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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森163号

2008-05-31 | 101号~200号
       ■こならの森163号■2001.11発行
表紙 「町中の風景 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
佐野JC・地域主催フォーラム………6
特集・街中の電柱を消したら…………10
安佐の人…………………………………16
現代国語辞典……………………………17
美しくなるツボ…………………………18
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

安 佐 の 人

亀田 昭雄さん
葛生町生まれ。44才。元全日本ウエルター級チャンピオン。世界ランキング1位。全日本アマ、プロ優勝。ジュニアウエルター級(63.5キロ)・ウエルター級(66.8キロ)の二階級制覇。モントリオールでおこなわれたプレオリンピックでは、ライトウエルター級で銀メダルをとっている。など、経歴をあげたらきりがないほどだ。
 10年間のプロボクシング、その後は空調設備会社に10年間勤務。現在は、東京から葛生町に戻っている。
 20才のとき語学留学していたハワイでプロデビュー、KO勝ちを納めた。その後日本に帰国し、具志堅や渡嘉敷といったチャンピオンがいた共栄ジムに所属。
 25才の時に、世界ランキング一位となり世界チャンピオンにもう少しで手が届くと言うところで、引退。その運命を決めたのはイギリス遠征の第3ラウンドだったという。
 「生まれたばかりの子供の顔がふと浮かんだ」のだそうだ。6ラウンド目には闘争心が尽きる。30才の時だ。
 現在の職業である整体は、ボクシング時代から調子を崩したときなどにかかっていたが、嘘のように痛みが引いていったという。その時に体験したのはニンニク温圧法だったという。現在の療法はびわの葉を使うものだという。びわには
アミグダリン・(ビタミンB17)が含まれており、その成分を温圧によって患部の奥深くに浸透させる方式という。

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こならの森162号

2008-05-30 | 101号~200号
       ■こならの森162号■2001.10発行
表紙 「 三毳山」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
タウンミーティング……………………6
廃線路を行く……………………………10
美しくなる16のツボ…………………18
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

鉄道ロマン&ミステリー
県内の廃線路を行く

■廃線路を行く

 今、廃線路を行くというのが静かなブームのようだ。
 編者はいわゆる鉄道マニアという人ではないが、郷愁というかロマンというかそんなところに引かれた。

 本当は歴史に残る廃線路というのが関東県内には多くあり、軽井沢近辺は重文級の遺構が多い。栃木県はともうしますとこれが………ところがありました100年前に消えた遺構である。(残念ながら、今回は取り上げられず。遺構らしいものはわずか一つ)
 ともかく県内で一番有名でもっとも素晴らしいと思える、東野鉄道、西那須野~那須小川と東武鉄道、矢板線 新高徳~矢板、を取材した。何冊かのガイドブックをもとに出発。ガイドに書かれているとおりに、進むが、車を利用しているため、狭い道や道無き道をかき分けて遺構を探し当てるのは大変だった。
 事前の下調べや詳しい地図などが用意できなかったために、見つからないことも、ロマンがいつの間にかミステリーに変わっていた。実際にはガイドブックの著者も「1時間近く車を走らせてやっと探し当てた」、などと書かれている。

 今回取材した、二つの路線は東野鉄道と東武鉄道と非常に紛らわしい名前だ。また、東野鉄道は昭和43年廃止、東武鉄道は昭和34年廃止でこれまた紛らわしい。

「栃木県内の廃線路」
東野鉄道、《西那須野~那須小川町》を行く
昭和43年廃止というから比較的新しい廃線路でもある。ともかく西那須野駅へ向かってみる。この路線跡は、現在はぽっぽ通りという遊歩道となっており、西那須から大田原までいける。実際に野木神社前まで歩くことにした。遊歩道といっても自動車道と多く交差しており、何度も道を渡らなければならないので、安全な道とは言えないのが残念。野木神社前には、線路とホーム跡のレプリカがあって、往時を偲ばせる。近くには、SLを形どった遊具もある。
 そこからは、ぽっぽ通りに沿いながら大田原へと車で向かう。途中、道が分からなくなり、大田原駅跡は、確認できなかった。
 その先に、トンネルの跡があるというので向かう。ガイドの通りに向かうのだが、案内標識があるわけでもなく、人に聞くにしてもなんといって説明すれば良いやら………。ぐるぐるとあたりを周回してやっとのこと探し出す。トンネル前までは、単なる私道としか思えない、本当にここで良いのだろうかと不安になりながらも先を急ぐと、塗り壁のごとくにトンネルが出現した。
 ともかくトンネルを発見したときの感動は推理小説で犯人を発見したときの感動と似ていた。今回もそうである。思いがけないところから、それ(トンネル)が出てきたら、それも偶然に、そして驚きは自然に感動へと変わるだろう。
 なんとかトンネルを塞いでいる柵に登り、内部の写真撮影に成功。と思いきや………。片手で柵をつかみ、もう片方の手でカメラを操作。そのためなのか、内部が暗いのか思ったような撮影にはならなかった。手がちぎれるかと思ったのに………。
 それで、いったいどこがミステリーなのかといわれてしまいそうだが、ともかくいってみることをおすすめする。その前後の路線跡を寺の山門が塞いでいるのだ。完全に路を裁ちきっきっている。
 黒羽から小川町までのルートは、昭和43年廃止以前に先に廃線となっている。

東武鉄道矢板線 
《新高徳~矢板》

 東武鉄道は関東の私鉄の中では最長の営業距離を誇っているだけあって、こんなところにまで、路線を持っていたのかと、改めて感動した。
 昭和34年6月に廃止となっているが、なぜかこの年は編集長の生まれたとしでもある。なにかの因果というものを深く感じる。新高徳駅は現在でも健在だがその先は、のどかな田園風景の中に消えていってしまった。
 今回用意した地図は十万分の一のものだが、それにはくっきりと廃線路が刻まれていて、ルートの確認も割合と簡単に出来る。ともかく細い道ではあるが一直線にどこまでの続いていく道がそうである。
 四十年前とはいえ、その当時ここに本当に鉄道が通っていたのかと、驚きがこみ上げる。本当に、何もない田園地帯なのだ。舟生の何とも言えないひなびた、宿場町の情緒がたまらない。そして、今回のクライマックスともいえるトンネル跡へと向かう。やはり、案内板など一つもないので、「きっと、ここだろう」と思われる道を進む。途中にはちょっとした湿原が現れ、カモの群が一斉に飛び立っていった。高原地帯に迷い込んだと思わされる風景だ。
 しかし………、途中の看板にトンネルは途中落盤の危険があるため数年前に閉鎖、通行できないと書かれてあった。まことに残念。SLに乗ったつもりでゆっくりとトンネルを越えるのが、最大の目的であったのに………。でもちょっとした収穫もあった。取材班の興味は、いつのまにか山栗拾いに移っていったからだ。日暮れも近いというのに………

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こならの森161号

2008-05-30 | 101号~200号
       ■こならの森161号■2001.9発行
表紙 「 そばの花」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■
結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
タウンミーティング……………………6
美しくなる16のツボ…………………12
ドライブガイド…………………………14
風の独り言………………………………18
シネマまるかじり………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】
ドライブガイド
磐城街道をゆく
■特集 街道をゆく

 いったんこの道(街道)にはいると、今まで忘れていた遠い日の記憶が蘇ってくる。ガイドブックに載るような大げさな「しかけ」は、全くないのだが、どことなく郷愁的なかれた感じが素晴らしい。
 この街道に殆ど平行するように並んでいるのが磐越東線である。東北本線の郡山から常磐線のいわき市までを結んでいる。
 実は、大きな用水路があるなと思っていたものが、線路であったのだ。こんな所にどうして線路があるのだろうという印象。使われなくなってしまったものだろうとも思っていた。しかし、車を降りて線路をよく見ると使用している痕跡がある。さらに先に行くと、駅らしい建物も発見できた。この街道の近くには、うつくしま福島博覧会会場もあるし、阿武隈(あぶくま)洞へのアクセスも簡単である。
 夏井川にそって夏井渓谷が道すがら迫ってくる、そればかりが、線路もつかず離れずで、こっちが忘れていても、あっちが忘れていないぞ、というような感じでおやっと思えるところで一致してくる。そして、たびたび接触する。つまり踏切の多さに絶句する。線路と、道路が平行線であれば、踏切も必要なくなると思うのだが………。線路が先で、道路が後で発達したのか、はたまた逆なのか。どちらにしてもこうたびたび交差していては、絶句する。しかも道路交通法では線路が優先で、常に線路と交わるときには道路側の車両が一時停止をする。当たり前だが。そのために、信号も十字路もないひなびた山道であるにもかかわらず実際の走行感覚は、信号機ジャングルの都会と変わらない。
 近くには、やはり内陸部から海岸へとのびる「御斉所街道」という名前の街道が直ぐ下を通っている。こちらも機会があればトライしてみたい。

話がそれてしまいそうだが………

 想像力によって全てを考えられる、人にとっては本当に肩すかしはもっとも究極のコトであると思われる。
 そういわれてしまうと、思い当たる点もないではない。行かなかったのに、殆どいったも同然のコトを得られたのであるから。それは旅には、過去、現在、未来があると思えるからだ。
過去とは、行く前の時間である。これが長い方がより長く肩すかしを楽しめるようにも思う。
 そして、本番。一年以上考えてきた計画の実際の時間は二泊三日というのが、本当の所であろう。しかしそれで終わりではない。その後の時間がもっとも肩すかしにはない時間であると思える。実際に旅を経験すれば、その後は過去ではなく思い出に変わるのだから。



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こならの森160号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森160号■2001.8発行
表紙 「おきざり自転車とつた 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・直訴状を読む……………………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

