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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 100号

2008-04-26 | 創刊~100号
       ■こならの森100号■1996.7発行

表紙 「彼岸花」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…なでしこ……3p
その他の情報…/猫バス24……4p
結婚…赤坂さん夫妻…96/7/21
特集/100号………6-17
JC・JOURNAL…OCR……18-19p
インフォメーション95………20-23p
知らんの5つの市/…………24
書評・絵本紹介………………25
海棠市子の映画評……………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………30p

【本文抜粋記事】

こならの森発刊前夜
 今から10年くらい前、会社を辞め、しばらくの間、フリーライター(と言えばカッコイイがただのフリーター)をしていた。その時点では、脱サラだとか、自営業を営むつもりなどなかった。ただの空白期間(充電期間)だと思っていたのだが、あまりに長かったためか再就職をするタイミングを失ってしまっていた。そんなことをしながらも同時に就職活動もしており、面接にも行った。
 なんとなくもやもやとした時がいたずらに過ぎた。年が明けて本格的な冬が訪れた。ある2月の夜だったと思う。今までの気持ちをふっ切るように、『そうだタウン誌作ろう』と思いはじめた。それまでに、ミニコミ紙を作っていたこともある。その夜は眠れなかった。しかし、そうは思っても、人間の決断なんていいかげんなもの、(特に私は)次の日の朝になれば、そんなことやっぱり無理だよ、諦めよう。そう思うだろう事は、興奮して夢見心ながらも片隅に思っていた。明日になればノノノ。 だが明けてみると、今回はいつもと違っていた。ほとんど眠っていなかったからだろうか、もうろうとした意識の中で、どうしても『タウン誌作ろう』そう決心していた。
 後はたいした障害もなく一気に創刊まで突き進んで行ったように思う。猪突猛進型の性格のためか、殆ど後先のことは考えなかった。もちろん冷静に物事を考える性格だったならば、今の自分はなかっただろう。
 それでも、やはり出すからには3号くらいは続けたい、とその分だけの資金は用意したつもりだった。創刊号は夢のようだった、あの日からずっと夢を見ているような気もする。そして今も(悪夢をノ)。そのままの勢いで2号を発刊し、3号の発刊を準備する段階になって資金が底をついてしまっていた。3号を発行するのはいいが、印刷代が払えるのか、分からない状態だ。その頃から先の見通しが甘かった。
 しかし、現実は自分の知らないうちに意外な方向へ転換して行く。佐野でタウン誌を創刊したということで、各マスコミがこぞって報道してくれた。それが幸いして、協賛店が増え3号も無事発行することができたのだった。
 その後も、辛うじてだが『維持』することだけはできた。
 そんなこんなの8年間。
 この文章を書こうと電子原稿用紙の画面に向かうのだが、一行に進まない。そればかりか、あんなことこんなことが交錯してとても文章にならない。
 本当にお世話になった方々、多大な助言を与えてくださった諸先輩、家族や友人たちの支援など色々なことが浮かんでは消えて行く。


こならの森 99号

2008-04-22 | 創刊~100号
       ■こならの森99号■1996.7発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「田中重光さん タバコ」
■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…たちあおい…3p
その他の情報…/猫バス23……4p
知らんの5つの市/…モカ………5p
お店「いちろうの店」…6p
結婚…山崎哉さん夫妻………7p
特集…99の質問……8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
両毛神楽物語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………30p

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【本文抜粋記事】

海棠市子の映画評
シリーズ完結編2本立て!!『罠』
監督●林海象/出演●永瀬正敏、山口智子、宍戸@錠、夏川結衣、杉本哲太ほか
物語●横浜で次々起こる連続殺人事件。マイク(永瀬)の恋人(夏川)も犯人に狙われ、
マイク自身は犯人として警察に追われる。私立探偵・濱マイクシリーズ初のサイコスリラー
《シネスイッチ銀座、横浜日劇(黄金町)にて絶賛上映中》
『必殺!主水死す』監督●貞永方久/出演●藤田まこと、三田村邦彦、中条きよし、名取裕子ほか物語●主水が今回関わった仕事は、将軍(細川ふみえ)に双子の兄妹がいた?!と、起こる大奥の権力争い。が、そこで昔の女(名取)とその夫だった権の四郎(津川雅彦)に出会い………。《新宿ピカデリーほか松竹系で上映(しているところもあると思う》
 イヤな季節の到来! 夏、です。最近、どんどん〃夏〃が増えてきて、ヘタすると5月から10月ぐらいまで暑いんだもん、冗談じゃない。 っつうわけで、今号が出る頃、ロンドンに避暑です。突如思い立った、単にヴァージン・アトランティック航空に乗りたいがための英国。でもビートルズとストーンズとホームズとパンクとアフタヌーンティーとウェッジ・ウッドとモンティ・パイソンと狂牛病とテロの国@ 無事帰ってこれるのか………@ さて、6月も中旬を過ぎると夏休みに向け盛り上がる映画界。邦画も伊丹の〃女〃シリーズ(なんじゃそりゃ@)『スーパーの女』や、この撮影中にCharaと浅野〃カフェレシオ〃忠信がデキちやった結婚という曰く付きの、ご存知、私が嫌いな岩井俊二の『PICNIC』、長崎俊一3年ぶりの新作で期待大の『ロマンス』などなど、かなりイカしたラインナップで公開中。
 その中から今回取り上げたのは、今さら説明不要の『必殺』と、1・2作目ともここで取り上げた、私の超お気に入りシリーズ、私立探偵・濱マイクの『罠』です。はからずもどちらもシリーズ完結編。が、その完結編ヘの評価は真つ二つの正反対! まだ観ていない人や、どっちのことでも「つまらない」は聞きたくない人はすぐ次頁へ。いいですか。
 文字数に余裕がないのでポンポンといきます。まず『罠』、すごい好き!ライブや監督・出演者の挨拶付きのスペシャルプレビューで観たんだけど(生の永瀬はやっぱ小っちゃかったけど、めちゃカッコいい@)、前半のイベントの仕切りが悪くてイラつきまくってたのに、上映が始まったらすっかり忘れて夢中になってしまったほど面白い@
 濱マイクシリーズとしてはやっぱり1作目の『我が人生最悪のとき』がベストだけど、単独ではコレが一番@ 映像も展開もスタイリッシュで、なにもかもイカしている。でも行き着くところ結論は、@永瀬@に尽きる。すごいよ、この人! おおっぴらに宣伝していることではないので、何のことだかここでは言わないでおくけど、観れば私の言いたいことはすぐわかる! ホント、最高の映画俳優です。必見@と、『罠』を褒めたら、もうおわかりですね。『必殺』、最低でした。違う意味でシクシク泣けちゃった。こんなつまんない話で主水の最後を飾るなんて………! 秀さんもフケちやって、あの程度の役なら出ないほうが良かった。リツとセンなんてただのおバカだし。だいたい││あ、ラストシーンをバラすから、観るつもりでまだ観てない人は絶対この先は読まないで!││主水の最期はさ、あんなズルい小屋の爆発なんかじゃなくて、ドロにまみれての野垂れ死にだと思うの。それでも最後の最後まで自分が仕事人だとバレないように刀を捨てたりしてね。せめて名取格子に刺されたままで息絶えて欲しかった。
 とにかく話が中途半端。「主水の最期」と銘打つなら、もっと鬼平並にハードにキメればよかったし、娯楽時代劇にしたいなら主水を殺さない。たぶん営業的に、色っぼい細川ふみえで話題作りとか、いざとなったら主水が復活できる道を残しておこう、ってことだったんだと思うけど、これはないよ、ホント。主水も浮かばれんな………。
 というわけで対照的な完結編2本でしたが、どうもどっちも続編ありそうな感じ。マイクの方は既に「30代、40代のマイクをやる」と宣言しちゃったしね。でもハッキリ言って、マイクの続編は大歓迎ですが、必殺にはこれ以上老醜をさらしてほしくないです。


こならの森 98号

2008-04-22 | 創刊~100号
       ■こならの森98号■1996.6発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「田中重光さん 田植え」

■こならの森7月号■

おぞねとしこのポエム…はぼたん…3p
その他の情報…/猫バス22……4p
知らんの5つの市/…ポポロ………5p
両毛神楽物語………6p
結婚…寺内実さん夫妻…7p
特集…一号一絵……8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………30p

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【本文抜粋記事】

新・こならの森から
 昔から一つでいくつも兼ね備えているというものが好きだった。例えば3ウェイバッグ。結局店の人に、一つ一つが完璧にならないから、すすめられないよと言われた。事実どれも中途半端でこれだけでどうにかしようと思ったら無理があるのかもしれない。
 しかし日本の囲炉裏などは暖房、調理、照明、防虫・防腐などいくつもの機能を備えていたように思う。照明、調理についてはいささか今日的には無理があるかもしれないが、照明などは読書をしたり仕事をこなしたりと言うことがなければ、この明かりで充分なような気もする。
 第一に、エネルギー問題がほぼ解決してしまうし、エネルギー消費による廃棄物、木灰が次のエネルギー(薪=樹木)を育てる格好の肥料となる。植物は本来自給自足の生活が基本だという。雨の中には植物の成長に必要な窒素が溶け込んでいる。太陽エネルギーを受け成長し、木の葉を落とし、次の成長の養分とする。植物は動物の先輩だという。植物が先に繁栄しなかったならば、動物の繁栄もありえなかっただろう。
 そんなことを最近始めたミニ菜園とミニ陸田の世話をしながら考えている。陸田の方は、賢治のいうような、「創作止めばふたたび土に起つ」、「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」という具合にはいかないようだが………。



こならの森 97号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森97号■1996.5発行

表紙 田中重光「草刈り風景」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■

おぞねとしこのポエム…いちはつ……3p
その他の情報…/猫バス21……4p
知らんの5つの市/…三活………5p
両毛神楽物語………6p
結婚…家持孝行さん&美保さん…96/3/24
特集…農と住……8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

TOPICS

春の酵素講習会

 酵素治療家の河村文雄さんの教えを受ける、板倉町在住の関田安次さんを講師に迎えて、手作り酵素の講習会が佐野市内の家庭の一室を借りて行われた。
 関田さんは、午前10時から、2時間あまりに渡り講和。その後は酵素で処理した食事を試食しながら質問などに答えて歓談した。
 講和では、手作り酵素の話だけでなく、最近何かと話題のアトピーについてや食品汚染、ライフスタイルの変化などから不健康な人が増えている、健康を取り戻すにはどうしたら良いのか。また、病気にならないためにはどうしたら良いのか。
 「汚染物質に囲まれて生活しているが、それらを酵素で解毒することができる。病気はそうなる前に予防しておく事の方が大事。食べ物がこれだけ悪くなっているのに、それを受け止める、身体が悪くならないはずが無い。」など、興味深い内容となった。
 関田さんは「酵素とはタンパク質のことで、これを常飲すれば細胞が活性化され、よみがえってくる」のだという。手作りであるため、一般的には酵素の元以外は市販されておらず、春に取れる自然の野草を摘んで家庭で手作りされるということだ。



こならの森 96号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森96号■1996.4発行

表紙 「田中重光/画 小野寺のしだれ桜」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

おぞねとしこのポエム…やまぶき………3p
その他の情報…/猫バス20……4p
知らんの5つの市/…5p
創作童話 最終回………6p
結婚…川崎 仁さん&里美さん…96/3/24
インタビュー…インターネット……8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
野良犬先生………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

