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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森118号

2008-04-30 | 101号~200号
       ■こならの森118号■1998.2発行

表紙 「れんげ」

C・o・n・t・e・n・t・s


■こならの森3月号■

おぞねとしこのポエム…にんじん……3p
その他の情報…/猫バス42……4p
結婚(誕生)…駒場さん夫妻…5p
オープン情報…6p
知らんの5つの市/……ラオッテッモ……7p
JC・インタビュー…川村……8-11p
歴史講座 第10回………12-19p
インフォメーション97………20-23p
現代国語…せせ…24p
両毛神楽物語………25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

JC・インタビュー

 第二回目の対談は、安佐地域を中心にボランティア活動を続けている「みんなの会」会長の川村富士雄さんです。川村さんは、ご自身も生まれてすぐに脳性小児マヒという大病をされ、この障害に立ち向かい戦ってこられました。現在、同じように障害に苦しむ方々の社会参加のお手伝いをされています。また、二十四時間テレビチャリティーでは、二年連続で実行委員長として活躍され、三年に一度行なわれている「現代座」という劇団の公演では、この地域の実行委員もやっていらっしゃいます。   

聞き手 中田 裕久(なかだ ひろひさ)さん
   
■PROFILE:
川村 富士雄 (かわむら ふじお)さん
1957年 佐野市生まれ。
           

身障者と健常者がいっしょにできる活動を

中田 川村さんは、「みんなの会」を通して、あるいは個人的にも様々なボランティア活動をされていますが、こうしたボランティア活動をやろうと思ったきっかけを教えていただけますか。
川村 最初のきっかけは、町内の先輩の薦めで入った植野町の青年会です。そこで自分がハンディがあるということを気にせずにまちづくりに参加できまして、すごく充実した活動ができたんです。その後出会ったのが「みんなの会」です。そこでは障害者と健常者がいっしょになって、まちづくり、交流の場を持っていました。
中田 川村さんがそういった運動をやろうとした時に、自分自身ハンディがあるということで、大変ご苦労をされたのではないかと思いますが。
川村 ここでの活動は、みんなと楽しくできていまして、楽しいから一所懸命になれたんですね。
「みんなの会」に入って十五年になりますが、そういった活動を通して、非常に自分の存在感を感じることができました。
中田 今、障害者と健常者がいっしょになって何かをするという機会は、だんだん増えてきているんでしょうか。
川村 障害者の方というのは、まず家から外に出ることさえ大変なんですが、みんなと遊びに行きたいとか、話がしたいとか、買い物をしたいなど、いろいろな夢があります。一緒にいるということ自体、なかなか機会に恵まれないというところがあるんです。これからも健常者と障害者がいっしょに集まって行なう活動を続けていきたいと思っていますし、ボランティアの仲
間も、いろいろな活動を通して、障害者の方たちとふれ合う時間を大切にしたいと考えてくれています。
中田 川村さんは、この二年間、二十四時間テレビでチャリティーをやっていらして、佐野の「秀郷まつり」とか、葛生の「原人まつり」などでボランティアの皆さんとチャリティー活動をされていますが、それを率先してやろうと思った理由は何でしょうか。
川村 若い人と一緒になって何かをやりたいと思ったのが最初です。若い人にたくさん集まってもらうにはどうしたら良いかということで始めまして、ボランティアを募集しましたら高校生・大学生の人が七十人ほど来てくれました。
中田 昨年、青年会議所も参加させてもらいましたが、この高校生・大学生の人がものすごく真剣にやってくれていますね。
川村 そうですね。とても楽しんでやってくれまして、また障害者の方に対しても理解をしてくれていると思います。今年もまたテレビチャリティーはやりたいと思っていますので、ぜひご協力をお願いします。
中田 阪神淡路大震災以来、ボランティアというものが注目されていますが、十五年間ボランティア活動をされている川村さんから見て、これからのボランティアはどうあるべきだと思いますか。今後川村さんは、この地域、あるいはこの地域以外でも、どんな活動をやっていきたいと考えていらっしゃいますか。川村 ひとことで言えば、やさしいひとづくり。障害者の方々に対する社会参加のお手伝いをしながら、人と人との結びつき、人に対する思いやりの気持ちを大切にしたいと考えています。障害者の方も積極的に参加できるようなボランティア活動、もっと外に出やすくなるような環境づくりを、私自身が障害者の方へのパイプ役になって続けていければと考えています。
中田 今も毎週病院に通っていらっしゃるということですが、ぜひ体を大事にされて、川村さんの言われる障害者と健常者のよりいっそうの交流がはかれるように頑張ってください。このまちに住むみんなが参加できるような暖かいボランティア活動をしていってください。
 青年会議所も今年度「高齢身障者対策委員会」というものを作っていますので、ぜひ一緒に活動をさせていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。


こならの森117号

2008-04-30 | 101号~200号
       ■こならの森117号■1998.1発行

表紙 「三毳山/雪」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

おぞねとしこのポエム…しいたけ……3p
その他の情報…/猫バス41……4p
結婚(誕生)…五十畑隆宏さん&ゆう子さん…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……ニコラス……7p
JC・インタビュー………8-13p
歴史講座 第9回………14-21p
インフォメーション97………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】
JC・JOURNAL…インタビュー

早瀬 昇(はやせ のぼる)
1955年大阪府生まれ。京都工芸繊維大学在学中に「大坂交通遺児を励ます会」の活動に参加。以後様々なボランティア活動に参加する。阪神・淡路大震災時には、全国の市民団体と連係し「被災地の人々を応援する市民の会」を結成。
現職
社会福祉法人 大阪ボランティア協会 理事・事務局長
大阪大学人間科学部 客員助教授
日本NPOセンター 常務理事 他
著書
「元気印ボランティア入門」 他多数

聞き手
中田 裕久(なかだ ひろひさ)さん

 早瀬 昇さんは、日本を代表するボランティア・リーダー。学生時代から様々なボランティア活動に関わり、今、新しい形のボランティア・NPOを全国に広め、社会変革を起こそうとしています。今回は対談を通して、これからのまちづくりのために我々は何をしたら良いのかを示唆してくれました。

始まりは責任感との出会い

中田 早瀬さんの本をいくつか読ませて頂きまして、特に私が思いましたのは、京都工芸繊維大学の電子工学科を出られて、ボランティア関係の方に移った時にお父さんが非常に怒って、お母さんがもうあきらめなさいと言ったということが書いてあるんですが、ボランティアの方へ行ったきっかけというのは何だったんでしょうか。
早瀬 大学に入った年に、五月三日の深夜に、大阪のまちを一晩歩いてみませんかというイベントの紹介の新聞記事を見たんですね。おもしろそうやと思った。で手紙書いてしもうたんですよ。ちょっとこれ詳しいこと決まったら教えてくださいと。そしたらハガキが来たんですね。何月何日に説明会を開きますから来はりませんかと。東京に事務所が有ったんですけども、関西から東京に手紙書いた人が二十何人おうてはったんですね、でね、説明会に行ったん二人だけなんですね。そのうちの一人が僕だったんですよ。で行ったはいいけどあらへんのですよ。看板もあらへん。おかしいなあと思って聞いたんですね、フロントに。そしたらここですよと。で行ってみたとこが「交通遺児を励ます会」だったんです。つまり、元々は福祉も何もあらへんわけですよ。僕はただ真夜中にみんなで大阪のまちをぐるぐる廻る変なイベントをする奴がおるなと思っただけで、それがおもろいなと思ったのが、たまたま「交通遺児を励ます会」やったと。そういうことですね、元々は。ところがそれをやってみたらどういうことになったかというと、僕は事務局になったんですけど、僕が泊まり込みで事務所を預かってると、マスコミから電話がかかってくるわけですよ。今先頭はどこにいますか、あるいは一番後ろはと。NHKですけど、朝日新聞ですけどとね。そしたらね、ひょっとしたら今俺は世界を変えてるんじゃないかという幻想に浸るわけですよ。こういった一種の勘違いですね。これがきっかけですね。そこからおもしろさを知ってしまったんですよ。
中田 ボランティア協会に入られてだんだん楽しさが分かってきたということですけど、我々JCでもそうなんですが、最初の取っかかりのきっかけの部分が続けていけるかいけないかの部分になっていくと思うんですが。
早瀬 そうですね。でも僕は最初の頃は不真面目ないいかげんなメンバーやったと思いますよ。どこで変わったかというとね、たまたま前の代表してるやつがやめよったんですよ。で三人しかメンバーが残らなくなった。解散しても良かったんですけども、そこで責任を感じたんですね。せなあかんとちゃうかなと。結局ね、こういうものってのは最初はかなり乗り手は多いと思うんですよ。それがどっかで、おまえがせえへんかったら他に誰がすんねんと思う時が有るんですよ。で、やっていくと自分が代表にもなるし、新聞にも名前が載るようになるし、おもしろいじゃないですか。そのおもしろさに加えて、なんか俺がするのかなと思う時ですね、それが出会いですよね。そういうものが人を造るんちゃいますかね。

