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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森200号

2008-07-10 | 101号~200号
       ■こならの森200号■2004.12発行
表紙 「 木造校舎」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「木造校舎」…………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】
特集
木造校舎を訪ねる(尋ねる)。

 訪ねるは、その場所を訪問する、尋ねるは問い求める、探す、調べるという意味なのだそうだ。というならば、今回は「尋ねる」という字があてはまるのかなと思う。少ない情報を元に、場当たりで取材を決行するあたりは、創刊号や100号、200号となっても変わらないらしい。感心していても始まらないともかく、行って見よ~う。

 安佐地区には、現在木造校舎と言われる建物はない。記念館や資料館ならあるが。鹿沼の北小などは、地場産業の木材をいかして既存の木造校舎を再生している。今後に残すためだという。私の卒業した、小学校や中学校は歴とした木造校舎だった。小学校は、あらたに木造モルタルのモダンな校舎が追加され、1,2年生が使っていた。もちろん今はない。小学校卒業の記念にモノクロで写真を撮っておいたと思ったが、今はみあたらない。
 中学校へ進むと、当時としてはお荷物的な古い崩壊寸前の校舎。いちおう防火壁はあるものの、災害時にはどうなることかと危惧された。
しかし、歴史は古く、建築にあたっては地元の人々や、就学児童が瓦を屋根まで運んだということだ。それだけ、地域が学校というものに期待をしていた時なのだろう。今とは大きな隔たりがあるのは事実だが、そんな「結い」とまでは言わないがつながりが、学校にあってもいいのではないかと改めて思う。ゆとり教育是正ととか、競争社会だとかいう今日を考えると、なおさら、質素な木造校舎が懐かしくなってきた。あるものは、別の施設に変わり、あるものは地域のコミュニティの場として生まれ変わる。しかし、多くの木造校舎は消えていった。
 今回取材した粟野は、近隣にしては多くの校舎が残っている地区だ。こならの森創刊時期に、ふらりと「木造校舎の取材」ということではなく、この地区を訪れ、何気なく目に止まったものをモノクロで撮影していたが、その中に、写真にあるようなモダンな三角屋根の木造校舎があった。廃線橋でもそうだったが、探したのだが、写真は一枚しか見つからなかった。今後は、アーカイブスとして、ネガの整理が待たれるが、そこまで時間を割く時間が残されているのか………。
 それはともかく、記事に私語は慎んで、はっきりいって、ぶっちゃらけに、今となってはどこで撮影したのか全く分かっていない。ただ、分かっていることと言えば、存在していないと言う事実だけだ。
 よく言われる近代建築への批判は、病院だか学校だかわからない、というものだが、確かにたくさんのそうした画一化された、建築物が反乱した。今回の取材でも、木造校舎を探すのは大変だったが、「学校」を探すのは、たやすかった。そして、みなどれも同じような形をしている。キャラメルの箱を横に立てたようだ。窓は開いているが………

 木造校舎の同じ事(画一化)といえば、栃木市方面から粟野へ向かって、みなどれも道路の右側に建っているということだ、これを頭にいれれば探すのもたやすい。なぜ右側なのかはこの時期の午後に行ってみればなっとくします。


 この日の取材で最初に訪れたのが、  学校。地図が古いのか、看板に惑わされたのか(あっているのだが)一度右側へまがった地点で、あっあそこだ~と思ったところは、何かの集合住宅だった。最初からして、困惑。先が思いやられる。ここは、見つからなかったと(記事に書いて)そういうことにして、次いて見よ~う。
 来た道へ戻り、進んでいくとさらに、下粕尾という看板。やっぱりここを右に曲がるんじゃん。と、思いながら、進んでいくと、今度こそリベンジ、そそくさこれまた右へ曲がって、「あっ」これが一番当てにはならないということをもう、皆様はご存知だとは思うのですが、………その場所(木造校舎)らしきものはなんと、狐につままれたのごとく先ほど引き返した道で、それらしいと思った校舎もさっきの校舎だったのです。
 結論から先に言えば最初の案内通り進んでいれさすれば、後戻りしなくてもよかったわけです。これは、取材が進めば進むほど、皮肉な結果になるのですが………。


 ………しかたなくこの道も戻ります。というより先に進みます。(この辺の状況は地図をご覧下さい。)
 すると今度こそと思える体育館が見え、確かに木造校舎が確認できました。よかった。(何でもないことなのに、水曜スペシャルのようにドラマにしてしまう手法は、創刊以来変わっていませんね。編集長も(変わったひとですが)代わっていませんからね)
 まえふりに戻るのですが、ここで最初に見た校舎は本当に、中学生にタイムスリップしたかのようでした。悪く言えば、キャラメルを横に立てたようなデザインは、基本的にモダン建築と変わらないものですが、「似て非なる」とはこの校舎にこそあてはまる言葉なのでしょう。



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こならの森199号

2008-07-09 | 101号~200号

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【本文抜粋記事】

書評

 「さらば、欲望の国」
   中村敦夫 著
   近代文芸社 刊

 先日のテレビではアメリカの、なんと500キロにも及ぶ女性の映像が流されていました。減量するために胃を切除し、あまり食べられないようにするとか、またはお腹の脂肪を取り出す方法なども解説していました。でも人間が500キロにも太れることにまず驚きました。その女性は自分では起きあがることさえできず、一日中寝たきりです。なぜそこまで太ってしまったのか、とても信じられません。
 その反対に、やせるための番組も花盛りです。1ヶ月に何キロやせて、お気に入りに服が着れるようになったかとか、自分に自信が持てるようになったとか言っていました。後から後から似たような番組が作られるのにはあきれます。もちろんそれを見る人が多いから作られるのでしょうが・・・・・。
 でもこんな番組を見るたびに暗い思いにかられます。このような番組を作る人は、全世界で9億人もの人びとが飢餓状態にあることを知っているのでしょうか。アメリカや少し落ちぶれたとは言えこの日本で、”痩せたい、痩せたい“と思っている人は、明日たべる食料もなく餓死寸前の人たちがこの地球上に数多くいると言う現実を、どのように捕らえているのかぜひ知りたいものです。
 このような大きな矛盾は、世界人口の20%の人びとが富の80%を独占しており、それが年を追うことに拡大してきていることに象徴的にあらわれています。なんと、世界の超金持200人の資産合計額は、世界人口の40%(約25億人)の人びとが、1年間に得る総収入と同じだという学者の発表もあるそうです。筆者・中村は、「吐き気を催すような不公平」と表現しています。私はこの”吐き気を催すような不公平“こそが、テロを発生させる最も大きな要因であると考えております。これを根本から解決しようと努力しない限り、テロはなくならないと思います。
           文・高田朱夏

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こならの森198号

2008-07-08 | 101号~200号
       ■こならの森198号■2004.10発行
表紙 「 コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「田舎教師・文学紀行」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ



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【本文抜粋記事】



●純文学に帰ろう! 読書の秋スペシャル

田舎教師文学紀行

 作家の秋山 駿(あきやま・しゅん)が朝日新聞に寄せている文章では、田山花袋の小説を読み返しているという。それは、純文学であり、私小説のルーツでもあるからだという。そして、金原ひとみや綿矢りさの方が、花袋よりもうまく描いている、とさえいう。
 「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」は純文学や純情、そして今の「冬ソナ」ブームに引き継がれる「純」な気持ちへの出発点でもある。
 それが若い19歳20歳という感覚で書かれていながらも50歳代の人々にも共感をもたれるゆえんでもある。混沌とした、現代で見失ったかに見えたものが、再び復活してきたような気がする。「読書は、純文学に始まり、純文学に終わる。その間にはたくさんの駄作を読まなければいけない」という文芸評が思い出される。
 花袋は夏目漱石とも4歳しか離れていない、小説の水明期に、暗中模索していた作家だ。それらを飛翔してきた世代とでは自ずと書き方も変わってくるのだろう。でも、その原点とも言える小説を読み返してみるのもいいかも知れない。