インタビュー

「インターネットってなに?」

出席者
両毛インターネット 大峯義博さん
ソフトウエアー・ワークショップ 新堀龍明さん

インターネットといってもまだなじみのない事なのですが、分かりやすく言うとどういうことなのでしょうか。

 これもまだなじみの無いシステムですが、ローカルエリアネットワークという企業内だけの通信の仕組みがあるんです。それを一つの組織だけとか、会社だけで使っていると、対外的な通信ができない。それをつないでいるものがインターネットなのですね。最初にそのインターネット構想を作ったのは、アメリカの国防省です。
 軍の基地がある、それがアメリカ、また世界に点在している。一つのコンピューターシステムが直撃を受けると、機能をしなくなる。ですからそのコンピューターを分散して、つないでおけばいくつかが壊れても、他のコンピューターでそれを補完できるだろう。それがインターネットの始まりなんです。

 何年ぐらいに始まったのですか。 最初のスタートは1968年頃です。

 情報ハイウエーとは別なのですか。

 今言った米軍の線を情報ハイウエー化しまようということで、ゴア副大統領がオープンにしてきたわけです。
 冷戦終結でソ連の攻撃も無いだろう、せっかくあるインフラなんだからそれを企業とか大学とかにで一緒に使いましょう。お互いのコンピューターがつながれば、データのやり取りには一番都合がいい。これがインターネットのスタートです。

 民間で使えるようになったのは何年くらいからでしょうか。
 アメリカでは本格的に使い始めたのは1988年です。

 本当につい最近なんですね。

 日本では1993年の12月からです。ですから始めて2年ちょっとですね。それも93年に、郵政省の基準を下げるために、慶応大学の村井先生と東大の西沢先生、我々の上部団体である東京インターネットの高橋さんなどが、郵政省に働きかけた。『通信の障壁を解放しなければ、日本はアジアで最後進国になってしまう。』と言うことでの対応です。

 日本以外のアジアの国々では活発に行われている訳ですか。

 シンガポールではもう国営化されています。基本的には国がインフラを負担している。ですから一番お金のかかる海外につなぐ費用などが出来ているわけですから、使うのが簡単です。使いたいというと、すぐ線を引き込める。

 海外へは新たなケーブルを引くということですか。

 基本的にインターネットは国際間の通話には電話会社の電話線を使いません。一部日本はKDDとかのラインを使っていますが、日本に来ている何本かは米軍が引いた光ファイバーなんです。日本の電話会社の線が切れた場合に、光ファイバーを使えばアメリカにはつながる。ですからそれらが全部瞬間的に無くなってしまうということは、おこらない。ですからその部分での安全性というのは高いんです。ただ今では、米軍の引いた光ファイバーだけではとても足りない。今はKDDのラインを使っていますが、太平洋ライン3本を2010年までにいれるという計画でした。それは20年計画でしたが、去年までにその3本を引き終わってしまったんですね。それでもう一杯なんです。2010年までには、もう3本引かなくては間に合わない。それだけ重要性が高い。大量のデーターがある。

 光ファイバーというのはかなりの情報を送れるという聞いているのですが、それでも足らないのですか。

 結局電話というのは音声ですから、光ファイバーの中に音声として、ある周波数を入れますと、一本120万回線入る。しかし、コンピューターの回線というのは、人間の言葉の幅ではない。デジタルデータがあると、それが100分の一くらいに減ってしまうんです。音声の100倍多いデータを送りますので、当然情報量としては回線数が減っている。同じ量を流そうと思えば当然何本も線が必要になって来てしまう。そういう部分が日本は遅れていたということです。今までKDDが独占していたものを、通信事業法を一部改正して国際電話会社を増やした訳です。それでもとても間に合う訳は無いんですね。それ自体がもう迫っていた訳ですから。
 住友商事とか日商岩井はシンガポールまで自前の線を持っています。自分の会社で引いちゃうんです。引く船が日本にある。海底ケーブルを引く船です。それは世界でも日本にしかない。それは、シンガポールまで2カ月で線を引いて行ってしまう。自前の線ですから、他の人に貸すことも事業法が変わったので出来る。
 プロバイダー(接続をサービスとして行う会社)が自分達の上の線の費用負担をしますので、その下に付いた人の会費などでそれを維持して行くというのが、インターネットのシステムです。 例えば足利で100何十名の人が入っている。それが業務の上のラインの費用負担を全員でしている。一人で引けば月額何十万以上のお金がかかるんですけれども、それを100人で割れば、その費用の100分の一とか200分の一ですんでします。それで大体同じサービスが受けられる。当然個人の人にとっては一番便利ですし、企業でも自分で引けばいいわけですが、そんなに経費負担をしてもしょうがないですから、どんどんそこに乗り変わって来ている。

 具体的なメリットは、またどんなことが出来るのか。

 インターネットの側面というのは二つあるんです一つは、買う側のインターネット。もう一つはインターネットを使って情報発信をする、送り側ですね。この二つが混在しています。圧倒的多数は情報を受ける側なんですが、新しいニュービジネスということで、情報を送る側になって来ている人達も多いのです。というのはお店を出すという訳ではないですから、例えば個人でやってもそんなに莫大な費用はかからないし、自分で自分の何か、パーソナリティを売り物にしたりと言うことも出来る訳ですね。例えば、私はカブトムシの飼育をしていて、一年幼虫、二年幼虫を一匹5000千円でお分けします。そういう部分で、何でも出来るんです。コンピューターの今までの文字の情報では無くて、絵の情報、動画の情報、それから音声も出せます。 紙のメディアの方にはちょっと失礼なのかも知れませんが、非常に近い存在なんです。紙のメディアというのは、視覚ですけれども、これに音声が加わってくると非常に強くなってくる。今の人は活字を読めないとか、いろいろある。それを絵で訴えてしまう。音声で来てしまうと、どんどん浸透して行ってしまう。ですから、文字の文化から完全に新しい、今までの雑誌とかのメディアから完全にマルチメディアという世界に移行して行く。マルチメディアというのは、インターネットの事だと私は思います。全てがそこに凝縮されて行く。それを行えるのはコンピューターでしかないわけです。それにプラス通信網、その通信のインフラとしてはインターネットがあれば、もう全ての情報のやり取りが出来る。

 それを扱えるコンピューターもそれなりの物を揃えないといけないのですか。

 そうですね。ただ、インターネットの場合は低価格です。それから、新しくこんなソフトを作ってこんな情報サービスが出来ますよというものは、今インターネット上ではただで配っています。入りますと、そこら中の大学のコンピューターにおいてありまして、それをもらって来て、セットして動かせばその場から使える。そして何かあったら連絡してくださいと書いてある。ソフトですからバグなんかがあるわけですけれども、バグがあればそのレポートを書けば、新しく直ってくる。どんどん新しくなって行く。その中で、それを作る人もビジネス化出来るかと考えて、一本千円で売りましょうとかなる。日本での利用者も500万人近くいますから、もし全員が買われたら500万本は売れる訳ですよね。マイクロソフトが去年売り出した、ウインドー95だってまだ1300万本しか売れていない訳ですから、それに匹敵する位のものがある。インターネットで使われているソフトは、だいたいモザイクが二人、ネットスケープが3人で作っています。アメリカでは今マイクロソフトに次ぐエクセレントカンパニーです。
 日本などでも例えば桐生などではわたらせネットなどが、ニフティなどにつないでやっていますが、パソコン通信というのはどうしても閉鎖的社会なんです。そこに加盟している人でしか一つの情報を共有出来ない。インターネットはインターネットでそれに加盟していなければ、共有出来ないんですが、その器自身が日本のニフティではなくて世界のインターネットになるわけですか唯一無二、ひとつしかない訳ですから、全員が入っていれば共有出来るわけですね。語学の問題を除けばね。

 全世界どこからでも情報を引き出せるわけですね。

 それはやはりポテンシャルが違うんだろうなと思います。ですから今、パソコン通信の上でインターネットに相互乗り入れ出来るように、変えているようです。一般のユーザーにそのサービスが出来るのは、インターネットの方が強いですし、そこを通じてやる方がかえって難しくなっている。
 パソコン通信がインターネットに乗り入れるというのは、インターネットとパソコン通信の違いで言うと、基本的にパソコン通信は画面で打ち込んでという形ですよね、インターネットは画面も写真とかそういうものも入って音声が送れてという形です。

 その乗り入れるというのは。

 同じサービスが出来るように、パソコン通信の会社がソフトを変えているんです。
 画面が入って音声も入って、という。ソフトもアメリカの学生さんが作ってパーっと全世界に配って、どんどんよくなっている。基本的にはただみたいなところでやっている訳です。ところがパソコン通信会社がそれをソフトまで開発してやろうとすると膨大な費用がかかる。実際は出来ないだろう。

 将来的にもテレビ電話ではないけれども、それでしゃべれる。

 パソコンの側にビデオカメラを付けて自分の顔を写しながらそれを送ってしまう。相手も同じことをやる、お互いの画面がそこで音声も伝わっているし、画像も伝わっている。それでパソコンの画面でどこが悪いとか、ここのデザインは悪いとかいいとか、テレビ会議みたいなものです。それがもうすでにやっています。マッキントッシュを使った方の方が進みが早いです。一昔前なら十万円や二十万円したのですが、今は2万8千円で付いちゃう。ちょっとしたものを付加するだけでそういうことができる。

 構造的な組織図で、世界の組織からここへ至るまでの流れは。

 日本には幾つかの大手プロバイザーがいるんですね。実際にはもう6社くらいあります。私共は東京インターネットの下に付いている。ユーザーさんがさらにもう一つ、これはボランティア団体なんです。実際は文部省が補助金を出していて、東大の電算センターにある。ここに線を集めるんです。それはNTTの交換機を使っています。

 ビジネス的に使った場合のメリットは。

 当然ビジネスに使う場合は、今までの企業は、ニューヨークに支店がある、東京に本社がある、という場合に自前の専用線を引いて来た訳ですね。ですが、インターネットを相互乗り入れすることによって、お互いの中間部分の通信の費用が要らなくなるんです。
 一カ月で30くらい増えています。
 お互いの市内料金でつながってしまう。間が要らなくなってしまう。例えばニューヨークの支店と東京の支店が専用線をつなごうとしたときに、両毛インターネットの交換だけを専用線にする。相手のプロバイザーから支店までを専用線にする。今までは自前で引いて行ったわけです。それがいらなくなってしまう。国際電話の専用線をKDDにニューヨークまで引いてもらうと、だいたい一カ月の使用料が600万円です。これが、市内料金だけですと、4万5千円です。アメリカの市内通話料金ははもっと安いですから2万円くらいです。極端な話ですと、600万円が6万5千円くらいで同じことが出来るんです。

 従来の電話回線はどうなるんですか。

 音声でやる電話回線とコンピューターでやる情報は全く違います。その中で音声も流せますということです。手段ですね。
 会費と市内料金だけ、数字的に見てもそのほうがお徳だし電話が要らなくなってしまうということにもならないともかぎらない。これが広がって、各家庭に一台ということになれば……。
 インターネットのためのパソコンが、通常のパソコンよりも安く、今、5万円で一式買える。今までのパソコンではない部分で使いたい。今までのパソコンは一太郎が使えるとか、ある程度利用出来るものですが、それ以外の人というのは、ワープロもいらないけれど、インターネットだけはやってみたいという事になってきています。


こならの森 95号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森95号■1996.3発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

おぞねとしこのポエム…沈丁花………3p
その他の情報…/猫バス19……4p
知らんの5つの市/…5p
創作童話 4回………6p
結婚…松本さん夫妻 …96/1/21
インタビュー………8-11p
JC・JOURNAL………12-13p
郷土史家・両毛五市…2……14-19
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

インタビュー


杜氏  

力石 武司さん

■PROFILE:佐野市田島町の第一酒造(株)、杜氏。同酒造に勤めて24年。日本でもっとも権威のある全国新酒鑑評会において3年連続金賞受賞の経歴を持つ。16歳よりこの仕事に入る。昭和10年新潟県寺泊生まれ。

