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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森160号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森160号■2001.8発行
表紙 「おきざり自転車とつた 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・直訴状を読む……………………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

風の独り言
お金が無くて暇~な時の過ごし方
 とある日曜日、朝から何もすることがない。4才になる孫が下から見上げてどこか連れて行けとせがむ。給料日前でお金も無い。よくあることであるが、こんな時どうするか。
 佐野駅に行き、岩舟までの切符を買う。大人190円、幼児はただ。1番線の上り列車08時28分に乗り足利に向かう。方向が逆だがこれで良いのである。日曜のこともあり列車内はガラガラに空いている。孫は窓の外を流れる田園風景に見入っている。靴を脱がせ外を見せていればおとなしい。私はおもむろにほんを取り出し読み始める。やがて列車は高崎到着。09時48分。八高線の次の列車は10時33分。時間があるので駅弁を買うことにする。だるま弁当900円。孫にはとりめし弁当800円。飲物は家から持ってきた水筒の麦茶で十分である。高崎からの列車の旅は秩父の山々を左右に眺めながらのゆっくりとした旅である。登り下りの多いせいか、時速30~40ののろのろ運転で進む。景観を楽しむには最高である。こちらの気持までゆっくりしてくる。弁当を広げ、土地の名産を味わう。11時56分高麗川(こまがわ)に着く。
 又、乗り換え、今度は川越線で大宮へ。途中、川越駅で快速に乗り換え12時54分大宮着。大宮では東北新幹線、上越新幹線、秋田新幹線等々、次々にくる新幹線に孫は大喜びだ。大宮発13時10分、宇都宮線で小山へ。この辺は少し見慣れた景色になってくる。小山着13時48分。小山発両毛線13時57分。岩舟着14時18分。ここで初めて改札を通り、佐野駅で買った190円の切符を渡し、駅外に出る。 駅前で一寸ブラブラし、改めて岩舟~佐野間の190円切符を買い14時46分発、佐野着14時53分。
 孫もいっぱい電車に乗れて大満足。私も好きな本を十分読めて良い1日でした。
こんなの利用の仕方をすると、何か違法行為をしているように聞こえるが、これは違法でもなんでもない。途中、車内検札があってもなんら臆する必要もない。正当なの利用なのである。両毛線は昨年六月から「東京近郊区間」ということになり、どんな経路を通ろうと1番安い運賃で切符を買えば良いことになっている。但し、改札を出られないこと。有効は1日だけであること。特急や急行は使えないこと。同一経路(駅)を2度通過できないこと。等が条件である。
 もっと凄い使い方を考えると、佐野~足利間の切符で、佐野~小山~友部~(常磐線)~上野~(京浜東北線)~大船~茅ヶ崎~八王子~高崎~足利。そして足利~佐野。
230円+230円で。早朝05時53分に出発して18時07分に佐野に戻れる。
子供連れの電車旅。お金が無く、ヒマーーーな時には1度試してみては如何ですか。


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こならの森159号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森159号■2001.7発行
表紙 「 がくあじさい」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・日帰りドライブガイド…………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


佐野JC・教育フォーラム
「義務教育を考えた事がありますか?」
~親の義務であり子供の権利なのです~
特定非営利活動法人 
とちぎ教育ネットワーク 副理事長  
中野 謙作 さん

■プロフィール――――――――――――――――――――――
中野 謙作( なかの けんさく )
1959年 東京都千代田区に生まれる。
1983年 学習塾、家庭教師を職とする。
1986年 株式会社教育社 入社
1994年 WS・早稲田セミナーホーム学習会(栃木県高根沢町)塾長となる。
1999年 特定非営利活動法人とちぎ教育ネットワークの設立に参加
現在、特定非営利活動法人とちぎ教育ネットワーク副理事長、社団法人全国学習塾協会栃木県会員会副幹事長、栃木県統一テスト協議会機関誌部会部会長を兼任。座右の銘は『冬来たりなば、春遠からじ』。