風の独り言
お金が無くて暇~な時の過ごし方
 とある日曜日、朝から何もすることがない。4才になる孫が下から見上げてどこか連れて行けとせがむ。給料日前でお金も無い。よくあることであるが、こんな時どうするか。
 佐野駅に行き、岩舟までの切符を買う。大人190円、幼児はただ。1番線の上り列車08時28分に乗り足利に向かう。方向が逆だがこれで良いのである。日曜のこともあり列車内はガラガラに空いている。孫は窓の外を流れる田園風景に見入っている。靴を脱がせ外を見せていればおとなしい。私はおもむろにほんを取り出し読み始める。やがて列車は高崎到着。09時48分。八高線の次の列車は10時33分。時間があるので駅弁を買うことにする。だるま弁当900円。孫にはとりめし弁当800円。飲物は家から持ってきた水筒の麦茶で十分である。高崎からの列車の旅は秩父の山々を左右に眺めながらのゆっくりとした旅である。登り下りの多いせいか、時速30~40ののろのろ運転で進む。景観を楽しむには最高である。こちらの気持までゆっくりしてくる。弁当を広げ、土地の名産を味わう。11時56分高麗川(こまがわ)に着く。
 又、乗り換え、今度は川越線で大宮へ。途中、川越駅で快速に乗り換え12時54分大宮着。大宮では東北新幹線、上越新幹線、秋田新幹線等々、次々にくる新幹線に孫は大喜びだ。大宮発13時10分、宇都宮線で小山へ。この辺は少し見慣れた景色になってくる。小山着13時48分。小山発両毛線13時57分。岩舟着14時18分。ここで初めて改札を通り、佐野駅で買った190円の切符を渡し、駅外に出る。 駅前で一寸ブラブラし、改めて岩舟~佐野間の190円切符を買い14時46分発、佐野着14時53分。
 孫もいっぱい電車に乗れて大満足。私も好きな本を十分読めて良い1日でした。
こんなの利用の仕方をすると、何か違法行為をしているように聞こえるが、これは違法でもなんでもない。途中、車内検札があってもなんら臆する必要もない。正当なの利用なのである。両毛線は昨年六月から「東京近郊区間」ということになり、どんな経路を通ろうと1番安い運賃で切符を買えば良いことになっている。但し、改札を出られないこと。有効は1日だけであること。特急や急行は使えないこと。同一経路(駅)を2度通過できないこと。等が条件である。
 もっと凄い使い方を考えると、佐野~足利間の切符で、佐野~小山~友部~(常磐線)~上野~(京浜東北線)~大船~茅ヶ崎~八王子~高崎~足利。そして足利~佐野。
230円+230円で。早朝05時53分に出発して18時07分に佐野に戻れる。
子供連れの電車旅。お金が無く、ヒマーーーな時には1度試してみては如何ですか。


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こならの森159号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森159号■2001.7発行
表紙 「 がくあじさい」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・日帰りドライブガイド…………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


佐野JC・教育フォーラム
「義務教育を考えた事がありますか?」
~親の義務であり子供の権利なのです~
特定非営利活動法人 
とちぎ教育ネットワーク 副理事長  
中野 謙作 さん

■プロフィール――――――――――――――――――――――
中野 謙作( なかの けんさく )
1959年 東京都千代田区に生まれる。
1983年 学習塾、家庭教師を職とする。
1986年 株式会社教育社 入社
1994年 WS・早稲田セミナーホーム学習会(栃木県高根沢町)塾長となる。
1999年 特定非営利活動法人とちぎ教育ネットワークの設立に参加
現在、特定非営利活動法人とちぎ教育ネットワーク副理事長、社団法人全国学習塾協会栃木県会員会副幹事長、栃木県統一テスト協議会機関誌部会部会長を兼任。座右の銘は『冬来たりなば、春遠からじ』。


中里 本日はよろしくお願いします。はじめに中野さんのこれまでのご活動をお聞かせ願えますか。
中野 私は東京出身でして、以前、学習塾や家庭教師、そして教材会社勤務など、教育に関連する仕事をしておりました。ところが、約8年前、教材会社を通して、高根沢町のある塾長と知り合い、その塾長が民間のNGOでインドネシアに行かれることになり、塾長の意向でそれまでの塾経営を引き継ぐことになりました。現在、その学習塾を全面リニューアルしまして、WS・早稲田セミナーホーム学習会(=WS学習会)を開いております。こちらへ来てからは様々な高校や大学受験において、東京との余りのギャップに驚きました。私自身の経験も含めてですが、東京の高校受験といえば、いかに私立高校に合格するか、という価値観ができあがっておりました。ところが、高根沢へ来たところ、まだ県立高校志向が非常に強いことに戸惑いを感じました。栃木県ではまだまだ私立高校が力を出し切っていないと感じました。
中里 確かに栃木県では、まだまだ県立高校の方がステイタスがありますが、最近では、少子化による学生の獲得のためにも、急速に私立高校のレベルが上がってきたように思います。さて、現在取り組んでおられる『NPO法人 とちぎ教育ネットワーク』の活動内容について、お聞かせ下さい。
中野 私は現在、不登校の問題をテーマに活動をしているのですが、学習塾にも色々な団体があり、様々な考え方を持つ先生がおります。そこでもっと地域に貢献できないものかという斎山先生(とちぎ教育ネットワーク理事長)の呼びかけで、賛同する方々が集まり、一昨年の11月に発足したのがこの『とちぎ教育ネットワーク』(=TEN)です。そして、昨年2月にNPOとしての認可を頂きました。この団体の大きな柱として国際交流を目的とした「イングリッシュキャンプ」があります。今年も100名ほどが参加する予定ですが、3日間のキャンプで、子供たちに英単語を教えるのではなく、運動やゲームなどの肌の触れ合い、心の触れ合いを通してお互いを理解していくという趣旨で行っています。キャンプ中、先生方は英語でしか話しませんが、キャンプの最後には子供たちもお互いを良く理解することができて、とても喜んで帰ります。これからも続けていきたい事業の一つです。
中里 佐野青年会議所でも、今年で4回目となる『安佐こども未来塾』という小学生対象の事業があります。内容はキャンプや高齢者擬似体験、ワールドゲームなど国際感覚を身につけるプログラムを実施してきました。今年は、企画の時点から子供たちに参加してもらい、この未来塾を卒業した中学生がリーダーとなって、自分たちでプログラムを決めていくという事業を行っています。
中野 子供たち自身に考えさせるという意味ではとても良い取り組みだと思います。総合学習の時間で生徒たちが自主的にテーマを決めて取り組んでいる学校も出てきていますね。そのように、どんな子でも自ら勧んで学習できる機会が増えるといいですね。
中里 私も昨年、総合的な学習の時間に、地域の先生として教壇に立ちました。私が所属する消防団の活動を小学生に教えました。学校の近くの川で、消防車を使って水を吸い上げ、放水する作業を、子供たちに体験させました。子供たちは目を輝かせて真剣に学習していました。私自身非常に良い経験をさせていただいたと思っています。総合的な学習の時間ということでは各学校が試行錯誤をしているようですが、地域学習ということも含めて真剣に取り組んでいってもらいたいと思います。
中野 そうですね。その通りだと思います。そして『TEN』のもう一つの柱としては「教育評価研究会」というものがあります。最近では子供たちの学力低下問題が焦眉の課題とされてきていますが、民間の立場から絶対評価と相対評価の研究をしていき、21世紀を担う子供たちが必要とされる学力を明らかにした上で、最終的には行政に対して提言できるような教育評価を作成するということがコンセプトです。
中里 その教育評価というものは学校の教育システムを評価するというものでしょうか。
中野 そうではなく、きちんとした理論体系をベースにした実際の学習における評価の考え方です。今までは、クラスの中での相対評価でしたが、これからは個人別での絶対評価が注目されていきます。ただ今後、絶対評価だけで子供たちのやる気を引き出すということは難しいので、私たちは両方を併せ持った考え方で取り組んでいきたいと考えています。そしてもう一つの柱として、「教材開発研究会」というものがあります。これも同じように来年度の教科書改定にあわせてどのような教材が必要なのか、ということをテーマにした研究会です。その他ITに関連したことでは「ホームページ」も開設しました。そして今年はメインの活動になっている、不登校問題の「サポートネットワーク」と、以上の5本柱で進めております。

(略)

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こならの森158号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森158号■2001.6発行
表紙 「 田中正造生家ほか」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・田中正造…………………………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー&映画情報……………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

田中正造直訴から100年
安蘇史談会主催 第17回安蘇の風土と歴史講座
『田中正造をふりかえる』

「直訴状と谷中村問題」  
講師:嶋田早苗さん
     
京谷会長 今回の講師の嶋田さんは1981年に佐野市郷土博物館準備室に入られまして、初代の館長さんとなられました。その後、教職に復帰され、佐野市内の小学校長を最後におやめになってから、足利工業高校に非常勤講師として勤めながら、田中正造邸宅保存整備事業に従事し田中正造宅の一般公開事業に当たっておられます。なお、先生のお父さんの嶋田宗三さんは谷中の人で14歳から25歳まで田中正造に師事をして臨終にも付き添いました。正造さんがなくなってからも遺品だとか、文書の収集保存に努められ、県の文化財の功労者として表彰されました。この田中正造さんにつきましては、嶋田さんが打ってつけであるので時間までお聞きになられればありがたいと思います。