@代々杜氏をやってきているのですか。
 そうですね。出身は寺泊の町内でなくてちょっと離れたところです。前は海で、裏は山ですから農地も少ない。大体の人が、漁師か藁屋根の吹き替え職人という所です。そうだったものですから、冬になると出稼ぎにでる。おやじのころまでは半分農業、半分漁師というように、昭和23、4年くらいまでやってました。今では漁師やっている人はあまりいません。専門のね。信濃川の分水がうちの方へ出るようになってしまったんです。そうしますと魚の流れが変わってしまいますからね。土砂が流れて来てしまう。濁った水がそのまま出て来てしまうんですね。@何を捕っていたのですか。
 あの頃は鯛もいたし、後はイワシとかイカとかで、けっこう商売になったらしいんですよ。
@今現在は。
 土砂が海に入ってきて海岸が伸びてしまった。そこに盛り土をしまして田圃にした。そして希望者に割り当てた。ですから2、3反くらいはみんな田圃を持っています。
 私もそんなつもりはなかったのですが、家業である杜氏を継ぎました。中学を出たのが昭和26年、それからずっとです。その頃は、まだ高校へ行くのが私のクラスでも3人ぐらいでしたからね。私も行きたかったけれども、とにかく現金収入を得なければ生活が成り立たないという時代です。今の中学生と比べると純情でしたね。
@新潟県全体が、杜氏や蔵人が多いわけですか。
 新潟県も地区によってなんです。寺泊とか長岡近くの越路町が多いんですね。新潟県の中心部のところが多い。祖父も父さんも杜氏でした。私で三代です。中学を卒業してからですからこの仕事をして、42、3年になりますかね。
@技術的な事は、親父さんに教わったのですか。
 ではないですね。その蔵の杜氏さんについて教わりました。親父だといろいろやりにくい面がありますよ。
@最初はどこでしたか。
 新潟県内の西蒲原郡という所です。
@一般に一人前となるにはどのくらいかかるのですか。
 まあ人それぞれで違いますけれど、10年以上は必要かと思います。
@最初は米炊きくらいですか。
 お茶出しと掃除です。あの頃は厳しかったですね。杜氏さんの洗濯をしたり。私は2年くらいそれをしていました。
@その次ぎは何をやらせてもらえるのですか。
 私は運が良かったのかな、分析などをやらせてもらいましたね。これはもろみの成分の検査です。あの頃は今と違って、ただアルコールと甘辛です。日本酒度、後は酸度。酸が一番嫌われましたから、酸が出ちゃうもろみがおかしくなる可能性がありますから。
 そうゆうのをやっていると、もろみの発酵形態とかいうのが自然と分かってくる訳ですね。仕込んでからどのくらいだから、成分はどのくらいが適当とか、ある程度は教科書もありましたが、あの頃は自分で覚えました。手を取って教えてもらうということはなかったですね。今は教えて行かないとね。
@どのくらいのチームだったのですか。
 一番最初に行った所は15人くらいいました。その一番下ですから、最初は風呂当番とかもね。住み込みです。家からは近かったけれどもあの頃は通勤などということはとても考えられなかったですからね。
@成分分析の後は。
 20歳の時に、違う会社に行きまして、酵屋という役をもらいました。普通は、釜屋といって、酒米を蒸す係りなんです。順序はね。ですから一段階上に行ったわけです。それを2年くらいやりまして、麹屋を1年くらい。後は頭といって杜氏の下です。それらを4年ほどやっていたら、ちょうど運が良くって、一人の杜氏さんが大きい蔵へ出るというので、その後任に杜氏をまかされた訳です。24歳くらいです。その頃では一番若かったですね。本工場の分工場みたいな所でした。普通のところでは無理だったかもしれませんね。
@現在蔵人は何人でやっているのですか。
 今は私を入れて6人です。
@若い人もいるのですか。
 そうですね。今度は後継者ということで地元の人が入りましたし、女性の蔵人も参加して活躍しています。うちの方(新潟県)にはもういないですよ。出稼ぎ的な、こういう職業につく若い人というのは全然いないですからね。
 私たちがいるうちに後継者を育ててくれということです。そういうことで各蔵ともやっています。
@機械化といっても、どうしてもそう出来ない部分が多いですよね。
 オートメーションで全部流すという訳には行かない。よっぽど大手みたいなところでないとね。それに機械では一律のものしか出来ませんからね。コンピューターを使ってやる所も出て来ていますけれどもね。そういうのはある程度強制的にやってしまう訳ですからね。
 うちの蔵では手作りでやる、人の手でやる、そういうやり方をやっています。ただこういうのがいつまで続くか、一つの課題となります。
@期間中一番神経を使うところというのはどこですか。
 一緒に来ているグループの人達が高齢化していますので、そういう人達が無事に健康でやっていって欲しい、というところに気を使っています。技術的なことではないですけれどもね。
 技術的なことでは、やはり全般に使います。とにかく日本酒というのは、一つづつ組み立てて行く訳ですから。いちおう設計図はありますけれども、相手は生き物ですから設計図通りに行かないわけなんですよ。計算では出来ない訳です。気候とか、季節にも左右されます。天気予報にも注意していて明日は寒くなるとか、暖かくなるとかね。 杜氏になりますと、全般見ないといけないですからね。どこが一番大事ということはないですね。
 ですからどこかで狂うと、組み立てたものがずれてくるから、最後にできたものが思ったような酒にはならないんです。
 現在の蔵人は気の合った人達ばかりです。蔵の中がゴタゴタしていると、品質自体に影響が出てしまいます。
@高品質を維持して行くのにはご苦労があるのではないでしょうか。
 毎年同じ品質のものを造るということは非常に難しいことですが、毎年のデーター等を検討しながらやっている訳です。
 具体的にどうしたら良いものが出来るのかということは、我々にも分からないですよ。今回はだめだろうと思っていたら賞をもらったり、これはいけると思ったらそうでもなかった、ということがある。人が選ぶ訳ですからね。ある程度成分の規格というのはありますが、それは味とかには関係ないんですよ。
@審査員が飲んでうまいというのが、うまい。
 一口で言えばそうですが、全員にうまいと言わせるのは難しい事です。内容と成分が一致しないといけないですよね。経過が良好でも出来上がったものが必ずしもいいとは限らない。杜氏を40年近くやっていますが、始まるときは毎年一年生ですよ。毎年毎年米の出来が違います。それに気候ですね。表面上、何年杜氏をやっているというのは現れて来ますけれども、実際にやることは毎年一年生です。
@息子さんは(杜氏は)やらないのですか。
 通勤の会社勤めです。昔は農業をやっていてその暇なときに勤めに出てという形でしたが、今は逆ですからね。勤めに出ていて、日曜日を利用して農業をやるという方が多い。今は若い人たちを家族が出さないでしょうね。奥さんと離れてなどというのは、とても考えられないですよ。
@ずっと単身赴任で来ていると聞きますが。
 亭主元気で……なんて言うじゃないですか、いない方がいいんじゃないですかね(笑)。
@やはり、おいしい酒が出来たときは嬉しいものでしょうね。
 そうですね。鑑評会等で入賞するとホッとします。審査が終わって発表までの間というのは、眠れないですね。ノイローゼになりそうです(笑)。それと、入賞してもしなくてもやることは同じですからね。入らないとなると同じ苦労をしてくれた蔵人たちに申し訳が無いという気持になります。
 昔の杜氏さんというのは、いばっていましたからね。とにかく、やるからには杜氏にならなくてはと思いました。朝、あの頃は3時頃に起きたんですよ。その頃の酒造りというのは。ですが杜氏さんだけは、6時頃まで寝ていられるんです。これはもうこういう職業を続けるんだったら、杜氏にならなけりゃウソだと思いました。それそうとうに、それなりの努力ははやったつもりでいます。
@朝3時に起きるとなると夜は何時に寝た訳ですか。
 9時頃ですね。それも、夜中の番に当たると、夜中に起きなければいけない。それでも、その頃は元気が良かったから、夜外出もしました。ほとんど寝ないでね。眠いのはまいったですけれどもね。今思うと良い思い出ですよ。あの頃は遊びに行くといったって、映画くらいしか無かったですけれどね。本当にお金を使うところが無かったですね。床屋さんへ行くくらいでした。
@今年は県内初の女性の蔵人も参加しましたね。
 いろいろと細かい所に気が付きますし、女性がいるだけで雰囲気が違って来ます。新潟県でも増えています。
@女性の杜氏さんというのはいるのですか。
 女性で全責任をもってやっているというのはあまり聞かないですね。
 各部門で責任者になってやっているという人はいます。ただ今は技能士制度がありますから、国家試験の。もちろんそれが無くても杜氏をやっている人もいます。そういう資格をもっている女性の人もだいぶいます。これからはどんどん酒造りの方に入って来てもらいたいですね。
@最近は発酵技術も上がって来ていますね。
 バイオとかいっても我々には分からないですよ。これから先は我々の造っている酒と、若い人との造り方というのは違ってくるんだと思いますね。我々は今、住込でやっています。ですから何かあれば直ぐに対処出来ますが、これからの人は通勤でないとだめですから、そういうふうになると酒の造り方も変わって行くのも仕方がないと思います。それが少し寂しいですが、反面楽しみでもあると思います。

@どうもありがとうございました。


こならの森 94号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森94号■1996.2発行
表紙 田中重光さん 冬

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

おぞねとしこのポエム…みつばち………3p
その他の情報…/猫バス18……4p
知らんの5つの市/福山=…5p
創作童話 4回………6p
結婚…鈴木宏規さん&朋美さん…96/1/21
JC・JOURNAL………8-9p
夢の架け橋………10-18p
野良犬先生………19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………24
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

インタビュー

橋上駅構想

PROFILE:
佐野商工会議所青年部 副会長
(株)ウインズワールド代表取締役
根 本 佳 英さん
 昭和24年栃木市生まれ。4才より佐野市へ移住。仕事柄海外渡航が多いが、印象に残っている場所は、スペインとか。日本に似ている所があるそうだ。旅行以外には、ルアーフィッシングや渓流釣りが好きという。