■文学散歩
 創刊間もない頃のこならの森では、館林における田山花袋を少々取り上げているので、今回は実際に舞台となった、行田市を中心に話を進めています。
 少し前、ある冊子で、田舎教師の墓という記事は見てはいたのですが、少し古くさい印象でした。それくらいにしか思っていなかったのですが、先にも紹介したように何事にもはじめがあって、私小説の先駆者という認識でみてみると、また違った感じがします。その辺が、純文学に始まり、純文学に終わるという普遍性へつながっていくのでしょうか。

■旅立ち
 順路どうりに、館林の田山花袋記念館を起点にして、行田方面へ向かいました。途中、川俣事件の碑を見たりして30キロ近く寄り道。
 行田市に入ってまず、モデルになった青年の墓があるという建福寺へ。最初に思っていたイメージは町外れでしたが、実際にはまんま駅前。交通量の多い道路に車を止めての強行軍です。道路側からは、これといった大きな案内板はありません。境内に隣接して幼稚園があり、何かの行事がおこなわれていて、あいさつされたりして少々テレ気味のあと墓へ向かいました。そんな、状況もあって、足早に取材、写真撮影、ところがこれがいけなかったと後から思うのですが、モデルとなった小林さんが下宿していたという旧本堂は、確認できませんでした。
 ガイドマップが細かくなかったのか、また古いものだったのか、目的地までは本当に「4里」ほどかかりました。
 今でも、モデルになった、小林秀三さんの墓はしっかりと守られていました。記念碑も、説明の看板もしっかりと有りました。案内板は、控えめですし、はじめて羽生駅に降り立って、墓碑を目指そうと思ったら苦労するかも知れません。ここは、駅員さんに聞く方が、いいでしょう。
 それから町の中心地をすぎ、田舎教師の舞台となった、「弥勒小学校跡」へ向かいました。建福寺から車で行っても、15分は過ぎています。実際に、徒歩であるったら何時間かかったのでしょうか。四里は、今でいう約16キロ。佐野から足利くらいの距離です。
 どうしてもっと近くに下宿しなかったのかとか、他の交通手段はなかったのかと、思ったりします。
 舞台となった小学校は今はありませんが近くには田舎教師の像があります。またここに小学校があったという記念碑もあります。時は流れても、あたりの風景はむかしのままのようです。
 「田舎教師」は自然主義文学の代表作といわれる。自然主義は人生をありのままに描くことに徹するという。だから人も風物も忠実に再現され、そうした真実がいまも心を打っのかもしれません。

■私小説、純文学のふるさと
 人は一生のうちにいろいろなジャンルの本を読むのだけれど、結局はここにかえって来るといわれている純文学。
 それにしても、ノスタルジーなのか、分かりませんが時を超えてこうして文学の舞台となった土地に記念碑や足跡が残っているのはうれしかったり、また文学の普遍性をかいま見たような気もします。
 私の手元にある「田舎教師」の文庫本の解説には、「………というのが、このたいくつな小説の筋書」とあります。つづけて「筋もたいくつでありますが、」とあり、代表作の解説なのになんともはっきり物事をいうのだろうと感心しました。

■再び草の野に
 『田舎教師』の発表から一〇年後に、やはり羽生を舞台とした小説『再び草の野に(一九一九年)』を出している。当時の東武伊勢崎線は、利根川橋の工事が遅れていたために、羽生までしか伸びていなかった。そこに暫定的におかれた終着駅、川俣の物語が「再び草の野に」だ。ゴールとラッシュのように町が興り、線路が延びると駅が廃止されて「再び草の野に」。実際に、利根川のたもとにはその廃墟があるという。

■都会教師か田舎教師か
 「都会か、田舎か」実は今に通じる深い思想が当時もあったようです。モデルとなった青年も地方で教員をしながら、都会へ出ていく夢を持っていた。それとは逆に、地方へ向かう流れもあった。
 小林の日記を田山花袋に紹介した建福寺の住職太田玉茗は、都会で活躍しながらも羽生に戻っているのです。

※主人公とモデルになった人物が似かよった名前なので、混同してしまいますが、主人公は林清三です。


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こならの森197号

2008-07-07 | 101号~200号
       ■こならの森197号■2004.9発行
表紙 「葛生廃線路 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「安佐の廃線路を行く」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

安佐の廃線路を行く

■廃線、始発駅………
 改めて現在(2004年)の葛生駅や周辺の写真を撮っていると、おやっと思える点が多くある。これは、今思ったことではないが佐野駅と同じモチーフではないかということだ。デザインのダウンサイジングか。それにしても、飾り窓風の出窓のデザインは秀逸でもある。「両毛様式」といわれる片鱗がここにも受け継がれていて興味深い。
 思うに、同じデザイナーが一連の『建築デザイン』を担当したのだろうが、おのおのは叉、違った趣である。この辺が非常に面白い。

■復活
 運転
 この線路に思いいれがあるのは廃線になった年の1971年にあるのではなく、その後、たぶん一度だけ76年頃(著者十七才)に復活運転をしたということだろう。当時高校生だった私は、友人から授業を抜け出して、撮影に向かう誘いをうけたが行かなかった。その時は少し迷った。機関車は当時でも珍しいピーコック型のSLだったからだ。歴史に「タラ・レバ」はないが、悔しさは残る。一昔前、葛生町方面を通るときに煩わしさを感じた線路や踏切の想い出でもある。

■幻の鉄橋
 葛生老人ホーム近くで
 道路をまたぐもの。
 廃線が決まっても数年は、まだ遺跡?として、鉄橋が存在していた期間があった。やがで消えゆくことは分かったいたので、撮影に訪れた。といっても、ほんの記録的(きまぐれ)だったので、思うにたった2枚しかシャッターを切っていないと記憶する。いわゆる縦、横。
 最近になって、そこを訪ねてみた、あの時の鉄橋はまだ存在しているものなのだろうか、思いはもちろんかすかなものだった。そんなことは無いだろうと思っていたから。
 そして、よくありがちな感動は全く否定された。特殊老人ホームに着くまでの道で、それらしいものは全くなかったのだ。ただ曲がりくねった道が続くだけだった。そして車の向きを変え、降りていこうと思ったときに思いは一変した。ホームにのびる道と平行するように、桜並木があって思わず写真を撮った。ちょうど、西日が差し逆光だった。
 何枚か撮影するうちに、道が真っ直ぐなことに気が付いた。ああ、これが、あの線路だろうか。そう気が付くまでに大した時間はいらなかった。そうなのだ、ここが、今までの時間を紡いだ、線路なのだ。そう思うと、もう思っていもいられない。あたりを虱潰(しらみつぶし)に、取材してみたくなった。どこでもいいのだ。路地に入り、道無き道を行き、その痕跡だけを探し求めた。何カ所かで、感動的な出会いに遭遇した。
■再訪、鉄橋・橋脚
 ある晴れた日にまた鉄橋跡を訪れてみた。それにはわけがあった。先の取材の後、昔の鉄橋を撮った写真を探していたのだ。だが、見つからなかった。部屋(編集室)の半分くらいを探したのだが、無かった。考えられるのは、どこかに移動したということだった。それしかない。結論から早々いうと、一番手前にあって、あたりまえに思っていたものから偶然(偶然と言えるのかはわからないが)、見つかった。でも、これは記憶違いなのか、一枚しかなかった。それも縦位置のものだけだった。たしか記憶が正しければ横位置の写真も撮っていたはずだ。もちろん今回の企画においては両方が発見されたとしても、大した違いはないのだろうが。でも、何においても無いというのは致命傷だ。本当にないのだから。ともかく縦位置の写真を元に同じ位置から現在の様子を撮影した。また、残された橋脚の一部も茂みに隠れて見えにくかったので、何枚か撮り直した。