嶋田 最初に直訴までの足取りを確かめるために、年表を使ってみていきたいと思います。最初に渡良瀬川に異変があることを報道したのは、1885年(明治18年)です。渡良瀬川で鮎が大量に死んだということを新聞が報道しました。それから魚がどうもおかしい。子どもが手づかみでもウナギを捕まえられた。食べると下痢をするということがありまして、漁業に従事している人が明治17年には、2132名いたのが、21年になると4分の1に減ってしまう。その後はゼロです。魚がいない捕れない、捕っても毒だ、体に良くないということで漁業従事者がゼロになってしまう。そして、23年には大洪水がありまして、被害民の鉱毒反対運動が始まりました。谷中村とか群馬県議会、吾妻村などで足尾鉱山がどうも被害を及ぼしているらしいので、何とかしてくれ、ということを訴え出ているわけです。
 梁田村の長 祐之は、わざわざ足尾まで出かけていきまして、調査してそれを本にしたのですが、発行禁止にされてしまうという状態になる。田中正造は24年の12月に議会があったのですが、質問書を出しました。その時の農商務大臣というのは陸奥宗光でした。答弁の席に出てこないんですね。議会が解散した後、官報で、田中正造の質問に答えている。鉱毒の原因ははっきりしない、足尾銅山は粉鉱採集機を欧米各国から用意して鉱毒被害がなくなるよう努力をしている。そういうふうに足尾銅山寄りの返事をしているんです。一方では、足尾銅山の方は金で問題を解決するように被害民と示談の話を進めている。田中正造がうるさいからと。田中正造はその様子を見守っていました。明治27、28年には日清戦争が起きたんですね。戦争をやっているのに、国内で意見が分かれてはいけないというのでこの期間田中正造は足尾鉱毒について、政府に責任追及をしなかったんです。それをいいことに、足尾銅山は大増産をやりまして、29年の9月には、大きな洪水被害が起きました。そのころは、東京都ではなく東京府でしたから一府五県に渡って10万54町歩に渡って鉱毒被害が出たわけです。
 雲龍寺に群馬県、栃木県の鉱毒停止事務所ができまして、ここを中心にして被害民が集まりました。田中正造は示談はやめろ。金で解決するのはやめろ。憲法で、請願権というものが認められているのだから、政府に対して請願をして鉱毒をやめさせる運動をすべきだ、ということを説いたわけです。東京にも請願事務所ができました。30年の上旬と下旬の2回にわたって、被害民が大挙して中央官庁に除害を請願したわけです。これは押し出しといいます。政府は下旬の農民の動きにある程度動かされたと見えて、足尾銅山の鉱毒調査委員会を作るんですね。そして、5月になると、東京鉱山監督事務所が初めて銅山に対して、鉱毒予防工事命令を出しました。政府は何もしなかったという言い方をよくするのですが、したんです。予防工事命令をこの時点において出しました。ただし、不完全だった。命令された方の銅山経営者、古河市兵衛ですけれども、「やればいいんでしょう」ということでかなり費用をかけてやったんですが、鉱毒はいぜんとして流れ出した。おまけを付けますと、東京の鉱山監督事務所長は予防工事が終わると、足尾銅山の所長に納まっている。悪い考え方をすれば、工事はいい加減で負けてもらって、終わったらウチの所へ来てくれ、礼は弾むから。そんな想像ができます。まあ、いい意味で考えますと最後まで責任をとって、足尾銅山から鉱毒が流れないように、事務所長になったんだと考えられます。後年になって、銅山で暴動が起きまして、その所長さんかなり痛めつけれているんですね。我々も気をつけないと子孫というのは後まで生きていくわけですからね。自分のやったことが後世になって批判されることにもなりかねません。
 政府もようやく予防工事命令を出したころから、足尾銅山が鉱毒を出しているということが分かりまして、税金を免除するんです。免除されるとありがたいんですが、残念なことに選挙権を無くしてしまう。最初の選挙権は直接国税15円を納める者が持っていたのですが、このころは10円でした。免税で自分たちの要求ができなくなってしまう。ですからマイナスなんです。
 続いて憲政党内閣成立と年表にあります。田中正造が最初に所属したのが改進党です。その後、小さい政党を併せて進歩党と名前を変えた。その進歩党が自由党と合併してこの憲政党を作る。政府寄りの政党を今、与党といいますが第一議会から、田中正造が所属している改進党、それから自由党の野党の方が与党より強いんです。そのために、初期議会といわれている明治23年から、27年までの間に解散が4回あるんですね。普通だと、今と同じで代議士の任期は4年なんですが、初期の議会では平均すると1年しか持たないんです。政府は、野党の勢力が強いので解散、解散とやる。だから田中正造は第1回の総選挙の時に、蓄えておいた政治資金を殆ど使ってしまった。そのあと5回選挙に出ましたから、借金、借金で手当としてもらう議員歳費を銀行に送って選挙資金を返すという苦しい状態を続けいた。
 田中正造が所属する憲政党が多数党を占めまして初めて内閣を作ったんです。これまでは、薩摩と長州出身の者がずっと内閣を作ってきた。初めてそれ以外の憲政党の政党内閣ができあがったんです。ですが、10ヶ月で潰れてしまいます。その後はまた薩摩と長州出身者の政府が続いていくわけです。

(略)

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こならの森157号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森157号■2001.5発行
表紙 「フェイシャリスト 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■


ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・イメージチェンジ………………10
関東フォーラムとちぎ………………14
風の独り言………………………………18
何でも探偵団……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30


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【本文抜粋記事】
佐野JC・教育フォーラム

子供を描きながら、子供達に伝えるメッセージ
~『心の「ふるさと」がありますか?』~
児童画家 
安藤 勇寿 さん

中里 本日はよろしくお願い致します。安藤勇寿さんの絵には必ず子供が描かれておりますが、なぜ子供がでてくるのですか。何かテーマがあると思うのですが・・・。

安藤 「少年の日」というテーマでずっと絵を描いております。自分の絵を探し求めていた時に、ふるさとの山や川や田んぼの中にテーマを見つけました。子供の姿を借りて自分が絵の中に登場してみたり、絵の中の子供を通して、私の思いを皆さんに感じてもらえたらと思っております。

中里 地元の風景や「ふるさと」というものを意識されているのですか。

安藤 私は田沼というところで生まれ育ったのですが、地元田沼はもちろんですが、田沼の風景だけではなく、自分がどんな風景の中に居たいのか、または、その風景をどう自分が感じるのかということで描いています。海のないところで育ちましたから、海にあこがれて漁村の暮らしなども題材にしたりしています。「ふるさと」については、自分がどこで生まれ、どこで育ったかということでしょうが、もう一つ日本ということを意識しています。外国の方に訪ねられたら必ず「日本から来ました」とか「日本人です」とか答えますよね。自分は日本人なんだということを再認識してもらいたいと願っています。

中里 日本人ということを誇りに思いたい、或いは、思っていただきたいということですね。

安藤 そうです。それがあるから人種、年齢、性別に関係なく色々な国の人と知り合っていきたいと思うわけです。私の場合には、知り合う方法として、或いは、知ってもらいたい方法として、絵があるということです。結局は自分が何者なのかというところに行きつくと思います。

中里 本年度は、(社)佐野青年会議所内に、ふるさと教育委員会という委員会を設けさせていただきました。主に教育に関する様々な事業を行っております。事業を通して、この地域の子供達に、自分の「ふるさと」について胸を張って自慢してもらいたいと思います。私自身、大学で初めて東京に行った時は、ふるさとの栃木についての恥ずかしさがありました。しかし、田舎に帰ってきて、この「ふるさと」の素晴らしさを改めて気付き、今では大いに自慢したいと思っています。

安藤 恥ずかしいと思っていたのは自分に自身がなかったからだと思います。自信がないとどうしても足元がふらつくことになるのではないかと思います。自分で何かやりたい事があることによって、自分自身が見えてくる、見えてくることによって色々な人との中での自分が具体的に分かってくる訳です。

中里 自分がこの町に住んでみて何がしていきたいのか、そして、その思いをしっかりと子供達に引き継いでいかなくてはいけないのだと感じています。そういった「ふるさと」を大事にしたいという想いから、自分自身やりたい事が見つかってきたのかなという気がします。

安藤 「ふるさとを大事にする」という言葉はとてもいい言葉だと思います。それが結局は自分自身を大事にするという事に繋がってくると思います。ある意味で「ふるさと」というのは、自分自身をこの世に送り出してくれた母親のような存在で、なくてはならない一番大事なものだと思います。そして自分で一番居心地の良いところ、そこが自分の「ふるさと」だと私は考えております。

中里 安藤さんの絵は海外でも評価されていますが、海外の方と接する事も多いのですか。

安藤 外国に行く機会はあまり多くはないのですが、出会いを大事にして相手の事をもっと理解したい、そして自分の事も、もっと理解してもらいたいと常に思っております。飛行機で12時間ほどかかるカナダにも知り合いがおりますが、隣町にいるようなほとんど距離を感じずにお付き合いさせて頂いております。

中里 ところで、最近は国の借金など、政治に関する色々な問題が出ております。日本の首相が海外に行っても相手にされなかったり、一方的にアメリカの大臣が日本経済に関して注文を付けたりしております。今、日本においては、強い真のリーダーが求められているのではないかと思います。大げさな話かもしれませんが、そういった外国の方とのお付き合いをするにあたって、どういう日本、日本人であれば良いと思われますか。

安藤 私が思うには、着飾らないで普段着のままと言いますか、お互いを理解し合えるきっかけを、色々な角度から考えていく必要があると思います。特に日本というのは島国ですが、他の国の人は国境を越えると、そこはもう自分の国ではない訳です。お互いを理解し合えなければ平和を維持することも、共存していくこともできません。他国の人と仲良くやっていきたいと言う気持ちがあるからこそ自分を理解してもらいたい、または相手を理解したいということになると思います。ただそれが一歩間違えるとマイナスの方向に行ってしまいますが、とにかく自分はどこの国の人間なんだと言う意識を持っていなくてはなりません。それが先ほど話しました「ふるさと」に繋がってくるのではないでしょうか。例えば、外国に行って自分を理解してもらう為にはどうしたら良いかということを考えると、やはり国旗を見てもらったり、国歌を聞いてもらうのが一番早い訳です。その辺りをしっかりと子供達に伝えていかなくてはいけないと思います。
(後略)

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こならの森156号

2008-05-28 | 101号~200号
       ■こならの森156号■2001.4発行
表紙 「三毳山 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■


ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・ドライブガイド………………… 10
関東フォーラム とちぎ……………… 13
風の独り言……………………………… 18
現代国語辞典…………………………… 19
やぶいしゃのひとりごと……………… 20
書評/絵本紹介………………………… 21
インフォメーション…………………… 22
 [映画・本・CD・ビデオ・コンサート]
各市文化会館情報……………………… 24
タウン情報……………………………… 26
安佐の人名クイズ……………………… 27
協賛店マップ…………………………… 28
こならの森から………………………… 30


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【本文抜粋記事】

風の独り言
もっと奥日光を楽しむために

 桜の花も満開になり、水ぬるむ季節となった。待ち遠しい春のおとずれ。私はこの頃になると日光に行きたくなる。しかし、4月、奥日光はまだ冬。5月にならないと雪が溶けない。
 お客様によく質問される。「日本で一番景色のきれいな所はどこですか?」。私は必ずこう答える。「日光湯元から金精峠に行く途中の展望台から見る、湯の湖、戦場ヶ原、中禅寺湖、男体山の眺めが日本一きれいですよ」。栃木県人の身びいきかもしれないが本当にそう思っている。私は日光が大好きなのだ。
 読者諸兄は奥日光に地図にのっていない小さな湖があるのをご存知だろうか。
名前を「蓼湖」「タテノウミ」という。湯元温泉から切込湖・刈込湖に行くハイキングコースを200m程入り、左手の谷底を見ると、周囲300m程の小さな湖(池)が見える。
この湖に入る正式な道はない。水の通り道を探し、熊笹をかき分けて少し下りると湖岸に出る。湖岸を右手に進むと幅1m程の流れ込みに出る。人がまったく入らないので、この辺の景観は神秘的なほど美しい。水は少しも色を持たないし、周りの木々は他より色濃いような気がする。
 さて小川の底をよく見ると、ビックリするほど大きなニジマスが泳いでいる。体長30~40cm位だろうか。ここのニジマスは7、80年前に湯の湖から移殖されたものだそうだが、完全に野生化している。尻尾がピンとはって美しい魚体をしている。よく見ると雪解けの春だというのに赤い婚姻色をしている。普通は秋に婚姻色が出て、オス、メス川を遡上し、適当なザラ瀬を見つけて産卵するのが定説である。ところがここのマスは春に婚姻色が出ている。
 何度か通いつめているうちに気が付いた。蓼湖に流れ込む小川は幅1m水深1m程。川を上ると約300m程で地中からの涌き水になり、川は途切れてしまう。この川は秋には枯渇してしまうのではないか。雪解けの今の時期にしか小さくても豊かな水量は維持できないのではないか。オス、メスが川を上り、並んで産卵できるのは今だけなのかも知れない。このことは私の仮説でしかないが、これが事実だとすれば大変な発見だと思う。この小さな湖に生きるマス達は種族保存のために、いつの時からか水量の多い春に結婚するようになってしまった。大自然に生きるとはなんと驚異的なことだろう。種族の継承のためにその婚期までも替えてしまった。なんという生命力、自然の力か。
 小川の入り口で神聖なマス達にそっと告げる。「頑張っていつまでも生き続けろ。」
 この湖は神秘の湖、そっと近づいて、そっと帰ってほしい。


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こならの森155号

2008-05-27 | 101号~200号
       ■こならの森155号■2001.3発行
表紙 「 桜と菜の花」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■


■155→

ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・花*花……………………………10
関東フォーラムとちぎ………………12
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・本・CD・ビデオ・コンサート]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
安佐の人名クイズ………………………27
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


● 三人寄ればトークショー●

『「つくる」をテーマに』
大森 彌さん
(東京大学名誉教授、千葉大学教授、自治体学会代表運営委員)
岡崎昌之さん
(福井県立大学教授、自治体学会運営委員)
高橋克法さん
(高根沢町長)
関東フォーラム栃木よりトークショーの模様をダイジェストで掲載いたします。
 トークショーに先立って三つの分科会が開催されました。その模様は次回より順次掲載の予定です。


司会 今日は、栃木県高根沢町で「つくる」をテーマにフォーラムを開催します。さて、分科会壱は、「環境をつくる」をテーマに生産者と消費者、都市と農村を結ぶ視点、ゴミ問題や流通との関わり合い、そして、二十一世紀に残したいものについて考えてみたいと思います。それではコーディネイターの岡崎先生にマイクをお渡ししたいと思います。

岡崎 環境という言葉事体は、幅広い意味を表わしていると思います。今日はそれを全てカバーするようにはいかないと思います。
 新潟県高柳町の春日さんは都市と農村を結ぶ農山村の環境をどうするのか。これからの農村と都市との交流でどういうふうにそれを新たに構築していくのか。そして、地元の高根沢からは、これも最近始まったばかりではありますが、周辺の市町村からもなかなか高い評価を得ている、消費者と生産者を結ぶリサイクル、廃棄物を新たなものに作り変えていく、そういったテーマです。そして、日鼻さんは日本を代表する、伝統のあるキリンビールという会社の環境部門の責任者です。生産者と消費者のあいだを環境という言葉を介してお話頂きます。
 まず、春日さんからお願いします。
春日 新潟県のじょんのび高柳からきました春日です。パンフレットにある「じょんのび」というのは、地元のお国言葉なのですが、のびのび楽々、気持ちいいという言葉になろうかと思います。
 「気持ちいいところだね」といわれるような、そういう土地柄に高柳をしたい。本当に縁あって生まれたこの土地で、楽々のびのび暮らしたい。そういう生き方をしたい。こう考えています。
 高柳町は昭和六十年から、これからの高柳の生き方、生き残りはこういうのではないか。行き着く先はこうじゃないかということを若い人たちが議論し、行政も一緒になりながらの取り組みをしてきました。六三年にはそれを少し組織だて、協議会とした。地域で頑張っている四十人。役場の若い人十人、助言者の先生方七人に入って頂いて、二年間に延べ二百回もの検討を頂いたり、集落の人と懇談会を開いたり、先進地へ見に行ったり、ということをしました。
 ここで少し、町の状況を説明します。平成六年から『じょんのび村』という、コア施設を手掛けてきました。そこを中心に、それぞれの集落で個性ある取り組みをすることによって町全体がさらに元気になる。そういう集落の取り組みをする。今年の三月二六日、これまでの取り組みの総括をしていただきました。行政が自分達の計画、議会からのビジョンに基づいた計画を作って、それを行政が総括をしたのでは、あまりにも手前味噌である。ということで全町民へのアンケートや六十人の方にヒアリングをしました。それには私ども行政は一切タッチをしません。早稲田大学の学生さんから、町民のアンケート内容、ヒアリングの内容などを発表していただいて、町民の方々のいろいろな意見を得られました。
 これまでの十年は、都市と高柳町との交流をいかにして作るかという十年であった。これからの十年は、今度は、おいでになった方々と集落で暮らしている人々の暮らしを結ぶような十年にしていきたい。交流ということをテーマに掲げている。お互いに取り組めて良かった。そういう生活に結びついた交流に取り組んでいくことが大切ではないか。町民アンケートでも五割くらいの方々が、これまでの取り組みについて好意的に受け止めています。私どももホッとしているところであります。
 これまでの取り組み、都市との交流の中で感じていることとして、今、私が大事にしていることを申し上げます。今までの私どもは、地域のものを売るため、地域の特産品なり交流施設に人が来て頂くための活動をしてきました。原点に返って考えると、自分達がこの村で、この町で生まれて、「ああ、これだから高柳はいいよね」「これだから、ここで暮らしていく意義があるよね」という心の拠所を見失わないようにしたい。
 もちろん食べていかなければいけないわけですが、心の拠所を持たなければ当然、食べていけません。経済活動も含めた近代化の取り組みの中で、食うためのことをやっているわけです。一つには自然です。町では今ブナ林の購入をしています。町の林にすれば誰からも切られる心配はない。ブナ林の中の観察もやっていく。
 それから生活文化の面では、茅葺きの集落をみんなで力をあわせ、県や町からも応援してもらって、保全しています。それは見せるためのものでも、売るためのものでもないんです。自分達は茅葺きの集落に縁あって生まれ、その中で暮らしてきた。「茅葺きの集落の中で生活してきて本当に良かった」という暮らしをこれからも創り続けていく。そのために茅葺き集落をしっかりと保全しておく。
 そして「食」です。地元のものをいかに美味しく食べるかということをもう一度考えよう。美味しく食べるという努力をしないと、駄目なんです。
 今、勉強会でやっていることは、春とれるものは春一生懸命食べる。夏とれるものは、夏一生懸命食べる。その季節、季節でとれるものをしっかり食べれば、一年間その土地で暮らしていける栄養はいただける。大切なのは、その中でいかに美味しく食べるかです。
 平成二年からは学校給食でも地元のコシヒカリを使っています。平成三年から野菜も地元でとれるものはそれを食べてもらっています。学校給食でも生産者を招待し、ニンジンのおとうさん、ジャガイモのおとうさんと。その土地に誇りを持つには、その土地の美味しいものをちゃんと食べる。そして自分達の大事な子どもにも、それを伝える。そういう農産物がとれるような環境をみんなで作っていくということが大事だと思います。
 それから集いと交流です。これはイベントなどもそうですが、人を呼ぶためのイベントではなくて、自分達が楽しむためのイベントです。そこで自分達の気が合う仲間と一緒にダンスをしたり、歌を歌ったりという考え方です。町の三大祭りの内、二つの企画運営は(お金は町の方で出すのですが)町民の方にして頂いております。一つだけは、町の行事として私どもが企画しております。
 それから純産品。この季節にはこの野菜、この山菜を食べる。これが高柳の味だよね。美味しかったよね。こういったものが今だんだんとなくなっている。やはりこういったものをしっかりと作れる。そういうことが大事じゃないかと思っています。
 それともう一つ。私達はポスターについても、「来てください」という言葉を使わないようにしよう。売るため、人を呼ぶための取り組みは薄っぺらで、直ぐ色褪せてしまう。都会の方は、薄情とは言いませんけれども、移り気なんですよね。
 ここは飽きたから、他へ行こうかと。それに合わせていたのでは、自分達の姿を見失ってしまう。自己表明をしよう。「自分達はこういう考え方でこういうふうに生きている。高柳はこういうところです。茅葺きの集落にしても何もありませんよ。お出しできるのは、地元でとれる野菜と、米と風景だけです。それでもよろしかったらおいでください」。先に自分達の素性を明かす。そういうことをしています。    
 一つのステップから地域の人たちがいろいろな活動を、地域でやってそれが積層し重なりあって、深みのある魅力をつくり出している。それが、都市と農村の長い交流を可能にするのではないのかなと感じています。
 人口は現在二五〇〇人。昭和三十年のピーク時は一万七千人いました。周りは、海側の柏崎市と十日町に挟まれています。雪は二メートルから三メートル、多いところでは四メートル。高齢化率は四十%を超えています。