●今回の橋上駅構想の発端は?
 商工会議所に青年部が出来上がったときから、わりと自由な発想をしていた。その中に城山の利用があり、その研究と対策に取り組もうということになった。そこで出て来たのが、城山公園が何とか活用できないか、ということです。そこに跨線橋を作るといくらかかるのか、などいろいろな考えが膨らんだ。
 以前から城山公園の利用は少ない。それに両毛線の中の市政をしいている町で、両側に改札がないのは佐野だけなんですね。足利も出来ました。『やはり佐野は両毛の谷間なんだ。』という話になるんですよ。それではとりあえず、渡線橋だけでもつくろう。これは俗に言う歩道橋と同じシステムになりますから、ただ線路をまたいで作ればいい。どこかに、橋げただけを降ろさせていただければすむわけで、さほど規制にも引っかからないし大丈夫だろう。一億円ぐらいで出来るのではないか。一億ぐらいだったらもしかして市の財政を頼りにしてもそれほど迷惑をかけずに、あるいは我々の力で、寄付を仰いでという形で出来てしまうだろう。
 ということで取り掛かったんです。当時は、長竹さんという駅長さんだったのですが、こんな話があるんだと言いましたら、それだったならば橋の上に駅舎を乗せてみたら、という話になったんです。俗に言う橋上駅。初めてそういう名前がある事を知ったんです。
 単なる渡線橋はあちこちにありますが、そういった駅もたくさんある。駅舎とは別に単に渡るだけのもの。学生さんなどは向こう側に駐輪場があり、渡線橋を渡って駅舎に入っていくんですね。
 わりと埼玉県に多いんです。信越線とか上越線とか、東武線の駅などにも多い。改札が下になく、上に駅舎が乗っていてそこに改札がある。この近辺では、久喜駅がそうです。それを作ろう、そのほうが効率的にいいだろう。
 今の駅舎は明治21年に出来ました。もう、立て替えの時期に来ている。
●JRからも補助が出るのですか。
 基本的には市の財政を仰ぐしかないでしょうね。民間がそれにどのくらい後押しが出来るかということです。
 JR時代の慣習がそのまま引き継がれていまして、各自治体がやってください。それで駅舎については所有権の移転ということで処理する。今までは、市の持ち物だったのを、日本国有鉄道という官庁から官庁へという形で移転したので非常に簡単だったんです。運輸省へ所有権の移転をする訳ですね。
 そういった、お金かけたものを、所有権の移転という形でやる訳ですから、地方自治体の方は非常な負担になる訳です。自分の資産として残らないですからね。JRが株式会社になってもそのスタンスは変わらないんですね。それから、駅舎の善し悪しでJRの収入が増える訳ではないんですね。駅舎がきれいになったからみんなで、電車に乗ろうという訳ではない。
●そこがデパートとは違うところですね。
 今までに、いろいろな駅を見させていただきましたが、その中に自由通路部分というのがある。通るのは自由で、電車に乗る人は改札口へ行く。この自由通路部分は市の管理、所有物で、駅舎の部分だけJRの方に移転するというやり方が多いみたいですね。
 発想自体はわりと柔軟に考えられる話です。例えば、熊谷駅は市の管理の中にデパートを持っているんです。さらに、駐車場から直接駅舎に入れるようになっている。かなり大きい駐車場です。もちろん駐輪場などもしっかり持っていますので、すばらしい駅になっている訳です。篭原駅についても橋上駅になっている。そして自由通路が長い、普通の駅の倍くらいありますね。本庄駅などは市の管理で多目的ホールを持っている。広い空間を持っている。そこで、いろいろな催事をする訳なんです。駅に来ながらコンサートも聞けるし、絵画も見られるという状況になる訳ですね。市民が自由に使えますし、インフォメーションコーナーなどは、恐らくボランティアの方だと思うのですが、本庄で降りた方で、どこかおもしろい所を探している、という人がいたら案内してあげる。そうした自由な発想をしています。 これには割りと夢がありましてね、例えば新幹線の湯沢駅、上諏訪駅は、なんと温泉を持っているのです。わたらせ溪谷鉄道などは、完全なヘルスセンターです。サウナ付きのお風呂があって、露天風呂が二つもある。入浴料は500円でしたけれどもね………。お風呂に入ってちょっと行くともうホームに出てしまう訳です。
 佐野でもいろいろな発想が出来ることは間違いありません。もう一つの物産会館を併設することも出来れば、多目的ホールを作ることも可能ですし、城山の利用もすばらしいものになって来ますね。これは、手前みそ
になりますけれども、困る人はほとんどいないと思います。
●具体的な構想は。
 その辺のところで動き方も変わって来ます。市の方でも私たちと同じで自由通路を考えていたらしいんですね。
 どうせ造るならいいものを造ってほしい。おそらく旧渡線橋はそのまま利用して、新しい駅舎
を造る。自由通路の出口は城山の一段山と城東のテニスコート
にぶつかるのではないか、一番お金のかかる方法にはなります。 いろいろな問題が出てくると思います。北側の道が狭すぎる。新駅舎が造られれば駅前広場がほしい。南側は今の10倍くらいの広場ができることに決まりましたが、反対側にも広場の整備をやらなければいけない。空間を作らなければいけない。
●そのメリットは。
 一番のメリットは佐野の市民
として誇れる駅ができる。駅に行くのがうれしい。近所のお年寄りがどこぞかに集まるのではなくて、駅に集まる。駅に集まって世間話をする。集える駅。夢のようですが、そんな駅が出来上がったらすばらしい。それが最大のメリットではないでしょうか。
 佐野の駅は小さな駅で寂しい、この町でこれから過ごさなければいけないのか。最初に降りて駅舎を振り返って見たら涙が出た、という人も多いんですね。これから10万都市を目指すというのに………。
 商工会議所の3階から回りを見回しても高い建物は数えるほどです。また休みの日にどこかへ出掛けようと思っても、何もやっていませんものね。文化会館でもそうですよ、たまにいい出し物でもあるのならいいんですがやっぱりパッとしませんね。見たいなと思うようなものがなかなかない。
 だんだんに、こんなことをやりながら佐野の町もよくなって行けばいいと思います。
●完成はいつ頃になるのでしょうか。
 平成9年度に着工、建設に約1年ということですから、平成10年までにはできるのではないでしょうか。
 土地区画事業で道がどんと抜
けた最終点に駅舎ができますので、実に目立ついい駅になると思います。それともう一つは現駅舎なんです。壊すことが決まってしまった訳なんですが、愛着があるんですよね。
 夜などに行ってみるとあの駅は、いかにも田舎の駅で寂しさがあり哀調をおびていていいんです。何か別の形で何とか残せないかなという感じもあります。 駅舎というのは外壁などに使っているものは、スレートなどで余りたいしたものは使っていないんです。たださすがに何百トンという列車が走りますから、基礎とか建物の構造体は頑丈にできています。どこの駅舎もそうですが、並の振動ではありませんので、そういう点では、しっかりした建物ですから、引きずって引きずれない事はない。今そんな事を言うと裏腹の事をいうことになってしまいますが………、ちょっと惜しいという気がない訳でもないですね。
●一つぐらいシンボルになるものを残すということは、いいことかも知れませんね。栃木駅なども歴史的な建物ですね。
 栃木駅はなんと高架事業が決まりましたので、桐生駅と同じに高い駅になる。
●佐野もそんな話がありました。
 佐野駅と違いまして、栃木駅はちょうど南側がたんぼになっているんですよ。ですからそういう事業がやりやすいんですね。線路を迂回させておいて、交換してから線路をもう一度乗せ上げるという事が可能なんですよ。佐野はそれができない。やるとなると事業費が650億位かかると言われています。周辺の踏切から全部高架にして行くんですからね。
 それで佐野駅が頂上になってビルの5階くらいになりますか。桐生駅を思い出していただければ、そうとう高いと思いますよ。あれも曲がりながら列車が上って行きますよね。佐野ではとてもできません。もしやるなら、今の駅舎をやめてしまって、富岡なり伊勢山まで持って行ってそこでやる。駅はあっちなんだと、そういうくらいにしかならない。これにはものすごい反対が出るでしょう。
●かなりいろいろな駅を見て来たようですね。
 そうですね。駅長さんや助役さんにお会いできたところもあれば、そうでなかったところもありました。
●橋上駅の費用はどのくらいなのですか。
 はっきりしたことは分かりま
せん。設計図ができている訳ではないんです。見積に掛かった訳ではないが、議会の方へご報告ということで話しているのは、まず10億以上かかる。おそらく15億以内だと思います。
●内容やデザイン等これからも提案して行くと言うことですか。
 もちろんです。おそらく委員会ができると思います。そこに青年部からもスタッフを出したいと思っています。私共ではなくて、デザイン関係の事業を行っている人に出てもらおうかと考えています。
 何人かいますので、そうすれば発言の迫力も違って来ます。 大事なお客様を佐野駅にお迎えに伺うことだってあるんです。寂しいですよね。それが立派な駅になれば、ああ佐野駅は立派な駅なんですね、と言われる。
●完成後は、お祭りなどの行事も変わっていくでしょうね。
 春にはさくらまつりをやっていますが、あれも盛大になるだろう。それから秀郷まつりのメイン会場の一つになるのではないだろうか。何か他でやっていたものを持って行くことは可能ですね。
●ロックコンサートとか盆踊りなどですね。

 第二会場として機能すると思いますね。交通止めをする必要もないし、子どもたちも自由に遊べる。

●新駅舎と言っても通り一遍の駅ではなく、暖かみのある、佐野らしい駅だなと言われるといいと思います。

 佐野のキャッチフレーズは『水と緑と万葉の町』ですが、万葉の町と言ってもピンと来ない。それから緑と言ってもね、ただ水は良いと思っています。ですから水をふんだんに使った駅などはおもしろいと思います。 まさか屋根をラーメンで葺く訳にも行きません。いくらラーメンの町だからと言っても…。でもそういう発想がない訳ではないんです。ラーメンの屋台村とか、ただ個人的な利益に片寄る。本当はそれくらい思い切ったものを造った方がおもしろいんです。駅舎にお風呂だってできてしまうのですからね。そういう意味で、やろうと思えば何でもできる。それこそ日本中から注目される『佐野』になりますよ。
 若い人たちが駅の多目的ホールでロックコンサートを開く、それだっていいじゃないですか。
●町おこし、町づくりといってもいつも若者の声が聞こえない。
 最近はそうしたことが何かと話題になりますが、若者が騒ぐということが大切だと思っています。
 最初に動き出すのは、若い人たちです。この町だって、夜などは寂しくなってしまうが、これから若い人が頑張っていろいろなことをやっていけば、いい町になる。何もできないと思っていては、本当に何もできないですからね。
●今日は、どうもありがとうございました。



こならの森 93号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森93号■1995.12発行
表紙 「田中重光さん」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

おぞねとしこのポエム…いぬ………3p
その他の情報…/猫バス17……4p
知らんの5つの市/旬=…5p
現代国語………6
お店………7p
創作童話 3回………8p
結婚…大山進さん&節子さん…96/11/19
1996年を占う………10-11p
12-19………歴史家が語る
JC・JOURNAL………20-21p
インフォメーション95………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

両毛五市の歴史家が語る夢構想

佐野市 安蘇史談会 会長
京谷博次

京谷 郷土史家が語る夢構想ですが、非常に大きな課題で、それに十分に答えられるかどうか不安です。
 佐野というところは、言語学的には西関東方言です。三毳山という山がありますが、それを境にして西関東方言、端的に言えば、このあたりも群馬県に入るかなと感じております。
 この地域の特色を通史的に言えば、古代から現代に至るまで交通の要衝の地だった。古代におきましては、東山道というのが通っておりました。古い時代は一直線で、しかも道幅は広いという、そういうような特色があります。
 近い将来、21世紀の始めになると思いますが、北関東横断道が完成の暁には佐野にもインターチェンジが設置されます。そういうことでこの地域の重要性というのは、増大すると思います。
 それから、17世紀後半には、秋山川下流に越名河岸というのが開かれまして、今で言う東京都の産業とか文化の交流、そういったものに大きく寄与しました。当時、佐野乾山という人が佐野に来たということが記録もあります。
 また、何と言いましても佐野の文化を代表するのは天明鋳物だと思います。鎌倉時代より残るその鋳造製品は農具とか日用雑器のほかに美術工芸品も造られ、国の重用文化財に指定されておるものも数多くあります。
 それから、日本史の中でこの地域の住民が顔を出して来ますのは782年です。その頃編纂された万葉集の東歌と言う中に、下野、栃木県の歌が二首あります。その二つの歌が、この地域を詠んでいると言われています。その他にも、5つか6つも佐野に指定してもいいという歌もあります。そういうことで、この地域は古くから都人を引き付ける、風景、景観があったと思います。
 いよいよ明治を迎え近代化の進む中で、1880年、明治13年には栃木県下最初の私立銀行である佐野合本銀行が創立します。またJR両毛線の前身である、両毛鉄道の開通は明治21年です。この年に春日岡町に洋式を取り入れた公園が完成します。今の城山公園ですね。『西洋風』というところに、時代の先取りをしたという気風が伺えると思っております。
 それか、政治の面なんですが、自治の確立を目指す自由民権運動の高まりの中に、あるいは公害問題の先駆者の中に、田中正造を見ることができます。そして、田中正造を支援する大勢の人々の姿もあります。
 明治から昭和にかけては近代歴史画家の先駆者と言われる小堀鞆音、現代では陶芸家で人間国宝の田村耕一先生も佐野の人ですね。このように見て来ますと、佐野はけっして文化不毛の地ではない、十分に誇っていいと思っています。
 さて21世紀に向けての、佐野新都市整備事業というのがいよいよ開始されまして、佐野市も明るい近未来というのが約束されました。しかし、その開発によって、万葉に歌われた三毳山周辺の自然環境が損なわれては何もならないと思います。先頃、地球上における絶滅種というものを国連が発表しています。それによりますと、現在絶滅の危機にさらされている動植物は全部で9400種だそうです。特に哺乳類と鳥類の絶滅の早さが加速されたといいます。
 この近郊の植物につきましても、16年前に須藤清市さんという人が調査した記録があります。それによりますと、398か397種が三毳山で確認されています。しかし、現在はそれよりも少なくなっていると思います。
 田中正造も、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず」と言っています。私は、昭和45年から10年間かけて編纂されました、『佐野市史』の中で欠落している、動物編、植物編、そういうものの編纂を通して、豊かな自然、水と緑と万葉の古里・佐野を残すこと、それを明日の子どもたちへの遺産とすることが、とりも直さず田中(正造)精神を後世に伝える佐野市民の責任だろうと思っています。