専門性を活かしてこそボランティア

中田 それとこの辺の地域ではあまり聞かないボランティア協会の内容なんですが。この辺ですと福祉協議会と間違えてしまいがちなんですけれども。
早瀬 大阪ボランティア協会というのは、今から三十二年前に生まれた日本で一番古いボランティアセンター、市民活動のサポートセンターなんですね。何をしているかというと、社会福祉協議会やボランティアセンターとほぼいっしょと言えばいっしょなんですが、違うのは、福祉に限定してない、出入りする人が極めて社会人が多いということ。これはね夜間やってる、九時まで開いてる、土日も開いてる、これが一番大きいですよね。それと民間だということですよ。運営資金は年間一億二千万ですけど、そのうち行政の資金は千五百万ぐらいしかないから。だから自由なんですよ。
中田 あとの資金の供給のしかたというのは。
早瀬 二千五百万ぐらいは企業と財団からの寄付、二千万ぐらいは個人あるいはNPOからの資金、残り事業収入が五千万ぐらい。要は事業をしてるんですよ。NPOは収益事業ができるわけですからね。収益事業もするけど収益事業だけではもたないわけで、寄付も受けるし、助成金ももらうし、行政からも資金をもらう。だから行政とも関係があるわけですよ、大切なことはね。役所とも繋がってるし、企業とも繋がってるし、市民とも繋がってるし、自分たち自身でも資金を集めてる。四つ足持ってるわけですよ。そういったバランスで動いてる組織です。
中田 たとえば、企業の方がボランティア協会に来られた時にその使われ方というのは。
早瀬 まずボランティア協会を拠点に活動しているグループが八十ぐらいあるんですね、人数にして六千人ぐらいの人がいろんな活動に参加してはるんですね。それがまずありますね。それからボランティア協会の経営に関っているボランティアスタッフが二百人ぐらい。たとえば「月刊ボランティア」という協会の発行している情報誌には、毎日新聞とかフリーランスのライターがボランティアで入っている。本の出版の委員なんていうのは大学の先生とか、自分自身が出版社を経営している人間とかが集まってきて、もうひとつの仕事をしているということですよね。
中田 それはもう最先端の組織ですよね
早瀬 だからおもしろくて来るわけですよみんな。自分がすごく生き生きするじゃないですか。必ず何かの専門性を皆さん持ってるわけですから、その専門性を活かされるような仕事、逆にいえば専門性を活かせないボランティア活動の領域というのはないんです。みんなそれぞれ発展できる所があるんですから、そういうものをうまく、僕等自身じゃなくて、彼らが創っていけるわけですよ、うちは。
中田 ボランティアと奉仕の違いがいろいろあるかと思うんですけれども、ボランティアという言葉を聞くと慈善活動というイメージがありますよね、それと奉仕というと、青年会議所には三信条というのがありまして、奉仕・修練・友情なんですが、最近の青年会議所では今までの奉仕を中心としたCDというまちづくりの手法がですね、だんだん奉仕という言葉での表現ではなくて、もっといわゆるNPO的なものに変えていかなければいけないのかなとなってきているんですけれども、ここら辺の現実的な違いというものをお話し頂ければありがたいんですけれども。
早瀬 多分主語が違うんですよ。ボランティアの場合、したいというのは自分なんですよね。奉仕というのは奉って仕えるわけでしょ、誰かに。それは神にであったり、正義にであったりするかもしれませんけれども。少し窮屈なんですよ、奉仕というのは。せなあかんことなんですよ。そこの窮屈さを僕等は取り除きたい。ボランティア活動というのはもっと自由で、自由というのはリスクを背負うというのもあるんですけど、そういう変革的なイメージを多分持てたんですよね。でも、こんなんは文化によっても違って来るから、あまり奉仕やったらあかんとかあんまり言う必要はないと思いますけど。

大災害とボランティア

中田 話は変わりまして、阪神淡路大震災の時のことが本の中にも書かれているんですが、阪神淡路大震災がおこって最初は一日に二万人ぐらいのボランティアがいて、どんどん淘汰されてくるのかどうか分かりませんが、だんだん減ってきますね。その辺の所はどうお考えですか。
早瀬 当たり前なんですよ。最初は簡単やったからですよ。災害ボランティアほど簡単なものはないですよ。水汲みでもボランティアになるんですから。一日限りでも良かったんですよ。減ってしまうのが当たり前の話であって、もう難しくなってる。
中田 今でも早瀬さんは関られてるんですか。
早瀬 いや、もう僕等が関れるような問題じゃないですよ。もう現場にずうっといないと。今、仮設に行って何ができますか。差が開きすぎてしまってるんですよ。まだ四万強いるんですよ、仮設に。大変な人口ですよ。最後に公共住宅が完成するのが一九九九年か二〇〇〇年なんですよ。復興してる人はとうに復興してるわけですよ。差ができてくるでしょ。その人とずうっと顔の見える関係を作らんとできへんですよ。難しくなった。だから減っただけですよ。ある大きな、人々の心を動かすような事件が起きるとみんな動くんですよ。あの時にはそういう人々の心を動かすようなものがあったし、且つ非常に参加しやすい形式であったというのがあれだけ大きな広がりをつくった。他にもいろいろ理由がありますけどね。

行政・企業と競えるNPOを

中田 それとNPOですね。NPOの意味についてはどうお考えですか。
早瀬 非営利ということであれば政府もボランティア団体もNPOですよね。今言ってるNPOはNGOのNPOなんですよ。つまり政府に取り組まれていない非営利組織。たとえば今、社会福祉法人というのが有りますが、現在の社会福祉事業法によると、社会福祉事業は行政と社会福祉法人しかしちゃいけないことになっている。業務独占ですよ。社会福祉法人というのは行政が厳しい認可制度で認可するんですよ。つまり行政の言いなりみたいな組織を作るわけですね。競争がないわけですよ。そのような社会から、もっと競争原理で動くような非営利の活動が生まれてきて、それと行政が競争し合うような、そういう社会を創ろうじゃないかということなんですね。今までの旧来型ではない、独立して、市民の発意で、まさにボランティアがつくるようなNPO。そこんとこだと思いますね。社会変革をしたいちゅうことですよ。新しい社会のタイプを創っていくという点で言うと、NPOがNPOらしく、ボランティアらしく動けるということは、行政から独立しているということですね。しかも、経営能力があって企業なんかと対等に動けるということですね。そういう意味で言うと、これからのNPOにはマネージメント能力が必要になってくるわけですよ。そういうものを使って行政や企業と伍せるものを創っていくというのがこれから重要になってくると思います。
中田 佐野青年会議所では生活圏の同じ佐野・田沼・葛生の合併の住民発議運動をやっていまして、それはやはりこれからの高齢化社会とか、いろいろな課題に対応するために地域として力をつけなくてはということからある程度の自治規模、財政規模の必要性を訴えていますが、その枠組だけ創ってもそこに住んでいる人達がちゃんと意識を持ってないとだめで、システムだけ変わったことになってしまう。意識の改革というものがそこに必要になってくるだろうと考えているんですが。
早瀬 地方分権だけでは地方自治は進まないですね。地方分権というのは単に政府が小さくなるだけで、政府は政府なんですよ。政府は政府のことしかできへん分けですよ。政府を小さくすることは僕は大賛成ですけれども、プラスそこにNPOとか市民の発意がなかったら対等にできへん分けですよ。結局は権力ですからね、政府のままでは。
中田 我々の住民発議も住民自治が一番根底にありますから、そういう意味での部分なんですけれども。それと少子高齢化という問題もこれからありますが。
早瀬 どうしたら少子化をやめさせられるかというとね、シングルマザーを支援することですよ。ということはね、結婚しはった人は子供産んでるんですよちゃんと。出生率下がってない。要は結婚しなくなってるんですよ。そしたら結婚しなくても産めたらよろしいわけや。日本は結婚せんかったら産んだらあかん思ってるんですよ。スウェーデンは何で出生率二.二まで上がったかというと、あそこはシングルマザーを保護したからですよ。これはね大変な価値観の転換ですよ。そういうことができるのはNPOしかないでしょうな。政府は二分の一以上の賛成がないとできへんから。後はね、高齢化を止めるためには外国人労働者をどんどん入れることですよ。両方とも政府は嫌がるんですよね。別の話をするとね、高齢化社会というのは個性化社会なんですよ。赤ちゃんはね、みんなかわいいんですよ。それが年取ったらね、いろんな人ができてくるわけですよ。子供ん時は政府がやってもいいんですよ、一つの価値観で。でもいろんな価値観持った人がいろんなことをやろうとしたら、いろんな価値観をそれぞれ具現化できるようなシステムをつくらないかん。それがNPOなんですよ。
中田 これは確かに行政ではできないことですよね。

NPOは経営という発想

中田 それでは最後に、青年会議所に期待することをお話しして頂けますか。
早瀬 さきほども話しましたけど、マネージメントというのがこれから非常に重要になってくるんですね。NPOとは何かというとね、これから社会貢献を考える時に重要なのは、投資という発想なんですよ。僕等は寄付する人から投資されているんですよ。たとえば五万円の寄付をもらったとする。五万円入って儲かったと思ったらあかんわけですよ。その五万円のお金は負債ですよ。その五万円のお金でいかにその五万円を越えるような効果を社会に返すかなんですよ。我々にお金を渡せばこんなに行政を越えることができるんだと。そういう話っていうのは経営なんですよ。NPOというのは企業といっしょで、わずかな資源でもって最大の効果を出さなければならない。そこには目標管理、時間管理が必要ですよ。マネージメントが必要ですよ。そこの点でJCメンバーのノウハウをNPOに持ってくる、逆に言うとNPOで培った様々な新しい市民社会の価値観を企業の経営に持ってくる、そういう変換をできるのがJCなのではないかと思います。
中田 今日はどうもありがとうございました。


こならの森116号

2008-04-29 | 101号~200号
       ■こならの森116号■1997.12発行

表紙 「三毳山定点」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

おぞねとしこのポエム…いぬたで……3p
その他の情報…/猫バス40……4p
結婚(誕生)…広瀬さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……オーガスタ……7p
歴史講座 第8回………8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語………24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