中里 本日はよろしくお願いします。はじめに中野さんのこれまでのご活動をお聞かせ願えますか。
中野 私は東京出身でして、以前、学習塾や家庭教師、そして教材会社勤務など、教育に関連する仕事をしておりました。ところが、約8年前、教材会社を通して、高根沢町のある塾長と知り合い、その塾長が民間のNGOでインドネシアに行かれることになり、塾長の意向でそれまでの塾経営を引き継ぐことになりました。現在、その学習塾を全面リニューアルしまして、WS・早稲田セミナーホーム学習会(=WS学習会)を開いております。こちらへ来てからは様々な高校や大学受験において、東京との余りのギャップに驚きました。私自身の経験も含めてですが、東京の高校受験といえば、いかに私立高校に合格するか、という価値観ができあがっておりました。ところが、高根沢へ来たところ、まだ県立高校志向が非常に強いことに戸惑いを感じました。栃木県ではまだまだ私立高校が力を出し切っていないと感じました。
中里 確かに栃木県では、まだまだ県立高校の方がステイタスがありますが、最近では、少子化による学生の獲得のためにも、急速に私立高校のレベルが上がってきたように思います。さて、現在取り組んでおられる『NPO法人 とちぎ教育ネットワーク』の活動内容について、お聞かせ下さい。
中野 私は現在、不登校の問題をテーマに活動をしているのですが、学習塾にも色々な団体があり、様々な考え方を持つ先生がおります。そこでもっと地域に貢献できないものかという斎山先生(とちぎ教育ネットワーク理事長)の呼びかけで、賛同する方々が集まり、一昨年の11月に発足したのがこの『とちぎ教育ネットワーク』(=TEN)です。そして、昨年2月にNPOとしての認可を頂きました。この団体の大きな柱として国際交流を目的とした「イングリッシュキャンプ」があります。今年も100名ほどが参加する予定ですが、3日間のキャンプで、子供たちに英単語を教えるのではなく、運動やゲームなどの肌の触れ合い、心の触れ合いを通してお互いを理解していくという趣旨で行っています。キャンプ中、先生方は英語でしか話しませんが、キャンプの最後には子供たちもお互いを良く理解することができて、とても喜んで帰ります。これからも続けていきたい事業の一つです。
中里 佐野青年会議所でも、今年で4回目となる『安佐こども未来塾』という小学生対象の事業があります。内容はキャンプや高齢者擬似体験、ワールドゲームなど国際感覚を身につけるプログラムを実施してきました。今年は、企画の時点から子供たちに参加してもらい、この未来塾を卒業した中学生がリーダーとなって、自分たちでプログラムを決めていくという事業を行っています。
中野 子供たち自身に考えさせるという意味ではとても良い取り組みだと思います。総合学習の時間で生徒たちが自主的にテーマを決めて取り組んでいる学校も出てきていますね。そのように、どんな子でも自ら勧んで学習できる機会が増えるといいですね。
中里 私も昨年、総合的な学習の時間に、地域の先生として教壇に立ちました。私が所属する消防団の活動を小学生に教えました。学校の近くの川で、消防車を使って水を吸い上げ、放水する作業を、子供たちに体験させました。子供たちは目を輝かせて真剣に学習していました。私自身非常に良い経験をさせていただいたと思っています。総合的な学習の時間ということでは各学校が試行錯誤をしているようですが、地域学習ということも含めて真剣に取り組んでいってもらいたいと思います。
中野 そうですね。その通りだと思います。そして『TEN』のもう一つの柱としては「教育評価研究会」というものがあります。最近では子供たちの学力低下問題が焦眉の課題とされてきていますが、民間の立場から絶対評価と相対評価の研究をしていき、21世紀を担う子供たちが必要とされる学力を明らかにした上で、最終的には行政に対して提言できるような教育評価を作成するということがコンセプトです。
中里 その教育評価というものは学校の教育システムを評価するというものでしょうか。
中野 そうではなく、きちんとした理論体系をベースにした実際の学習における評価の考え方です。今までは、クラスの中での相対評価でしたが、これからは個人別での絶対評価が注目されていきます。ただ今後、絶対評価だけで子供たちのやる気を引き出すということは難しいので、私たちは両方を併せ持った考え方で取り組んでいきたいと考えています。そしてもう一つの柱として、「教材開発研究会」というものがあります。これも同じように来年度の教科書改定にあわせてどのような教材が必要なのか、ということをテーマにした研究会です。その他ITに関連したことでは「ホームページ」も開設しました。そして今年はメインの活動になっている、不登校問題の「サポートネットワーク」と、以上の5本柱で進めております。