こならの森 92号

2008-04-21 | 創刊~100号
       ■こならの森92号■1995.12発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「田中重光さん 斜光」

■こならの森1月号■
町ミステリー…富士町………12-18p
野良犬先生………19
おぞねとしこのポエム…………3p
その他の情報…/猫バス15……4p
知らんの5つの市/…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 2回………8p
結婚します…青木隆さん&幸代さん…95/10/1
JC・JOURNAL………10-11p
両毛五市シンポ……………12-19p
インフォメーション95………20-25p
現代国語………26p
杜 @皇が占う今月の運勢…………27
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

両毛五市シンポジューム

■PROFILE:
(株)虎昭産業
代表取締役社長
内山久枝さん
設立20周年。従業員数1300名。
弁当・総菜業 工場所在地:栃木県
佐野市・茨城県守谷町・東京都足立区

 虎昭産業の内山です。総菜業を営んでおります。平均30万食を1300人の従業員で一生懸命作られせていただいております。
 どうしてこういう仕事を始めたのかというきっかけをお話しますと、私には二人の息子がおり、幼稚園の年少組のころ自転車に乗せて連れて行く訳ですが、当時はスクールバスなどというものはありません。遠く自転車で連れて参りますが、幼稚園では2時間くらいしか見ていてくれません。それで帰ってくるとまた迎え、ということになりますので、(家に帰らずに)幼稚園の近くの喫茶店で仲の良いお友達とコーヒーを飲みながらおしゃべりを楽しくしていた訳です。毎日そうしていますと、こんなふうに時間を過ごしていては………という事になりまして、お友達と何か始めましょうということになりました。
 約四畳半程の場所にテーブル、はかり一台、ガス台2台、鍋釜3つ、その程度で(総菜屋さんを)始めました。一生懸命工夫しましたので、スタートから非
常に売れたんですね。あまりの忙しさに、お仲間に入っていただいたお二人が悲鳴を上げてやめてしまった。結局最後に私だけが残りました。やめてしまおうかどうしようか、そのときに主人が励ましてくれました。せっかく始めたんだから続けたら、応援するから。
 それで二人のパートさんを改めてお願いしました。ちょうど今から28年前でございます。
 私は実は60歳でございますが、何も60にならなくても、30でも40でも必ず人を育てる立場になります。部下が出来て人を育てます。人を育てる立場には必ずどなたもなる訳です。ところが、自分が育てられている時には、本当に真剣に育ててもらわないと、ご自身が人を育てる立場になった時に育てられないんですね。不思議なものです。 男性はどうご自分を作られるのか、これはほとんどの男性がお仕事を通して、お仕事というのは人の付き合いがありますから、人との付き合いの中から戦い強調しあい、時には耐え難い屈辱にあっても家族を思いますと、あらゆる辛抱をして、そして責任感の強い男性が作られて行く。お互いに男女は神様から頂いた使命が違います。男は子供を産むことが出来ません。子供を育てることをも難しいです。でも、女性に出来ない多くのことを男性は出来ます。
 ところであなたには、『存在感』がお在りでしょうか。存在感というのはどういうことかと申しますと、そこにいるだけで明るくなる、楽しくなる。これは立派な存在感でございます。例えば、小さなお店があったとします。なぜか繁盛している。もしそこが食べ物やさんであれば、きっとおいしいんでしょう。ブティックであればセンスがいい。あるいは、ビューティサロンであれば、そこの先生のカットがお上手なのです。
 何かの理由でそこのお店が繁盛していらっしゃる。ですから、お店のサイズが小さくてもお店は大きな存在感がある訳です。
 一方200人も、300人も従業員を抱えている会社でありながら、ちょっと寂しげな寂れた会社があったとします。きっとそこの企業のお得意さんは、そこの企業の経営技術やサービスがお気に召さないのではないか、ですから注文が来ない。当然寂れて来ます。寂れるにはかならず原因があるんですね。そういう大きな会社であっても、その会社には存在感がないんですね。ですから存在感ということは企業の大小でも、平社員でも社長でもないんです。
 私は会社の社長さんとのお付き合いが多ございます。でも本当に存在感のある社長さんとはめったに出会えないんです。
 ところが、あの子は将来楽しみという、こういう社員は大勢います。それは、その人に存在感があるからなんですね。ですから、役職が部長だ社長だと言ってもそんなこと関係ありません。その方が周囲にいらっしゃるだけで幸せを撒いている、それだけで十分な存在感だとご認識をして頂きたいと思います。
 さて、またお話を変えて恐縮でありますが、今はほとんどが夫婦で働いている家庭が多ございます。しかし一方でお金を使うときはどうでしょうか、ほとんど女性が使っているんではないですか。食費の材料から衣服から、例えば日用品からほとんどが女性が払っています。
 ということは、女性がいかに消費者の立場に立つ機会が多いかということです。例えば100円の大根を買うときも消費者ですね。あるいは1万円のカシミヤのセーターを買うときも消費者です。非常に消費者という立場に立つときが多いわけです。 私共は今3つの工場で1300人の非常に働き者で頑張り屋の誠実な従業員が一生懸命にお総菜やデザートやサンドイッチを作ってくれています。その時の従業員やパートさんは仕事として一生懸命やってくれています。パートさんたちがお仕事を終わって、家路につきます。もよりのスーパーでお買い物をします。そうすると、その瞬間に彼女たちは消費者に変わる訳です。手に取ったホウレン草が堅そうだとか、汚れている。あるいはお肉。脂が乗っているとか、のっていないとか、お値段は………。もう非常に厳しい目でもってその商品を見る。そして、いろいろと選択した商品をカゴに持ってレジにいきます。今日のこの人、サービスが悪いわ、と思っているかもしれない。要するに消費者の目になると非常に厳しいんですね。 女性の方は非常に商品に対する不満、「何でこんな大きなパックにしちゃうの」とか、「もっと小さくしてくれれば助かるのに」とか、いろいろな不満を一番知っていらっしゃるんです。
 ですから、女性が一番起業家になりやすいと思いたいんですね。
 はっきりと言いますと、企業は、大企業から我々の中小企業までが、何とか自分の商品が売れないものか、あるいは売りたいと思っている。どうしたら売れるのか、これはお客様がこうしてほしいという商品を作れば売れる訳ですよね。ですが、これは一生懸命考えても分からない。大企業に至ってはそのために何百億の開発費を投入して新製品を作っています。どうしたらいいのか、どうしたら売れるのか、そういうふうにお金をかけて技術者や企画者をそろえてもなかなか消費者のお気に召す商品が出来ない。
 ところが女性は、毎日何回となく消費者の立場で実感としてたくさんの商品を、気に入らない、気に入る………とやっている。だとしたらば、女性の目というのは起業家には非常に必要なことです。また起業家になってふさわしい資質とかチャンスをたくさん持っていると思うんですね。
 ですがそれは、自分たちが世界や、世の中を見るときに、全て男性と同じ目線で世の中を見てそして男性と同じように厳しい責任感を持って見ればの話なんです。そうでなければ、いくら消費者の機会が多かろうが何であろうが、けして起業家にはなれない。紅一点という言葉がありますが、世の中そう甘くはありません。
 起業家になるには男も女もまったく同レベルで戦って行かなければならない。
 そうすると、女性の皆さんは消費ということにたいして、厳しい目を持っていらっしゃるから後ちょっとです。
 ほんのちょっと視線を変えてよく見ましょう。そして、厳しさもちょっと自分たちの暮らしの中に入れれば何にも遜色無く起業家としては男性よりもいいんではないかなと思うのであります。
 私も、今までに非常にいろいろなことを見て参りましたが、ご自分だけの幸せだけを願っている方はどこかでつまずきます。それは本当にはっきりしていることです。
 一方で「私、力がないんだけれど……」と、大変自信が無さそうな非常になよなよとした方が、「それでも何か私、できますか」というふうに、伺いを立て、「あっそれなら私にも出来ますよ。やらせてください」。こういう姿勢で長い間暮らして来た方は、自分だけの幸せだけを考えて来た人とはまったく差が出てくるんですね。
 皆さんは今幸せでしょうか、私は幸せです。しかし、今頂いています幸せというのは、皆さんもご努力したでしょう、私もしましたが、自分たちがした努力というのは今頂いている幸せのせいぜい5パーセントか10パーセント、後は全部、人様から頂いたものです。だとすれば、私たちも人様の幸せを作ることに協力しなければ、申し訳ない。御恩返しが出来ないではありませんか。
 ではどうしたら御恩返しが出来るのか、それは先程申し上げた、存在感のある人になると言うことです。そこにあなたがいらっしゃるだけで、周りの人が幸せになる、これは十分なお返しです。
 先程のお話ですが、小さな商店がある。「今日買いました。おいしかったわ。明日も買いましょう。」存在感あるじゃないですか。回りに幸せをまいてい
る。恩返しということは、何かを作って差し上げるということだけではなくて、自分がはつらつとして生きて行く、そして回りが「あの子いい子だね」という、もうそれだけ十分存在していると思う訳です。
 企業は社会貢献をしなければ存在感がありません。
 企業の社会貢献はたくさんの事があると思いますが、ただ一つだけ上げなさいと言われれば、これはずっと利益を出し続けてその利益に対して十分な納税をし、国家社会に貢献をする。利益を出し続けるということは、この企業にはお得意さんがいるわけです。お得意さんを追い続けて一生懸命にやらせて頂く。例えば、虎昭でありますと、キンピラとかサンドイッチとかが、「おいしい、おいしかったよ虎昭さん、また買うよ」というこの繰り返しで私共は30万食作っているんですから、どこのどなたか分からないんですが、30万人の方が食べてくださるかもしれない。お顔は分かりません。その方が無言のうちにご褒美としてくださるのが、利益なんですね。ですから利益は、お客様がいて、『お客様のために召し上がって頂きたい。喜んで頂きたい。』という思いで作れば、お客様は買ってくださいますから、また利益が上がる。そして利益が上がって御恩返しをする、これが社会貢献です。そういうふうに考える訳です。
 では、企業の社長としての貢献は何かと言いますと、これもたくさんありますが、私はいい人材の育成、これしかないと考えています。ではいい人材というのは、どういう人材なのか、これはもちろんのこと虎昭産業にとってのいい人材、役に立つ人ということもございます。でも、それでは人材とは言えない。 大体はたで見るよりも、実際にやった方が仕事というのは単純、もしくは辛い、あるいは退屈と言うことが現実です。その中で、こんなことやってられないわよね毎日。と思うことも実際にある。でもそれをそのように思ってしまうのか。例えばウチの社員が肉ジャガを煮ています。大学出ているんですよ。「俺がこんなことやってられるか」と思うのと、「ああ、今日もこんなに注文が来た、ありがたいな、だれかが食べてくれるんだな。」この自分の仕事を通して、そういう喜びを感じられるようになれば、最高の人材なんです。自分の仕事を通していくらかでも、社会に貢献していると思えるということは大変な人材です。そいう意味で、そういう心を持てるように、どう社長が教育をして行くのか、これは非常に荷の重いことでありますが、何としてもそのように社員を仕込まないといけない。したがって我が社は社員の教育に厳しいです。それは父親の愛情でしょうか、そうわ申しましても人間は弱いものですから、非常に、こんな厚い壁にぶつかって、長いトンネルに入ってしまってどうにも出られない。こういうこともございます。そのときには宥めたり、慰めたりして引っ張り上げ、そして頑張れよと言うふうに勇気づける。これは母親の愛情です。
 ですから、社長というのは、親の愛情がなければ出来ない。そして、親の愛情というのは汲めども汲めども尽きることなく出てくる訳です。
 それは今、私は実感として思っています。ですから企業のトップの社会への貢献というのは、いかにいい人材を何人作れるか、これに尽きるのではないかなと思う訳です。
 さて、自転車操業という言葉があります。これは普通はお金が苦しいとか、あるいは人手がなくて、頂いた注文をやっとの早さで作っているという時に使います。しかし、私はこの言葉は大好きです、自転車というのはその人の体力に合わせて真っすぐにペダルを踏んでいれば、前に行くんですね。ですが、ちょっといい気になり、片手をポケットに入れてルンルン気分でよそ見をしますと、小さな石にぶつかってよろっとしたり、場合によっては倒れます。これは個人でも企業でもそう、油断をしたりいい気になると、会社がおかしくなったり、あるいは必ず個人でも失敗をする。ですから真っすぐにペダルを踏んでいればいいい。そして、先ほど存在感ということを申しあげましたけれども、存在感イコール期待されているということなんです。
 そうしますと、虎昭産業が佐野市で期待されていると致しますと本当にありがたい、うれしい。でもこの期待は、その期待に応えなければいけませんから、これは重い荷物であります。
 必ず成せば成るでございます。普通の人がちょっとやれば何とかなるんですから、どうぞ皆様の将来も輝かしいものになりますように、陰からお祈り致しております。