歴史講座 第8回

@縁切寺のコンセプト
 悪縁と縁を切らないと幸せにならない。縁結びも重要だけれども、縁切りの方が重要だというコンセプトで仕事をしています。資料館の電話番号も変わっていて、尾島局の2276です。『夫婦になろう』という。夫婦でくると、『夫婦なかむつまじく』という電話番号なんです。夫婦でくれば仲睦まじくなり、独身の人は結婚できる資料館だといっている。そんな話をしていると、今日の話を全くしないで終わりになってしまいますので止めます(笑)。
@離縁状の値段は『高木値段』
 現在、離縁状の値段が高くなっているということです。なぜ高いかというと、私が『三くだり半』等の本を書いたからなんだそうです。離縁状の値段は古本屋さんに言わせると『高木値段』だということです。
 ここに栃木県内の離縁状がありますが、実におもしろいものです。未だに縁切り状と言うそうです。栃木県史の史料の目録に縁切り状と書いてある。ですが本物を見ると、そうとは書いてない、離縁状と書いてある。ところが目録を採録する先生が離縁状を見ると縁切り状と書く。その先生の頭の中には、離縁状は縁切り状とインプットされている。茂木とか市貝からも『縁切り一札』と書かれたものが出てくる。それから「鴛鴦(おしどり)」という言葉を離縁状に使うのは栃木だけなんです。
 足利市の周辺では、『明日』と言う言葉を使う。明日を期せず、今からでもいい。これが特長なんです。ですから場所が書いてなくても、足利周辺だということが分かる。
 離縁状から見た江戸の女、離縁状からみてもかなり逞しく生きたということが分かる。
 江戸時代は専権離婚だと言われている。女は離縁状を貰って泣く泣く実家に帰る。その泣く泣くというのは、最近では私も納得している。泣く、泣くというのは嬉し泣きで帰っているんです(笑)。悔しかったり、悲しかったりしていない。あんな亭主と別れてせいせいした、と言って涙をポロっと流して実家に帰る。これが高木説です。


こならの森115号

2008-04-28 | 101号~200号
 
       ■こならの森115号■1997.11発行

表紙 「とみあさ公園」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■

おぞねとしこのポエム…いそぎく……3p
その他の情報…/猫バス39……4p
結婚(誕生)…山崎さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……ポテチーノ……7p
つたのからまる………8-9p
歴史講座 第7回………10-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…2回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
歴史講座 第7回
■佐野奉行の役割
 佐野奉行というのは彦根にいて佐野代官と世田谷代官を支配するだけかというと、そうではない。その役割は、土地や農民を支配して、財政とか訴訟関係そういったものも担当していた。佐野代官と世田谷代官で処理できないものは、佐野奉行の方に上げた。佐野代官というのは年貢徴収、物資の徴達が主です。世田谷の方は、佐野とは違ってまた一本上から組織が降りて来ています。江戸藩邸の賄い関係を扱うのが、世田谷でした。
 佐野奉行は普段は当然彦根の方に住んでいる訳ですが、年に一度必ず回ってくる。役人が彦根を出発して江戸屋敷へ行く、その後世田谷へ寄る。世田谷から天明へ3日間でくる。佐野領15か村を必ず巡見する。一番大きな目的というのは、その年の年貢、今の税金です。年貢の確定をするのが佐野奉行の仕事です。指示をしてそれを受けた代官が年貢割り付け状を出します。税金の納入通知みたいなものですね。江戸時代の年貢というのは個人個人にかけるものではなくて村にかける。そして村には名主とか組頭という役人がいて、その人たちが個人個人にかける。それをまとめて収めるという方式になっている。
■佐野陣屋
 今は全く跡形もありませんが、内堀米通りに佐野陣屋がありました。博物館の展示室にその陣屋の平面図が展示されています。明治になって彦根県佐野出張所になるんですが、内容は代官所そのままなんです。約60メーター四方くらいの規模ですから、そんなに大きなものではないんですね。明治になって廃藩置県になるときに競売にかけて無くなってしまう。そこにどういう役職の人がいたかということですが、まず代官は地元採用です。その次が代官見習い、代官になる候補者で、のちに代官になっていく。その人が二人います。それから目付役。佐野は代官と目付役が牛耳っている。ここまでが上の方の役です。他に越名に河岸がありますから御船役、それから物書き、書記ですね。薪役というのは、薪を収納しておく薪蔵の管理。それに持ち船を持っていますから、その船頭。炭役というのは、大量に木炭を産出していますからその役です。それから、下目付役、これは目付の見習いでしょうか。川除役、川の普請をする役、河川の工事を担当する。領地には秋山川とかいろいろありますが、川での洪水のときの補修です。領主が普請をする川と、村方が普請をする川というのが決まっているんです。大きく欠けそうなところは領主がやっています。下刈り役、山の下刈りでしょうか。その下に松茸役というのがおります。松茸がよく出たのでしょうか。松茸の初物が採れると、船で江戸の将軍の方に献上しているようです。その次には茸子役。雑割木、これは薪割りかなんかですね。修復は、陣屋とかいろいろな修復。
 以上は元禄8年の役人構成で一番古いものです。
■井伊直弼、佐野領地を巡見
 嘉永6年(1853年)、この時に幕末の大老、安政の大獄をやって桜田門外で暗殺された井伊直弼が、佐野の領地巡見のために来ているんですね。3月16日に大老としては大変小規模の行列、約70名くらいです。自分から日光社参を希望した関係でそうなったようです。日光には3月の20日に泊まっています。日光から鹿沼を通って、栃木を通り3月23日に佐野に入って来ます。富士の泉応院で小休止をしてさらに犬伏宿の本陣へ。ここは今何も残っていませんが現在の犬伏小学校の敷地の一角にありました。本陣というのは公的宿泊施設で、一般の旅人は泊まれない。23日には天明宿本陣に泊まります。東石美術館の東側にあたります、今ビルが建ちました。殿町通りの西が天明で東が小屋町です。場所は小屋町なんですが、天明宿の本陣としてあそこにあった。
 翌日は領地の巡見に行きます。24日に出発して吉水の寺内家で小休止をして、上多田の名主に寄った後、本光寺で昼食をとり、山形の大森家(最近までありましたが、建て替えました。)にて小休止をしている。そして下彦間の岩下家で食事をして、斎藤家に泊まっています。斉藤さんのところは昔のままです。わざわざ今の家をその時に新しく新築したという話を聞いています。
 さらに上彦間に行っています。名主の小林さん宅。それから大学院で25日に昼食をとっている。そこでUターンをして帰って来ます。
 佐野市内ですと、出流原町に神山さんという家がありますが、そこで25日に一泊をしている。新しく家を建てたようですけれども、元の家をそのままにしておいて、西側に建てたようです。この家は東側向きの家だったのですが、直弼の泊まった室をそのままにして、ぐるっと回転させて南向きにしたんですね。26日には、また天明の本陣に泊まって、翌27日に惣宗寺を参詣、越名村から船で古河を通ったのでしょう、栗橋までいって後は陸路江戸まで出た、これが井伊直弼の日光の社参を兼ねた佐野巡見の行程です。
■堀米の飯盛り女
 この時によく知られている話が、堀米の飯盛り女を廃止して欲しいという嘆願書が出ていることです。40数か村から出ています。天明とか犬伏宿は大名などの行列が通るときに、各村々から馬を提供しました。村の若いものが馬を連れて宿場に来る訳です。宿に飯盛り女を置くことを幕府から許可されていて、そういうところに入り浸りになってしまう。せっかく駄賃稼ぎに来たのに、それをつぎ込んでしまうと嘆願書に切々たる文面で書かれている。嘆願ですから、若干オーバーにかかれている面もあるかと思います。
 かつて、天保4年(1833年)に一回、嘆願書が出ているのですが、どうもそれを代官が握り潰してしまったらしい。そこで嘉永6年(1853年)に井伊直弼が来たときに、『天保4年(1833年)に出したけれども、何の返事もないので』といってまた出している。ところが同じ年の嘉永6年の3月に堀米町の宿場関係者からも飯盛女を廃止しないでくれという嘆願書が出されています。
 結果的には井伊直弼が江戸に戻ってから裁定して廃止にしています。


こならの森114号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森114号■1997.10発行
表紙 「のあざみ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

おぞねとしこのポエム…かまきり……3p
その他の情報…/猫バス38……4p
結婚(誕生)…若田部さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……月が丘……7p
歴史講座 第6回………8-11p
国道294………12-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…1回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

ドライブガイド
国道294

 国道293号線の次ぎは、そう国道294ですよね。そして、国道50号線の前はといえば、国道49号線です。そんなわけで、今回は、安佐を走る国道番外編、あるいは国道シリーズの第2弾です。
 どうして、49号線もあるのかって、それは読んでのお楽しみ。