岡崎 それでは、次に日鼻さんの方から、お願いします。

日鼻 私は今、社会環境部に属しています。立場は、環境対策の企画、立案、支援です。東京工場では醸造部長をやっていました。
 皆様の健康、楽しさや快適さを保つために、おいしいビールを作ってきました。非常に良いことをやってきたと思っておりました。社会環境部に来まして、地球環境を切り口にいろいろ整理してきますと、ビール工場の醸造部長というのは非常に悪いことをやっている。法律的には違反はやっていないが、地球にとっての悪さ加減が大きい。エネルギーをたくさん使うとか、廃水をいっぱい出すとか、ビール粕などの廃棄物をいっぱい出す。これらのことについて、適切に対策をとって来たわけですが、地球を切り口にした場合には気になることが多く、今それを改善しているところです。
 地球環境問題を踏まえて、国をあげて循環型社会を構築しようということで進んできています。当社もそれに向けた対策をとってきています。例えばISO14001を認証を取得していますし、それからゼロミッションですね。ビール工場は全部、いわゆるゼロミッションを達成しています。それから地球温暖化防止のための二炭化炭素の排出削減を、目標を決めて進めています。それから情報開示、教育啓発。社内だけではなくいろいろなところ、小学校、中学校という学校にたいしての支援もしています。
 ご存じのように、ビールは原料が大麦とホップと水です。それから酵母。こういった原料は、まさに自然の恵みです。だからこそ地球を大切にしたい。そういう思いがあります。
 ビールの製造工程というのは、自然界で行われている発酵の現象を工業化したものです。ですから使っているものは、薬品とか金属とかそういったものではないんです。比較的、環境的にはめぐまれた製造をしている。しかし、出てくるものが多量ですから、うまく対応しないと、環境の大きな負荷となってしまう。「次世代の子供達に、今の地球を残していきたい」というような思いでございます。
 こうした環境対策というのは企業の活動の一つであり、こういうことをやっていかないと企業は生き残れない。企業活動を適切にやっていくために、地道に活動をし
先端的な技術分野へチャレンジもやっております。例えば燃料電池です。環境に優しいエネルギーを作る設備を導入している。
 素晴らしい栃木県の環境の中で、特に高根沢のような環境を大切にする地区に私どものモデル工場がある。共に情報を共有化しながら何ができるかということを、ぜひ考えていきたいと思います。

岡崎 
 それでは、次に地元の鈴木さんの方からお願いいたします。

鈴木 開催地であります地元、高根沢町役場の鈴木と申します。高根沢町は過去からいろいろな事業を展開してきたわけであります。
 全町圃場整備事業や構造改善事業による営農集団の育成と併せて、農村農業の再構築を目指して、お祭りの復活とか、いわゆるハードとソフトを含めてやってきたわけでありますが、やはり農村から変わっていかないといけない。そういうことで平成六年に、リフレッシュビレッジ、「元気あっぷむら」というのを造ったわけです。
 これは都市と農村の交流を通じて新しい農業形態が創設できるのではないか。それにはアンテナショップとかがいろいろな形であったわけですが、例えば、高根沢町がアンテナショップを作ってそこへ年間、相当数の人が他から来て頂くとしても相当費用がかかる。そうであるならば、お客さまが町に来て頂いて、町を知って頂くのが一番良いとの考えで施設整備を進めました。農村の風景を利用した中ではじめて意義が出てくるのだろう。高根沢町へ来て、その風土の中で食べて頂く。その結果、米が美味しい、農産物が美味しい。おいで頂いて、そうした高根沢町の良さを知って頂くことが大切です。
 メニューの方も変わっています。みんなが元気になって欲しい。訪れた方も元気になってほしい。また、地域の方々も元気になってほしい。という形のメニューとなっています。
 いずれは、こだわりということで健康指向や自然指向に沿っていくつもりです。
 この「元気あっぷむら」の仕組みで一番大きいことはサテライトシステムということです。農業や農業施設の総てのものを有機的に結合しましょうということで、各集落で行っている村づくりの加工所や直売所、施設園芸農家などや商工業者などの商店と結合する。
 リフレッシュビレッジ構想により総てを計画していますが、最終的には農産物にもこだわっていきたい。農産物の価格の低迷ということですが、それをどうにかできないか。新しい農業形態、そして消費者の動向を捉え、その結果、有機なりに進んで行くという見通しの中で、問題解決に取り組んでいます。一般的には、生ゴミの取り扱いは、他の市町村では環境サイドからそれぞれの消費者の方々の要求をリサーチして処理していきますが、高根沢町では農業をとおして、「地産地消」によりまちづくりにつなげようとしたわけです。
 まちづくりの基本計画の中にゴミの問題がある。消費者が出しているゴミを土づくりセンターで受けて、酪農の方の糞尿を入れて有機質の堆肥を作る。それを使って有機などの美味しい農産物を農家の方に作ってもらう。今度はそれを町内の方に食べてもらう。
 いわゆる、ゴミでもってまちづくりができないか。一番悩んでいるのが給食です。やはり高根沢町は農村地帯です。ほとんど米が主力の町です。ですから、まず自分達が作った米を自分達の子どもに食べさせたい。そういうことで、給食のルートを作れないか、という検討をしています。土づくりセンターができることによって、それを大きく位置づけできる。また、町の生活も変わっていくし、いろいろな試みもできるものです。
 昨年の農業基本法を受けて、今各地で一斉にマスタープランを作っています。私どもも、平成二二年くらいをめどにした、生産コストの低減、有機農業、美味しい農産物の生産提供などをテーマとしたマスタープランを作ろうと一生懸命やっています。まず農民の方が元気になって、頑張ってほしい。
 今までは農産物が消費者のために町を横切って入ってきた。そうではなくて、農村(ここ)から市街地を繋ぐようにする。そういう仕組みが一番大切かなと思います。
 話は前後しますが、五月十五日の「食を考える協議会」でも、いろいろな意見が出ています。例えば、全国の学校給食を通じて食の安全性を学ぶことも大切とか。学校給食を充実させよう。子どもの食生活の重要性を教え、その中で地域の旬の農産物を大事にする。
 NHKの方がおっしゃったのは、どこの国も自分のお国の食材、農産物を大事にしている。そしてそれを食べている。やはり輸入に頼っている日本の現状をどうにかしないといけない。
 いずれにしても、この土づくりセンターができることによって安全で、安心な農産物がきちんと生産できる。それが大切なことです。
 それから高根沢町の都市と農村の交流。従来の考え方、極論から申し上げますと消費者と生産者がいて、生産者の方にリスクがある、と個人的には思っています。
 新聞などを見ますと、消費者が農家から前払いで直接農産物を買っている。そういう仕組みがアメリカなどで行われている。地域を支える農業を市民運動で行っている。今までと形態が違った中で、生産者と消費者が互角となった中での取り組みで地域農業を支える。そういう考え方にしていかないと、共生はできないのではないか。そのためにも、まちづくり関連に対しては、考え方も含めて早期に達成していきたいと思います。

岡崎 ありがとうございました。
地元の方も多いのですが、他から来ている方のために農業の概略、作物であれば何が中心か。それから土づくりセンターを運営していくためには酪農家、牛が必要ですが、だいたいどれくらいのボリュームか教えてください。
鈴木 高根沢町の農業でありますが、水田が四千ha。殆どが米、麦、大豆作り農家が中心です。首都圏に近い、立地条件が良い。また、どんな農産物でもできる。土づくりセンターの原材料としての家畜の糞尿は土づくりセンターが管理しているということではなくて、酪農組合の方が管理してる。全体で五十戸くらいなのですが、連携しているのは三二戸の農家です。総数にして五千頭くらいの牛で、連携しているのは約千八百頭くらいになります。
 土づくりセンターでやるというよりも施設をみんなで支えていく、そういう形態にしています。ですから町の施設であるだけでなく農家の方の施設でもある。そういう位置づけをしました。

岡崎 ありがとうございました。
(後略)

こならの森154号

2008-05-26 | 101号~200号
       ■こならの森154号■2001.2発行
表紙 「桜草(ブルー) 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■



■154号→

ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・関東フォーラムとちぎ………10
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・本・CD・ビデオ・コンサート]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
安佐の人名クイズ………………………27
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


佐野JC・教育フォーラム
「あなたは自分の“マチ”が好きですか?
子供達にどんな“マチ”を贈りますか?」


日本ふるさと塾 主宰 
萩原 茂裕さん


中里 今年3月に佐野青年会議所が行う教育講演会の中で、萩原先生には「ふるさと」の良さを再認識するためのご講演をしていただく事になっております。また、先生は日本ふるさと塾を主宰されているということです。そこで、先生の出身は旭川ということをお聞きしましが、生まれ故郷の旭川の「ふるさと」という感覚と、こちら(埼玉)の「ふるさと」という感覚の違いというか、どちらが先生にとっての「ふるさと」なのか、まずお聞かせ願いたいのですが。

萩原 それは未だに旭川ですね。旭川のことは一番心配になります。ですが、現在、私の票田は日本ですから旭川にはもう戻れないのです。以前に「市長に出てみたら」という話がでたことがありましたが、首長になってマスコミに取り上げられて、日本中講演に周る人がいますがそれは違うと思います。票は地元からもらっている訳で、市長になったら外に出るのはおかしいと思うのです。そういう人は日本中にたくさんいますが。