■走覇
 廃線路を、特殊なトロッコ型自転車で「走覇」するという記事をどこかで見た記憶があるが、今回は、失礼ながら自動車で行ってみた。ところが何カ所かでは道(線路)がとぎれ、延々バックする羽目になった(体感では1キロほど)。ゆったりのんびりどころではない、実際(車が脱線(脱輪)する?)方が怖かった。
 しかしながら、この路線は、まさしく葛生の歴史の一部であろう。それが消えるのはもちろん歴史の動きのほんの一部にすぎない。けれども、郷愁的には最大の趣がある。廃線路の特徴は、単なる道(路)の延長ではない。どことなく、不思議な誘いがある。一般の道だと思って進んでいくと、突如として常識を覆す事態に遭遇する。あたりまえだが、元は「(廃)線路」だったのだから。
 一般の道路は、急なアップダウンもいとわないが線路はそうはいかない、脱線の危機がある。なるたけ、平坦で曲がりくねりの無いようにする。このことを要点に進めば面白いように、先が見えてくる。これがトレジャーハンテングのようで興味をそそられ、やみつきになる理由ともなる。でも、それには一応の歴史を知らないと核心が太らない。最低限でも、古今の歴史にはふれてから出掛けて欲しいと思う。それは、とりも直さず「わが町」を知ると言うことでもある。そういう意味では、かならずしも「廃」線ではなく、今につながる道(線=ライン)であるともいえる。

 歴史のある町を、のんびりゆったり、自由に散策できる「道=線=ライン」それが現在でも残っている。これを、利用しない手は無いではないか。ただし散策には充分な注意が必要。(編集部)

■廃線路の歩きかたのポイント
 少し古い5万分の1の地図を見ると、はっきりと路線図が書き込まれているので、あればそれを参考にしてほしい。現地では、今でも送電線の跡が残っており、指し示すように道(廃線路)を表している。それをめあてに進めば間違いない。
 やがでこの電柱(送電線)も撤去されることだろう。その頃には、廃線路も忘れ去られていることだろうと思う。

■廃線………
 改めて現在(2004年)の葛生駅や周辺の写真を撮っていると、おやっと思える点が多くある。これは、今思ったことではないが佐野駅と同じデザインではないかということだ。デザインのダウンサイジングか。それにしても、飾り窓風の出窓のデザインは秀逸でもある。「両毛様式」といわれる片鱗がここにも受け継がれていて興味深い。
 思うに、同じデザイナーが一連の『建築デザイン』を統一して担当したのだろうが、おのおのは叉、違ったデザインである。この辺が非常に面白い。

■復活
  運転
 この線路に思いいれがあるのは廃線になった年の46年にあるのではなく、その後、たぶん一度だけ51年(著者17才)に復活運転をしたいうことなのだろう。当時高校生だった私は、友人から授業を抜け出して、撮影に向かう誘いをうけたが同意しなかった。その時は少し迷ったのだが、歴史に「タラ・レバ」はないという言葉が一番光る。
 一昔前、葛生町方面を通るときに煩わしさを感じた線路、踏切の想い出でもある。

■幻の鉄橋
葛生老人ホーム近くで道路をまたぐもの。
 廃線が決まっても数年は、まだ遺跡?として、鉄橋が存在していた期間があった。やがで消えゆくことは分かったいたので、撮影に訪れた。といっても、ほんの記録的(きまぐれ)だったので、思うにたった2枚しかシャッターを切っていないと記憶する。いわゆる縦、横。だが、いくら探しても、横の写真が見あたらない。

 最近になって、そこを訪ねてみた、あの時の鉄橋はまだ存在しているものなのだろうか、思いはもちろんかすかなものだった。そんなことは無いだろうと思っていたから。
 そして、よくありがちな感動は全く否定された。確かにそうだった。
特殊老人ホームに着くまでの道で、それらしいものは全くなかったのだ。ただ曲がりくねった道が続くだけなのだから。そして車の向きを変え、降りていこうと思ったときに思いは一変した。ホームにのびる道と平行するように、並木があって思わず写真を撮った。ちょうど、西日が差し撮る側からすると逆光だった。
 何枚か撮影するうちに、道が真っ直ぐなことに気が付いた。ああ、これが、あの線路だろうか。そう気が付くまでに、大した時間はいらなかった。そうなのだ、ここが、今までの時間を紡いだ、線路なのだ。そう思うと、もう思っていもいられない。あたりを虱潰(しらみつぶし)に、取材してみたくなった。どこでもいいのだ。路地に入り、道無き道を行き、その痕跡だけを探し求めた。何カ所かで、感動的な出会いに遭遇し感動した。


■再訪/鉄橋/橋脚

 ある晴れた日にまたホームを訪れてみた。それにはわけがあった。先の取材の後、昔の鉄橋を撮った写真を探していたのだ。だが、見つからなかった。部屋(編集室)の半分くらいを探したのだが、無かった。考えられるのは、どこかに移動したということだった。それしかない。結論から早々いうと、一番手前にあって、あたりまえに思っていたものから偶然(偶然と言えるのかはわからないが)、見つかった。でも、これは記憶違いなのか、一枚しかなかった。それも縦位置のものだけだった。たしか記憶が正しければ横位置の写真も撮っていたはずだ。もちろん今回の企画においては両方が発見されたとしても、大した違いはないのだろうが。でも、何においても無いというのは致命傷だ。本当にないのだから。


■トロッコ
廃線路を、特殊なトロッコ型自転車で「走覇」するという記事をどこかで昔見た記憶があるが、今回は、失礼ながら自動車で行ってみた。ところが何カ所かでは道(線路)がとぎれ、延々バックする羽目になった(体感では1キロほど)。ゆったりのんびりどころではない、現実(車が脱線(脱輪)する?恐怖)の方が怖かった。
 しかしながら、この路線は、まさしく葛生の歴史の一部であろう。それが消えるのはもちろん歴史の動きのほんの一部にすぎないのだろう。けれども、郷愁的には最大の趣がある。廃線路の特徴は、単なる道(路)の延長ではない。どことなく、不思議な誘いがある。一般の道だと思って進んでいくと、突如として常識を覆す事態に遭遇する。あたりまえだが、元は「(廃)線路」だったのだから。
 一般の道路は、急なアップダウンもいとわないが線路はそうはいかない、脱線の危機がある。なるたけ、平坦で曲がりくねりの無いようにする。このことを要点に進めば面白いように、先が見えてくる。これがトレジャーハンテングのようで興味をそそられ、やみつきになる理由ともなる。でも、それには一応の歴史を知らないと核心が太らない。最低限でも、古今の歴史にはふれてから出掛けて欲しいと願う。でもそれは、とりも直さず「わが町」を知ると言うことでもある。そういう意味では、かならずしも「廃」線ではなく、今につながる道(線=ライン)であるともいえる。
 歴史のある町を、のんびりゆったり、自由に散策できる「道=線=ライン」それが現在でも手つかず封鎖もされず残っている。これを、利用しない手は無いではないか。もちろん立入禁止部分もある、場合に寄っては入所の許可も必要となることだろう。散策には十分注意されたい。(編集部)



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こならの森196号

2008-07-06 | 101号~200号
       ■こならの森196号■2004.8発行
表紙 「ひまわり 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 安佐の2億年ロマン 
「珊瑚礁を見に行く」………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】