■293号線から49号線へ
 前回の293号線はどうでしたか、そこで一つ問題がありました。道を間違えてしまって本例のルートから外れてしまったということです。それでよかったのですが、実は293からはずれた『より道コース』を予定していたのです。またこの近辺は奥の細道のコースでもあります。その辺も加味したかったのですが、いかんせん道を間違えてしまって………。そこで登場したのが裏293です。まあ、294という正式名称があるのでしょうけれども………。
■スタートはやっぱり国道293
 ルート294までは、やはり293号線を通らなければいけません。したがって、294へ合流するまでの区間は、前回の293の号を参照して頂くと助かります。ひとつ付け加えて置きたいのは、例の西方町での合流地点、手前で旧道へ流れた方が5分近くの短縮になることが分かりました。また、ろまんちっく村での渋滞も予想に反してスムーズで拍子抜けでした。台風がらみの雨模様も幸いしたようです。 
■R-293から294へ
 馬頭町から黒羽町へ向かう趣のある道をひた走り、街道筋の家並みがとても旅情をかきたてます。ひなびた山村なのですが、どことなくなつかしさがあります。なにか忘れて来てしまったものや、新たな発見のようなそんな風景が続いていました。
 そして、どうしてこうも長く山村が続くのだろうかと思えるほど、山道の中に集落が点在しています。
■黒羽町へ
 ここはとても不思議な雰囲気の町です。何故、芭蕉はここに立ち寄ったのでしょうか。どういう因果でしょうか。そして、長く滞在したのでしょうか。何かきっと意味があるはずです。雲巌寺の入り口に残る杉の大木が何かを語ります。現在知られている奥の細道のルートにあたる場所はかつてのアイヌの聖地であったといいます。芭蕉にとって奥の細道とは日本人のルーツを探る旅だったのではないでしょうか。そんな気がして来ます。
 黒羽を越え福島へ入って来ます。道の奥の仲木戸でしょうか、なにか地名を聞くだけで考え深いものがありました。
 柳の道などもあり、またいい風景を醸し出しています。
■旅の重大な目的
 ああ、そうそう、今回の旅の重大な目的を言うのを忘れてしまいました。唐突ですが、福島県の矢吹町で5才児童の絵画展が開かれているのだそうです。(10月12日まで)
 田沼町にある珈琲&音の奥沢さんからそのような耳寄り情報を頂きました。奥沢さんの話では、田沼でも同じような動きがあるようです。
 高速なら2時間もかからない距離ですが、先程ののような理由で、今回はあえて〃よりみち〃コースとしました。
 矢吹町は白河市からすぐで、栃木県と福島県の境といった所でしょうか。人口約1万9千人、展示されている絵が何点だったか正確に調べなかったのですが、一つの部屋に全員の絵が展示できるのですから30名くらいでしょうか。企画とアイディアがとってもユニークで、かつまた
夢があって素晴らしいものです。そして10年後にまた同じ展覧会を開催する計画とか、スケールというか、時間的感覚の大きさに感銘してしまいます。小さな町なのでそれなりの利点もあるようです。
 また、立地条件を最大限に生かし、大きな池を利用して水辺を演出、憩いの場です。文化施設の点在が良くマッチします。近くにはキャンプ場もあります。 国道294の終点は猪苗代湖となっており、接続する国道は49号です。
■294→49
 国道293と国道50号線も接点がありましがが、その前後294と49でもやはり接点があったというわけです。道というのは続いているものですから、当たり前と言えば当たり前ですが、標識だけを頼りにつながり良く周回旅行ができるというのは嬉しいかぎりです。
 猪苗代湖から終点のいわき市までの国道49号を行きます。行楽時期にもかかわらず。スムーズな流れ、もっとも磐梯熱海で事故があり全面不通となっていて迂回路は大渋滞、それをやっともの思いで回避したばかりなので爽快感も倍増。一時間あまりでいわき市へ。しかしながら市内でまた渋滞。『そんなにいそいで………』なんて標語がありましたが、日本の道はどうやっても急げないようにできているようです。おかげで、国道49から50号へ入って帰ろうとしましたがとても無理な状況でした。しかたなくまた栃木県側へ入って国道293を通って戻って来ました。


こならの森113号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森113号■1997.9発行

表紙 「コスモス」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

おぞねとしこのポエム…いがぐり……3p
その他の情報…/猫バス37……4p
結婚(誕生)…堀江さん夫妻…5p
現代国語…すう……6p
知らんの5つの市/……モコ……7p
タイムスリップ………8-11p
歴史講座 第5回………12-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-25
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

歴史講座 第5回

@唐沢山城の築城
「いつ、だれによって城が造られたか」
 唐沢山城は、いつ、だれによって造られたか、ということは、安蘇郡の歴史にとって重要なことなんです。といいますのは、今から千年前に藤原秀郷が造ったのだと、ずっと言われて来ています。ただ現在見られるよな形の城というのは千年前のものではありません。戦国時代、15世紀と言ったらいいんでしょうか、その頃のものです。しかし千年前、藤原秀郷の時代に唐沢山に城が無かったのか、と言いますと必ずしも無かったとは言い切れないと思います。
 登った方は分かるかと思いますが、非常に見晴らしのいいところです。現在でも冬には東京方面が見えるという、それくらい眺望の利くところです。ですから砦として古くから使われてきたと思います。
@古代の狼煙台
 宇都宮を流れる鬼怒川の左岸に飛山城というのがあります。そこから「烽(とぶひ)」という字の書かれた坏(つき=須恵器)が発見され、全国的に話題になりました。ここに「狼煙台」があったのです。去年の11月に狼煙の実験が行われました。飛山城の近くを東山道が通っていた。そこで、伝達方法として、狼煙を上げたということです。そんなことがありますから、唐沢山城でもそういうことがあったかも知れません。
@唐沢山城はだれが造ったのか
 唐沢山城を造った人というのは、今まで3人ほど名前が上げられています。最初は藤原秀郷、次が約800年前の佐野成俊、3番目が約500年前の佐野盛綱となります。
 現在見られるような形の城は、戦国時代に造られたものです。この時代になりますと戦争の形態が変わって来ました。鉄砲がこれまでの弓に代わります。鉄砲の玉を堅固な石垣で跳ね返してしまおう、そんなことで城が堅固に造られてきます。
@毛利元就一門
 ただ、15世紀という時代は、はっきりとは分かっていません。ことに下野の国では、まだまだ解明されていない部分がたくさんある。武士団の編成にしても分からない部分があります。
 今、NHKで「毛利元就」を放送しています。その毛利家の家臣団の編成を図にして乗せてあります。この図は頂点に惣領として毛利隆元を置き、それを支える形で一門、譜代がおります。外側に外様、国衆がいます。この人たち一人一人は最初、毛利氏と同格の小規模な豪族(小領主)でした。これを国衆、又は国人と言います。ですが、毛利氏が力をつけて来た関係で、家臣として毛利武士団の一翼を担うようになったのです。


こならの森112号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森112号■1997.8発行

表紙 「小さい花」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

おぞねとしこのポエム…やまゆり……3p
その他の情報…/猫バス36……4p
結婚(誕生)…楢原さん夫妻…5p
現代国語…じん……6p
知らんの5つの市/……六月……7p
歴史講座 第4回………8-9p
不透明な街…未収……10-17号
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…13回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■




【本文抜粋記事】

歴史講座第4回

佐野源左衛門常世
 佐野源左衛門は『人名辞典』などで見ますと、生没年が不祥です。言われていることは鎌倉時代中期の武将で、上野国の佐野、今の高崎市佐野に住んでいたと言います。はじめ下野の佐野に居ましたが、一族に所領を
奪われて零落してしまいます。そこに登場するのが北条時頼です。雪の日、行き暮れた旅の僧を、秘蔵の鉢の木を焚いてもてなした、と言うお話しは、戦前の教科書に載っていましたので彼の名は全国的に知られていました。
 テレビでは水戸黄門様が日本全国をぐるっと回っていますが、時頼も民情視察のために、全国を回ったと言います。ですが黄門様同様、どうも怪しいという人がいる。田沼の蓼沼家の史料によりますと、佐野源左衛門は本領を召し上げられ、下野国の石沢(こくざわ)に住む、とあります。石沢は現在の葛生町正雲寺でしょうか。そうあります。 建長5年(1253)の冬、時頼が正雲寺に来て、源左衛門の家に泊まった。そこで、今はこのように零落しているけれども、鎌倉に一大事が起きたならば、いち早く駆けつけるなどと語ります。果たして建長6年、鎌倉から招集があった。そこで源左衛門は、雪の日の旅の僧が、執権の北條時頼であることを知ります。
 忠義を愛でられ、改めて本領37郷を拝領された源左衛門でしたが、国へ帰る途中、馬入川で溺れ死んでしまいます。そのため嫡子の常行が15歳になった時に執権にお目見えして、上野国佐野36郷を拝領し子孫が佐野に住む、とあります。
 一般の佐野系図には、佐野現左衛門のことは書いてありません。ただ『田原族譜』という佐野一族の系図を書いた本があります。それには佐野源左衛門の事が出ています。それによると常世の父は、常春、祖父は秀綱となっています。その上も資料にあるように違いが見られます。系図というものは勝手に作ってしまう、と言うと語弊がありますが、自分の都合のよいように作り替えてしまうものです。あまり当てにはできません。


こならの森111号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森111号■1997.7発行
表紙 「三毳黄コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…あさがお……3p
その他の情報…/猫バス35……4p
結婚(誕生)…石井さん夫妻…5p
現代国語…しろ……6p
知らんの5つの市/……一柳……7p
歴史講座第三回………8-9p
国道293号線………10-17号
JC・JOURNAL…OCR……18-19p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…12回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