こならの森 91号

2008-04-20 | 創刊~100号
       ■こならの森91号■1995.11発行

表紙 「田中重光さん 秋」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■

おぞねとしこのポエム…………3p
その他の情報…/猫バス15……4p
知らんの5つの市/パラダイス=…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 1回   ………8p
結婚します…青木さん夫妻…
JC・JOURNAL………10-11p
町ミステリー…富士町………12-18p
野良犬先生     ………19
インフォメーション95………20-25p
現代国語      ………26p
杜 @皇が占う今月の運勢……27
協賛店マップ    ………28-29p
新・こならの森から…………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】


町ミステリー
ロードエンドのある町へ
 ここは、どこへも抜けられないどん詰まりのいやば大きな谷津田のような所である。稲刈りが終わって、ほっと一息ついているのか、休憩なのか知らないが農夫が二人、畦に座ってのんびりとくつろいでいた。
 行き止まりとなっているから知っている人か、本当に用のある人しかやって来ない。通過点ではないのだから見知らぬ人はやって来ない。それが良いのか悪いのかは分からないが、なんだか焦らずマイペースを守っている、そんな生活を思わせる。

野焼き

 はぜかけをしている田んぼが目につく。自家消費分であろうか、天火干のお米は格別にうまいのだと聞く。
 遠くから、真っ赤に熟した柿の実か、何かの実だろうかよく分からない赤い実が見えた。近くまで行ってみると、それは鈴なりに結実したカラスウリだった。それにしてもものすごい数だった。
 近くでは野焼きをしている。話を聞くと「虫が冬ごもりしんよう、焼くんだよ」とのこと。今は殺虫剤も、除草剤もあるのにわざわざ手間暇のかかる方法を選ぶのはどうしてだろう。
 それは、そうした便利なものがなかった、つまり農業というものの歴史のほとんどの時間行われて来たことが、今も営々と続いている光景だった。素朴さを誘う。

ロードエンド、 その先はデッドエンド?

 ロードエンドのその先へ、ともかく駒をすすめる。すると調整池があらわれる。コンクリートをログで覆った、「そこまでやる」と言わんばかりの堤防もある。さらにその奥にある池まで行って見る。水面に木の葉を映している。このあたりは、隠れた釣り場であるらしい。

静かなる魚影

 フナかコイかの姿が見える。
近づいても動かない。………それにしても、えさのミミズが釣り具店で売っているとは、思いもよらなかった。
 水糸が散乱していて、足を取られそうになる。写真は便利な
道具で、その画面の下はペットボトルだらけ。ちょっと引くと、釣り場なのかゴミ捨て場なのか分からない。ここまで来るほどでも無い。
浦島太郎になる
 午後一番で出掛けて来たのに、秋の日差しは早くも西に傾きかける。
 『午後は約束があるんだ。急いで帰らなければ。』と思って、車を飛ばしたのだが、10分もしないうちに、市街地へ戻って来ていた。しかし遠くまで行って来たという充実感が残る。
 また、『浦島太郎現象』とでもいうのだろうか、そこで過ごしているうちには時間がゆっく
りと流れるのだが、下界?へ戻ってみると、元の時間の流れとなっていて、相対的には早く時間が流れていく。走行距離もほんの数キロ。感覚的にはその数倍から数十倍走った感じだ。これこそが、市内ちょっと旅の醍醐味といえそうだ。                  


こならの森 90号

2008-04-20 | 創刊~100号
       ■こならの森90号■1995.10発行

表紙「田中重光さん」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

おぞねとしこのポエム…しらはぎ………3p
その他の情報…/猫バス14……4p
知らんの5つの市/食いしん坊=…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 最終回  ………8p
結婚します…村樫さん夫妻…
町ミステリー… ……………10-11p
JC・JOURNAL………12-17p
インタビュー…田名網 ……14-18p
野良犬先生     ………19
インフォメーション95………20-25p
現代国語      ………26p
杜 @皇が占う今月の運勢…………27p
協賛店マップ    ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

インタビュー

田名網忠吉さん
大正14年、葛生生まれ。
1995年に「霊峰男体山と私の健康法」を出版。男体山には46歳のときに初登頂。以後87年に100回、91年に200回、300回が93年、400回は94年11月に達成。現在450回を越え来年1996年には500回達成を目指す。

●最初に男体山に上ったのは何歳の時ですか?
 最初は昭和46年、46歳です。それ以前にも他の山は登っておりました。男体山は他の山が登れなくなってからでも間に合う。あそこは半分は観光のような山だから。アルプスですと剣ですとか、槍とか、穂高とかけっこう歩きました。殆ど単独が多かったです。一時体を壊して登山でなければ体を直せないと思いました。ヘルニアになりましたから、腰椎のね。それで、朝夕の運動を始めました。
 ヘルニアはストレスでやられます。ストレスをうけると血液の循環が悪くなります。運動などの意欲も失ってしまうし、食事も片寄ります。
 身体の精力不足もあるんですね。
●男体山には何時間ぐらいで登るのですか。
 2時間半から3時間ですね。殆ど休みませんし、体調も崩れません。一定のペースで行ける。46歳のときに初登頂して、100回目を昭和62年に達成。私は130回くらいで、ダウンかなと思ったんです。100回を目指していたときに、もうだんだんと参ってくるんです。限界があるし、老化が出てくるから、そうしたら200回は、66年。300回が平成5年。400回は、平成6年11月です。
 一日に2回登って400回にしてしまったんです。現在は一日に2回登っても疲れなくなった。登っても30分ほどたてば回復してしまう。
●300回から400回というのは一年3カ月くらいですね。5日に1回くらいのペースで登っていますね。
 一昨年に退職しましたし、400回まではピッチを上げようと思いましたからね。
●現在の登山回数は何回ですか。
 450回を越えました。来年には500回にしたいですね。
 だいたい一人で行きます。登り口までは自分の車で行きます。 4時半から5時半くらに家を出発します。そして明るいうちに帰ってきてしまう。だいたい1時か2時には降りて来ちゃうんです。冬はほとんど登りませんね。夏場は登りいいですね。日が長いしね。
●最初に登ったきっかけは。
 最初に登った時のきっかけは、何も無いですね、ただ登ってないから登ろうと。
 46歳から50歳までは4回しか登っていません。本式になったのは50歳を過ぎてからです。
 後の人に一つくらいいい記録として残したいと思いました。
 とりあえず100回くらい登って記録を作ろうと。
●登山の服装は。
 冬は完全な装備をします。場合によればピッケルをもって行かなければいけない。
 男体山は春夏秋冬の景色がすばらしいんです。たまにはカメラを持っていきます。樹氷何かもすばらしいものを撮りました。 山では、植物からでるフィットンチットが、新芽のときにたくさん出ます。カビやバイ菌から新芽を守るために出る。これが体の中に入ると、人間細胞の活性化と、中の悪いものを退治します。すばらしい効果を上げるんです。山というのはすばらしいものがあるんです。
 私に、山が無かったらこんな高度な形ではなかったと思います。瞑想だけでは無理で、また、登山だけでも、体力が衰えていただろう。その相乗効果が大きいんですよ。
●男体山登頂の他の人の記録ではどのくらいですか。
 神社の記録では六十数回くらいが最高だといっています。
●そんなに魅力のある山なのですか。
 それはもう魅力がありますよ、それで何回も登っているんですからね。景色は雲がかかれば全然見えないし、霧がかかれば近くしか見えない。これから紅葉の時期に入るとすばらしいですよ。
●昨日も行ってらしたということですね。疲れは残らないのですか。
 一回行って来たくらいでは、家に帰ってもそば打ちをやりますし、百姓もできます。
 生命活動は脳幹、延髄で行っています。感情的なことは、大脳。前頭葉では高度の精神活動をやっている。それらが一致した活動をしたときには、ベーター・エンドルフィンが無限に出ます。ですが、それを止める物質が出ません。運動や食事で楽しいやおいしいという時には、抑制するホルモンが出る。食べ過ぎたり、運動し過ぎたりはいかんということですね。
 それが出るときには味や香りが充満する。これ以上無いという味や香りです。これは、高僧と言われる人でないと得られない。難しいことは無いんです。ただ、ルールをきちんと実行して行けばいい。
 高度の精神活動というのは、老化を消す、それが刺激になって本を書いたんです。今までに無い脳の活性化が基本です。脳を活性化させるとすべてが良くなる。生命体自体がそういう形で作られています。
 細胞活動というのは、進展性をもっています。そして増殖性が活発になればいい方向へ転化する。遺伝子の中にもそういうものが含まれています。脳の中で、イライラや不快感や怒りというものが出なくなります。これが逆な形で悪く作用すると、ガンになります。
●思い出に残る山は?
 同じ山でもいくたびに感動しますよね。どの山もそれはそれなりに良さがあります。また山での出会いもすばらしいものがあります。山は一人で行っても仲間がすぐできてしまう。
 今も山仲間からたくさんの手紙が来ています。本を作ってから特にね。本を作る中で、すばらしいものが身につきましたからね。
 その中ではっきり書きました、『老化を消した』と。今まで、老化は延ばすことはできても消すことはできない、というのが学問上では定則でした。それが私の場合は年を追うごとに体力がついてきた。
 老化では脳の中にえらい塊ができるのです。これができると体の全部の機能が悪くなります。それが解れるとどんどん元気が戻って行く。それは脳の構造を、進化の過程に会わせて調べてみると分かる。
 老化と成人病に対しては、脳を活性化させればいい。私の場合は、高度な訓練に入っています。山に登るという身体に対する訓練と瞑想という訓練。脳の活性化には、だいたい瞑想しかない。気功なども瞑想の一種です。気を体に充満した形で長く保つ。瞑想は脳でそれを集中的に行います。
 脳の活性化が行われると、脳波がアルファー波の状態になりまして、脳の中に良い物質がどんどん出てくる。脳内にホルモン、ベーター・エンドルフィンが出ると脳の中で出る悪い毒素を打ち消して、脳細胞を活発にさせる。これは脳がリラックスしていて、美しい景色を見たり、温かい人との交際の場合でも出ます。絵を眺める、好きな趣味をする。しかし、その場合はすぐ打ち消すホルモンが出てしまう。 精神活動の高度な訓練をすると脳内で老化が解れて行く。音を立てて壊れる感じです。
 高度な精神活動とアルファー波の状態が一緒になったときにはすごい。そうすると完全に脳は生き返ってくる。そこからたくさんのホルモンがでたり指令が出たりする。どんどん体も良くなる。これを、はっきりと体験しました。後は運動と食事に気をつけること、脂肪も良く取る。植物性でなく動物性も取る。動物性のものを取っても筋肉を動かせば、その中で燃えてしまう。どんどん解けますから、そうすれば害がなくなる。
 ホルモンの合成にはタンパク質がたくさん必要ですから、高タンパクな食事も必要です。
●本はいつ出版したのですか。
 今年の6月に書きました。7年間かかって書き上げたものです。体験は10年に渡っています。 この本を出版するにあたっては、医学的なことであるとか、生理学的なことが多いので、東京医大の教授に推薦文を書いてもらいました。ある程度の裏付けがないと、私が妄想で書いたようなことになりますから。
 正しい知恵を身につけるために、生物学や生理学を一通りもう一回勉強し直した。生物学が基本です。人間が分からなけれ
ばだめですから。
●食事や睡眠時間などは。
 食事は高タンパク低栄養、これが主体です。睡眠は7、8時間はたっぷりとるようにしています。
●高度な精神活動の訓練期間は。
 仕事をしながらというのでは、一生懸命やっても3年は必要でしょうね。私は勤めているときは、朝4時半に起きて瞑想をやりました。30分、1時間と毎日続けた。それを始めてから4年で、男体山に一日2回登っても疲れなくなりました。そういう体になるとは思いませんでした。それまでは一回でくたびれちゃったんだから。
●老化を克服したということですが。
 成人病に対しては、瞑想による脳の活性化と、食事と運動。これが出来ればだいたい克服できると思います。40歳から具合が悪くなって寝たというのは一日しかありません。風邪もひかない。ひいたのを感じないうちに直ってしまう。活力があれば、抗体がどんどん作られます。精神状態が良いと、良く働いてくれます。
●脳がその指令を出しているということですか。
 そうです。腹式呼吸で目をつぶって瞑想をする。ヨーガも瞑想も呼吸法です。山へ登るときも、腹式呼吸です。そうすれば、脳内にアルファー波がでます。そうすうとエンドルフィンがどんどん出ますから、それが脳の中に充満しているうちは疲れが出ません。たくさんでなければだめですよ。それには、高度の訓練を得ないといけない。 糖尿病などは、瞑想を経ないと修復は不可能です。医学的には処置なしなんだから。
 ガンの場合は細胞の変質ですしね。それでも信仰心の中で精神的な安定を得て治るという人もいます。
 今まで言って来たことが一般に浸透すれば、老人問題は解決するのではないですか。それは自信を持って言える。
 私自身は老化は消えたと思っている。東洋の知恵の結晶、つまり生命の働きの根源にあるものと一致させよう、これは漢方の基本です。その漢方の中で気・血・動というのが生まれた。気は元気の気を充満させる。血は、血液。これは食事をコントロールして、血液の循環を良くしたりして、いい栄養をまんべんなくえる。動というのは、動く。動かさないところがあるから、堅くなって退化していっちゃう。
 これからは、西洋から得たものを吸収するというのではなく、今までいってきた、東洋のすばらしい知恵を世界に広げていくということですね。