(略)

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こならの森158号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森158号■2001.6発行
表紙 「 田中正造生家ほか」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・田中正造…………………………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー&映画情報……………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

田中正造直訴から100年
安蘇史談会主催 第17回安蘇の風土と歴史講座
『田中正造をふりかえる』

「直訴状と谷中村問題」  
講師:嶋田早苗さん
     
京谷会長 今回の講師の嶋田さんは1981年に佐野市郷土博物館準備室に入られまして、初代の館長さんとなられました。その後、教職に復帰され、佐野市内の小学校長を最後におやめになってから、足利工業高校に非常勤講師として勤めながら、田中正造邸宅保存整備事業に従事し田中正造宅の一般公開事業に当たっておられます。なお、先生のお父さんの嶋田宗三さんは谷中の人で14歳から25歳まで田中正造に師事をして臨終にも付き添いました。正造さんがなくなってからも遺品だとか、文書の収集保存に努められ、県の文化財の功労者として表彰されました。この田中正造さんにつきましては、嶋田さんが打ってつけであるので時間までお聞きになられればありがたいと思います。

嶋田 最初に直訴までの足取りを確かめるために、年表を使ってみていきたいと思います。最初に渡良瀬川に異変があることを報道したのは、1885年(明治18年)です。渡良瀬川で鮎が大量に死んだということを新聞が報道しました。それから魚がどうもおかしい。子どもが手づかみでもウナギを捕まえられた。食べると下痢をするということがありまして、漁業に従事している人が明治17年には、2132名いたのが、21年になると4分の1に減ってしまう。その後はゼロです。魚がいない捕れない、捕っても毒だ、体に良くないということで漁業従事者がゼロになってしまう。そして、23年には大洪水がありまして、被害民の鉱毒反対運動が始まりました。谷中村とか群馬県議会、吾妻村などで足尾鉱山がどうも被害を及ぼしているらしいので、何とかしてくれ、ということを訴え出ているわけです。
 梁田村の長 祐之は、わざわざ足尾まで出かけていきまして、調査してそれを本にしたのですが、発行禁止にされてしまうという状態になる。田中正造は24年の12月に議会があったのですが、質問書を出しました。その時の農商務大臣というのは陸奥宗光でした。答弁の席に出てこないんですね。議会が解散した後、官報で、田中正造の質問に答えている。鉱毒の原因ははっきりしない、足尾銅山は粉鉱採集機を欧米各国から用意して鉱毒被害がなくなるよう努力をしている。そういうふうに足尾銅山寄りの返事をしているんです。一方では、足尾銅山の方は金で問題を解決するように被害民と示談の話を進めている。田中正造がうるさいからと。田中正造はその様子を見守っていました。明治27、28年には日清戦争が起きたんですね。戦争をやっているのに、国内で意見が分かれてはいけないというのでこの期間田中正造は足尾鉱毒について、政府に責任追及をしなかったんです。それをいいことに、足尾銅山は大増産をやりまして、29年の9月には、大きな洪水被害が起きました。そのころは、東京都ではなく東京府でしたから一府五県に渡って10万54町歩に渡って鉱毒被害が出たわけです。