国道293号線………10-17号


@スタート
 佐野市に通っている国道は二つ、(鉄道も二つ)。その一つの293号線は、一体どこが始発なのか。そんな単純な疑問から今回の企画はスタートした。もう一本の国道50号線もいつか企画してみたいと思っている。今回全線を走ってみていろいろなことが再発見することができた。
 国道293号線。始点はどこか、そして終点は、知っているようでよく分からない、そんな素朴な疑問ではある。しかし、あまりに唐突なこの疑問の答えが実は全く日常的な、だれでも知っていることだったりする。こんなことってありますよね。今回の@企画@(@@の意味は最後に分かります)もそれなのだ。
@思い立ったら
 遅い朝に突如としてスタート。一路国道50号線を西へ向かう。国道50号線が今回のキーポイントになっている。
 それはそうと今日は休日でちょっと走っただけでも渋滞の波の中。始発点まで来るのに時間をとられる。まだ、『佐野にも』来ていない。やっと足利市内を抜けて、越床峠トンネルへ。この手前にはしゃれた休憩所が最近できた。
 起点を通り佐野市に入ってくるのに1時間もかかってしまった。
 道は信じられないくらいにきれいになっていて、どこかの観光道路みたいだ。
@ここも
やっぱり渋滞
 国道293号線は、西方町の辺りで非常に渋滞する。道路が良くなったのに、どうして昔よりスムーズに車が進まないのか不思議でならない。もちろん旧道へ出て渋滞のピークの橋を越えた。
 ところが、また293号線上に強敵(渋滞)が現れた。宇都宮市のろまんちっく村だ。地ビールがウリでオープンしたてなのは分かるが、辺りは丘陵地なのではっきり分かる脇道や抜け道がない。上りも下りもほとんどトンネルの中のような状態となった。ろまんちっく村へ行く人はいいが、ただこの道を通過するだけの人にとっては困りもの。手前には渋滞の案内もないし、知らずに行ったら大変なことになる。
 反対車線は高速道路から数珠つなぎとなっていた。
@寄り道コース
 ここまでは、ふだん誰でも一度は通ったこともあると思う。氏家から喜連川、小川町とありきたりの変化もない道を行くことに。ここからコースを外れて、湯津上村方面へ行ってみるのもいい。那須国造碑や水戸光圀が発掘したという侍塚古墳などもある。郷土博物館に寄ってみるのもいいだろう。みんな国道294号線沿いに沿ってあるので便利である。
@奥の細道
 黒羽町から芭蕉が奥の細道で長期滞在したことで有名な雲巖寺を通り、八溝山地を抜けるひなびた国道も情緒があっていい。
日本の田舎がそこにはある。藁屋根の家が道路まで張り出している、曲がりくねった細い道、奥の細道を彷彿させる。そのまま大子町へ抜けて袋田ノ滝まで〃寄り道〃してもいいし、また馬頭までもどり、御前岩を見学して、国道293へ戻るのもおすすめのコースだ。
 『御前岩』ってなんですかって、それはですね、行ってみてのお楽しみ。
 本当はこのルートを通るはずだったのだが、小川町でそのまま国道293を通ってしまった。 これはこれで、趣もありまたいいもの。
@道の駅
 馬頭から県境までは、田舎の風景がつづく。谷あいの集落に小さく広がる田畑。茨城県側に入って来てすぐ、美和村に最近あちこちで造られ始めている『道の駅』がある。目新しさもあるのだろうか、あるいは辺りになんの観光スポットもないためなのか、大勢の人で混んでいた。駐車場がない。ほとんど想定よりもたくさんの人が詰め掛けているのであろう。
 しかし取りたてては何もない。近代的な建物(ハコ)に、名産特産、焼きそば、アイスクリームどこにでもあるものばかり。美和村の独自性がないと思うのだが………。それはともかく、星空輝く、トイレだけはおもしろいですよ。(トイレにだけは行ってくださいネ。)@アリスの森は何処に

 この近くに、アリスの森というレジャースポットが地図上で目に付いたので、今回はそこを目玉にしようとやって来たのだが、行楽日和の休日だというのに閉鎖されている。たぶん、つぶれてしまったのだろうと思う。非常に残念だった。事前にいろいろ調べたのだが、どういう種類の観光スポットなのか分からなかったという経過もあって、期待をしていたのに………。

@幻の293

 しばらくすると市街地へ入っていた。

 ■海の予感

 大宮町から常陸太田市へ、もう海が近い感じがする。しかし、ここで旧道へ入ってしまったのか、道を間違えたのか、道が細くなってくる。それと同時に気持ちも心細くなる。巻頭の写真もあやふやながら、国道293のつもりで撮ったもの。
 やがて、国道の標識が見える。また元の道に戻ったのか、どうなのかほとんど確認ができなかった。国道245と交わる。ここが終点であろう。
 国道293は山道と丘陵地がほとんどで、ありふれた3桁の国道なのだろうけれど、終点は海となっていた。 さらに日立港の埠頭へ続く道を行くが、行き止まりとなっていた。これ以上先へは行けない。大海原だけが目の前に広がっていた。




こならの森110号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森110号■1997.6発行

表紙 「田沼あじさい」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

おぞねとしこのポエム…はまなす……3p
その他の情報…/猫バス34……4p
結婚(誕生)…山崎さん夫妻…5p
現代国語…じ……6p
知らんの5つの市/……紙……7p
JC・JOURNAL…OCR……8-9p
歴史講座第2回 ………10-13p
六月の森………14-18p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…10回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

新・こならの森から

 最近、小学校に行くようになった息子の宿題を見てやるのですが、彼に教わる事の方が多くてたまりません。また、「きねん」って、「そんけい」ってどういう意味? と、6歳の娘に質問されてとっさに回答できなくて困ります。小学国語字典や漢字事典を一緒に紐解いて、漢字の出来方が根本から理解出来『目からうろこ』の毎日。教えているのか、教わっているのか。授業料は誰に払えばいいのか………
 これはかの有名な『こども電話相談室』でも同じことが言えます。ある有名な回答者は、自分は何でも知っていると思って子どもの相談に向かったのだが、実は何にも知らないのだということが分かったと言っていました。
 「人はなんで死ななければいけないのか」これが、この番組の第1回目の放送に寄せられた質問だといいます。それから30数年、未だに明快な回答は出ていないそうです。そればかりか回答者自身が知りたいくらいだそうです。
 ソクラテスの時代も、現在のインドでの教えも誰かが何かを語るというのではなく、質問に答えるという形式だそうです。その普遍性が同番組を8000回以上も長続きさせました。


こならの森109号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森109号■1997.5発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「たちあおい」

■こならの森6月号■

おぞねとしこのポエム…水すまし……3p
その他の情報…/猫バス33……4p
結婚(誕生)…田代さん…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/……ペペローニ……7p
インターネット………8-13p
歴史講座第1回 上林遺跡………14-19p
インフォメーション97………20-23
JC・JOURNAL………24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

歴史講座第1回

 上林遺跡


 考古学というのはロマンがあっていいねと言われるのですが、確かに夢を追いかけるそんなところがあるかも知れません。しかしそれには原則というか基本そういうものが一応あるんです。

遺跡は土の中に埋まっている。

 考古学イコール穴掘りというふうにお考えだと思いますが、実は昔の人々の生活や歴史を中心にして研究するような歴史学的研究と、もう一つは骨とか、この近くで言うと葛生人とかいう化石のようなものを対象にして研究をする人類学的な考古学。大きく分けると二つある。私がやっているのは、その中の歴史的なものです。

遺跡とはなにか。

 一言で言うと、昔の人がいろいろな形で地表面にその土地を利用した跡が残される。つまり人々が過去に残した様々な土地
利用の後、それを遺跡という。
 佐野では分かっているところだけでも403カ所遺跡がある
と言われている。
黒土が埋まるようになったのは今から1万年前。もっと古い時代は赤土、火山灰が積もっていた。縄文人は、黒土のさらに下の層まで土を掘って竪穴式住居、あるいはお墓をつくった。
 人が土地に手を加えて、使用した後が土の変化などによって確認出来る、そうしたところを遺構という。それが集まると遺跡という。一つだけでも遺跡になります。
 佐野の歴史は、今まで1万5千年くらい前まで分かっていた。新都市の調査があって、2万5千年くらい前まで分かるようになった。どうして分かるのか。黒土でも土の色の違いもあるし、赤土でも土の色に微妙な変化がある。変化がでてくる。それがバームクーヘンみたいになってたまってくる。ですから、ある部分ではこれが何千年前だとかということが科学的に分かるようなものがある。一番てっとり早い方法は放射性炭素、C14、そういうもので年代を調べる。炭素の中には放射能を含んだものがある、それを植物なりが吸収します。それが炭になったりして、砂時計のようにだんだん減って来る。それと同じで半減期というものがあって、だいたい5千4百年くらいです。そのようにして、中の放射能の減り具合を調べると、だいたいこれは何年前だと分かる。そんなふうにして年代を調べる方法があります。
 もっと古い時代は、ガラスの中に含まれているウランの原子の減少を科学的に調べる。後は、地磁気の変化、北極とか南極、これは地球が出来てから今までずっと同じところにあった訳ではない。変化して行くんです。我々の一生のうちにはそんなに変化しない。何千万年のうちの地磁気の変化によって調べる。地球の歴史などはそういう方法によって調べているようです。
 新しい時代では、土器に模様がついていたりして、その模様の変化によって弥生式土器、縄文式土器とか言っている。