■この夏に南国気分
 「栃木のミステリー」という本に、葛生は珊瑚礁だったという記事をみつけました。確かに石灰の分布図は珊瑚礁のような半円形です。
 そこで私なりにいろいろ調べてみました。葛生町史の地図を図書館でコピーして実際の地図と照らし合わせると、不思議なことに、石灰採掘の場所と一致します。試しに、やってみてください。夏休みの自由研究などにもってこいですね。25000分の1位の安佐地区の地図を参照して、(これは学校の教材等で配布されています)石灰採掘の場所を塗りつぶしていくと、不思議と(もちろん不思議ではないが)半円形の痕跡が浮かび上がります。ただ、葛生町史の地図では、あたりまえですが、佐野や田沼地区の石灰の分布が分かりません。そこで、佐野市立博物館の企画展で行われた、展示図(新生代の地層と岩石)を参照すると、はっきりすると思います。かすかですが、佐野地区にも所在が確認できます。もちろん現在の石灰採掘の分布と一致します。田沼三好地区と出流原の間にも分布しているようなのですが、見あたりませんでした。後で分かったのですが、図と一致する戸奈良地区では、少し昔に採掘をやめているそうです。
 前出の栃木県全体の地層図だけを見ていくと、実は県北地区にも、半円形の地層形態を確認できるのです。形も、安佐地区のものを少し拡散したようで、半円形の向きも同じです。そう疑ってみると他にも怪しき地点がありますが白亜紀から古代3紀の地層で、新しいものです。ですから年代でみると安佐地区のこの時期(2億年前)は明らかに突出しています。そして、コンパスで描いたように綺麗な形です。

■珊瑚礁のなりたち
 安佐の石灰層の年代は、2億年頃ですが、大陸移動が始まったのもこの頃です。そして、珊瑚礁は南国の暖かい海で発達します。
 現在でもハワイでは、キラウェアなどの火山が活動していますが、火山島の回りにそれを取り囲むように、珊瑚礁ができてきます。富士山のようなすり鉢状であれば、円形に発達します。大陸が移動して下に引き込まれると島も徐々に沈んでいきます。珊瑚礁は光を求めて、上へ上へと発達していき、最後には浮き輪のように珊瑚礁だけが残されるということです。

実際に行ってみました。 
 [ 現場検証? ]


■佐野地区 半円形の最端部、出流原弁天池周辺
 ここが地層上は珊瑚礁の切れ目に当たる地区。もともとの形が円形(環礁)だったと仮定すればこの先にも、何らかの痕跡が確認されると思うが、2億年代の地層はここだけだ。
 少し前に、栃木の鍋山地区で産廃問題が起こったとき、「栃木の出流山と佐野の出流原弁天池は、地下水脈がつながっている。だから佐野(の弁天池)も無関心ではいけないのだ」とささやかれ、そうかもしれないけれど無理があるだろうと内心思ったものだが、あながちそうでもないらしい、ということが今回実感できた。

■仙波地区
 山深いところだから、ここまではと思っていたら突如として表れる採石場、あたり一面は銀色の世界へと変わる。この先の、羽鶴地区はもちろん日本一のドロマイド産出地区である。まさに石灰地区であるのだ。

■長谷場・作原地区へ
 三好地区から白岩地区を望む。いつもなら変わらぬ風景なのだが、異様な山を見つけると、これも?などとあたりかまわず思い始める。すぐ右手を見ると、三好鉱業だ。大仏山といわれている山も珊瑚礁なのか? そう思うと、あれも?これも?と疑心暗鬼となる。

■白岩地区
 いつも通っているところなのに、その白岩地区がこれまた珊瑚の「礁」を形成していたとは。そういえば、確かに他の山とは違った形である。特徴的とも思える。逆に言えば、特徴のある山があればそれは………と極論したくもなる。実際に白岩地区に急に現れる絶壁などは、不思議に思ってきたのだ。

■鍋山地区
(日本のエアーズロック鍋山)
 栃木市や出流原町に行ったことがある人なら、鍋山という地名はよく知っていると思う。著者などは、そばを食べに満願寺方面を国道293号線から分かれて目指す時の目標ともなる。途中には西部劇に出てきそうな、廃墟(?)の鉱山町を通過する。土日なら、それほどでもないが平日ともなるとその通りの主役は、10トンを越える大型ダンプだ。そしてこの地区一帯が石灰の分布図上では一番規模が大きい。

■南の国でバカンス気分?
 この熱いのに、南の国をイメージしろったって無理、余計暑くるしくなった。そういわれるかも知れません、でも葛生町会沢の宇津野鍾乳洞だけは請け合いですよ。ともかくどんなに外の気温が上昇して蒸し暑くとも、ひとたびここにはいると、異次元の世界。冷蔵庫か、はたまた闇夜の世界、黄泉の世界へ、オカルトチックが好きな人には特におすすめ(近くの会沢トンネルもお忘れなく)、二重のヒンヤリ感がたまりません。
 平均気温が15度というのは、驚きです。ちょうど、鍾乳洞から出ていくところだったカップルの歓声、「おー、あっちー」が印象的でした。
 ここに向かうまでクーラーを全開にしていたのですが、車を降りると、湯気の立つ熱い風呂場に入ったような蒸し暑さ。それが一歩中にはいるともうでてこられません。クーラーの一番真ん前に居座っているような気持ちよさ。それも本当に一歩、入っただけなのにこれですから。

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こならの森195号

2008-07-04 | 101号~200号
       ■こならの森195号■2004.7発行
表紙 「 大橋」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 「レトロな橋 」………………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】


秋山川、三杉川、巴波川…
水系別、懐 古な石の橋
石 橋

■レトロな石の橋
 何号か前に埼玉県で発見した石の橋、どうしてこんな田舎で意匠をこらした橋が出来上がったのか、それもデザインが一つ一つ変わっている。町中にあり人々が注目するいわゆる日本橋のような橋ならともかく、人間より狸や狐の方が多く利用しそう?な所にまで………。埼玉は、ひと頃だ・さいたま、などといわれたが、実際には田園調布をつくった渋沢栄一などの人物を生み出すほどの気質があったのではないか。

秋山川水系

 そんなことから、探せば佐野地区にも同じように意匠をこらした橋が見つかるのかもしれない。今回は、そんな思いから各地を見て回った。
 それにしても埼玉の橋は凄いと思う、どの橋も駄作がないからだ。一般に見られる四角四面の石橋といったものは見受けなかった。ホームページでさらにさぐっていくと、牛の堀川といわれる小さな田園の中の小川にもコンクリートでできた昭和初期の橋がたくさんあるというのでそこにも行ってみた。

■秋山川水系
 秋山川なのに、なぜか橋の名前は安蘇川橋。名前のように歴史のあるデザインでがっちりしている。親柱も大きくて立派なもの。全体的には、直線を基調としたものに仕上がっている。その下流には、唐沢橋もある。唐沢橋は新しい近代的な橋だ。
 見慣れた大橋や中橋も違った視点でじっくりのぞいてみると新たな発見があるかもしれない。大橋は昭和2年(1927)に建設されている。昭和9年(1934)発行の佐野史跡写真帳をみると現在のような親柱上の飾りは付いていない。全体的にデザインは変わってしまったようだ。
 中橋を見ていくと、前出の写真帳に掲載されているものと同じデザインで現在も変わっていない。何年に建設されたのは分からないが、大橋より少し古いような気がする。それにしても2つの橋は(大橋と同じ年代に建設されたとしても)80年近くも経っている古い橋なのだ。
 埼玉県で見てきた橋は、大橋よりも同じ年代か少しに後になって建設されたものであるようだ。中橋などのデザイン、アーチを取り入れたものは埼玉県での流行か、あるいは中橋こそがその流行の発端となったものなのか分からないが、縦に流れる3本や4本などのラインが、「川」字のモチーフになっている。

■三杉川水系
 全体的にコンクリートでつくられた少し古い橋が数多く点在している。だが、デザイン的にすぐれたものはあまりないし、懐古的な意味で言うと趣も少し足りないような気がする、これは取材した橋がたまたまそうだったのか、探していない未知なる橋が存在するのかは今後に期待されたい。