こならの森 89号

2008-04-20 | 創刊~100号
       ■こならの森89号■1995.9発行
表紙 「三滝」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

おぞねとしこのポエム…すずむし………3p
その他の情報…/猫バス……4p
知らんの5つの市/なかじま=…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 第5回  ………8p
結婚します…萩原さん夫妻…
JC・JOURNAL………10-11p
ポラーノ村     ………12-17p
インタビュー    ………18-19p
インフォメーション9………20-25p
野良犬先生      ………26p
杜 @皇が占う今月の運勢…………27
協賛店マップ    ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

 インタビュー

 『であいの街アルク』主催、スーパーバザール実行委員長の井上孝雄さんと副実行委員長の豊島逸夫さんに、バザールでのいきさつやエピソードなどのお話しを伺いました。

編集部 今回のイベントの成果は?

井上 結果的には大成功です。豊島 結束が固まったという事が、成功だと言える点ですね。井上 次にやって行く段階でもみんなやる気があるのではないですか。

編集部 次の話しも出ているということですが………。 

井上 あの時期も「もう絶対にいやだ」といっていたのが、一週間たったら、今回は500万くらいかかったけれども、「来年は300万くらいでできるな~」とか、そういう前向きな話に変わってくるんですよ。
 何人かが、ぶつかり合ったりしました。イライラして来ます、あの前後は………。夜中の12時頃にテントを運んだりしたでしょう、明くる日は8時に集まって掃除して、4日間というのはとにかくイライラの連続です。

編集部 眠れないような状況ですか。

井上 寝ていませんね。

編集部 かえってそのほうが面白い………。

井上 そうですね。充実感がありました。でも人材は豊富でしたから、恵まれていますね。
 他のイベントよりは端的で良かったのではないでしょうか。
 ただ、『アルク』という名前をつけたけれどもそれが定着するかどうか、出会いの街アルク、括弧して、医師会通りはまだ入るけれども、これはしょうがないですね。いずれは消していきたい。

編集部 今後の予定は。

井上 とりあえず街路樹をイルミネーションでライトアップする予定です。また、正月中旬に田沼の初午みたいなものをやりたいという話もあります。佐野ではあの時期に何も行事がないそうです。

豊島 なんだかんだ言っても、それまでは、あの通りを知らない人もいた。それが、自分の店などにも新しいお客さんが来てくれた。そのお客さんがここを知らなかったというんです。

井上 こっちは有名だと思っていたのですが、意外とそうでもない。

豊島 ですから、そういう意味でのメリット、金銭よりもそのほうが大きいと思う。
 効果は2点あって、この街の結束と、アルクという名前をつけたこと、それによって人が呼べた。今後はこれを維持して行くことが問題です。
 アイディアは一杯あります、一本松まえでどんど焼きをやるとかね。

井上 私などもたまたま指名されたお陰で、能力もないのに一生懸命やれた。指名されればみんな責任感でやっていける。
豊島 新しい持っている能力を発見しました。本当のコミュニケーションというのはケンカしたり、汗を流して涙流して、なんです。取っ組み合い一歩手前です。そういうことがあったから、より良く分かり合えた。

編集部 手づくりの味というか、今までのパターンではない、そこが良いのではないか。

井上 お金の問題もありましたから、手づくりということにならざるを得ないという面もありました。

豊島 新しい街だから仲間づくりには5年かかった。今までは本当の真剣勝負というのはなかったが、今回のイベントで真剣勝負をせざるを得ない状況になってしまったんです。

編集部 反省点は?

井上 反省点はいろいろあります。言い出したらきりがないが、駐車場なども問題なかったですね。吸収できる。この通りはいろいろなことがやりやすい通りです。

豊島 あえて言わせて頂ければ、地域の人を今度は引き入れたい。いわゆる商店街のイベントではなくて、スローガンは地域のイベントなんだけれども、回りを引き込むだけの力がなかった。時間的な余裕もなかった。
 今度は本当に商店街の利益だけでなく、地域のみなさんとも祭りをしたいなと思います。
 それから、「もっとやって欲しい」という人が多いんですね。当日だけでも5人の人から言われました。これは嬉しかった、いくら疲れていてもね。そういう面ではそれでもう成功だなと思いました。来ている人の顔が他の祭りとは違って見えた。みんなニコニコしていましたね。


こならの森 88号

2008-04-20 | 創刊~100号
       ■こならの森88号■1995.8発行

C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森9月号■

おぞねとしこのポエム…ほおずき………3p
その他の情報…/猫バス……4p
知らんの5つの市/ディスク=…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 第4回………8p
結婚しました…平塚鉄也さん&優子さん…95/7/23
JC・JOURNAL………………10-11p
公園探偵団………12-17p
インタビュー……丸山…18-21
インフォメーション9………22-25p
現代国語/カクテル………26p
杜 @皇が占う今月の運勢…………27
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

インタビュー

須藤敏夫さん
■PROFILE:1954年、葛生生まれ。
趣味は碁と将棋、ボーリング。座右の銘は、『三歳の童も導師なり』『窮鼠猫を噛む』の二つという。


@高校中退者は年間10万人を越えている

 高校中退者に対して相談するところというと教育相談所とか自分の出身校の先生とかになりますが、出身校の先生というのははっきり言って相談に乗りません。現実に、卒業生が過ぎ去って3年4年経ちますとその子自体が何を考えているか分かりません。本当は本人は何かしたいということは分かっている、自分で決めているはずなんだけれど、最終的な決断が今一歩踏み出せない。それは、仲間がいないからで、仲間がいないということは指導者がいないということです。
 この二つだけで決まってしまっている。小学校、中学校までは、仲間もいたし先生もいた。ですが中退すれば、その先は自分の責任です。そのことが誰にも伝わらないはがゆさがある。
 すべての答えはどこにあるかと言えば、それは本人にある。特に子どもの場合は、はじめに答えが出ている。その念を押すんです。先生など第三者に念を押して、同じ答えを求める。例えば、高校へいきたいのに全部落こってしまった。でも本人は「高校へいきたいんだ」、ということを言いません。しゃくにさわるから、俺は「就職してもいいんだ」と言う。就職してもいいんだということは高校へ行きたいということですから、それを読み取ることです。こいつは本当は高校へ行きたいんだなと。「おまえは本当は答えが出ているんだろう」、そういってやると、素直に『うん』といっちゃう。ここなんです問題は、そのために何とか高校へいけるようしてあげる。
 今までの僕だったら自分で考えろといいましたが今度は大検を始めましたから、自分で考えろとは言えない。ですからその結論に乗ってあげる、しかし、それが悪さをしたいとかそういう結論では困ってしまいます。でもたいていちゃんとした答えは出している。それに念を押した、我々の答えを待っている訳ですね。

@正直な子を救えない

 今はいいですよね公的機関を利用したカウンセリングコーナーができていて、昔は無かったですからね。昔でも今でも悩んでいる人はいるんです。まして今はこの不景気でしょう、働き盛りの大人が悩んでいるんですからね。
 何をやっても中途半端になってしまうという中退者が実際に年間10万人を越えている。
 逆に素直で正直すぎるためにそうなってしまう。我々の方がずるいですよ。いいところに乗っかって社会人としてやっているようなふりをしていますけれど、これは上手に世の中を渡って来ているだけです。挫折する方が普通なんです。しないというのはどこかでずるさを植え付けられているからです。それは一つには学歴でしょう、ないよりあった方がいいということでね。
 そういう正直な子を救えない、そうした制度がないというのはおかしいんですよ。アメリカだったら大変です、社会問題になってしまう。40年くらい前アメリカでも、そういうことがありました。しかし、そういう子たちを救済する制度を国が決めている。日本には何にもない。こういう大検という制度が昭和26年にできたんですが、実際に浸透しているかというとそうでもない。研修会などをやって、周知したぐらいでは駄目なんですよ、それをうまい具合に利用して活かして初めて生きる訳ですからね。ですから、これを使うべきところで使ってもらいたい。理想的には一つの県で1500人くらいの受験者がいてもおかしくない。ですが実際にはその五分の一、不思議な状態なんです。 毎年10万人の中退者がいるということは、昨年10万人なら今年も10万人。単純に5年間で50万人という計算です。しかし、こういう人達が独力で大検を受けようとしてもなかなか受からない。試験が難しいというのではなくて学校を辞めて何年も経ってしまっていますからね、本当は簡単なんですよ、4教科7選択ですからね。例えば数学ですと高校の1年までですから、下手すると、高校2年でやめた人は数学など取る必要無いんです。 悪く取りますと中学を卒業したら高校へは行かずに、そのまま大検の学校へ行ってしまう。毎年8月に試験がありますから、万が一全部受かってしまったとしたらそれで高卒資格が取れる。 文部省から認定書が来ますが、一般社会ではまだ認められていません。何が優先されるかというと、これは大学を受験する準備が整ったということです。
 一般企業の9割が認めていますが、一割くらいは認めていない企業も一部にはある。
 私が今まで塾などで拘わって来た生徒の中には、二十人以上が現在海外へ出てしまっています。そういう生き方を浸透させましたから、『ちまちました生き方はしないでくれ』と。日本を馬鹿にしているわけでは無いのですが、まず視野を広くして、若いうちは理屈抜きで行動しなさい、理屈なんて後からついてくるから。ということはお金だって後からついてくる。そういうものはあてにしないで、知識に対して貪欲であれとね。