地球の誕生から人類が 出現するまで。

 46億年とか50億年とか言われている地球の歴史。そういう中で、人類が出現したのはたった500万年前。アウストラロピテクス(猿人)という人達が出現しました。そして180万年前まで続いた。その後は、ジャワ原人とか北京原人とか言われる人達がだいたい今から20万年前くらいまで住んでいたと言われている。猿人というのは、アフリカ大陸で見つかっている。そして、ジャワ原人とかはそれぞれ見つかった地名がついている。アフリカからジャワとか北京とかヨーロッパといったとところに人類が拡散した。あちこちに渡って行った。どういう理由かは分からないが、考えられるのは気候の変化です。
 だいたい110万年前くらいにアフリカの方からジャワの方に人が移って行ったのではないか。ジャワのスンダーランド、あの辺りは氷河期になると陸地になった。ですから、アフリカの方から陸地づたいに人が移り住んだ。
 最近の話ですと、宮城県の方に50~60万年前くらいには、人が住んでいたと考えられている。骨は見つかっていません。住んでいた人達の使っていた石器が見つかっている。地表面のそんなに深くない所から出ているので、本当かという人もいるようですが、火山灰の科学的な測定などから50年前くらいの  ものだと考えられる。
 今から20万~4万年前くらいまでの人はネアンデルタール人(旧人)という人達だった。
 4万~1万年前くらいまで、ホモサピエンスといわれる、クロマニヨン人という人達が出現する。
 500万年前までの気候の変化は分かりませんが、だいだい200万年前まではおおむね分かります。そして暖かい時代、寒い時代の変化があった。寒い時代は地球の中でも暖かい所へ人が集まって住むようになる。間氷期といわれる時には寒いところまで行った。
 佐野の上林遺跡というのは、ビュルム氷期と言われる、今から約7万~1万年前までの時代だった。どうして寒かったのか。平成5年でしたか冷夏の年がありました。フィリピンにあった火山が大噴火して、地球の気候が大きく変化した。火山灰が地球を覆ってしまえば、太陽の光は差し込まなくなってしまう。何年もそれが続けば、寒い時代となる、そんなふうに考えられる。
 ビュルム氷期の中でも、本当に寒い時と、ちょっと暖かい時があった。寒い時を亜氷期、暖かい時を亜間氷期といっています。 何万年前かの花粉が残っていて、それを分析するとその時にどんな植物が生えていたのか分かる。2万年前はヨモギだとかシダとかいう植物が生えていた。火山灰が降り積もったから、草や木は生えていないだろうと思うと、必ずしもそうではなかったようです。少しは低い木が多少生えていた。
 今から2万年前というのは、ビュルム氷期の中の3回目くらいに寒くなる時期で、一番寒くなった。この辺の気候は北海道の札幌と同じだった。年間の平均気温で言うと7~8度低かった。年間平均気温が1度違うと大変なんです。それが、7度も違うんです。したがって、そういう寒い時期ですから、氷河が地球のかなりの部分を覆いこみます。水が凍ってしまうわけだから、固まらない水は少なくなって海面が低下していた。ということは、陸地が広がって行く。そんなことで、中国と朝鮮半島日本が陸続きになります。

日本列島の植生

 関東地方の気候は、植生からいうと、冷温帯の針葉広葉樹林といわれる。今の北海道の方の植生ですね。東北地方だとか、中部山岳地方のこの時代の気候というのは亜寒帯針葉樹林。北海道の方までツンドラが広がっている、そんな状況になっていた。
主な火山帯の分布について。
 上林遺跡を掘って行くと、赤土が堆積しています。そこで確認できる火山灰で一番有名なのが、赤城・鹿沼軽石層、いわゆる鹿沼土といわれるものです。薄くしか堆積していません。3万1千年くらい前に赤城山が噴火したときの火山灰だと言われている。九州の姶良火山が2万5千年前くらいに大爆発をした。それで今は鹿児島湾となってい るカルデラ湖ができた。その火山灰は、仙台くらいまでの日本を覆っていますから全国展開です。
 上林遺跡からでた石器は、AT(姶良・丹沢火山灰)よりも下から出ている。そこで鹿沼土の下からも石器が出ないかと掘ってみたんです。でも出なかった。そこから出たら大変なことです。どうやって発表しようかな、遺跡を残せと言うことになったら大変だ。そんな事も考えていました(笑)。幸いというか、残念というかみつからなかった。栃木県ではあまり見つかっていないんです。鹿沼土の下からというのは………。

上林遺跡

 上林遺跡からはいろいろな石が出ています。一番簡単なものはチャートという種類で、この辺の山で取れる羊羮みたいな石で珪岩といっています。そういう石がたくさん出ています。それで石器を作っている。それから、だれが見てもすぐ分かるのは黒曜石、ガラスみたいな黒い透き通った石です。これも大きく分けると二つある。一つは、ガラスのようなもので割ると鋭い刃ができる。もう一つは中に気泡が入っていて中はぶつぶつになっている。その他には、流紋岩と言われているものも出ます。ただ、地質の専門家にこの石の名前を聞いたら、私たちが考えていた石とは違う名前をいわれた。凝灰岩です。凝灰岩というと大谷石です。大谷石ほどもろくはないのですが、溶結凝灰岩、そういう種類の石がたくさんあると言っていました。さてこの石がどこから取れるのか、この辺でも取れますが、石器になるような質の良い、キメの細かいものというのはあんまりない。そういうもの一番取れそうなところは、栃木市の国学院栃木へ向かって行く途中に、向山という小さな山があり、その山頂辺りに良質のチャートが取れます。さらに奥に星野遺跡がありますが、その奥の山からもやはり質のいいチャートが出ます。また、三毳山でも取れるという話もありますから、必ずしもそこから運んで来たものではないかも知れない。でも、栃木までは10キロあたり、星野までは数十キロ。歩いて行く、そして担いで来るんでしょうか。
 黒曜石で良く知られているのは栃木県の高原、あそこから取れるのは石は質の悪い、気泡をたくさん含んでいる石です。質のいい黒曜石は長野県です。和田峠とか、霧ヶ峰、麦草峠そんなところや伊豆です。戦後になって分かったのが箱根。みんな火山に関係している所です。どう考えたって100キロ以上は離れている。ちょっと聞いた話では足尾あたりでも黒曜石が取れるという。私も確信がないんですが。もし、足尾で取れたとすると、足尾まで行ったのか、あるいは渡良瀬川がこっちの方まで流れて来ている訳だから、足尾の山の奥から、川づたいに石が流れて来たのか。
 凝灰岩そういうものも足尾にはあると地質の先生から聞いております。頁岩(けつがん)、これはこちらの方にはあまりない。東北の方ですね。流紋岩という石も取れない。これを石器の材料にしているのは、県北から八溝にかけてです。真岡の磯山遺跡などはそうです。
 そういうふうにして石の原産地が各地にあります。この近辺から取れそうなのはチャートくらいなもので、後はどこから運んで来たのでしょうね。物々交換でしょうか。
 群馬県の岩宿遺跡では、ナイフ型石器や石斧が出てくる。これは、旧石器時代でも後期旧石器時代です。今から3万年前くらい。クロマニヨン人がいたころが、旧石器時代。ネアンデルタール人(旧人)がいた頃が中期旧石器時代、もっと古くジャワ原人が住んでいた時代が前期旧石器時代といっています。その中の、後期旧石器時代。 栃木県はどういうわけか、ナイフ型石器を持たない時代が何代か続きます。
 3万年から1万5千年くらいまでは、ナイフ型石器が占めるような時代です。一番下の方を加工したものや、小型の小さな石器がでてくる、その頃を槍先型尖頭器、槍の先になるようなそういう石器が出て来ます。上林遺跡も第一文化層というのはその時代です。第二とか、第三は、ナイフ型の一番古いものとか、局部磨製石器というものがでてきた時代です。もっと新しい時代になると細石器という幅が5ミリぐらい長さが2、3センチの薄い石器がたくさん出て来ます。骨とか、木かなどにはめ込む組み合わせ式の石器です。ちょっと歯がこぼれたりすると、こぼれた歯の部分だけ、取り替えがきく、スペアがきく。昔の人は頭がいい。そういうふうにして使っていた。この時代というのは、それと大きな槍とか、あるいは石刃と言われているものが見つかっています。

機能が形態を決定する。

 石器はなにかをするために作られた訳です。例えば人を殺すため、動物を捕まえたり解体するため、そういう何らかの目的があった、その目的に併せて形が作られなければ、合理的な働きをしないでしょう。昔の人はそうしていた。逆に言うと、石器がそういうふうに変遷するということは、昔の人達は自分たちが生活して行くための対象物、獣であったり、木の実であったり、草であり、そういうものが変化して行った、と言うことが言える。
 3万年くらい前にあった石斧がその後使われなくなってしまう。2万年くらい前だと小型の石器になってしまう。1万2、3千年くらい前になると、組み合わせ式の石器が使われるようになる。気候の変化に伴って、動物や植物層が変化をします。それに合わせて人が生活して行くために獣を捕ったりするための道具を変化させていった。そんなことが分かる。