■その他の水系
 巴波川水系の橋は偶然旧50線を走っていて見つけたもの。橋そのものは、それほどではないのだが、回りの景色が橋を盛りたてている。造り酒屋か、味噌叉は醤油などを造っていたのであろう建物群が目を引く。あとで地図で確認したら、蛍橋と書いてあった。そのことも含めて、取り上げてみた。もちろん上流の栃木市には、歴史的にもさらにすばらしい橋が存在することだろう。

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こならの森194号

2008-07-03 | 101号~200号
       ■こならの森194号■2004.6発行
表紙 「あじさい 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 「杉並木を歩く 」…………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

 ■この季節にさわやか散策 ――
「杉並木を歩く」

 梅雨の時期を迎えました。うっとうしく、外出するのも億劫な時ですが、毎日雨というわけでもありません。半分は晴れの日だそうです。年間を通しても3日に1日は雨なのですから、少し多い程度? しかしながら雨もまたよし。ここは、傘を差しながらあるって見るのもいいものです。
 杉並木というのは、小学校の遠足以来何度と無く通っているのですが、歩くという体験は初めてでした。江戸時代にタイムスリップした気分です。
 杉並木とありますが、地図をよく見ると国道352号には、一部松並木と書かれてあります。誤植かと思ったのですが、松のようです(実際にはサワラ)。
 この杉並木は、旅人の日除け風よけ、と言われていますが。東照宮へつづく長い回廊や神社にあるような神々しさを醸し出させる演出のようです。東照宮へ近づくほど大木になっているということですが、これは年代の違いによるものでしょうか? 宇都宮からのびた並木が、今市で鹿沼からきている並木と「×」のようにクロスしていて、この辺も何か意味があるような気がします。
 東照宮も表向きは、家康の廟ですが、実は江戸城の最後の守り(出城)でもあるのです。ですから、東照宮には隠し財宝(埋蔵金)があるとも言われています。維新では、旧幕府軍が日光山に集結し、官軍と戦闘がおこなわれています。旧幕府軍は、会津へ撤退していく時にこの杉並木を通ったのでしょうか。
 散策といっても実際には車の通行がたまにあるのところもあるので、注意が必要です。

■杉並木公園(水車広場)
 散策の途中にちょっとひと休みして、水車などを見学してみるには絶好の場所です。大小各種の水車があります。二連の水車は必見です。その他に、海外の水車もありちょっとした水車博物館のようです。近くには、東武線が通っていて、振り向くとスペーシアが通り過ぎていきました。また、売店の人から、杉から作る線香の生産は全国の60パーセントだという説明を受けました。中国産に押されているということですが、店内には各種の線香やお香などが並べられていました。 
 それから、近くには巨大な落とし穴か、像の井戸(はたまた水飲み場、お風呂?)が出現。この水が近くにある水車の動力源であるようです。これはいったい何か、それは行ってみてのお楽しみ。(どうやらダムの水であるらしい………)

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こならの森193号

2008-07-02 | 101号~200号
       ■こならの森193号■2004.5発行
表紙 「暖簾のまち佐野 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 「暖簾のまち佐野 」…………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

■今も昔も魅せられる………
「家紋のまち佐野」
 家紋と聞くと、知ってはいても日常的に印鑑のような使い方をしないので、なじみが薄いような気もします。著者自身もお彼岸の墓参りで自分の家の家紋をしりました。抱き茗荷(みょうが)というもの。
 表札とは別に家の前に掲げている家もたまに見かけます。
 失われていく日本の伝統文化は多いもの。家紋もその一つと思いきや、佐野で再認識され、さらに独自な工夫もされています。「家紋のまち佐野」としアピールしているのもその一つ。お店の形態によっては、家紋の入っている日よけ暖簾がいいアクセントになっています。またモダンなビルでも不思議とマッチしてしまうから面白いものです。そして意外なところで発見できたりすると楽しいもの。そんな思いで、マップを手にタウンウオッチングや散策をしてみるのもいいものです。
 家紋あるいは紋章は、世界的に見ても特権階級のだけのものということ。そして一般の人が自由に家紋を付けられるようになったのは、近代に入ってからのことのようです。ジャポニズムブームがおこり日本の文化が西洋に知らされたとき西洋人が一番驚いたのは、どんな田舎の家に行っても床の間があり、掛け軸が下がっている。それも一本だけではなく何本かあり季節ごとに掛け替えているという日常生活だったそうです。同時代の西洋でいうと、壁に絵画を飾ったり、フランス人形などをコレクションするといったことでしょうか。その時代の西洋の人々の生活を詳しく知っているわけではありませんが、一般的な人までそうだったとはとても思えません。ナイフやフォークといった食器も貴族など一部の人が使っていたもので一般にまで普及するのは後になってからです。
 著者の家も裕福ではないのに、掛け軸はもとよりお雛様や鯉のぼりがありました。お雛様や鯉のぼりなどは子どもが成長すると親戚などに譲っていたので、自分の家で買ったものではないのかも知れません。世代が変わりまた子供が産まれると親類から戻ってきたりして、代々使われて来たものでしょう。
 家紋同様日本の凄いところは、一般の人々がという点です。もちろん特権階級の掛け軸は、国宝級であったりするわけで比較にはなりませんが、日本人すべてが階級を越えて文化的生活をおくっていた。
 ここで大事なのは、花を愛でるという心です。ものをたくさん持って喜ぶのではなく野の花をみて悦びを感じるという精神なのです。近代化と共に日本人はそれを無くしてしまった。逆に先に近代化をはたした西洋は、かっての日本の文化的な生活を吸収して近代的な豊かさと精神的な豊かさを両立させた。そんなことを家紋は考えさせてくれます。


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こならの森192号

2008-07-01 | 101号~200号
       ■こならの森192号■2004.4発行
表紙 「 文化会館」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 内陸砂丘 その2……………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

現代国語辞典

■ネガティヴ[negative]
 ポジティヴの対立概念であり、対をなす。物事にたいして否定的、消極的であること。これは個人的な性格、資質に関わること大であること、ポジティヴの場合と同じである。ただし、それは性格が消極的であるという意味ではない。ものすごく自信に満ちたネガティヴな意見というものもある。ショーペンハウアーを見よ。

■ねんこうじょれつ[年功序列]
 年齢や勤続年数を主たる目安として地位の序列をつけること。これを給与体系に用いたものがわが国独自といわれる年功序列型賃金で、近頃とみに評判が悪い。これに対するのが能力主義とか結果主義といわれるもので、こちらのほうがより公平であり会社にとっても社員にとってもよいというのが今日の傾向である。その理由は、詰まるところ、今のところアメリカで成功しているらしいということのようだ。しかし、アメリカは一時ひどいものだったし、これからまたどうなるかわからない。結局の所、あらゆるわが国の改革と同様、とりあえず他所様の真似をして見て後は野となれ山となれという事であるらしい。
■のう[脳]
 医学的、生物学的には色々言い分もあろうが、一般的には頭がい骨の中に収まっている得体のしれない物質で、脊椎動物の生命活動の中枢を担っているはずのもの。人類にも存在するがその働きについてはまだ完全には解明されていない。現在の医学では、何らかの働きをなしているという前提、乃至は仮定の下に解明を急いでいるというのが実情のようである。人類の脳が異様に大きいことについては、ある少数意見によると、直立歩行をするための重しとして必要であり、そのために大きく発達したのだという。
■のうがき[能書]
 元は売薬の効能書きのこと。転じて自慢めいた自己宣伝のごとき言説を言う。知識のひけらかしや知ったかぶりの解説、うんちくの類。いやしくも正気の人間なら気付いているはずだが、この世は能書きに満ちている。能書きで成り立っていると言って過言ではない。人は幼少においては親や教師の自己満足にすぎぬ教育論の犠牲となり、長じては会社の上司や先輩の聞きかじりの議論に付き合わされるという迷惑を被る。ついには会社の経営方針などという、どこの会社にも共通し、しかも誰かがまともに考えたわけでもない、何かの孫引きをまた引きした物のそのまた聞きのような、かびの生えた既製品の言説を信じる振りをさせられるまでになる。そして言うまでもなく、マスコミは能書きの夢の島である。かくて人が社会に生きるとは、嘘と自己欺瞞によって生きることを意味する。そのことに何の抵抗も感じなくなって初めて一人前である。と、言うようなことも、ま、能書きというものである。勿論、能書きは即ち嘘ということではない。それは話者の問題であり、聞き手の問題であり、両者の関係性の問題でもある。と、いうようなこともまた・・・   