中里 そうすると、先生にとっては日本中に「ふるさと」があるという発想なのでしょうか。先生が感じる「ふるさと」とは、全国の色々な地域の人々と、心と心の触れ合いや感動といったものをあちこちで改めて味わいたいということなのではないでしょうか。

萩原 他にいけば教わります。座っていたら教わりません。また、私はお金を頂いたうえに勉強させて頂いているということは、凄い事だと思います。なかには子供に教わることもあります。もうひとつは、私自身、年上の人よりも年下の人との接触が多いので、尚も勉強になります。だから年を取っていられないんです。

中里 ですからいつまでもお若いわけですね。それと、今の学校の現状や社会問題のなかで「自由と規律」或いは「自由と管理」の関係が問われております。欧米のほうでは「個人を大切する」というような捉えかたをするようですが、ところが、日本の場合は「自分だけよければよい」というような感覚になってきてしまったような気がします。そういったことは、規律の中で学ぶべきものだとは思うのですが、そのような「自由と規律」の関係をどう学ぶべきものなのか、またはどう思われてますか。

萩原 「自由と規律」というなかの「自由」を勘違いしていると思います。個人の捉え方が日本の場合は少しずれていて、日本の「自由」はもらった「自由」ですが、ヨーロッパの自由は勝ち取った「自由」なんです。それは何のためなのかというと、国のためにです。日本の場合の「自由」は自分のためなんです。その違いがかなり開いてくるわけです。自分さえ良ければ良いと言ったような。だから、自分だけよければ良い訳ですから「要求」なんです。その違いだと思います。つまり、勝ち取った自由と貰った自由の違いだと思います。

中里 私は最近「私たちが生きた世紀」という、世紀とはどういう100年だったのかが書かれたエッセイ集を読みました。戦争体験をされた方の話が多いのですが、それを読むと、戦時中は強制的だったかもしれませんが、家族や国を守るためにという思想があったように思います。それが当たり前の感覚だったのかなと思います。ところが現在はそういう感覚があるのでしょうか。子供達が関わる色々な凄惨な事件が数多くありますが、日本人は、今後どのようにしていったら良いのでしょうか。

萩原 その時はどうなっていたかというと、戦争は家族とか国を守るというのが普通だったのですが、現状は親・子供のために、地域のために、国のためにという事がすっかりなくなってしまったという事です。意図して占領した国がやっているかもしれません。変な考え方をするとですけど。最近私はよくこの話をするのですが、ある国を無くそうと思ったら時間はかかるけど、戦争をしなくてもいいんです。教育からやっていけばいいのです。その国を嫌いにさせる教育をしていけばいいのです。そうすればその国はいつか絶対に無くなります。

中里 そうですね。最近では国歌を歌おうとしない若者が増えていますからね。

萩原 日本の素晴らしさを日本人の多くは気が付いていない。だから皆、海外へ出て行った子供たち、大人たちが帰ってきてから日本の偉大さが分かるということです。日本は島国です。他の国は一歩踏み出せばよその国ですから国際感覚は分かりますが、日本はそうではないので国際感覚が分からない。ですからどこかの国が意図してやっていることだと考えたら、非常に恐ろしいことだと思います。それは国のために、地域のためにという発想をなくされたと思います。それと最近思うことは、昔語りをしていないということです。昔は家庭のなかに三世代も生活していた訳ですから、おじいちゃんやおばあちゃんの苦労話を聞かせてもらいました。今はその話も聞けません。おじいちゃんおばあちゃんと繋がってないのですから。長い歴史の繋がりというものを知りません。それと私が最近気が付いたことは、年をとった年配の方は体のどこかが悪くなってきてもそれを隠すことです。これは隠してしまってはダメなんです。そういう時は孫たちに教えないといけないのです。そういうことが無くなってきてしまった。しかしそういう世相をつくったのは我々の責任だと思います。

中里 今、「新しい教科書をつくる会」という運動があります。現在は、日本の歴史について、自虐的な叙述で犯罪者扱いの表現しかしていない教科書が多いそうです。栃木県の中で『安佐地区』の教科書が一番ひどいと言われています。確かにそういった戦争はありました。悪い事は悪いと謝ることは大切ですが、日本人には、神仏を中心とする精神的な良い考え方もありますので、そのあたりの正しい歴史を教えていないのではないかなと思います。

萩原 自分の国を悪く教育する国はありません。あのロシアでさえ自分の国を自慢している訳です。国を滅ぼそうとする意識が働いてるのかもしれませんが。生まれたところを本能で好きになるわけですが、日本の場合はそれを壊してしまっている教育があると思います。

中里 色々な外圧でそうしているのか、先ほど先生が言われました国を滅ぼそうという意識が働いているのかもしれませんね。

萩原 最近ここへ友人のお嬢さんが来て、本人が言った言葉は「私は日本に帰ってきて5年経ちましたが、大変ショックを受けました。それは日本の子供たちが自分たちの国を自慢しないことです」と言われて、そのとき私は気がつきました。私が学生時代ですが、先生に「戦争で敗れて無くなった国は沢山あるが、戦争に敗れなくても無くなった国がある」と言われたのを思い出しました。なぜ敗れていないのに無くなったのかというと、「ある国がその国を滅ぼそうとして、その国の子供たちに自分たちの住む国を嫌いになってしまう教育を続けていったら100年、200年後には無くなる」と言われました。まさしくその渦中に日本があるのです。それをみんなが気が付いていないのです。

中里 そこで、特に先生にお伺いしたいのですが、これからの子供たちに、どういう形で日本人の良さを伝えていったら良いのか、日本の自慢出来る部分を子供達にどう表現したら良いのかお聞かせ願いたいのですが。

萩原 その前に日本は昔、他の国から「日本のここが素晴らしい」といったように、色々と誉められたところは沢山あったと思います。そこから勉強するべきだと思います。世界の目から見たら日本という国にはどういう価値があったのか。そうすると、日本という国は礼儀正しいとか親切だという評価をされていたかと思いますが、それは一体どこなのかということです。昔の人には武士道というものがありましたが、そういうところを勉強するべきだと思います。日本人の良さはそこに出ていると思います。そういう勉強は今は無いですね。

中里 「お互い様の心」や「おもてなしの心」といった日本古来の精神文化ですね。

萩原 そうです。そのころは周りを考えての生活というものが沢山ありました。色々な教育がありましたから、これからはそれを噛み砕いて話してあげることが教育だと思います。それと、他人のために流す汗で勉強できるということもあります。昔はそういう教育がありました。例えば瀬戸大橋が掛かりました。これは誰が掛けたのか。国民の税金です。そこで瀬戸大橋にありがとうという教育をすればよいわけです。今はそういう教育がないと思います。
 アトランタオリンピックが始まる前の年のことですが、農業共済組合の月刊誌の原稿を頼まれてまして締め切りが迫っておりました。そのときに、テレビで千葉の幕張にて開催されていた、国際柔道選手権の試合を見ていましたら、そこで日本の選手が負けました。外国の選手は握手してきたり抱きついてきたりしますが、日本の選手は全員それを振り払って、ふてくされたように帰っていくんです。そこで私が昔、先生に言われたことを思い出しました。「柔道・剣道は日本のお家芸で、基本は心・技・体だぞ。試合に負けても勝っても試合をさせてもらってありがとうという気持ちで挨拶することが基本だ」ということです。案の定、日本の選手はオリンピックでは惨敗してしまいました。

中里 私も剣道の経験がありますが「礼に始まって礼に終わる」ということを教えられました。それが武士道だと思います。全てのことに感謝ということで、家庭の中での躾ということにおいても親が示していかなくてはならないと思います。最近は、ありがとうと言えない子供というのも大きな問題だと思います。先ほど先生がお話されたように、日本人の良さなり昔からの伝統文化やその心というものを少しでも広められるよう、私の家庭でも実践していきたいと思いますし、青年会議所メンバーの家庭のなかでも一人ひとりが実践してもらいたいと思います。そういうところから「個人」と「おおやけ公」或いは、「個人」と「団体」の調和する関係について考えていきたいと思います。

萩原 私は、全部が教育だと思いますが、先日電車に乗っていましたら隣の席でまだ小学生くらいでしょうか、男の子と女の子そしてお母さんの家族がおりました。そのお母さんが週刊誌を読んでいたところ、雑誌のなかでヌード写真が出てきました。そこで娘さんが「おかあさん、いやらしい!」と言ったわけです。そこでお母さんはこういいました。「お母さんはそう思わないわよ。とてもきれいだと思うわよ!」これぞ教育だと思います。すごい教育だと思いました。

中里 そういった教育を私たちも実践していきたいと思います。先生におかれましては今後とも、様々な日本の良さを国中で発信して頂ければと思います。特に、3月の教育講演会ではその部分のお話を宜しくお願い致します。本日はお忙しいところたいへんありがとうございました。

プ ロ フ ィ ー ル ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
萩原茂裕(はぎわら しげひろ)
 昭和4年(1929)北海道旭川市生まれ。経営コンサルタント時代から、一つの企業だけが良くなるだけではなく、地域全体が良くならなければと考えて地域開発を手がける。まちづくりは人づくりを唱え、現代の松下村塾たらんとして日本ふるさと塾を主宰する。国内飛行便利用回数年間平均約150便という数字が活動状況を物語る。
 大宅壮一マスコミ塾優等貰、蓮沼門三社会教育奨励賞受賞。「手づくりのふるさと」「日本人とまちづくり」「レッツ・ラブ運動の展開」「第四の教育」上・下「お互いの力でまちづくり」「あなたはふるさとが好きですか」等の著書がある。


こならの森153号

2008-05-25 | 101号~200号
       ■こならの森153号■2001.1発行
表紙 「 花博にて+2001年の文字」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 東武佐野線ロマン
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