 やっと来ました上林遺跡。地表面から20センチくらいのところを掘るとローム層が出て来ます。一番最初のローム層の中には黄色軽石層がかすかにあります。1万3千年から、1万4千年前。この辺りから、第一文化層と言われる石器文化が見つかった訳です。第一文化層と言われる石器文化層は、尖頭器を中心とする文化です。岩宿遺跡を見つけた相沢さんが発見したのも尖頭器でした。赤土の中から、その岩宿と同じような作りをした尖頭器が見つかっている。
 岩宿遺跡もいくつか文化層がある。その中の上の方の石器文化と同じような作り方、見るとそっくり。そういう槍が見つかっている。
 岩宿の槍というのは、先が少し割られている。おもしろいことに、長野県でも岩宿でもこの上林でも同じ形なんです。
 赤土の中でも、よく見ると火山活動が活発だった時期は、本当の赤土なんです。火山活動がおさまって、木が生えたり、草が生えたりそういう時の火山灰というのは少し腐食土が入るから黒っぽくなっている。亜間氷期、そういう時が黒っぽい火山灰、赤土である。その黒っぽい火山灰の中から第三文化層の石器が見つかっている。その石器というのは、ナイフ型石器で第一文化層の石器というのは黒曜石や頁岩が中心となっている。第三文化層の石器は、質の良い黒曜石です。第一文化層は質の悪い黒曜石、それとチャートです。それが主流を占める。そして、第二文化層、第三文化層というのは一番東の越名沼に近い方からたくさん見つかっています。第一文化層というのはもっと奥まった方で見つかっている。
 いろいろな石が出ているが、あそこでは取れないような石が出ている。
 上林遺跡というのは佐野が新都市を造るということで発掘が始まった。東北自動車道と国道50号線、これからできる北関東自動車道、こういうふうな交通の要所に当たるところです。昔ですと東山道、あるいは日光例幣使街道、そういうふうな東北からみちのくへ行く途中の交通の要所に佐野はあります。そういう意味合いがあってあそこに新都市を造る訳です。交通の要所、物流の拠点です。それは、2万5千年前からそうだったわけです(笑)。
 上林遺跡の調査は、1月の末で終わりました。全部掘りました。遺跡の調査というのは、予算とか期間もありますが、いったん掘ってしまうということは、人々が残して行った歴史が消えて行くことだからできるだけきちんと調査をして記録に残さなければいけない、ということが私たちの基本的な考え方です。
 上林は赤土の中にある石を発見して行く作業でした。ですから、石を拾ってしまうと、その後には赤土しか残らない。遺跡を残しておけばそれにこしたことはない。確かにそれはそうです、でも、佐野市の新都市を作るための用地ということになっているので、遺跡を残すのと、佐野市の新都市を作って行くのとどっちが大切なのか、私は皆様に考えていただきたいと思う。 遺跡をそのまま残すと計画を変更しなくてはいけないし、費用が何千万もかかる。その金を出て来た石器の調査とかあるいは、石を見ただけでは理解できないこともあるので、状態なりを模型にするとか、説明板を作るとかそういうことの方に使った方が、一般の市民の方たちには喜ばれるかなと思います。そんなことを私個人としては考えています。
 どちらがいいのでしょうか。
 さらには石器の原料をどこから持って来たのか、それをはっきりとさせたい。原石を運んで来て、あそこで割って、石器を作っているんだ。ですから、割った石の残りかすを集めると元の原石になってしまう。大きな石の塊のあるところが抜けている。なぜ抜けているのか、石器として使ってしまったからです。ですから、使ってしまった石がどこかにあるはずです。越名の方かも知れない、堀米の方かもしれない、あるいはもっと遠く栃木の方かもしれない。そういうものが見つかるといいなと思っています。つまり、そこで石器を作った人、材料を運んだ人、それからその石器を家族のために近くの山へ行って鹿や猪を必死になって取った人の行動や生活の様子が分かる。勝手に想像できるんだからロマンでしょう。資料整理をこれからやるんですが、そういう中で分かるといいと思います。これから、いろいろなことが発見されるかもしれないと頭の隅にでもいれていただくとありがたいと思います。  






こならの森108号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森108号■1997.4発行

表紙 「ハルジオン群落」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

おぞねとしこのポエム…たんぽぽ……3p
その他の情報…/猫バス32……4p
結婚(誕生)…福本さん…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/……グルメ……7p
JC・JOURNAL…OCR……8-9p
唐沢………10-17p
インフォメーション97………18-23p
両毛神楽物語…10回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

書評・絵本紹介

源氏物語
      紫 式 部 著
      瀬戸内寂聴 訳
      講 談 社 刊
 「源氏物語」を知らない人は日本人なら恐らくいないでしょう。しかし、それにも関わらず内容まで詳しく知っている人はそれ程多くないと思われます。私も、作者が紫式部、主人公が光源氏、全体が五十四帖で構成されている恋愛物語である、くらいしか知りませんでした。
 今回、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子に続いて、「瀬戸内寂聴が十年の歳月をかけて現代語訳を完成させ、それが発刊される」と聞いて、第一刊を入手しました。この本によって源氏物語を少しは知る事になったのです。
 なるほど、今から千年も前にすごい物語が創られたものです。世界を見渡しても、当時はこれに匹敵するものが全くありません。それが、東洋の島国の一女性の手によって書かれたのには、まさに奇跡と言っても良いでしょう。「小説」などと言う手法が発達する以前のことなのですから全く驚きです。また、印刷技術がなかった時代のもので、これだけの長編が現代まで残っていたのには、驚きを通り越して信じられないくらいです。
 作者の瀬戸内は、雑誌・プレジデントのインタビューに答えて次ぎのように語っています。「結局、紫式部が書きたかったのは光源氏ではなく、実は女性たちではなかったか。光源氏は物語の狂言回しで、本当に書かれているのは女性、光源氏の恋人たち、つまり『女性』ではなかったか・・・・・」。この事を、少しは学生時代に源氏物語を読んだことのある妻に言ったら、「まったくその通りだと思う」と言っていました。
 私は、「科学技術が発達しても、人間そのものは案外変わらないな」と言う思いを強くしました。ですから、あと千年経っても人間はほとんど変わらないかも知れません。皆さんも、円地文子以来二十三年ぶりの現代語訳です、この機会に世界の古典を読んでみませんか。 


こならの森107号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森107号■1997.3発行

表紙 「さくら=アップ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

おぞねとしこのポエム…ふきのとう……3p
その他の情報…/猫バス31……4p
結婚…栗島さん夫妻…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/…………7p
JC・JOURNAL………8-9p
春桜の名所………10-17p
インフォメーション97………18-23p
両毛神楽物語…9回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

新・こならの森から

 最近長男がゴミ問題の本を借りて来た。小学生向の分かりやすい
表現だったので、たかをくくってなにげなしに読み進んでいったが、これはあなどれないぞと、半分まで来て本気になってしまった。
 この本でも住民エゴがとりさだされていた。そして昔はごみがゴミではなかったと調べ上げていた。読み進むうちに良く書いてある、全くだと感心する。
 話は進んで、海側と山側の二つの候補地の対立、なすりあいとそれに苦慮する町側の対応・説明会。コンクリート壁や絶対に破れないというシートに対する安全神話の完璧なる崩壊。ゴミを出しながら、ゴミを捨てる場所を造らせないという矛盾。それはそうだろう、で最後の結論は………なんと海側と山側の対立を越え、どちらとも造っていいよというものだった。それでジ・エンド。紙面の都合なのだろうか、それともある種の圧力に屈したのかそれ以上はヨメなかった。
 住民の意志なしに行政はない。どこに歯止めがあるのか、これでは造っては捨て、造っては捨てでキリがない。
 ある三大新聞の社説に、製造者はその最後までを見届ける勇気があってほしい、といった旨の文章を載せていた。賢い消費者であれば、循環しないもの、最低でも(一回限りのリサイクルではあっても)そうされない商品は買わないつもりで日々心得ている。しかし、そのほとんどが選択の余地なしにゴミとなってしまう。そして自家焼却すればダイオキシンが発生する。
 こんな例がある。ゴミの収集を3分別から7分別に変えたらゴミの量はどう変化したのか。実際には減ったというのだ。意識が変わるという事は大きい。



こならの森106号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森106号■1997.2発行

表紙 「大平=すいせん」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

おぞねとしこのポエム…きんかん……3p
その他の情報…/猫バス30……4p
結婚(誕生)…藤山さん夫妻
トピックス…石川雅之さん……6p
知らんの5つの市/パレット…………7p
JC・JOURNAL…NPOとは…………8-9p
唐沢山………10-17p
インフォメーション97………18-23p
両毛神楽物語…8回……24p
現代国語………25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

トピックス

 こならの森71号(1994年3月1日発行)のインタビューで紹介した、石川雅之さん(二十四才)が三年ぶりに帰国し、編集室にも立ち寄ってくれた。便りの無いのは良い便り、というが、3年前にインタビューをした時点では、ロンドンですでにレコードビューという予定で、早ければ年内(94年)にもデビューという手はずであった。しかし、現実にロンドンへ行ってみるとトラブルが発生しレコーデングできず。結局一年間はプロデビューできなかったそうだ。そういった苦労もあったが、現在ではレコード会社三社と契約し、CDやレコードを出すまでになっている。(日本では今CDが全盛だが、イギリスではDJがもてはやされ、店頭ではレコードと半々であるという。)
 最初に、自分のレコードが店頭に並んだときは、言い表せないものがあったという。そして町で偶然に自分のレコードを持っている人と遭遇したときには感激してしまった。また、目指すジャンルの音楽ではないが、4人組のバンドにキーボードとして参加し、ライブ演奏も行っている。人間関係の幅や音楽的な感性が広がったともいう。今後がますます楽しみになった。

石川雅之さん
1972年(昭和47年)佐野市生まれ。シンセサイザーを学ぶ為、横山敏章氏に師事。東京で音楽括動後、1992年に渡英。1997年ベルギーのCRAMMED DSCS社と『TAO』名義でアルバム契約。同年4月コンピレーションアルバム(MISCELLANE OUS)発売。同年11月TAO 12インチシングル(JINNEP)発売。1996年 VIRGIN社のコンピレーションアルバム(MACRO DUB INFECTION)にTAO名義で参加。1997年2月 TAO アルバム(ESOTFERIC RED)発売予定。1996年イギリスのSCHTUMM PRODUCTIOHS社とULTRA―VERT名義でアルバム契約。同年10月コンピレーションアルバム(BROWSER)発売 DJの人達の評価を得る。
1997年春 ULTRA―VERT アルバム発売予定。1996年キーボーディストとして加入した日英混合5人編成のインディロック、バンド(SATELLITE)イギリスのFXU社とバンド契約。同年 3月SATEELLITE CDシングル(VIA EP)発売。
同年 10月SATEELLITE 7インチ シングル(YEAH YEAH YEAH)発売。
ロンドンを中心にコンサート公演を続けている。
 「『タオ』。我々にほ〃Rogor〃として知られている彼は、全ての手法において不思議で、魅力的で、卓越した美しい作品5曲を作り上げ、その中心には神聖な東洋の影響が見られる。」
(現地でのプロモーション・パンフより転載)