(後略)



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こならの森191号

2008-06-30 | 101号~200号
       ■こならの森191号■2004.3発行
表紙 「内陸砂丘 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■


結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 内陸砂丘………………………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

▽気候風土散策
 ちょっと珍しい
 「内陸砂丘」を訪ねる
 内陸砂丘という耳慣れない言葉を目にしたのは最近になってからだった。地理の授業でもいままでそんなことを習ったことはないように思う。
 平野部が少ない日本にとって内陸の砂丘は非常に珍しいものであるという。長良川や利根川流域などにしかその分布は無いという。特に、流域面積で日本一の利根川、そして広大な関東平野にはたくさんの砂丘が存在している。しかしながら、開発等で姿を消したものも多くあるという。
 日本で砂丘といえば鳥取砂丘が有名。それなりに「砂丘だ」と実感するが、サハラ砂漠と比べたらどうだろうか………今回は、そんな比率で考えていただけるとありがたい。
 内陸にも規模こそ違うが「砂丘」が存在する。確かにそう思うと、邑楽町から千代田町を抜けて、埼玉方面へいく時など、この先は海なのかな?とさえ思わせる、大ぶりの松林と丘が広がっている光景を目にしていた。
 鷲宮町にも同様なものがあり、「砂丘のまち鷲宮」とピーアールをしているくらいだ。存在が知られているものだけでもかなりの数になるという。興味のある方は、自然史博物館などを訪ねてみると面白い。
 邑楽町、千代田町、羽生市、大利根町、鷲宮町などは、暴れ川で有名な利根川がかつて流れていた地域だ。砂丘の分布をみていくと、利根川の河川改修の歴史や、遙か昔の流路の痕跡がわかる。そして、5万分の1くらいの地図をお持ちなら、利根川や旧利根川水系を中心に探してみると、「砂山」や、「古海」といった砂丘に関連するだろう地名が多く見つかる。

■志多見砂丘へ
向かってみた。
 羽生市の志多見砂丘は規模的にいっても、最大のもの。「さいたま川の博物館」のホームページによれば、埼玉県内の砂丘は羽生市から越谷市にかけてカ所あるという。丘の高さだけなら、大利根町にある原道砂丘(約メートル)の方が高いということだが、規模は志多見砂丘の方が大きい。長さ約2550メートル、最大幅250メートル、低地との差が約6メートル、砂丘列は5本あるということだ。
立て看板によると、自然環境保全地域に指定されている面積は約4・5ヘクタールあるという。
 少し前のこならの森で、砂丘の近くにある「むさしの村」を取材したときには思いもしなかったが、ここは「砂丘の中にある遊園地」なのだ。ただの平地林にとしか思っていなかったが、あらためて付近を散策すると、やはりここは「砂地の丘」だ。案内板などはないので、国道122号線と、125号線とが交わる下見交差点を目印にした方が良いだろう。国道125号線沿いの加須西中学校付近や、法務局の反対側に広がる松林を目印にあたりを散策してみると楽しい。これといった駐車場は見つからなかった。観光名所ではないから仕方がないが………。

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こならの森190号

2008-06-29 | 101号~200号
       ■こならの森190号■2004.2発行
表紙 「 三毳山」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■


結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 B級グルメ 大田焼きそば …6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

第1回 大田「呑龍 焼きそば」
■両毛五大麺紀行

上州太田呑龍焼きそば会

 焼きそばは、あまりにもポピュラーな食べ物で、学園祭や催し物、屋台などには無くてはならないものだ。実際に行事等でたくさん作ったことが誰しもあることだろう。フライ対決で取材した、行田市の「フライ」などは見た目には変形お好み焼きといったところで、どうしてこれが親しまれているのかは分からなかった。太田市の焼きそばも実際に食べてみるまでは半信半疑だった。しかし結論から先に行ってしまえば、太田市のものは、いわゆる「焼きそば」とは別な食べ物と言える。
 太田の焼きそばは「麺食」といわれるように、個性豊かで独自の工夫を凝らしていると言うことだ。今回は焼きそば一筋、焼きそば会の会長でもある岩崎屋(営業時間午前十一時~午後七時 火曜定休)へ行ってみた。
 創業四十六年。当時からこの味を維持しているという。味の秘訣は、同会会長の岩崎喜代次さん(才)によると、足利の月星ソースをベースに各種ブレンド、独自なものに仕上げているという。
 実際には見た目よりじつにあっさり、後味もすっきりとしているから不思議だ。
 基本的には、焼きそばがメインのお店。その他には、これまた上州名物の焼きまんじゅうがあるくらい。それだけに、小(200円)、中(300円)、大(400円)、特大(500円)、ダブル(800円)、1000円盛りなど量により各種ある。具は、キャベツだけ。そしておしるし程度に青のりが上に乗っているだけだ。麺は、うどんというより味は違うがそばに近い形でソースとのマッチングがいい。実に良くなじんでいる。このシンプルさがまたいいのかもしれない。なまじっか他の具があったのでは、麺の味が分からなくなる。普段何気なく食べている焼きそばを思ったら、大間違い。一度は食べてみる価値がある。
 太田市は製麺所の関係から全体的にこのような、太めんが主流だという。キャベツを主に、ジャガイモなどを使うところもあるという。あまりにもあっさりしていたのか、次にはしごをしたのだが、今では店を閉めているということだった。また、現在はあたらしい案内マップを制作中という。それから岩崎屋さんも近くに移転するということだ。
 焼きそば会の今後の予定では、スタンプラリーなどのイベントや、おみやげ用の乾麺なども計画しているという。
 両毛五大麺、なんだか奥が深そう。桐生のうどんと館林のうどんとはどう違うのか、興味津々、これからの取材をお楽しみに。
 もちろん、太田市の焼きそばの取材は今後とも続けていくつもりです。

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こならの森189号

2008-06-28 | 101号~200号
       ■こならの森189号■2004.1発行
表紙 「三重の塔 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 三重の塔……………………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

■特集 冬こそ行きたい近くの旅  
 
  「三重塔を訪ねて」


 三重塔。これは私的にいえば、国宝的なものばかりだどばっかり思ってきました。京都にでも行かなければ一般的にはまず目にすることが出来ないものだと………。でも、よく考えてみれば、身近ところで岩舟山に三重塔がありますよね。知ってはいたのに、驚きでは無いですか。
 遠い昔には、母と一緒に山頂までのぼり、遠くに蒸気機関車が行くのを眺めたものです。少し前には、当時ホームスティをしていたテレンスと一緒に、のぼったのも新しい記憶でしょうか。少し太め?の彼が、山頂に車が止まっているのを見て、非常に怒っていたのを、今も思い出します。車でもこられないことはないけれど、階段を登ってこその、あるいは登ることに意義がある場所なのですから。