東武佐野線ロマン
 こならの森で、町案内をシリーズ化していた頃に、写真にあるような可愛いアーチ型のレンガ造りのミニトンネルを見つけた。何となくオシャレでその他にレンガ造りの建物があったりしたら、どこかのレンガ造りの蔵のような景観であったかとも思われる。だがその時はただ単に町案内という記事だけでその他のことは浮かばなかった。しばらくしてそんなことは全く忘れた頃に、あるレンガ造りの高架橋を何気なくカメラに収めた。出来上がったものを見て、はたと気がついた。そういえば別の高架のものもレンガ造りだったような………。そんな思いでカメラ片手に探索行脚が始まったのだった。
 まず久保町にある東武線の高架から。そしてすぐ隣の例幣使街道にある高架橋へ。やっぱり橋桁らしきものはレンガ造りなのだ。中までレンガなのかコンクリートなのか、何かのものに飾りとしてレンガをはっていてそれらしくしているのかは、わからないがともかくレンガなのは間違い無い。それからさらに一本向こうの高架にもいってみる。やっぱりレンガなのだ。これってもしかしたら東武線の高架ってみんなレンガ造りなの?
 最初に浮かんだ思いがだんだん実感として捕らえられるようになってきた。
 さらに北へ向かっていくと、最初に紹介した丸アーチのトンネルに出る。他のどれよりもオシャレだ。実際には、ここだけ特別と思えるつくり、デザインだ。さらに北へ行くと背の高い高架に出る。それもやっぱりはるか高いところから下までがレンガ造りである。
 しかも真下から見てみると紅白でデザイン的にもどこかの国の国旗のようであって、サイケティックな感じもする。さらに北へ、JRを超える高架はどうなっているのかと向かった。しかしここで残念なことに夢が破れかかった。やっぱりレンガのコンセプトは無かったのか。無念な思いで線路まで車を降りて向かった。写真でもお分かりの通り、コンクリート造りなのである。
 高架まで道路はおろか小道さえ無い。草原をあるってやっと高架の下までやってきた。するとなんということだろうそこには新たなる発見がまっていたのだ。車から見ていた側は新しいコンクリート製のものだが、車から見えていなかった反対側の壁は今まで通りの造りのレンガであったのだ。(何ごとも諦めずに調べてみなくてはいけない…これ教訓)。
 ここでいったん市内へ戻ってみる。東武線と国道50号線が交わる高架はどうだろうか。ここもレンガに決まっている。だがその楽観論はもろくも崩れてしまった。先のJR方式のように、基本はレンガ造りでその後の増築でコンクリート造りとなったのでもない。レンガをコンクリでおおったのだと思ったが、反対側を見てみてもその痕跡すら発見できなかった。
 どこからみても近代的な工法のようにしか見えない(もちろんこれには大きな勘違いがあるのだが)。ここに来て最初の思いが途切れてしまった。
 やっぱり大正ロマンとかそういったものはこんな小さな地区にはなかったんだ。当時の鉄道は華やかで駅舎にもロマンティックなデザインを取り込み象徴的でシンボリックな存在だったに違い無い。そして統一性や手を抜かない全体的なデザインコンセプトがあったはずだ。そうした考えが全てもろくも崩れてしまった。
 本来はこの辺で止めるつもりだった。しかし、これには何らかの理由があるはずだと、気を取り直してさらに先を目指した。
 次なる地点へ。高架の他に秋山川を超える鉄橋の橋桁もレンガ造りでは?。さっそく堀米町の秋山川にかかる鉄橋へ。土手に立ってみるとあったあった。本当にレンガが使ってある。
■ここで発見。
 東武線で佐野市に入ってくる先に目に入るのが『子どもの国』のロケットであることだ。そこまで計算に入れていたのかどうかは知らないが、これまた新たなる発見だろう。最近はライトアップをおこなっているということなので、この地点からの眺め、というより田沼方面から館林に向かう4時から5時前後の列車の乗客はその勇姿が楽しめるものと思う。

■こだわり
 実はその先にも高架があるようだ。ほんのちいさなものだったが念のためにいってみた。やはりそうだった。こんな小さなものにまでもレンガが使用されている。しかも道路は線路の下を潜っていくものであった。ここでは使われているレンガの量も少ない。わざわざこんなところにまでレンガを使う必要性があったのか。いわば効率を考えれば、他のものでも良かっただろうに、ここまでレンガにこだわったのは、よほどレンガがあまっていたか、もっとも安い材料だったのか?(そんなはずは無いと思うが)施工が楽だったのか、その他かも知れないが、なんだが取材者としてはこだわりを感じてしまう。
 現時点では『東武線レンガ説』の結論は出ないわけだが、今回はこれまでということに。




こならの森152号

2008-05-24 | 101号~200号
       ■こならの森152号■2000.12発行
表紙 「 三毳山の朝」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■


3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 旧谷中村を歩く
18p 風の独り言
19p お店情報
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

渡良瀬遊水池
『旧谷中村を歩く』
■谷中村を歩く
 少し肌寒い中、『こだま会』のメンバーは渡良瀬遊水池にある旧谷中村跡に集まった。今回は、こだま会のメンバーと一緒に、晩秋の谷中村の遺跡のようすを紹介する。
 曇り空の中であったが、元気に歩き出す。歩いて少し運動をするにはちょうど良い気候でもある。いつになく70名以上の参加者だ。今回は、谷中村保存会の針谷さんのガイドで園内をめぐる企画。こならの森でも幾度となく紹介してきたが、公園として整備されたのちにやってくるのはひさしぶりのことだった。
 旧谷中村役場跡に新しく作られた東屋で説明を聞く、~村を捨てていった人々と残り続けた人々の葛藤。どんな思いで村を後にしたのか。時代の流れの中でほんろうされる人々。そうせざるをえなかった人々の思いが語られた。
 当時の民衆と今の民衆ではその姿が、あまりにもかけ離れていて想像するのは難しい。民主主義の20世紀、そして来るべき21世紀に向けてその原点とも言える、谷中村にこられたことは何か作為的な、あるいはある種の意味を感じる。新しい地域や郷土を考える上での原点でもあるのだ。郷土の偉人田中正造の人としてもここが原点である。これは21世紀になっても、変わらないものであろう。
 旧役場前を過ぎて、道なりに進む。十数年くらい前訪れた時は案内版もなく、ただ呆然と広がる野原だけのところだった。背丈以上の葦が一面に広がり、先も見えなかった。そう考えるとは今の風景はゆめのようでもある。

 遠い過去の『戦い』も夢のごとしで、リアリティがないのはいかしかたないところか。
 どういう指向か雑踏の中を寺院跡まで、枯れ草をかき分けて向かう。何かあるのだろうと言う期待感とは裏腹に、行き着く先には何もなかった。進めど変化はない。それは、谷中村村民が通ったであろう先の見えない『同じ道』のような気もした。
 映画や小説、伝記などの記述と今ここにある現実とはなんとかけ離れたことか。そのことのギャップをいつも訪れるたびに感じる。
 遺跡周辺には、野ぶとうが一面に咲いている。食べてみたくなるほど美味しそうな実だが、可食できないのだそうだ。一見山ぶどうのように思えて食べてみたくもなる(実は著者は口に含んでしまったのだ)。ルビーやエメラルド、もちろんの野のもの。でもこの野のものというキーワードが正造らしくてマッチしているように思う。正造のイメージカラー(そんなものあっか)は、野ぶとうだと思う。野人、正造とその聖地に咲く野ぶどう。本当にマッチしている。それに出会えただけでも何か新しい発見に遭遇したようで、楽しい気分になった。 さらに進むと、寺の跡にでる。何もない遺跡の中で何かそれらしい象徴的なものがある場所はここだけだろう。
 歴史に残る墓標はこの地である。
 曼珠沙華の葉が一面に広がる。もう花の盛りはとうに過ぎているのだが、開花の時期には咲き誇って見事だと針谷さんはいう。
 それから、谷中湖の道路まで出る。そこには、今までの歴史的な風景から、うって変わって一面人工的な、画一化された風景画広がる。水も淀んで見えた。ちょうどこの日には、遊水池マラソンがおこなわれていた。遺跡の説明中にも、園内をめぐるスピーカーからけたたましいアナウンスが流れ話が聞き取りにくくなる場面もしばしばあった。
 ランナーがこだま会のメンバーをおい越していく。
 ここで、遺跡の案内は終わり。
 メンバーはまだ歩きたらなかったのか、ゆっくりとマラソンランナーたちに向かうように、さらに先の谷中湖まで歩いていった。


こならの森151号

2008-05-23 | 101号~200号
       ■こならの森151号■2000.11発行
表紙 「星空と少年 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■


3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-16p 川の博物館
17p トピックス
18p 風の独り言
19p オープン情報
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


ちょっとそこまで
『川の博物館』


川の博物館
 大水車が自慢というふれこみで訪れた博物館。これもやはりテーマパーク?という位置づけなのでしょうか。でも、記憶に新しい「東京で起こっても不思議じゃ無い」という、名古屋の洪水の例を引くでもなく、平和な時には実感できない川とその荒れ方、災害時の規模とその対策などあらためて実感できる施設である。名古屋のあの災害があって本当に新鮮味を持って受け止められるようになったと思う。
 距離的にはほんの数時間(と思えた)。大水車が目印と言うことだからとにかく行ってみればいいだろうと、むかったもののそれらしき水車は風景の中からその姿を現さなかった。今にして思えば当たり前だと思える。日本最大といってもたかだか30メートルの規模。
荒川と平行に走っているのにそれらしき施設は発見できない。方向音痴に陥ったのかという錯角の中、ひたすら走る。やがてありがたいことに目指す施設の標識が表れ、間違っていないことに気がつく。
 どうしてここに来たのかはともかく、『川』というものをテーマにした施設をこさえようという発案に感心した。規模的にはそれほどダイそれていない。それにもかかわらず、内容は充実していると思える。もちろんここまで来たのだからその期待を裏切ったらここで取り上げてなぞいないことでしょうけれど………。
 人々が川に関わった歴史が多角的に展示されている。荒川山系を形度った模型はその規模といい圧巻だ。入園は無料。その他の施設は有料。なんといっても一番に展望台へいってみることをお勧めする。ここからの眺めは逸品だ。荒川の流れも見える。川の流れによって削られた、川肌や崖などのようす、蛇行する雄大な流れなどが立体的に見える。
 本館内には展示ブース、地下施設、コンピュータールームなどがある。洪水のおこるようすや、被害の状況などのシュミレーションもあって立体的に楽しめる。
 先ほども触れたが、なんといってもメインは大水車である。風がある時などはその水しぶきが方向によってふりかかってくるほどで迫力一杯なのだ。