こならの森105号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森105号■1997.1発行

表紙 「三毳夜景高速」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

おぞねとしこのポエム…ゆずりは……3p
富嶽百景…写真構成…4-7p
その他の情報…/猫バス29
結婚(誕生)…荒居さん夫妻
JC・JOURNAL………10-11p
特集/変革期の経営哲学…2……12-21p
インフォメーション95………22-23p
海棠市子の映画評……………24p
書評・絵本紹介………………25p
現代国語………26p
知らんの5つの市/…HERO………27
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】

特集/変革期の経営哲学…2

@出席者@ 
 佐野市…………三福工業株式会社  代表取締役社長 三井福次郎
 足利市…………株式会社足利モール 代表取締役社長 山本  昭
 館林市…………株式会社館林うどん 代表取締役社長 小暮 高史
 大田市…………株式会社古川製作所 代表取締役社長 古川 隆司
 桐生市…株式会社トヨダプロダクツ 代表取締役社長 山口 正夫

『価格破壊』について

足利 価格破壊の捕らえ方なんですけれども、一つは一般的に言うと今まで100円だったものが90円、70円となる。ダイエーさんが打ち出したもので、消費者が踊ったのではないかと思います。
 バブルの崩壊期、あの当時は土地を見ても分かるのですが、それこそ北海道の原野で、将来に渡って土地として浮上しない所も買った、一方の企業ではアメリカへ行って土地を買った。アメリカに土地を買っても実際には日本に持って来れないんですね。ですから実際に価値のある物は破壊されなかっと考えています。現状は、消費者としても安いからといって買い物に行きますか、安いからというのは、何かの基準がありまして、それと比べて安い。実際に皆さん安いものを一斉に持つとそれに対する嫌気といいますか、やはり今浮上して来ているのがブランド志向。やはり人と違った物、安心して買える物、という志向に変わって来ていると思います。 価格破壊、価格破壊といわれるほどに皆さん方はちょっと違った、人と違ったものを、先ん出たものを欲しいというのがニーズではないか。
 これで、価格破壊というのは一旦沈静化して、より個性のあるブランド志向になって行くと考えています。それに合わせて我々ショッピングセンターも増床、増築しまして、よりお客様のニーズにあった店づくりをしていこうと考えています。
 今後どのように競争に勝っていくかということですが、基本的には我々は小規模集団でありますので、大手さんのように大量に仕入れて、大量に販売するというシステムではありません。また、買う側にも、例えばスカイラークがガーストになったときに、一時的にはお客様が流れて行ったと、しかし、ガーストのシステムの中で満足なされたお客様はいないんじゃないかと思います。どういう状況になりましても、われわれがやるべき道筋をきちんと押さえて行けば、消費者ニーズがどう変化しても対応できるのではないかと思っています。それが競争に打ち勝つ原点ではないかと思います。抽象的で申し訳ありません。

館林 価格破壊というのは、内外価格の是正ということで、海外で売っているものと日本で売っているものが同じ商品でありながら海外の方が安いとか、同じような商品でありながら極端に違うとか、だから日本の物価が高いとかいわれます。我々の商品で言いますと、そんなに海外にはありませんし、日本独自のものですから、ここまで価格破壊がくる分野ではないんじゃないかと思います。価格の弾力性といったことから見た時に、安くて多く売れる商品、消費される商品であればいいんでしょうけれども、安くしても消費量は同じなんです。メーカーの利益率は減りますし、それから流通も減ります。言葉は悪いかも知れませんけれども、良い品を安くということは、建前です、本当を言えば良い品を高く売りたい、その高く売った分をそれぞれの所で分配したいという側面があるのも事実ですので、あまり価格破壊といってしまうと、みんなの取り分が減ってしまう。
 それと、安くしても多く売れるという物はいいけれども、安くしても高くしてもある一定以上売れない物は、安くする必要はないんじゃないかなと思います。

太田 製造部門が競争しようという側面はあると思いますが、基本的な考え方は先程の3人の方がおっしゃったことと同じです。ウチの会社のことを言えば、自動車とか弱電というのは、特に下請けですね。毎年、コストダウンということが言われている訳です。それもすでに限界来ている訳ですね。私共は2部門あって、部品の方は海外へ出るといった手を打たなければ生き残れない。1千万の機械を500万で造りなさいと言うときに、今までと同じ造り方ですと、絶対にできない訳ですね。どうしようかといいますと、自分のところで設計製作というものですから、機械を買うのではなくて、機能を買う訳だから発想の転換をして500万で出来るような機械を設計しなさいといいます。そういう面では採算的にはいい。ただ、1千万の機械を300万でやってくれといっても、いくら知恵を出しても、出せない物はもう貰わないと、会社は小さいのですけれども、取引先は50社くらいあります。ですから、安いところは受けないと、500万でも出来る仕事は受けるという形でやっています。

桐生 これはニーズとウオンッツの差かなと思います。ニーズの物でしたら、例えば中国へ行って来ましたけれども、かなり通常消費されるような物は、中国でも同じようなものだ。我々が日本で同じものを造っても………、ウオンッツ、欲しくなるようなものを造っていかなければいけないのかなと思います。マーケットが小さいかも知れませんけれども、シルクの産地では、ローエンドものでなく、ハイエンドのものを追いかける。中国でも他が追いかけて来ているそうですけれども、とりあえずこれで行く。それで、ニッチの部分が拡大されて来てしまったときには、もう一回やり直してもと言っておりました。
 事務機の業界でも同じ大きさの物であれば、2分の1で出来ないかと言われます。そういうときに商社の皆さんにこういう話をします。2分の1の価格で同じような物は出来ます。しかし多分我々がやって儲からない物は、商社の方がやっても儲からない。同じ大きさの物を2分の1価格でやる。だいたい仕入れ価格は同じですから、上代が100だとしますと、35くらいです。一万円の物でも3500円、5千円の物でも同じ35%ですから、実際2分の1の物を造ったら、商社の方がやっていけないですね。儲からない。我々は何とかやっていける、利益を出すことは可能かも知れませんが、実際にそれでお宅はやっていけるんですか、と言う話をしますとふっと気が付く部分がある訳です。
 ただ単に安いものを追いかけるのでしたら、日本で物を造らずに海外で造ればそれで十分だ。我々が日本で物を造る以上は、マーケットが小さくなって、多品種小ロット化が進むのではないかと思います。やはりそれだけ付加価値の高いものにしていかないと、これは勝てないと感じます。


こならの森104号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森104号■1996.12発行

表紙 「三毳岩舟の蔵」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

その他の情報…/猫バス28……4p
結婚…荒居さん夫妻…5p
両毛神楽物語…7回……6p
知らんの5つの市/…HERO………7
JC・JOURNAL………8-9p
特集/変革期の経営哲学………10-19p
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24p
書評・絵本紹介………………25p
現代国語………26p
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

特集/変革期の経営哲学

 三福工業(株) 代表取締役 三井福次郎さん

人間が物をつくり、人間が金をつくり、
人間が情報を収集し、そして人間が人をつくります。

      (略)

 私共はスポンジが得意ですから、その部門を使いまして工場を造りました。2年前、ドイツで大きな展示会がありました。ゴム、樹脂関係の世界的な展示会です。そこにたまたま住友商事さんのブースがあり、三福さん何か出してくれ、ということで、私共のゴムの発泡体を出して貰いました。そうしましたら、ものすごい勢いで海外からの引き合いがありました。何故か、たまたまヨーロッパで、アメリカでもですが、フッ素ゴムの発泡体を造っているメーカーが一つもない。どこでもあると思っていたんです。慌てたのは私共の技術屋です。今どうやって、量産化しようかということをやっている。ですから、探せば技術は自分の会社などでもある。それをどう利用していくか、今後の課題だと思いますし、また佐野という場所からでもそういうふうに広めることが出来ると、自信を持ったわけであります。 最期に一言だけ言わせて貰うと、今後ということで、今流行ですと海外展開、海外に工場を出さないかとか、どういうふうにグローバル化を進めるかという話があるわけですが、一つだけ言えることは何をやるにしても人が大切です。海外に工場を出しても、それについて行ってくれる人がいなければ成り立ちません。ですから私共の会社が海外に工場を持って行くには、よっぽどしっかりした現地パートナー、あるいは日本のパートナーと組まなければいけない。私共が出来るのは工場の中の管理でマネージメントが出来るわけではありません。ですからマネージメントをやっていただけるような会社と組みながら、出すということが一つの条件となる。
 いづれにしても地域ナンバーワン、あるいは小さなマーケットでもいいから、一つでもいいからナンバーワンを誇れる商品、製品を出すということが私の夢であります。
 これを3つも4つも持つということが生き残りの一つの策であります。
 ですから、今後も私のやり方としましては、どんな小さな隙間かも知れませんが、そこで頑張らなければならない。 そういうふうにしながら、やっていくのが常套手段かなと思い今日までやっております。簡単でございますが、そろそろ時間でございますので、言い尽くせない部分がありますけれども、質疑の時間にでもご質問くださればありがたいと思います。