■行田市
 行田の三重の塔はいってみると木造、あたりまえなのだが、こうした建造物が消えずに現代
まで生き延びたのかという不思議にとらわれる。少し小ぶりなので塔というよりも古い木造建造物といった趣だ。装飾もあまりなく、いたってシンプル。本当に、恥ずかしながら、よく近くに寄ってみてみると、「本当に木造だ」と感動してしまった。というより木造の美、むきだしの木目、木の温もりがそのままに、表現されている。
 木造というと、どこかひ弱なイメージがあるが、千年以上の歴史のある法隆寺の塔をはじめとして地震で倒れた塔は歴史上一棟も無いのだという(雷の被害はあるらしい)。最近では、倒木にまきこまれての倒壊ということがあったが、これは塔そのものの欠陥によるものはない。
 薬師寺が再建されるという時に、ある建設会社の提案は、鉄筋だったそうだ。しかしながら、ある棟梁の進言により従来ながらの木造にて再建されたとか。
 多塔を見に行くのは、仏教的な意味合いではなく、構造的な異端さや建築美に共感するからです。それは、朝鮮半島を越えて日本に入ってきたときの事情とは全くかけ離れたものとなっているのでしょう。しかしながら、塔の歴史をひもといてみると、どうやらそうなってしまっても仕方がない理由があるようです。塔の原型は、もちろんお釈迦様の墓です。それは「ストゥーパ」という石造りの円墳で、塔でいうところの相輪といわれる天辺についている部分にあたるわけです。それが、インドから中国を経由するなかで楼閣建築と結びついて今の塔の形になったということです。相輪というとどこか飾り的なものだと、思ってきましたが、本来の意味からすると三重とか五重の部分が従で、主は相輪だったのです。「ストゥーパ」の「トゥ」にあたる部分が「塔(とう)」という漢字になるわけです。卒塔婆(ソットーバ)も同じ派生です。
 ある和尚さんが、塔の天辺の相輪は、下からでは見られない部分だが素晴らしい彫刻が施してある。昔の人は見えないところにも手を抜いていないのだ、と説教をされてことを思い出しますが、なんのことはない、それこそが本質なのですから、見えようが見えなかろうが最高の装飾を施すのはあたりまえなことなのです。その下の三重や、五重の塔にあたる部分はいわば飾り、それにしては凄い飾りがついている建築物です。
 歴史的にいうと塔は最初、直接お釈迦様を拝む寺院の中心的な存在だった。それが、仏像を拝むものへと変化して、やがてシンボル的なものに変わっていった。そして江戸時代にはいると、寺院の威厳や大工の腕を誇示するモニュメントとなった。現代でも、仏像は国宝級になると拝むものではなく鑑賞するもの、あるいは拝観料を取って見せるものになっています。

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こならの森188号

2008-06-27 | 101号~200号
       ■こならの森188号■2003.12発行
表紙 「 木遣り」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 近代化遺産  レンガ水門 …6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】

■特集 近代化遺産  
 
   「レンガ水門」

■残せば遺産、壊せばゴミ
 土木学会が発刊した「日本の近代土木遺産」には、現存する重要な土木構造物が2000収められている。栃木県内では36カ所。宇都宮市にある鬼怒橋などが、A級遺産とされている。アーチ状の開口部がある切石積みの橋脚ということだ。 興味深いのは、渡良瀬川にある橋(渡良瀬川橋梁)と似たデザインであることだ。(こならの森180号参照)昭和6年完成とあるが、渡良瀬川の橋はそれよりも古い時代のものだろうか。ランク付けは、ABCのうちのBとなっている。有名な足利市にある渡良瀬橋はCランクとなっているから、近代遺産度としては高い方だということだろう。そして、アメリカン・ブリッジ社という会社の製作だということも最近になって分かった。
 他の県では、茨城県がやや少なめである。そして、こならの森181号で紹介した「古レール橋群」も紹介されていた。今回紹介する、レンガ造り水門ももちろん多数紹介されている。今回の企画は、180号で渡良瀬川橋梁を特集したときにたまたま見つけたフカダソフトのホームページを参照している。どういう経過で、たどり着いたのかは記憶にないがネットサーフィン中に目に入ったのが、レンガ造りの水門である。フカダソフトは土木学会にも資料を提出している。「日本の近代土木遺産」の中にも出典として多数登場する。
 煉瓦造りの水門は、現存する数でいうと100基ほどだという。それも埼玉県に集中している。実際に作られた数は200基とか。その中でも保存?状態のいい物は数えるほどだ。さらに、優雅で趣のある意匠や構造的に工夫が凝らされた物といったら数えるほどになる。今回は、かなりの地点を取材したのだが、見つからないところも多くあった。
 今では、その機能を失い、装飾やお飾り、はたまた単なるお荷物や厄介者といった存在である。私個人の感動とは別に誰も見向きもしない存在が哀しい。それどころか、誰もその価値を知らないしその存在さえも分からない。
 現存する樋門で最も煉瓦使用数が多いのは、北河原用水元圦(1903年製造、19万個使用)。埼玉県史上最大の煉瓦樋門は、見沼代用水元圦(1906年製、66万個)現存せず。

■北河原用水元圦 行田市
 最初に訪れたのがこの水門だ。同じ所を何度もめぐり、やっとのことで探し出した。殆ど諦めかけていた。それもそのはず、新しく作られた河川や堤防などを念頭に置いて探していたのだから見つかるわけがない。発想を変えて、ひなびて忘れ去られた小川のごとき川や、昔ながらに蛇行した川に焦点をあわすと、おやっと思う場所に発見できた。しかし、それにしても汚い川だ。煉瓦水門は優雅でノスタルジーなのだが、ゴミと異臭のしそうな汚れた川にはまいってしまう。かといって保存整備されているのもヘンにきれい過ぎて文化遺産としての趣は………。

■永府門樋 吉見町 
 500年も前に作られたバイオリンは今が一番音が良いのだというが、煉瓦の遺構が輝きを放つのはいったいいつなのだろうか。
 そんな思いでむかってみると、本当にこじんまりとしていて湖水に浮かぶ古城のようでもある。どうしてこんなところに、こんなものが存在してこれたのかという不思議さが横切った。そこまで、探し求める時間が長いほどあえた感激はひとしおであることは、分かっている。
 あたりは昭和30年代の田園風景が残っていた。本当に不思議と昔にタイムスリップしたような、当たり前の光景なのに当たり前にみえない………(殆ど文章にはならい)光景だった。
 昔と今では景色も変わっているのだろうが、雰囲気は本当に昭和30年代だ。その空気感が違う、そして回りの景色さえも違って見えた。これは私だけの原風景かもしれない………
 具体的に言うと黒沢明監督の映画「夢」に出てくるような水車小屋の風景そのものだった。なんだか、遙か昔であるような、どこかにあるようで、懐かしいような、幻想的な世界だった。しかし、あまりにも当たり前すぎて、壊されるのもこれまたあたりまえ、というより現実と表裏一体といった自然ともいえる。
 先入観からすると煉瓦水門はどれも巨大な建造物に思えた。しかし、実際にみてみるとこじんまりとしていた、それもたんなる水門。実体験でいえば、子どもの頃によく釣りを楽しんだ格好の場所みたいな存在だ(実際にはこの感覚が重要なのだが)。こんなもので、水利とか水害とかを防御できたのか、あるいは制御していたのかと思うと、心細くなったりする。また当時の河川や放水路などの規模が小さかった、つまり大規模な河川改修以前の状態だったと思われる。レンガという当時のハイカラ、ハイテク建材を使って超工業的に作っているにもかかわらず、それはその土地の景観に完全にマッチし、動植物や水生生物の生育に何らの支障も与えなかったのであろう。いったいいつからそういった自然連鎖が変わってしまったのだろうか。
 そして、こうした昔の水門を探していくと、当時の川の流れや、川の広さ、高低差などがよみがえってくる。
 1940年代の重文級文化遺産も壊される時代に、そんなに有名でもない水門が壊されるのはそれほど時間がかからないだろう。第一、文化遺産として認識するふしはない? どこでもじゃまもの扱いであり、道路状況や区画整理などが入ればいとも簡単に、真っ先に始末される存在であるのだろう。今回の、近代遺産ランキングがいかほどの価値を持つのかは不明である。世界遺産のように、それに認定されたからと言って社会的に注目され、保存されるという根拠はない。逆に、ランキングでは削除されている項目も多い。