@死ぬというのは勇気がいりますよ

 自分も登校拒否をしていましたし、軽い重いは別にしてもあらゆる社会問題を体験して来ました。そして、いわゆるいじめも受けました。そこで自分が悪いのだということに気が付いたのは中学の2年の頃です。その時には『遅かったかな』と思っています。だから、高校生になってからは様変わりをした。ですからおもしろくなかったですよメリハリがなくって、今までは挫折してしまって泣き笑いがあったのが高校からは、友達の多い普通のハッピーな高校生になってしまった。変なもんですよね。起伏が合った方が人生生きていて楽しい。ですから、いじめられた頃を懐かしんでしまったりして(笑)。先天的にのんきな性格で深刻には考えないんですね。ですから今まで生き延びてこれた、ということはあると思いますよ。
 そういった経験もありますから、大検を初めたいがいの相談には乗れるのでは無いかと思います。中学生でも高校生でもね。 おかしなもので、いじめた子もいじめられた子もまた中学や高校へ行き直している、そういう夢をよく見ます。大検もやり直しですから似ていますね。同じ夢が十何回も続きました。ですが、大検をやろうと思い始めてからは見なくなりました。
 その中ではいじめはないんで
す。みんなと仲良くやっている。 いじめの自殺にしても、つまり弱虫だという言われ方をされていますが、その結果を親や先生にいいたくないんです。俺は強い子なんだ、その裏返しとして死んじゃうんです。矛盾しているんじゃ無いかと普通の人は思うのですが、死ぬというのは勇気がいりますよ。それを簡単に選ぶというのは勇気があるんですよ。それだったらしゃべればいいじゃ無いか、自分が困っている、いじめられているということを親に言えばいいじゃ無いか。……それは勇気じゃ無いんです。それを言えば相手に迷惑をかける。親に対して、余計な心配をさせたくないんです。人のことを思ってこれ以上の心配をかけたくない、俺はこれで限界なんだ、自分で何とかしようと思っていたけれども、やっぱりここで人に相談に乗ってもらうのもいやだから俺は命を断つ。そうすればみんな丸く収まる。でもって、自分の意思の強さで死ぬ、自殺を選ぶんです。そう考えた方がいいんですよ。ですからけして意志が弱いからじゃ無い。弱かったら他人にしゃべります。弱虫の子ってみんなそうですよ。誰々ちゃんにいじめられたよって言いつける、そのまんま大人になればいいんですが、無理に大人の格好をするからいけない。自然に任せるというのがいいが、それが欠如しているために子どもが変に大人になってしまった。親にも先生にも相談できない、まして友達にはいじめられている訳ですから相談できるはずが無い。その結果どうなったかと言えば、俺が我慢すればいいんだ、俺がいなくなればいいんだ。それが道として一番正しいんだ………。
ですから、自殺した人はみんな文章が達者、達筆でしょう。書くことにはものすごく慣れている。逆にいえば言えないんです。ですから意志が弱い方がいい。
 めちゃくちゃ意志の弱い子か、めちゃくちゃ意志の強い子を育てればいい。中途半端に育てるから、言い方はおかしいですけれども、結果がああなっちゃう訳です。私はいじめられる側の問題としてしか考えていませんが、被害者側として見た場合には、学校の責任もありますが、そういうふうに育ててしまった親の責任もあると思います。
 相談する側は、話を聞いてもらう人が欲しいんです。ですから聞く人も聞いてもらう人も、自殺とかは考えない。つまり自殺する人は相談する相手がいないんです。相談できる人はまだいい。ですから、その門扉を開かせて、その人の持っているカーテンを「開いてください」という体制を整えてあげたい。

@よく我慢しているなと思います

 いじめの克服というのは、『戦う人間』がいるかどうかということです。今の子供達は戦う姿勢がないんです。何に対しても戦うんだという気持ちがあればそこまで落ち込むことは無い。そうでなければ丸っきりあきらめて、泣きつく。どっちでも命は助かる訳です。ものすごく意志の強い子か、弱い子かということはそういうことなんです。中途半端が一番いけないんです。それが自殺症候群になってしまう。
 いじめにおいては大半の子どもが自殺してもおかしくはない状況です。いじめにあっている人が一万人いるとすれば、九千人は自殺してもおかしくない。よくこんな数字で済んでいる、よく我慢しているなと思います。@相手を殺したに等しい
 ことをやっている
 私の経験では、クラス会とか同窓会をやるといじめた子たちは来ないんですね。しめたなと思いました。会いたくありませんから。いい大人になってからも私抜きでクラス会をやったりする。そういうふうに今でも尾を引いている。電車の中などで会いますけれども、やはり目を背けますよね。こっちはなんでもないし、無理に自分から接することも無い。
 いい大人でもこれですからね、子どものいじめなんて当たり前なんですよ。最近は陰湿になっているということで、問題ですね。ですが陰湿なんていうのは昔からありました。同和問題などもそうでしょう。その延長から来ているんですよ。もちろん教育のシステムもある。ですから陰湿になっているといわれるが、私はそうなっているとは思っていません。自分も陰湿な経験をしていますからね。普通の気の弱い子だったら、泣いてしまうような経験です。よくそれで我慢できましたね、といわれます。大体の人は途中から聞かなくなってしまいます。親に話したらその場からいなくなってしまいました。それくらい聞く方はつらかったです。
 テレビドラマなどでいじめの問題を扱っていますが、多分私のはドラマにならない。放送禁止になります。相手を殺したに等しいことをやっている訳ですからね。本当によく生きていたなと思っています。ちなみに将棋の駒を何個も飲まされました。そんなに将棋が好きなら駒を飲んでみろと言われて。でも、これはまだまだ言える範囲です。これなどはまだ我慢できますが、言葉の暴力、言霊になるようなものは我慢できなかった。行動よりも言葉の方が許せないという部分があります。
 さっき同窓会に来ないと言った人達は、それをやらせた人なんですよ。ですから、同窓会でその話をされるのがいやなんです。酒がまずくなってしまいますからね。
 別に俺は恨んでいない。俺だって会いたくない。しかし、その人はその人なりに、そのことを一生背負っていく。何も犯罪者意識をもつ必要も無いのに、一生持ってしまう訳ですから…。@いじめる子というのは

 基本的には優しい

 『中学生日記』などを見ても、いじめらる子というのは生意気なんです。いじめる子は普通なんです。いじめられる側はどこが異常なんです。ですから異常な子がいじめられるだけなんですね。出る杭は打たれる。もう少し言わせて貰えば、本当は自分が悪い。いじめた人を恨んでいないというのは、無差別にいじめている訳ではないからです。こいつは『いやだ』という意思表示をしていじめている訳ですから、自分にも原因がある。生意気になってしまったんですよ。小学生時代に入退院などで苦労した。そのせいで回りが生温い生活をしていると、馬鹿呼ばわりをしたくなる。そんな事して何がおもしろいんだ、お前たちの年齢で生きたくも死んでいる奴が何人もいる。それでこんなことをやっていて何がおもしろいんだと言ったんです。それが気に食わなかった。ですから言ったものにも責任がある。
 いじめていた子も初めのうちは優しくしてくれた子が大半なんです。ですからいじめる子というのは基本的には優しいんです。優しくし過ぎる生徒がいますね。そういうのが後になっていじめる側に回っていくんです。優しくしてやってるのに、お前は俺に何を言うんだと言ってね。大検の学校、予備校というのは今は東京にしかない
 将来的には、学校にするという事も考えますが、こじんまりとしたものでもいい。大それたことは何も無いし、生徒は何人でも、十人でも二十人でもいいからそれを必要とする人達が来てくれればいいということです。細々とそうした人達とコミュニケーションを持ちながら、なおかつ勉強も教え目的を持たせてあげるというのが一番の願いですね。そして気軽に相談に来られる環境を整えてあげたい。
 大検受験の生徒には、「普通に進学した生徒をライバルと思え」という、いわゆる戦う精神を植え付けさせる。戦争をする訳ではないんですから、戦うと言ったって一向にかまいません。
 大検の学校、予備校というのは今は東京にしかありません。うちでは個人専任性で、一年間で大検に受かるように教えていますが、それも生徒によって変わります。一回で全部は受かりっこ無いですから、受からなかった残りの科目はまた来年受験する。普通一年で受かる人はいないですよ。
 一例で言えば定時制高校へ通いながら大検を受験して半分の年数や一年でそこを卒業をする。定時制はそれが認められています。定時制にしても通信制にしても大検に受かってしまえばそれでいいんです。
 受からないと思うでしょう、でもやる気をもった連中ですからね受験者の手記を読む限りでは上り調子となって、思ったよりも簡単に受かるんですよ。



こならの森 87号

2008-04-20 | 創刊~100号
       ■こならの森87号■1995.7発行

C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…ほたる…3p
その他の情報…/猫バス……4p
知らんの5つの市………久保…5p
海棠市子の映画評……………6p
書評・絵本紹介………………7p
創作童話 第3回………8p
トピックス………ノア………9p
JC・JOURNAL………………10-11p
清流ウオッチング………12-17p
ちょ旅……丸山…18-21
インフォメーション9………22-25p
現代国語/カクテル………26p
杜 @皇が占う今月の運勢…………27
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

TOPICS

「佐野南商店街」
 このほど佐野南商店街の愛称が「であいの街・アルク」に決まり、7月29日(土)には、商店街誕生イベントとしてジャズコンサートやフリーマーケットなど多数の催しが予定されている。なぜジャズなのかと良く聞かれるが、指揮者がタクトを振って各人がいっせいにそれに合わせて動くということではなくて、お互いが個性をぶつけ合いながら強調しあって、一体となり一つのことを成し遂げて行く、そういう方向性をとらえてジャズコンサートとしたのだという。
 同会は若いメンバーが中心となって動いており、全体的に活気にあふれている。そんな中で「親睦だけの会でよいものか」と、先進地への視察研修も多く行った。今回のスーパーバザールも、昨年の10月に行った研修会の後の反省会から出て来たものという。研究会としては1989年から発足しており、現在79店が加盟している。
 とにかく会員同士の仲が良く、どんなに議論が白熱しても後日にしこりを残さず、きっぱりとしているところや、昔からまとまりが良いということが現在の活気を生む秘訣だという。また多彩な人材に恵まれていたということも、今回の企画に弾みがついた一因とか。
 今年になってからも既に30回を越す会合を開いており、熱の入った取り組みが伺われる。ただのお祭りやイベントという位置づけは考えておらず、長期的な行動として行きたいと会員は口をそろえる。将来的には商店会の個々が充実していきソフト面やハード面と言ったことを共同で豊かにしていきたいという。新しい商店会の動きにはこれからも目が離せない。