 雲龍寺に群馬県、栃木県の鉱毒停止事務所ができまして、ここを中心にして被害民が集まりました。田中正造は示談はやめろ。金で解決するのはやめろ。憲法で、請願権というものが認められているのだから、政府に対して請願をして鉱毒をやめさせる運動をすべきだ、ということを説いたわけです。東京にも請願事務所ができました。30年の上旬と下旬の2回にわたって、被害民が大挙して中央官庁に除害を請願したわけです。これは押し出しといいます。政府は下旬の農民の動きにある程度動かされたと見えて、足尾銅山の鉱毒調査委員会を作るんですね。そして、5月になると、東京鉱山監督事務所が初めて銅山に対して、鉱毒予防工事命令を出しました。政府は何もしなかったという言い方をよくするのですが、したんです。予防工事命令をこの時点において出しました。ただし、不完全だった。命令された方の銅山経営者、古河市兵衛ですけれども、「やればいいんでしょう」ということでかなり費用をかけてやったんですが、鉱毒はいぜんとして流れ出した。おまけを付けますと、東京の鉱山監督事務所長は予防工事が終わると、足尾銅山の所長に納まっている。悪い考え方をすれば、工事はいい加減で負けてもらって、終わったらウチの所へ来てくれ、礼は弾むから。そんな想像ができます。まあ、いい意味で考えますと最後まで責任をとって、足尾銅山から鉱毒が流れないように、事務所長になったんだと考えられます。後年になって、銅山で暴動が起きまして、その所長さんかなり痛めつけれているんですね。我々も気をつけないと子孫というのは後まで生きていくわけですからね。自分のやったことが後世になって批判されることにもなりかねません。
 政府もようやく予防工事命令を出したころから、足尾銅山が鉱毒を出しているということが分かりまして、税金を免除するんです。免除されるとありがたいんですが、残念なことに選挙権を無くしてしまう。最初の選挙権は直接国税15円を納める者が持っていたのですが、このころは10円でした。免税で自分たちの要求ができなくなってしまう。ですからマイナスなんです。
 続いて憲政党内閣成立と年表にあります。田中正造が最初に所属したのが改進党です。その後、小さい政党を併せて進歩党と名前を変えた。その進歩党が自由党と合併してこの憲政党を作る。政府寄りの政党を今、与党といいますが第一議会から、田中正造が所属している改進党、それから自由党の野党の方が与党より強いんです。そのために、初期議会といわれている明治23年から、27年までの間に解散が4回あるんですね。普通だと、今と同じで代議士の任期は4年なんですが、初期の議会では平均すると1年しか持たないんです。政府は、野党の勢力が強いので解散、解散とやる。だから田中正造は第1回の総選挙の時に、蓄えておいた政治資金を殆ど使ってしまった。そのあと5回選挙に出ましたから、借金、借金で手当としてもらう議員歳費を銀行に送って選挙資金を返すという苦しい状態を続けいた。
 田中正造が所属する憲政党が多数党を占めまして初めて内閣を作ったんです。これまでは、薩摩と長州出身の者がずっと内閣を作ってきた。初めてそれ以外の憲政党の政党内閣ができあがったんです。ですが、10ヶ月で潰れてしまいます。その後はまた薩摩と長州出身者の政府が続いていくわけです。

(略)

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こならの森157号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森157号■2001.5発行
表紙 「フェイシャリスト 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■


ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・イメージチェンジ………………10
関東フォーラムとちぎ………………14
風の独り言………………………………18
何でも探偵団……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30


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【本文抜粋記事】
佐野JC・教育フォーラム

子供を描きながら、子供達に伝えるメッセージ
~『心の「ふるさと」がありますか?』~
児童画家 
安藤 勇寿 さん

中里 本日はよろしくお願い致します。安藤勇寿さんの絵には必ず子供が描かれておりますが、なぜ子供がでてくるのですか。何かテーマがあると思うのですが・・・。

安藤 「少年の日」というテーマでずっと絵を描いております。自分の絵を探し求めていた時に、ふるさとの山や川や田んぼの中にテーマを見つけました。子供の姿を借りて自分が絵の中に登場してみたり、絵の中の子供を通して、私の思いを皆さんに感じてもらえたらと思っております。