■千貫樋 さいたま市
 比較的簡単に探し出すことが出来た水門だ。町の真ん中に位置し、水門としての役名はもう終えている。そのためか、片方のトンネルは通路として使用されている。また、一部は新しいレンガの装飾が施されている。二連アーチはデザイン的に素晴らしいものがあり、佐野からだと少し遠くなるのだが、思い切っていってみた価値はあった。でも雰囲気は永府門には遠く及ばない。

■辯天門樋 行田市
 これも簡単に見つかった。広い幹線道路から直ぐ見えたからだ。でも、ゴミが凄くて雰囲気はいまいち。それにしても優雅なアーチ状のデザインは水門にしておくにはもったいないくらいだ。今回の企画はたんなる「水門」を扱っているのだが、アーチ状にするには高度な技術が必要で手間もかかる。構造的には必要のないことで、単なる装飾、デザインのためだけに労力が注がれている。それも、多くの人が利用し目に付く建物や橋でもないただのとるにたりない水門だ。利水的には必要なものだが、それ以外にも力が注がれているというのは驚きだ。材料費よりも人件費(労力)の方が遙かに安かった時代にしか出来ないある意味での贅沢かもしれない。

 ノスタルジー、懐かしいの「懐」という字はりっしんべんだが、つちへんにかえると「壊す」になる。レンガ水門はいつまでもノスタルジーのままでいて欲しいと願う。
 水門という小ささな近代化遺産ではあるが、大きな世界にまで達している。まだまだ、そうした遺産は多いに違いない。

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こならの森187号

2008-06-26 | 101号~200号
       ■こならの森187号■2003.11発行
表紙 「ピザコラボ 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集 美術館めぐり[ 葉山館 ]…6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
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【本文抜粋記事】

美術館めぐり
神奈川県立近代美術館
[ 葉山館 ]

■葉山といえば
 「葉山」という言葉を聞くと何を思い浮かべるのだろうか、人それぞれかもしれないが、ご用邸かもしれないし、葉山マリーナかもしれない。
 だがなんだかとても、響きが良いのはなぜだろう。そして、そこに神奈川県の近代美術館として3番目の美術館が今秋オープンした。神奈川県の近代美術館は、公立の近代美術館としては日本で初めてという歴史のあるもの。おのずと期待がもてる。
 なにごとにも雰囲気というのは大切だろう。それで言うならば、ここは本当に凄い。海を控えながら、背後には丘陵(山)が控えている。そばに海がなくて、ただ山があるだけならたんなる田舎の町なのかもしれないが、ここは違う。山と海が拮抗している。またその空間がいい雰囲気を醸し出している。
 箱根にある美術館は、その窓から望む富士山が一対の屏風か、掛け軸以上の機能を発揮する。ここ葉山でも、海と松並との取り合わせが、観覧に少々飽きてきた場所にポツリとある。時間美術(芸術)と空間美術(芸術)が一致する。これこそが究極の芸術なのかもしれない。
 建物は、光と影をうまく空間に利用している。ある意味、館林美術館にどことなくデザインコンセプトが似ているようにも思えた。これは、設計者や美術関係者が同じ考えだったのか、世代、現代がそういう流行のためなのかは、よく分からない。
 雰囲気は、最高だし、造り方(全体の配置)もよく考えられて出来ているが、目新しさはあまりない。現代美術といういわゆる一般には分かりにくいものを表現するためなのか、それとも官製だからなのか。
 ガラス張りの入り口、これは好感を持てるが中に入ってしまうと、どこの美術館にきたのか分からなくなる。ある意味、館林美術館にいると錯覚してしまっても不思議ではないだろう。実際には、館林美術館の方が地元びいきを差し引いても素晴らしいと思う。逆に地元の美術館がよく見えてしまうから不思議かも。誇っても良いのだ。あるいは地域差はないのかもしれない。
 実際に、館林美術館の特集や掲載されなかった分までの写真を屋よく見てみると、ある類似点を発見した。こならの森をお持ちの方は、表紙を含めて再度ご覧頂きたい。
 それにしても、葉山というネームバリューというのは大きいものだ。印象は、一言でいうと凄くコンパクト。そして、きれいで、清潔で、簡素である。そして、住んでみたくなる。そんな町である。
■近代美術はスキですか。
 展示品をどのように見せる、(展覧)するのかは、展示主体である美術館の大きな課題でもあるのだろう。建物が出来てしまえば、物理的には不可能な展示の方法も出てくる。
 しかしながら、よくよく見てみると「神奈川県立近代美術館」とある、「近代美術」だけを扱う美術館として県内3つ目。それと群馬県立美術館、館林館とを比較したらいけないのかもしれない。近代美術だけで3つも持っているのだから。
 近代美術と葉山とはどういう関係があるのか、あるいは先ほどもいったように知名度だけで建設したのかについては分からない。しかしながら、近代美術、近代絵画を観覧しながら普遍的な葉山の海が同じレベルで観覧できるところを見ると、それなにのコンセプトが存在しているのでは暗示させられる。
 あなたはどっちを好むのですか。どちらと波長があいますか。


神奈川県立近代美術館[葉山館]
〒240-0111神奈川県三浦郡葉山町一色2208番地の1
電話046-875-2800

(略)

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こならの森186号

2008-06-25 | 101号~200号
       ■こならの森186号■2003.10発行
表紙 「 カフェの写真」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

結婚しました。……………………4
青春レストラン……………………5
特集「カフェ」……………………6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
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【本文抜粋記事】

書評

ゆったりと生きよう
 ひろさちや 著
 PHP文庫 刊

 今はスローフードとかスローライフとか言う言葉が流行っています。スローライフ、それはゆっくりと生きようと言うことだと思います。あくせくそして忙しく毎日を送るのではなく、ゆっくりとそしてゆったりと生きることこそ、そこに人間らしい生き方があるのではないか。そのような考え方や思想、そして難しく言えば哲学があるのではないでしょうか。実は私も10年ほど前から同じような考えになっていました。ここで私は時代を年も先取りしていた、と主張している訳ではありません。それは年前に今回紹介する「ゆったりと生きよう」と言う本に出会い、えらく共鳴したからであります。今回紹介する本書は、ちょうど年前に第1版第1刷が発行されていますので、もしかしたら現在は絶版になってしまっているかも知れませんが、スローと言う言葉の先取りをしたような本ですので、あえてここで紹介させて頂きます。
 たいぶ前置きが長くなり、残された字数も少なくなりました。ここで内容の一部を紹介します。「―小欲知足(欲望を少なくし、わずかのもので満足すること)。が、いまのわたしたち日本人にとって、いちばんふさわしい仏教の教えではないだろうか・・・。」。これは私たち日本人ばかりではなく、先進国すべての人に言えることだと思います。人間の欲望は限りがなく、それに比べてこの地球は小さすぎます。あまりにも激しい人間の活動のために、この地球は傷つき地球環境問題や異常気象として私たち人類に襲いかかかってきております。この小欲知足こそ、これから未来に生きる私たちの哲学としなければならないのではないでしょうか。
 そう考えると現在大問題になっている日本の少子化もあながち悪いことでは無いように思っています。それがあまりにも急激に生じているのは問題ですが・・・。
 
       文・高田朱夏

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