「我々が同じ表象を感じ取るのは、そこに直覚的な機構が関与しているためである。我々は常日頃、意識せずにそれを行っているが、そこにこそ人間同士の深いつながりの根底がある。我々がそこに物理的な論証を用いる事は可能であろう。しかし我々はそこに直覚的な論証を行う事はできないのである。」

科学と哲学

2007年02月28日 12時15分00秒 | 哲学
 まず、哲学と言う言葉を聴いて、普通の人が思い浮かべるのは難しいや時代錯誤などである。しかしこの見解は、当を得ていない。哲学と言うものは、全ての学問を統治するものである。これはこれから先も変わらないであろう。現在において、それを逸脱するものであるならば、彼は他の場所に移った事になる。その意味は簡単である。哲学と自然科学の才能を備えた人は何人かいる。セネカやアリストテレスは科学を作り出した有能な人物である。むろん、その根底には哲学的なものが流れていた。最終的にはもっと有能な人材がそろうであろう
 後述べることは、一つである。それは科学の限界である。昨今、ブラックホールの中身を探ろうと物理学者たちは血なまこになっている。だがその行為自体、無意味であるし、ブラックホールなどの特殊な形態を持った星を観察するときに我々は歩みを止めなければならない。この理由は、ほんの数ページで決着がつく。その理由は時間と空間に対する哲学的思索である。もし思索をしなければ、現象からはなれて、途方にくれるであろう。だから、今の物理学者たちは絶対に不可能な事を可能にしようと努めているのである。そして雑多な論文、観察から導きだせるのは、つまらない事や意味もないことに執着する精神である。
 もし私が科学者の立場にいるならば、最初に理論的な事を考える。そしてその後に、実験や観察によってそれを証明するであろう。何事をするにしても、目標をしっかりととらえなくてはならない。闇雲に動き回って、結果が出ることほど、世の中の馬鹿げた習慣は無い。私は理論、すなわち的の位置を把握し、その後に分析、その矢の刺さった箇所を検証するであろう。そして理論的に物事を把握する人と分析的に物事を判断する事は、同じほどの重要な位置を占めているのである。

ショーペンハウアーが科学界に巻き起こした旋風2

2007年02月15日 00時04分55秒 | 哲学
 まず、忘れてはいけないことがある。それはショーペンハウアーが提唱した根拠律と四つの根について」である。この本からは情味豊かに彼の科学者精神を読み取る事ができる。彼の提唱した科学界への警句は今も脈々と人々に影響を与えている。エルンスト・マッハなどらによりそれらは重要視されたのである。そしてエルンスト・マッハの本を読んで、感銘を受けたアインシュタインも一応ショーペンハウアーの影響下にあったといえるであろう。
 しかしこの本は今現在絶版になっている。したがって、その本を探そうと思えば、古本屋に行くしかないのである。
 またショーペンハウアー作品は、時時代錯誤の本とみなされがちだが、それは違う。森鴎外はショーペンハウアーの影響を述べている。
 そしてフロイトの場合は、少し事情が違う。フロイトの作品の中にはよく昔の哲学者が述べた見解が含まれている。それから、彼は全ての本ではないが、いくつかの本の内容をさも自分が発見したかのように、語っている。だがこの事を楽観的に考えれば、それは良い方向に向かう。まず、論理能力の訓練になる。実をいえば、この論理とは非常に厄介なもので、なおかつ不条理である。

ショーペン・ハウアーが科学界に巻き起こした旋風1

2007年02月10日 23時03分29秒 | 哲学
 ショーペンハウアーが科学界に大きな影響をもたらしたのは、事実である。彼の思想はエルンストマッハなどらにより、応用され、アインシュタインの相対性理論に対しても間接的な影響を及ぼした。そしてその中で、もっとも科学に影響を与えたのは「根拠律の四の根について」である。それは哲学者が全ての学問の上に立ち、辺りをながめる事を怠らなければ、自然にその思想や科学体系に密接に関連してくるものである。
 次項ではより詳しくショーペンハウアーの根本を突き詰めたいと思う。