中里 地元の風景や「ふるさと」というものを意識されているのですか。

安藤 私は田沼というところで生まれ育ったのですが、地元田沼はもちろんですが、田沼の風景だけではなく、自分がどんな風景の中に居たいのか、または、その風景をどう自分が感じるのかということで描いています。海のないところで育ちましたから、海にあこがれて漁村の暮らしなども題材にしたりしています。「ふるさと」については、自分がどこで生まれ、どこで育ったかということでしょうが、もう一つ日本ということを意識しています。外国の方に訪ねられたら必ず「日本から来ました」とか「日本人です」とか答えますよね。自分は日本人なんだということを再認識してもらいたいと願っています。

中里 日本人ということを誇りに思いたい、或いは、思っていただきたいということですね。

安藤 そうです。それがあるから人種、年齢、性別に関係なく色々な国の人と知り合っていきたいと思うわけです。私の場合には、知り合う方法として、或いは、知ってもらいたい方法として、絵があるということです。結局は自分が何者なのかというところに行きつくと思います。

中里 本年度は、(社)佐野青年会議所内に、ふるさと教育委員会という委員会を設けさせていただきました。主に教育に関する様々な事業を行っております。事業を通して、この地域の子供達に、自分の「ふるさと」について胸を張って自慢してもらいたいと思います。私自身、大学で初めて東京に行った時は、ふるさとの栃木についての恥ずかしさがありました。しかし、田舎に帰ってきて、この「ふるさと」の素晴らしさを改めて気付き、今では大いに自慢したいと思っています。

安藤 恥ずかしいと思っていたのは自分に自身がなかったからだと思います。自信がないとどうしても足元がふらつくことになるのではないかと思います。自分で何かやりたい事があることによって、自分自身が見えてくる、見えてくることによって色々な人との中での自分が具体的に分かってくる訳です。

中里 自分がこの町に住んでみて何がしていきたいのか、そして、その思いをしっかりと子供達に引き継いでいかなくてはいけないのだと感じています。そういった「ふるさと」を大事にしたいという想いから、自分自身やりたい事が見つかってきたのかなという気がします。

安藤 「ふるさとを大事にする」という言葉はとてもいい言葉だと思います。それが結局は自分自身を大事にするという事に繋がってくると思います。ある意味で「ふるさと」というのは、自分自身をこの世に送り出してくれた母親のような存在で、なくてはならない一番大事なものだと思います。そして自分で一番居心地の良いところ、そこが自分の「ふるさと」だと私は考えております。

中里 安藤さんの絵は海外でも評価されていますが、海外の方と接する事も多いのですか。

安藤 外国に行く機会はあまり多くはないのですが、出会いを大事にして相手の事をもっと理解したい、そして自分の事も、もっと理解してもらいたいと常に思っております。飛行機で12時間ほどかかるカナダにも知り合いがおりますが、隣町にいるようなほとんど距離を感じずにお付き合いさせて頂いております。

中里 ところで、最近は国の借金など、政治に関する色々な問題が出ております。日本の首相が海外に行っても相手にされなかったり、一方的にアメリカの大臣が日本経済に関して注文を付けたりしております。今、日本においては、強い真のリーダーが求められているのではないかと思います。大げさな話かもしれませんが、そういった外国の方とのお付き合いをするにあたって、どういう日本、日本人であれば良いと思われますか。

安藤 私が思うには、着飾らないで普段着のままと言いますか、お互いを理解し合えるきっかけを、色々な角度から考えていく必要があると思います。特に日本というのは島国ですが、他の国の人は国境を越えると、そこはもう自分の国ではない訳です。お互いを理解し合えなければ平和を維持することも、共存していくこともできません。他国の人と仲良くやっていきたいと言う気持ちがあるからこそ自分を理解してもらいたい、または相手を理解したいということになると思います。ただそれが一歩間違えるとマイナスの方向に行ってしまいますが、とにかく自分はどこの国の人間なんだと言う意識を持っていなくてはなりません。それが先ほど話しました「ふるさと」に繋がってくるのではないでしょうか。例えば、外国に行って自分を理解してもらう為にはどうしたら良いかということを考えると、やはり国旗を見てもらったり、国歌を聞いてもらうのが一番早い訳です。その辺りをしっかりと子供達に伝えていかなくてはいけないと思います。
(後略)

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