こならの森150号

2008-05-22 | 101号~200号
       ■こならの森150号■2000.10発行
表紙 「 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 美術館めぐり
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


   秋の日帰り!美術館めぐり
信州・安曇野偏&周辺散策・ドライブガイド

 信州の美術館・博物館はかなりある。「信州の博物館」という博物館・美術館ガイドに掲載されているものだけでも130くらいである。最近はブームとなっているのか、建設ラッシュで、実数はさらに増えて倍以上になっていると思われる。小さな美術館までも入れたらいったいどのくらいになるか見当もつかない。さすがは文教県と言われるだけのことはある。
 最近では、長野自動車道や上信越道が開通して日帰りも可能になった事もあって、ちょっと近くに、そこまで感覚で行けるようになったようだ。本格的利用は北関東道の開通を待たないといけないかもしれない。
 芸術の秋に美術館と観光の一挙両得の旅、これはもう出かけるしかないでしょう、これからのシーズンに。
 皆様の好評に答えて今回も企画してみました美術館めぐりの旅。
 ………と思って出かけた信州美術館めぐりでしたが、行楽シーズン中の事もあり有名な八風山トンネル他の渋滞に遭遇したり、それをさけるために軽井沢手前で高速をおりたら何のことはない、その先(軽井沢付近)までの大渋滞に巻き込まれてしまい、全く進まない。これなら高速を降りるんじゃなかったよ。しかたなくまたUターンして高速に乗り込む。でも、皮肉にも渋滞はさっきより激しくなったみたい。ノロノロであるが、進まないのよりましか。ここを過ぎればと、じっと我慢の運転が続く。時間的には、同じようにも思えるが、疲労度は違うだろうというのが感想か、なぐさめか………
 佐野から松本までは高速を使わなくても6時間というのが一般的な見方。しかし、我が取材班が穂高にある最初の美術館に辿り着いたのは午後4時だった。すべてを甘く見ていたのだ。出発時間が遅い設定の午前10時。これで、日帰りができるのかー。(まあ、まあ………編集長)
 結局所用時間は同じか。しかし、予定のコース設定が甘かったこともある。経費節約のため、あろうことが上田市から高速を降りてしまったのだ。それも手違いがあって、上田市の一歩手前のインターでである。ここで数十分はロスしてしまったであろう。それから上田の市内を抜けるのにまた一苦労。その後も、山道がつづいて疲労困ぱい。道の途中に見える、高速道路の高架が何とうらやましく思えたことか。上田市から山を超えれば、穂高はすぐそこ、そう思ったのに………
 最初の予定は、ちひろ美術館である。いわずと知れた、岩崎ちひろの美術館である。もちろん東京(本館)にもあるし、なにも安曇野までいかなくてもと思えるが、そこが違うんだな(急に相田みつを風)。
 特に黒姫にはちひろの別荘があり、俗世間から離れて創作に没頭できる空間が確保できた土地でもあるのだ。この美術館にはその創作現場となった別荘も復元されている。絵本にあるような、薪ストーブも錆まみれながら置いてあった。
 ………でもここで時間が切れてしまった?。もう夕方。高速を使えば今日中には戻れそうだが、もうその気力が残っていなかった。もろくも日帰りの予定(夢)はたたれた形だった。

■次の日。

 この『日程上』の、朝が早いのは本当にいいのだけれど、開いている美術館がない。しかたなく、ワサビ田の中の散策路を散歩する。朝の散歩のことを『単語』で言うとどういうのだろうか、『朝散』じゃないよね。でもこういうときは、あいさつがわりに何かことばがあってもいいよね。(フツウの人はそんな暇があったらアサシャンか。でも心身共に美しさを保ちたいならやっぱり「朝散」でしょう)。「アササン行かない?とかね。『ゴゴッティ(アフタヌーンティ)』があったりするんだから。
 本当に気持ちがいい。そして、また気分が爽やかになる清流。水路がワサビ田にめぐっている。
 もうワサビの採取はしていないということだが、本当にわき水の清らかさには驚かされた。付近には、民家や美術館、ドライブインなどがあるにも関わらず、澄んでいたからだ。
 近くにはガラスの美術館があったが、開館時間(ちょっと)前だった。
 豊かな清流に恵まれた扇型盆地の安曇野ではあるが、やはり夏は蒸し暑く、冬は寒いという盆地特有の気候条件地にあるようだ。

■山下清展
 スイス村では、この時山下清展が開かれていた。余りにも有名な人で佐野にも来ている。花火の大作は足利の花火を彷佛させる。
 素朴な作風と、それにもました素直な日常。それなのにどうして自然?ではない死に方をしたのか、いまだかって編者にはそのことが不思議でならない。

■豊科近代美術館
 あづみ野の山岳地の中腹には、小さな美術館がある。小粒ながら各々個性を発揮してこの地域の雰囲気にマッチしている。それは、土地に溶け込んだとさえいいえる美術館ではないだろうか。極論をいえば、安曇野の自然こそが究極の美であるのに(これ日本的な美感ね)どうしてそれ以外の美が必要なのだか。
 それがはっきりしたのは、小さな町の中を、迷いながらも探し当てた町立の美術館へいった時だ。ここで過ごした、数時間は展示内容の時間性ともあいなって、普遍的な内容となった。
 小さな町なのにどうしてこんなに素敵な美術館があるのか。ここだけ異国に来たような気分。あまり期待していなかっただけにお勧めだ。
 ここでできること、そしてそれこその空間の広がり、なんとも日本的なものが具現化される現実。小さな美術館でこそできないものがある。そのことをまざまざと見せつけられた一時であった。やはり長野は凄い。と、喜んでばかりはいられない。あなたの住む、自分の町(足元)を見れば良く分かることでしょう。
 帰りは、もう悲惨。昨日の内に帰ってしまえば良かったよと思ったほどだから……。なんであんなに渋滞するの上信越道、それも決まったところで………。


こならの森149号

2008-05-21 | 101号~200号
       ■こならの森149号■2000.9発行
表紙 「 奥日光」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 奥日光を歩く
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


『初秋の日光を歩く』 

 少し前までといっても20年くらい前だが、(少しじゃないじゃないか)奥日光というと、華厳の滝、竜頭の滝、中禅寺湖に男体山だけだと思ってきた。実際には、そこだけを見て帰るという人が大多数だと思う。


■奥日光の中の奥日光

 今回は、戦場ヶ原を歩くということに。もちろん何度か行った方も多いとは思う。でも何度いってもまたいってみたくなる場所ではないだろうか。上高地とか尾瀬が原とならぶ場所だとも思う。
 しかしその奥には神秘の湖、西の湖(さいのこ)や千鳥が浜などの砂浜があったりする。これが『奥日光の中の奥日光』といわれるゆえんか。この付近の存在を著者が知ったのは私が高校生の時だった(ふるーい)。その後も何度か訪れたが、やはりつねに歩っていた。
 最初に訪れた時は梅雨時の6月、当然の雨。しかし、その時のことが一番忘れられない。二輪だったので獣道をも走行できたのに、なぜかあるって中禅寺湖まで行った。当時話題だった湖畔に住んでいる人から、その先は道がないし雨もふっているからやめなさいと、さとされた。
 二度目は、まだ小田代が原経由で千鳥が浜まで行く道の通行が自由だった時。それも燃える紅葉の時。どこまでもつづくカラマツの燃える紅葉の中のドライブだった。紅葉の中にひときわ浮き立つ一本の白樺もまだそんなに有名ではなかった頃。でも、印象深い。

■やっぱり行くなら秋(これから)だ。

 今回走破したのは、戦場ヶ原のメインルートのひとつ。小田代が原をなめて湯滝へと抜けてるコース、その他にももちろんたくさんのコースがある。
 スタート地点は、バスの発着所がある赤沼。
 国道を渡り、熊笹の森の中へと。戦場ヶ原には何本かの小川が流れている。水は澄んでとても冷たい。鬱蒼と茂る木々がどこまでも続く。しかもアップダウンがほとんどない平坦地。気軽な格好でもあるけてしまうところだ。もちろんそういう人はあまり見かけないが………。
 一時間ほど歩くと、森が開ける。そこで昼食となる。遠くに男体山、他の連山が見える。
 視界が広がったのもつかの間、また密林へと入っていく。それもまたつかの間、十数で小田代が原へと到着する。ここからは木道を小田代が原を横目にみながら進んでいく。白樺林をみながらのトレッキングがまたいい。
 30分ほどで、赤沼と湯滝方面への分岐点へ差しかかる。湯滝も近い。約2キロほどの道程。
 川に沿って歩く、木陰がさわやか。釣り人の姿も見られた。清流が続く。ちょっとしたアップダウンもあった。高原というより、普通の山道といったところか。
 のぼっり切ったところには、小さな落差の滝があった。まもなく湯滝へ到着。
 帰りに、光徳牧場へ向かう。有名な牛乳をごくり。アイスクリームもペロリ。この先に広がる、刈り込み切り込みの散策道へも足をのばしてみるのもいいかも知れない。機会が有ればまた、紹介していみたい。この先は、男体山の裏側へ出られる。中腹までの林道もあり、途中まで行ったことがある。ダートである。